信濃国分寺の歴史


創建 「国泰らかに人楽しみ、災いを除き福至る」を祈願された、天平十三年(741)の聖武天皇の詔は、諸国に七重塔を造り、金光明経・法華経を安置し、国の華と言うべき寺院を創建することを目的とした。僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺と称し、全国六十六ヶ国と壱岐・対馬の二島に国分寺を建立し、仏教の弘通により国土安穏・万民豊楽を祈願するとともに文化の興隆をはかったのである。奈良の東大寺が総国分寺として位置づけられ、国を挙げての大事業であった。地域によっては建設が進まなかった所もあったようだが、上田の地に建てられた信濃国分寺は比較的早い時期に完成したと考えられる。発掘調査により、僧寺・尼寺ともに当時の伽藍配置や規模がほぼ明らかになっている。

変遷と現状 創建時の国分寺は、939年の平将門の乱(天慶の乱)に巻き込まれて焼失したと伝えられる。尼寺はその後も当初の地にしばらく存続したようだが、この事件を機に約300m北方の現在の地に寺域が移転したと考えられる。しかし律令制度の崩壊にともない国家の保護が失われた国分寺は、漸次衰退に向かったと思える。現境内地には鎌倉期の石造多宝塔や五輪塔が存在し、また源頼朝が堂塔の再建を誓願したとの寺伝があるので、鎌倉期以降に現地での復興が始まったようだ。

 室町時代には現存最古の建物である三重塔が建立され、地域民衆の信仰の中心となり、八日堂(ようかどう)縁日の市は当地方の交易の場ともなった。八日堂の名は今も信濃国分寺の俗称として親しまれている。また民間信仰である蘇民将来信仰も取り入れ、この信仰に基づく蘇民将来符は現在でも有名である。

 戦国時代になると、永禄・天正の頃に三重塔を除く諸堂が兵火によって焼失したと伝えられる。江戸時代に入ると諸堂の再建が進み、特に薬師如来をまつる現本堂は文政十二年(1828)の発願より万延元(1860)の竣工まで近郷一帯から広く浄財を募り33年の歳月をかけて完成した重層の壮大な伽藍である。現在、境内にはこの本堂(長野県宝)をはじめ、三重塔(国重文)、大黒天堂、観音堂、地蔵堂、鐘楼、宝蔵、仁王門、客殿、庫裏(寺務所)などがある。他に文化財として石造多宝塔(鎌倉期)、本堂勧進帳(江戸後期)、牛頭天王祭文(室町期)、八日堂縁日図(江戸初期)、蘇民将来符など(以上、上田市指定文化財)を有する。

年中行事 除夜の鐘、初参り(元旦〜三日)、八日堂縁日(一月七〜八日)、お焚き上げ(一月中旬)、節分会(二月三日)、大黒天縁日(三月八日)、大般若会・花祭り(四月八日)、夏の大護摩(八月七日)があり、講話会、写経会などの研修会も折々に開催している。

宗派 天台宗

別称 八日堂(江戸期には、浄瑠璃山真言院国分寺と称した)

本尊 薬師如来

住職 塩入法道

交通 JR信越線・北陸新幹線 上田駅よりバス・タクシー10分     上信越道 上田菅平ICより15分

住所 386-0016 上田市国分1049  TEL 0268-24-1388

信濃国分寺史跡 信濃国分寺跡に推定された地域は、国道18号線が通過し昭和三五年頃から開発の波が押し寄せてきた。このため遺跡の解明とその保護を目的として、昭和38年から46年まで発掘調査が実施された。その結果、創建期の僧寺と尼寺の伽藍の全容が解明され、僧寺金堂跡、講堂跡や尼寺金堂跡からは整然と並ぶ雨落溝遺構が検出された。また瓦類や土師器・須恵器・緑釉陶器・円面硯・鉄釘などの貴重な遺物が多数出土した。

 僧寺跡は、100間(約178m)四方の寺域内に、中門・金堂・講堂等が南北一直線に並ぶ東大寺式伽藍配置をとり、尼寺跡は80間(148m)四方の寺域内に僧寺と同様の伽藍配置が確認された。さらに寺域の北方には補修用の瓦窯二基も発見された。

55,000uが史跡公園として整備され、多数の利用者がある。また公園内には上田市立信濃国分寺資料館が設置されている。

上田市立信濃国分寺資料館 史跡公園内に昭和55年に開設され、信濃国分寺史跡に関係した資料を中心に、上田地方の古代から平安時代までの考古資料や模型、写真等を展示する。[休館日]水曜日 [入館料] 200円 
〒386-0016 上田市国分1125  TEL 0268-27-8706







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