今日のコラム・バックナンバー(1999年 10 月分)


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1999.10.1

でもこれから、コンピューターはこのビジネスモデルを可能にするかも知れない。
テレビに比べればパソコンの上で表現できることのほうがはるかに多い。
それだけ「新しいビジネス」にすることができる部分も多い。

だれがどういうビジネスモデルを作りあげていくかはまだまだわからないが、
無料パソコンの可能性は非常にあると筆者は思っている。

ただ無料という言い回しにことの本質を見誤るといかんだろう。

これは消費者がなにを望んでいるのか
何を必要としているのか、、をメーカーやものづくりをする企業が
考える、考えさせられる機会になるだろう。

少なくとも、消費者はメーカーが作るものを
望んでいるはずだという一方的な思いは通じない。

家電も車もコンピューターもテレビも
そのものが必要とされていると思っていたら、
そのもののなかに実現されるべきことやサービスが本来あって
それがいままで「そのものを販売してしか実現できなかった」
だけであったことに気がつく時期がくるかもしれない。

その時に「そのものを販売すること」にばかりに
気を取られていた企業は重要なチャンスを逃すことにもなる。

本当に実現すべきことは何なのか




1999.10.2

「チャイナシンドローム」という映画を見たことがある。

たしか、名女優のフェイ・ダナウェイが主演している映画で
20年前に起きたアメリカのスリーマイル島の原子力発電所の
事故を映画化したようなものだったと思ったから
たぶん20年弱くらい前の映画だ。

原子力発電所の原子炉が暴走し
炉心が熔けていくというメルトダウンと呼ばれる現象に向かう、、
やがてそのとけた炉心が地中に向かって進みはじめ、
アメリカの地球の反対側にある中国に向かって
進行していく、、
そういう可能性を「チャイナシンドローム」と呼び
映画ではそういう危機的状況の寸前まで行ってしまう
恐怖を描いていた。

まあ、そんなことが本当に起るかどうかは
素人の筆者にはわからないが、非常に緊迫感のある映画で
映画とはいえ原子力の利用がもろ刃の剣であることを当時痛感した。




1999.10.3

こんどの東海村での事故があったからというわけではないが
そんなわけで実は筆者は昔から、
原子力発電や原子力の利用については懐疑的な目でみていた。

電力という、国の根幹を支える事業の分野でも
結果的に効率や経済性を考慮しなくてはならないという仕組みのなかでは
もし万が一のことでもあれば取り返しのつかない状況を
作り出してしまう原子力発電や原子力の利用を行っていくことは
人類にとってあまりに危険が大きいと思うからだ。

たぶん少なくとも今の時点では、
これほどまでに破壊的な力を持つ原子力利用は
未完成な文化を持つ我々人類には荷が重い、重過ぎる。

できることならこんなに不安定で(現象のことだけに限らない、
人間が管理することにおいて不安定であることは間違いない)
危ないものは使わずに済ませたほうが良い。

ただ、正直いえばここしばらくは
「条件付き賛成」といえるかもしれないが
原子力発電や原子力の利用もある条件さえ成立すれば
とりあえず「賛成」してもいいのではないかと思っていた。
いや「賛成」という言い方よりは「しょうがないだろう」と
いうことなんだが、、




1999.10.4

実際この数十年で原子力発電による電力供給は
30%以上にまで増えてしまっている。

今、ここで、国内に供給される電気を30%カットしてでも
原子力発電所を止めるべき、というのは現実的な話ではない。

いずれ「本当のクリーンエネルギー」
例えば風力であるとか太陽光発電とか波や地熱で発電するとか、、
、、が本領を発揮し、
また一方で産業や社会全体としてエネルギーの効率的な利用と
その技術的な方法論ができるようになるまで
、、それと、なにより、、人々のエネルギー消費と生活のありかたに
一定の連続的で再生可能な文化や同意ができるまで、、

それまでは原子力発電による電力供給を少しづつ
減らしながら、いずれは廃止していくという選択をしたとしても、
とりあえず十年二十年の長さで原子力利用と
向き合っていかなくてはならないのが現実的な選択だろうと思う。




