今日のコラム・バックナンバー(1999年 7 月分)


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1999.7.1

主催者であるメーカーが試乗会の車のCDプレーヤーに
宇多田ヒカルのCDを入れておく、という発想はいい。
試乗会を企画した部署には
「ザッツ・エンターテイメントな心」をもち
「顧客」に喜んでもらおうという人がきっといたのに違いない。

だが残念ながら宇多田ヒカルのCDは自分のお金で
買ってしまう人が普通だし
大部分の人は自分で好きなCDを購入して車や部屋に持ち込む。

「「ファースト・ラブ」も自分のお金で買えばいいんだ。」
と「NAVI」の記者が言うとおりだ。

よもや「ザッツ・エンターテイメントな心」があるのなら
それをどう自分たちの創る車に生かす、実現する努力をしないのか、
そういう感性をもたないのか。

サイズとパッケージから「似たようなもの、同じようなもの、」
しか作れず、
その車のなかに奏でる音楽もCD屋さんから購入してくる時代
(あるいはMP3のようにネットを通じて配信されてくる時代)
には、
一人一人の「お客さん」に応えるきめこまやかな感性を大切にし、
そこに自分たちのものづくりを重ね合わせていく努力なくして
これからの「ものづくり」は成立しない。





1999.7.2

そう言えばこの話に出てくるメーカーは
最近テレビで売り出している異なった車の宣伝文句に
「ものより思い出」というキャッチフレーズを使っている。

へーわかっているじゃん、
結局、そういうことなんじゃないかな、、

と思いつつ、

試乗会の車のCDプレーヤーに宇多田ヒカルのCDを入れておく、、、
そこまで考えたのに
直接ものづくりに関係していた開発スタッフの人が
「デザインはどうですか。サイズとパッケージを考えていくと、
どれも同じようになってしまうのはしょうがないと思うんです。」
、、その認識の差はどうして出てきてしまうんだろう。

うーん、きっと、こういう認識の問題はこれから
たくさん出てくるんだろうな、




1999.7.3

続きになってしまうけれど
トヨタ自動車が始めている
「MONE」というネットワーク情報配信サービスはこういう
顧客の細やかで多様な生活の有り様に応えていく
「重要な道具」になり得ると思う。
そのほかのメーカーでも同じようなことを矢継ぎ早に始めている。


もうそういったサービスの中にあるかどうかはしらないが
たとえば、情報配信のなかに
若者向きの「音楽新譜情報」をたとえば名前とランク情報だけでも
配信することだって考えられる。

その車を購入してくれたお客さんには、とりあえずずっと、
ネットワークを通じて最新の情報をリアルタイムに配信するとか
あるいは音楽そのものを配信したっていいじゃないか。

自動販売機にポケベルの技術を使って電光板でコマーシャルを
うつことを始める時代なのだから
すべての車にネットワーク機器を積んで
自動的に新譜情報をとりこむなんてことはそう難しいことじゃ
ないだろう。



1999.7.4

あるいはGPSをせっかく積んでいるんだから
彼女のドライブに行った
その軌跡と行ったところや「思い出の場所」を
備え付けのデジカメで撮って
あとで記録、編集したっていい、
よく芸能人のドライブ番組なんかで
車の中を撮っている場面があるが
ああいうのを友達や彼女といっしょに撮ってもいいかもしれない。
最近のシャープのデジタルレコーダーだったら
動画を撮るのも簡単で
テープみたいなものもいらないし
ソニーのパソコンVAIOがあればあとで編集も楽にできる。

こいいう「思い出作り車」というのは
若者を中心に結構必要とされるかもしれない。




1999.7.5

あるいは最近はわかもの同志でコミュニケーションを
大切にしようとする雰囲気がうまれつつあると思うが、
そうはいっても誰とでもコミュニケーションを取れるというわけでもない。

しかし、同じ車を持っているというだけでも
基本的な行動パターンや考え方が似ていて話があう、ということは
あることだろう。
だから、人ではなく、「車」がコミュニケーションの
道具になるというのはどうだろうか。