1999.10.5

それまでのあいだに、今回のように取り返しのつかないことが
なにかあったらとんでもないことになってしまう、、
人類が制御することが本当に本来、妥当なことだったのかどうか、、、
、、の、この「原子力」を
ともかくもなんとかして「制御」していかなくてはならない。
「絶対安全」とかがありえないことはもうはっきりしているのだが
それでもなんとか制御はしていかざるを得ない。

で、そのためには
本来、通常の事業としては、
マネージメントすべきものとしてあるはずの「安全管理」も、
この場合、まったく切り離すことが必要だと思う。

なんども言うが、本来は、国民国家のために「使命」をもち
まして21世紀の日本においても国や国民や社会や産業の
根本的なインフラを担うべき「電力産業」は
安全管理をも含めて徹底したマネージメント、管理のもとに
置かれるべきものだと思う。

運輸会社が自分たちの使うトラックの運行においても
安全運行が「コスト」という面からではなく
「マネージメントすべきこと」であるように
本来、電力産業の安全管理は徹底したマネージメントのもとに
行われるべきものだろうと思う。




1999.10.6

しかし、こと原子力の利用にかんしては
「万が一」は許されない。
「万が一」の代償はあまりに大きすぎる。
これは通常のマネジメントの範囲に置かれるべきものでは
ないのじゃないか。

だから今後、原子力の管理はこういった
いままでの安全のための管理体制とはまったく切り離し
いままでとはまったく別の安全管理の仕組みを作ることが
必要なのではないかと思う。

もし「安全管理」だけを別にできないとすれば
原子力発電すべてを「別」の管理におく必要もあると思う。

ことはそれほどの問題なのだと思う。
もしその体制が整えられない、ということであるのならば
これはもう即刻、原子力発電は中止、以外に道はない。

しかし、そこまで管理していても
「危ないもの」であることに違いはないわけで、
100%の安全がありえないのであれば
そこに限りなく近づける努力を「常」にするか
その自信がなければ今のうちにやめるか、しか方法はない。




1999.10.7

今回の事故が起きた日は
仕事でテレビをみる時間がなくて
ようやく事故を知ったのがその日の夜だった、

この事故を知ってまず最初に思い浮かべたのは
前述の映画「チャイナシンドローム」だった。
聞けば、臨界状態になったのは
炉心ならぬ単なる「沈殿槽」のなかであり、
ウランが言わば大気中で臨界状態になった
ということではないか、、

しかし、臨界状態になったウランの固まりを
大気中で暴走させる状態になった、などと言う状況は
いままでになかった危機的状況だ。

筆者のまわりの人に聞いてみれば
「いままでにあった放射能の漏洩事故と同じレベルのもの」だと
おもっていたという。

また、テレビなどで当日の夜から次の日まで放送されていた
ニュースなどでもその危機的状況にたいする認識が
充分にあったとはどうも思われない。

事故が起きてすでに一週間がたとうとしているが
事故現場が放射能に汚染された、ということ以外は
周辺地域に思いのほか汚染がなかった、、ということからだろうか、
すでに危機感みたいなものや
事故の本質に迫ろうとする意識が
希薄になってきているようにも思う。




1999.10.8

今回の事故は、できてしまった放射能廃棄物というゴミを
あたりにまいてしまった、などという話ではなく
下手をすれば一つの国がなくなるほどの危険なゴミを
「その場で作りながら撒く」
、、その一歩手前まで行ってしまったと言っていい。

幸いなことに沈殿槽の水をぬくことで
臨界状態はそう長く続かず、放射能の拡散は収束したということだが
それでもそこから生まれたゴミはまだそこにあるということはかわりない。
ようやく「通常の漏洩事故」と同じところまできたということであって
これからその「ゴミ」の処理は残っているわけだし、
もとよりその作業現場には近づくことができず
どんな状況であるのかもいまだわかっていない。

まさか「チャイナシンドローム」のように
熔けた沈殿槽が地中に向かって熔けていく、、
なんていうことはないだろうが
それでも早急に事態の解明と現場の状況の把握に
全力を注ぐべきだろう。

そしてなによりも今後は今回の事故のすべての情報を
ありのままに公開することが必要だと思う。





1999.10.9

たぶん、今回の事故から「原子力反対」の論調が
盛んになっていくだろうと思う。それも当然だ。

願わくば、「事故」の原因究明ももちろんなのだが
早急に原子力発電を含む電力と国民や産業の関係を検討し
絵を描く作業に取り掛かる必要があると思う。

同時に、前述のように
10年20年の長いスパンでの暫定的なものになるのか、
あるいは将来的に継続てきなものになっていくにしても
とりあえずは早急に
安全のための独自の管理体制を作りあげる必要があると思う。
少なくとも、効率や経済性に影響されることのない
市場や状況に左右されない、管理の体制がなければならない。

規制緩和の時代にそぐわないなんて話も出てくるかもしれないが
こういう部分こそ、「規制」が重要なのだと思う。
国家が関与する必要があるとも思う。
ことはそれほどまでに重要で、
かつ「間違い」が許されない問題なのだ。




1999.10.10

本来、高い使命感と理念で裏打ちされた「事業」であれば
こういう事故や問題は理想から言えば起り得ないと思える

それはこれまで大きな事故がなかった新幹線もそうだし
戦後日本の中で進められてきた多くのプロジェクトがそうだった。

今回の事故以外にも
いろいろと問題が起るのはそういう高い使命感と理念が
欠落してきているからではないのか。
事業として何を使命としているのか、何を実現しようとしているのか、、

何のために、、誰のために、、そういう一番大切な部分が
企業やあるいは最初になんらかの理想を掲げ集まったはずの
「事業」を進める分野のなかに欠落してきているのじゃないか、、。

これは原子力利用や新幹線などに限らない、、。
最近の国内の様々な事業やそれを進める「組織」のありようをみていると
例えば金融の仕組みにしても国を動かす仕組みにしても
どうもそういう部分が欠落しはじめているように思える。

もう一つ言うならば、
ものづくりの現場の我々も、ものづくりの原点に帰って、
何のための、誰のための、ものづくりなのか
そろそろ冷静になって考える時期にも来ているのじゃないだろうか。




1999.10.11

さて、こんどの「原子力事故」を見て思ったことがある。
最近問題になっている「クローン」や「遺伝子」のことだ
なんだか良く似ていると思う。

「安全だから」、「大丈夫なんだから」、と
みんなそれに納得させられて
いつのまにかそれによりかかっていかざるを得ないような
状況が生まれていく。

ところがいざとなると
結局、問題がおきてもいまさら引き返せないところまできている。
「クローン」や「遺伝子」もこのままでいけば
「原子力」とまったくおなじじゃないのか

10年もたってから
「やはり問題があってこれ食っていると
いずれ日本人がいなくなってしまう」、、
なんていわれてもその時
ほかに食べるものがなかったらどうするのか、

こんどは「安全管理」どころの話ではなくなってしまう。




1999.10.12

なぜマスコミは今回の問題を原子力の問題としてだけ捉え
そういう「最近の科学全般」の問題として捉えていないのだろう。

もちろん筆者は「科学全般」の発達・進化を否定する気は毛頭ない。
以前ここでも書いたことがある、、
終末論的な「科学の終焉」という本にたいする批判ではないが
科学や人類の発達発展、文化や文明やあるいは哲学などが
それぞれにからみあって人類全体としての「進化」「進歩」に
貢献していくという立場は崩せない。
「クローン」や「遺伝子」や「原子力」も
そのすべてが人類にとって不必要なものであるとも筆者は思わない。

ただ今の時点ではこれらのものを制御し、人類の役に立てるには
あまりに人類の知恵と経験は未発達ではないのか。

「もし」、や、「万が一」、が許されない、、取り返しがつかない、、、
人類が選択するにはあまりに大きな影響力を持つこれらの科学技術は
絶対確実な制御の方法や(あるとすれば)、
あるいはそれを制御する人間の文化や哲学や経験が
きっちりと確立できるまでは
あくまで下がることやとどまることができる範囲の「実験」に
とどめておく必要があるのじゃないか。
それくらいの冷静さや知恵は必要ではないか。