うしろの窓に電光掲示板を積んだ車があるように
個人向けにそういう「自己表現」してコミュニケーションを
とるためのツール、電光掲示板でもいい、、
を積んでおくだけでもいい。
近くに同じ車のオーナーが近づいてきた時は自動的に
それで車同志が自動的に挨拶をするとか、どうだろう。

電光掲示板でなくて、音声でもいい。
車が自動的に挨拶を送ってくるなんて
楽しいじゃないか。
いやだったらスイッチを切っておけばいいのだし。




1999.7.6

なんか「アイディアノート」みたいになってしまったけれど
まあ、ともかく、、

今、最近、ものづくりをとりまく状況に
起きていることはなんなのだろうと思う。

社会や産業や生活の「在り方」、「ありよう」が
それぞれひとり一人のかたちにそって多様化している。
それぞれの人間がそれぞれに社会や生活を解釈し
そのなかで生活しているのだから
多様であることが当然と言えば当然なのだ。

だが一方で
一人一人が必要とする「もの」は
いまだに「企業のなか」でつくられ
一方的で杓子定規な解釈のもとでしか作られようとしない。

そして最近は「杓子定規な解釈」がいままでの日本のなかで
「当然」とされてきたのではあるけれど
「それは自分の解釈や価値観じゃない」、と言いたい若者が
登場してきているのではないか。

そう考えてみると、「ものが売れない」、のではなく
売れるものが作れない、欲しいものが作れない、
そんな状況になっているんじゃないか。



1999.7.7

ちょうど今日の毎日新聞に
ダイエーの会長である中内功氏のインタビューが掲載されていた。

題目は「通用せぬ売り手発想」だ。

インタビューアーの「安ければまだモノは売れるのですか」
という質問に対して、氏はこう答えている。

  「発想が「さかさ」やな。
  売り手発想の時代は終わった。消費者というのはもういない。
  今は生活者の時代。生活者は十人十色、一人一色やから、
  それに対応した買い手発想に店や商品が必要になっている。
  「人が買うものは買わない」と言えるのは社会が豊かな証しや。
  今は、買うも買わないのも、豊かさなんや。」

そう、まさしくそういうことなんだろうと思う。

で、その買い手や顧客が欲しいものを供給することができる
「買い手サイドにたった仕組み」を今後作ることができるとしたら
たぶん、インターネットや情報技術こそがその牽引力になっていくのだろう。



1999.7.8

こう考えると「ものづくり」に携わる我々には
大きな問題を突きつけられているのじゃないかと思えてくる。
顧客や買い手や、
あるいは作るべきものがどう社会に位置するかが
見えない、わからない、そういう「ものづくりのありかた」は
、、もしそうだったとすれば、、、、
今後、それではすまされないのじゃないか、、

いやむしろ、考え方によっては
消費者の視点にたった、社会を見据えた、
ものづくりを、ともに行うことができれば
その視点に立てないがために苦闘するいままでの「企業」に
一泡吹かせることだってできるかもしれない。

そういう大きな転換点、
ものづくりの基本的なスタンス、
にかわりつつあることに
我々はそろそろ気がつく必要があるのかもしれない。



1999.7.9

たしかに「ものの消費」はなくちゃいけないことだし
なくならない、ことなんだけれど
それ以上に「生活の多様化」は進んでいて
ダイエー会長の中内功氏のとおり
「買うも買わないのも、豊かさ」なのだと思う。

筆者は以前から「ものを作ることはサルから人間になるための証」と考えているが
これからは単純な「ものづくり」ではないのじゃないかと最近強く思う。

個人や人間が社会や環境との接点や位置関係を
「ものづくり」と「ものの消費」で表せた時代から
もっと多様で多彩で複雑なものに変わってきているのではないか。

それを最近は「ものづくり」ではなく「ことづくり」と呼ぶこともある。
筆者もそう言ってきた。
だが、もっと、本質的な意識が必要なのではないかと、最近思う。



1999.7.10

だから、と言っていいんだろうか
筆者は最近「ものづくり」ということばの意味をもう一度深く考える。

はたして「ものづくり」でいいのだろうか、、


たしかに「もの」を作る、、その行為は「ものづくり」
で言い表すことができる、、たしかにその通りなのだが、、

我々には「ものづくり」をそういう「ものを作るそのままの行為」として
捉えている認識もある。
意識として、単純にそういう「行為」だけを捉えて認識している
ことは多い。