1999.10.13

近視眼的な判断や性急な結論や
最初の時点での問題を抱えたままのスタートは
いずれ取り返しのつかないことにもなり兼ねない。

いつかある時点でこれは大丈夫、と言える時がくればその時は
また実用に移す可能性もあるし、
逆にある時点でこれ以上研究しても将来にわたって
人類には貢献しない、ということがはっきりすれば
その時点で永久に封印してしまうことも考えられるだろう。

こういった冷静なバランス感覚はエネルギー問題やバイオや環境や、、、
そういったこれから地球全体で考えて
いかねばならない様々な問題を解決していく時の基本をなすと思う。


残念ながらすでに多くの問題に対し
我々人類は見切り発車をしてしまったようにも見える。

だが、なにより、その見切り発車をしてしまった人類を救うのも
また、科学とそれを支える人類の知識と知恵と、
それを実現できる「人類」しかない。




1999.10.14

ところで今日本が考えていかねばならない問題にはなにがあるのか。
とりあえず教育問題とか政治とか金融とか経済とか、
あるいは食料や安全や交通なんかの問題はいろいろあるが
ここで考えていかなければならないのは
省エネと環境問題と資源の問題だろう。

で、どの問題も、よくよく考えてみると
「原油」に関係している。
そしてたがいにとても深く「関連」している。

環境にしても資源にしてもエネルギーにしても
みんな「原油」「化石燃料」から生まれてくる問題といってもいい。
たしかにその点では選択肢の一つとして原子力に頼ってしまうのも
わからないわけではない。

どうも、省エネも環境問題も資源もすべて、
「油」を根本的にどうするか、、を
考えていかないと前に進めないのじゃないか、
そう思える。





1999.10.15

最近は資材や資源もリサイクルや自然素材やあるいは
再生に向いた材料を使うことを考えてきていて
いぜんよりは原油に依存する割合は減少しているようにも思えるが、
それでもまだまだ油から作らなければならない原材料は多い。

省エネと環境問題に関係しているのもやはり原油が関係している。
そのためにも「原子力が必要」という意見もありそうだが
それについてはもうこの間書いたからこれ以上書かない。


ともかくも「有限」で「副作用があるもの」を使うのは
いずれ無理が来るのは間違いない。
結局太陽の光や風力のような無尽蔵にあるものを使うか、
再利用が可能な仕組みを作るか、
どちらかということになるだろう。




1999.10.16

油のようにエネルギーが重量比にして高いものを
長い間、使ってきた代償は大きい。
それも環境への負荷だけではなく
社会のシステムへのこの間与えてきた「影響」をも考える必要がある。

車にしても発電などのエネルギーの使いかたにしても
エネルギー重量比が高いものからエネルギーが生まれることを
前提にして運営されてきてしまったから
今更、効率が低く、結果的に価格が高いエネルギーを
使う仕組みが使い切れない。

社会全体もそういう仕組みでエネルギーが供給されることを
前提にして作られてもきている。
考えてみれば戦後の日本や世界の経済は
安い電力や経済活動を可能にしてきた点は間違いない。
特に日本の経済活動、特に海外と比べて
輸出競争力が高いと今まで言われてきたのも
安く安定した電力に支えられていた点、、もしかしてそれは
道路や鉄道やそういった安く安定したインフラなど
すべてに言える事かもしれない、、にあるようにも思う。




1999.10.17

このいままでの仕組みを根本的に
エネルギーが効率の低いものであっても動くようにさせていくのは
なみ大抵のことではいかない。

「生活の質を落とす」という意見もよく聞く。
ある意味ではそれも説得力はある。
国家や政治の規制でそういうものを乗り越えるのも
たしかに一つの方法ではある。

しかし、本当にそういったやり方でいけるのかといえば
はなはだ今後の予想は心細く問題もあるように思う。
極力、そういう解決方法は避けるべきだと思う。

生活の質を落としてまで乗り越えようという議論は
一見まともな、質実剛健、質素倹約のような意見にも聞こえるが
結果としての経済の縮小や「無駄遣いをやめよう」とかならともかく
極論を言えば原始の時代に戻るべきだ、のような
意識的な経済の縮小は考えるべきものではないだろう。
それは人間を人間足らしめることができた社会や環境に
たいする「働きかけ」「社会や環境と人間との相互の働きかけ」を
止めることを意味する。
それが結局、長い時日の後に広く人間社会にどんな「副作用」を
及ぼすことになるのかだれにもわからない。
もしかしたら自然科学で予想される副作用どころの話しではなく、
むしろ戦争がすべての人間の作り出す価値を破壊するような
そんなものに近い作用だって考えられる。




1999.10.18

つまりいつのまにか横道に入ってしまったのだが
それを後戻りはするべきではない。
本来の道に戻るためにいまから新たな道を切り拓いていくしかないと思う。

いろいろ意見はあるだろうが
結局、科学の発展によってこれを解決する以外ないのではないか。
それらによって効率を高め副作用をなくし
豊かでバランスのとれた社会や産業を育てていくしかなのではないか。

いや、そういう効率一辺倒の結果がこういう社会や制度の問題を作ったのだ、
という人もいるだろうが筆者はそうは思わない。
もちろん、無駄や横道が許される時代であることも重要だし
それが許されないという社会はつくってはならないと思う。
しかし同時に、社会全体として効率を高めることや、
まったく人や人類の生活の質を高めることに寄与しない無駄を
極力減らすことは必要なことだと思う。

科学の発展によってそれは得られるのではないか。
大胆でかつ細かな改善や仕組みの改変によって
少しづつでも効率を高め無駄を取り除いていくということではないか。

そしてむしろそれこそが21世紀の産業にもなっていくと考えるような
大胆な発想が必要なのかもしれない。




1999.10.19

先日、ソニーの名誉会長である盛田昭夫氏がお亡くなりになった。

ご存知の人も多いと思うが、
戦後まもなく、ソニーがその前身である東京通信工業という企業を
興した時に、当時社長であった故井深大氏が書いた
「設立趣意書」という文書があった。
いま読んでも新鮮で心を打つ。

本やあるいはその「設立趣意書」などでソニーの、
またその前身である東京通信工業の
戦後の歴史を読んだりその「志」を知るたびに
ソニーや東京通信工業という企業を通じて
社会や国や国民に貢献していこうという
故井深氏や盛田氏の志を、、
そして多くの我々のすぐ身近におられる
戦後の日本のものづくりを牽引してきた先輩のみなさんの志を
今後我々のような次世代のものづくりに携わる人間や若者・学生さんたちが
受けついでいかねばならないとの思いを深くする。




1999.10.20

生前盛田さんは
「役にたつことや必要なことじゃなくて生活を豊かにするもの」
を作るのだという意味のことをおっしゃっていたという。

ウォークマンを考え、発売し、世界に広めた盛田さんならではの
言葉ではある。

もちろん、ひろい意味で生活を豊かにするものは
すべて「役にたつことや必要なこと」であるのも
現代では間違いではないが、
たぶん盛田さんがおっしゃっていたのは
今でいう、生活必需品、昔の言葉でいえば
冷蔵庫や洗濯機やテレビなんかの三種の神器、、
なんかではなく
もっと文化の香りや趣味やゆとりを見出せるもの、
(そんな言い方をされたわけではないだろうが
たぶんそんな意味だったのではないかと思える)
を創ろうとしたのではないか、、、
そう、文字どおり、「作る」、、ではなく「創る」、、だったのだろう。



1999.10.21

最近でこそ、
これからのものづくりは「もの」を作るのではなく
「こと」を創らなければならない、、と言われるようになった。

まさしく盛田さんのおっしゃっていたことはそのことなのだろうと思う。

同時に、人々の「必要とするもの」の概念も
変わってきているのじゃないか。
30年、40年前に必要とするものが
テレビや冷蔵庫や洗濯機だったとすれば
その当時、「生活を豊かにするべきもの」が
すでに現代の「必要とするもの」になってきているのではないか。

であれば
これから「生活が豊かである」と考えられるものやことが
いずれ日本や世界の必要とする、言わば「必需品」や「必需のこと」
になっていくかもしれない。

いったいそれは何なんだろうか。
きっと盛田さんだったら笑って「自分たちで考えなさい」
、というだろう。
そう、それは我々が自分自身で考え、実現していかねばならないことだ。