簡単に言えば「プラモデル作り」や「機械金属加工」という
「行為」そのものを捉え拡大した言い方だ。

だが、よくよく考えれば
「ものづくり」の意味には、その裏側に「ものの消費」という意味を持っている。
もっと言い方をかえれば
社会が成り立ちそれを支えてきた、
、、少なくともいままではそうだった、、
「ものを作る」という行為は、社会のなかでの「社会的な行為」である、はずだ。



1999.7.11

自分でものを作るための資源を自分で作り出して
自分ですべての工程をつくって自分だけで消費する、、

そうでもないかぎり、ものを作るという行為は
必ず社会性を持っている行為だと思う。

資源だって、自分以外のところから、、、
大部分は「結果的には自然から」が普通なんだろうし
販売することだって
自分以外に販売するのだから
社会的な行為であるというのは間違いないと筆者は思う。

もともと人間自身が社会的な動物なのだから

いくらその人間が個人のなかで帰結させてしまうことを
望んでも、およそそういう社会性から
離れて生活することも無理ならば
ものを作るということもそこから離れて行うことは
無理なのだと思う。



1999.7.12

ところが、いままで、「ものづくり」というのは
もっぱら個人的な行為とされてきた。

たしかに先に書いたように
行為そのものの一つひとつは個人的な行為でもあるし
作ったものも当然「個人」のものなのだから
「ものづくり」というのは個人的な行為と考えられるのも
当然だと、言えば言える。

だが、その認識の結果にあったものは
「公害」であったり「産業廃棄物」であったりしたのではないか。
ものづくりが社会的なものであるという認識がない、その結果が
無責任で近視眼的なものづくりに走ってしまった、
ということになっていないか。

あるいはこんなこともある。
作りすぎたのだろうか、新しい商品を市場に出すためだろうか
まだ市場に出てまもない「もの」が無料に近い状態で販売されてもいる。
過剰なコマーシャルに踊ってしまっているんだろうか、
友達が持っているという理由で子供たちが高額な商品を持ちたがり
その維持に走る、、、大人だって同じだ。



1999.7.13

ところで話が少し飛ぶけれど
ちょっと古い携帯電話が無料に近い状態で販売されること自身は
筆者はおかしいことだとは思わない。
「もの」をつくっている人が「懸命にものをつくっているはずなのに
その結果があんな風にタダで配られるのを見ると悲しくなる」
という意見を聞いたことがあるが、
確かにそう言いたくなる気持ちはわかるが、
筆者はそうは思わない。

極端なことを言えば
そのうち新しい電話やネットワーク端末がタダで配られる時代にもなるだろう。
ネットワークやそのまわりとの「関係」によって
商品やサービスの価値がはかられる時代には
電話やネットワーク端末がタダで配られることは
決して「おかしい」行為だとは思わない。

ものを作る作業をしている我々もそのことに気がつくべき時代なのだと思う。
これは今回のこの話にもおおいに関係のある話だが、、、。




1999.7.14

話を戻す。

自分が、自分たちが、つくっているものが
社会のなかでどういう位置にあり、
どう作られ、どう使われ、どう消費されていくか、
どう環境や自然や社会に影響を与え、
どのようにまた自然にもどっていくのか、、

あえて誤解を恐れずに言えば
環境に影響を与え、自然に影響を与え
ごみや廃棄物を出し続ける「ものづくり」は
ものづくりの社会的な側面にまで意識が届いていない
言わばまだ、「半完成品」だといえなくもない。

最近では「リサイクル」ということばもあるし
専門的には「インバースマニュファクチャリング」ということばもある。
基本的には生産から消費、再生産まで
一連の工程と捉えていくこと、なのだろうが
ややもするとただ単に技術的な側面ばかりに目がいって
社会的な側面への意識が薄れている場合がある。