1999.10.22

この前雑誌を読んでいたら
やはりソニーの盛田さんのことが書かれていた。
その雑誌には盛田さんが生前
「商品を社会的なものにする」
ことに力を注いでいた、という意味のことが書かれていた。

これは「市場を席捲して占有率を高める」という意味では
もちろん、ない、と思う。

筆者の思うにはこの一言の意味は
ものづくりに携わることを、
製品、、、財やサービスを単に「企業がものを作ること」、
という意味だけに捉えていない、という
盛田さんやソニーの認識を言葉にしたものだと思う

本来、企業やあるいは何らかの事業が創る財やサービスは
その企業や事業が社会や環境や人々に対するメッセージだと思う。
つまり「ものづくり」とは企業や事業とその相手となる
個人や社会や環境との「関係を表現する行為」といっても良いのではないか。



1999.10.23

企業、特にベンチャー企業などは
商品やアイディアが最初にあって
その製品化や商品化を市場に問うことを通じて
企業を存続させようとする。

これはたしかに当たり前のことなのだが
一方でそこから明らかにわかることは
その最初の商品やアイディアが「こけた場合」には
そこに続く商品やアイディアを連続して市場に問うことは
なかなか難しいことになるだろうということだ。

また、もし最初の商品やアイディアが成功した場合には
たしかに次の商品やアイディアに
お金を投入する循環が出来やすいから
新たに次のものを成功させるためには
それは喜ばしいことだ、と思われている。




1999.10.24

ところが、、むしろ実際には、、
続けて商品やアイディアが市場に受け入れられるころは難しい。

製品開発やアイディアを囲い込むことが得意で、
開発能力だって強力に持っているはずの大手企業でさえ
継続して「ヒット商品」を投入させていくことはむずかしい。
いままでと同じような範疇の市場であっても、
また、まったく新しい市場であってもそれは難しい。

たまに最初の商品やアイディアが市場に受けいれてもらっても
なぜか次の商品がとんでもなく見当違いであったりする場合もある。
多くの場合はよほどラッキーでもない限り
続けて「見当違い」なものが
市場に受け入れられるということはまずないだろう。





1999.10.25

なぜこんなことがおきるのだろう。

、、思うには、企業、特にベンチャー企業は
社会や人々や、我々を取り巻く環境、、、
、、つまりはそれこそが財はサービスを問う市場や顧客になるんだろうが、、
そこに向かってその事業が発する「メッセージ」を
送ろうとしなければならないのではないか。

つまりはまずその企業の社会的な使命が何であって
その使命や目的や理念を
表現するための手段として商品、財やサービスを
造り社会や市場に問う、、そのことが必要なのではないか。

ところが多くの場合、
財やサービスそのものは確かに形や商品にはなってはいるのだろうが
それを通じて何をその企業や事業が社会に伝えようとしているかわからない。
メッセージが伝わってこない。




1999.10.26

今、日本の多くの企業、特には優良で優れた人材や資源を持ち
日本の経済を引っ張ってきた大手企業が
むしろそういう社会的使命を忘れて
ただ単に事業を継続するためにきゅうきゅうとしている状況が
見えてくる。

もっと言わせてもらえば、
企業だけでなく政治や社会の仕組みまで
そんな風潮の上にただ流れているようにも見える。

未来像、ビジョンが見えず、いや見えないのではなく
見ていない、見ようとしない、のかもしれないが、、
ただ、いままでの延長のうえにいる。

、、模索しようとしている動きもないではないが
まずは何のために集まっているのか、何のために企業・事業があるのか、
一人称で言えば
「我々は何のために集まったのか」
「我々はその事業を通じて何を実現しようと考えているのか」
それがない。それが伝わってこないように思う。