たしかに技術的な研究や蓄積はとても重要で
これからますます、その分野での検討は必要になっていくことは
間違いないことなのだが
同時に、これからはものをつくって消費していく行為を
社会的な側面からも捉えること、そしてなにより、
ものづくりの根源的な意味合いを考えて行く必要があるのだと思う。





1999.7.15

これは国やそういった機関が
ものづくりに社会的に統制や規制をしていくべきだとか、
そうあるべきだ、とか
そんなことをいうのではない。そういう意味ではない。

ものづくりが我々個人個人の意識や行動に
ものづくりの社会的な側面の「情報」が伝わっていないことが問題なのだ。

はたして、本当に
そういう「情報」が我々ものづくりの現場に、意識に、届いているのだろうか。


こう考えて来たときに目の前にあるのが「インターネット」だ。
「情報化」とか「コンピューターネットワーク」や「インターネット」の
社会や産業や、あるいは「ものづくり」に
与える影響はここでいうまでもなく
多大なものであることはこの間の状況を見ていれば
間違いないことのように思える。

そして、「とりあえずは「ツール」としてインターネットは使える、、」
といういままでの様相から、
逆に、社会や産業の在り方、そしてなによりも
我々の、「ものづくり」への認識そのものへの影響を
与え始めているのがこの間の状況でもある、と筆者は思う。





1999.7.16

たとえば、企業のなかでのみ存在していたはずの
技術者や設計者やデザイナーが
インターネットやネットワークのなかで
他の企業やコミュニティーのなかの個人や企業やグループと出合い、
自らの技術や表現を企業という閉ざされたなかから
社会や企業以外の仲間の中での「表現」に換えていこうとする
動きが見える。

あるいは「もの」を作るためのアイディアを
ネットワークに求めたり、
あるいはそのものに対する評価や評価基準までもネットワークに求める。

筆者にはこの「ツール」であったはずのインターネットが
「ものづくり」を社会的な行為にする、戻す、ための
重要なツールとして機能しはじめているのではないかと思える。




1999.7.17

ものづくりや消費者やあるいはそういう一連の流れ、工程、作業のなかに
存在しているすべてのひとたちに
自分の行っている行為の意味を情報としてつなげ、
理解するにたりる知識を送り
そして情報同志やその登場人物同志をつなげていく、、

インターネットはそういう役割を果たしはじめている、、
筆者にはそうみえてくる。


そういう「オープン化」やあるいは文化や価値観の変化の
状況が明白になったり
人間の認識が飛躍的に拡大することが
インターネットの特質ではあるのだけれど
一方でそういうことは
多様であるはずの、多様でなければならないはずの社会を、
多様性を「平準化」し「一つの認識にしていく」ようにも思える。




1999.7.18

「混沌」や、それぞれが「知らない」「認識できない」状況だからこそ、
ものごとは発展してきたののだという人もいると思う。
たしかにそういう部分はいままでだったらありえた。

だが、これからはそういったこともすべて
踏まえたうえでもう一段違う場面に向かっていくのではないか、、

みんながものづくりやものの消費やそういった一連の作業の意味を
認識したうえで、そのうえで、
なにをするのか、どんな社会や状況をつくっていくのか、
むしろ、もっと多様な社会観や世界観を人間がもてる
時代になっていくのではないか、、と思う。




1999.7.19

もともといままでの「もの」をめぐる認識のなかで
そういうことを、知る、認識できる仕組みはなかった。
もともと必要もなかったのだとも言える。

だが、その因果関係はともかく、情報化社会のこれから、
「もの」をめぐる認識がすべての人々のなかに認知し
送り込まれる時代になるにおよんで

はたして、もっと多様で、「ものだけ」にたよらない、
社会のありようと生活のありよう、そして
ものづくりのありようが密接に関係し、
そこに様々な認識や表現がありえる、生まれる、
そんな状況がこれから可能になっていく、、。