1999.10.27

盛田さんのおっしゃる
「商品を社会的なものにする」
というのはたぶんそんなことなのではないかと筆者は思う。

事業や企業の社会に対するメッセージとしての商品やものづくりとは
どんなものになるのだろうか
そのメッセージを表現するのは外見のデザインがすべてではない。
価格や付帯するサービスや販売するやり方や
最近話題の企業としての顧客との付き合いかたや
そんなものがすべて一緒になって、本来、その企業のメッセージとして
市場や社会に向けられているはずだと思う。
そこから受け取られるすべてのものから企業のイメージを含めて
メッセージは受け取ることになるはずなのではないか。

コーポレートアイデンティティーだ、の
コーポレートデザインだのが必要だ、と一時期より言われるようになった。
ところが封筒や看板の上に書くロゴや名前を考えることが
コーポレートデザインやCIの意味になっていて
社会や人々との関係をデザインすることが、、されていない。
まずは自らの事業をデザインし、その表現として
ものやことをデザインすることが必要なのではないか。




1999.10.28

たまに洋書が売られている本屋にいく。
工業デザインのブースに興味があるから
そんなところに居座っていろんな本を眺めることが多い。

洋書屋で工業デザイン関係の洋書を見ているわけだから
そこに載っている工業デザインなんかは
やはり海外のものが多いわけで
結論から言えばなかなか個性的で思わずほしくなってしまうような
デザインのものが多い。

国産の製品のデザインでもまったく同じ機能、あるいは
海外のものにくらべても明らかに機能的には優れているものは
多いのだが
デザインに目をむければ国産のものは没個性、
海外のものにくらべればやはり貧相であったり
個性に欠けているものが多い。

結果的には多くの顧客に売れるためにはあまり個性的であったりするよりは
没個性で、機能は価格にくらべれば買い得と思わせるものであれば
それでいいとされるようなもののほうが、今までは売れていたんだろう。
あくまで結果としてみた場合だけれど、、




1999.10.29

本の話しに戻ると
そういう洋書のなかで最近買った本がある。

一つはオランダの家電メーカーの「PHILIPS」が出している
「VISION  OF  THE  FUTURE」

これは「PHILIPS」が考える近未来の家電のモックアップを
掲載したものだ。
200ページに及ぶなかなか見所が多い本で
眺めていてもとても面白い。

もう一つは
イタリアのキッチン用品や家庭雑貨品のメーカーである
「ALESSI」のことを書いた
「THE  DREAM  FACTORY」だ
これはALESSI社の現在の製品を掲載しているのだが
カタログではない。むしろ製品が載っているわりには
会社案内に近い。

こういった一見「メーカーの製品カタログ」とでも見えるような本が
特に海外メーカーから数多く出版されている。




1999.10.30

これらの本は決して「製品カタログ」ではないところが
とても面白い。
むしろその企業のビジョンや理念を伝える表現として
製品や商品を掲載している側面が強い。
つまりその企業の社会に対するメッセージ性が強い。

こういったものをもし日本のメーカーが作ったらどうなるだろうか。
きっと単なる製品カタログになってしまうだろう。
そういえば家電屋さんにあるたくさん置かれた製品カタログは
いくら読んでもそこから社会や人々に対するメッセージは読み取れない。
表紙に書かれたメーカーの名前を消せば
今見ているカタログがどこのメーカーのものか
一切わからないだろう。

商品カタログはそれで良いという反面、
商品そのものや、あるいはカタログからだって
その企業が誰に向かって、何を伝えるためにこの製品を創って
世に送り出したのか、、それを伝えることも必要だとも思う。





1999.10.31

国内のメーカーで唯一、商品のデザインに首尾一貫した
メッセージ性が貫かれているのは
たぶんに筆者自身の個人的な思い入れがあるのを
認めつつソニーだと言ってしまおう。

ソニーはたぶん国内でも唯一、
ソニー製品のデザインを記録した
「DIGITAL  DREAM」という本を出している。
英語の本なのだが11月には日本語版も出る。
、、もっとも書いたのは海外の、ソニーとは関係のない、、
、というか「APPLE  DESIGN」という
アップルの製品のデザインについて書いた人が
書いた本だ。

しかし書いたのがソニーの人間ではないにしても
そこから「メッセージ」を感じたからこそ本になった、
、、と考えれば、やはりソニーの製品には
人に訴えかけてくるメッセージがなんらかの形で
刷り込まれているということなんだろうか。


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