筆者にはそんなふうに思えてくる。



1999.7.20

「ものづくり」がこれからなくなるわけじゃない。

行為としての
「ものづくり」ということばで「括られる」行動は
なくならない。

一方、最近よく言われるように
「ものづくり」から「ことづくり」、、の認識も
これから必要なものになっていくのだろう。

、、だが、それらの先に本来あるものはなにか、

社会や生活の多様な「ありよう」を
それぞれが精いっぱい「理解し」
じぶんなりに「表現」する行為。

うまく言えないが、言わばそんなことではないのか。




1999.7.21

「ものづくりは自己表現」、とずっと筆者は言ってきた。

だけどここまで買いてきたように
ものづくりを含んで、
でも、もっと広い意味で、
今起きている、起ろうとしている
「そういうこと」をうまく言える、伝える
ものづくりに代わる「ことば」はないのだろうか、、
と、最近思う。

長くてもいいのなら
「社会と生活のなかでの多面的で多様で多彩で自由な自己表現」
とでも言えばいいのだろうか、、

インターネットや情報化社会が
「ものづくりのこれから」に及ぼすもの、、

今、我々「ものづくり」に携わっていると認識している者は
「ものづくり」だけで自分たちのやっていることの意味を
括ろうとしないで、もういちど冷静に、真摯に、
考えていかなくてはならないのだろうと思う。



1999.7.22

故ケネディー大統領の息子のジョンFケネディーJr氏が
飛行機事故に遭遇し亡くなった。

連日、アメリカではマスコミが加熱ぎみの報道を繰り広げ、
それを日本のマスコミが取上げるという状況だ。

日本の戦後に深く関係したアメリカ大統領の家族の不運な事故は
日本人にあらためてアメリカ大統領のことやケネディー大統領のことを
昨年のクリントン大統領のこととは別の視点で
考える機会を与えることになっているのかもしれない。

こんなことがなにかの評論に書かれていた

   ケネディー大統領やそこに近い人々の少なくない人々が
   不慮の事故に遭遇したりするのをなにかセンセーショナルなことに
   結び付けて書く評論やマスコミが存在するが、
   たしかにそういうことに遭遇してしまうケネディー家の
   人々の生き方に、いわば「リスクに挑む生き方」
   「リスキーなことを恐れずに進む生き方」をケネディー家の家訓と
   することが土壌としてあったのではないか、、、



1999.7.23

筆者も子供のころ、ケネディー大統領の伝記を読んだ覚えがあるが
たしかにそのような家訓を持っているように思った記憶がある。

だとすれば、新聞や週刊誌がセンセーショナルに
「ケネディー家を襲う・・」云々などと書くのは論外として
一国の大統領の生き方に、その家族の言わば家訓が影響し、
そして、今になってみればアメリカそのものの生き方に
この大統領の生き方が深く影響を及ぼしている、、
、、、あるいは、アメリカの生き方が、そういう生き方をする
大統領やその家族を生んだのではないかということに気付かされる。


たぶん、アメリカの人々も建国以来のアメリカそのものの生き方と
ケネディー大統領やその家族の生き方には
とても強い関係を感じるのだろう。
そしてそこには多くの人々が自分自身をもダブらせて
いるのではないかと思う。

ここまでアメリカ国民に「生き方に対するメッセージ」を
送り続けるケネディー大統領やその家族の生き方、
そしてそれをたぶん、真正面から受け取る国民の文化を
筆者はある意味でとても感慨を持って見ることになった。



1999.7.24

おりしも
ケネディー大統領がその推進ののろしをあげた
「アポロ計画」による月への有人飛行計画の
成功からちょうど30年たった。

まさに「リスクに挑む」生き方を大統領が示し
国民が選択した「アポロ計画」だった。

フロンティアをめざし、果敢にリスクに挑戦する、、

「アポロ計画」の終了している現在のアメリカでも
その精神は脈々と流れている。

宇宙開発だけじゃなく、
社会や産業などにおおきな意味を持つ
技術開発や製品の開発、国の未来や国民の将来に
かかわる多くのことの研究開発に
費用と人力とリスクをかけて挑み続けている。

それも「国」だけじゃない、多くの国民や若者が
ベンチャー企業の創業やNPOへの参加を
当然のように行っている状況、がある。




1999.7.25

故ケネディー大統領の息子のジョンFケネディーJr氏が
亡くなったことは悲しいことだ。

と同時に
このことをアメリカ国民はどういう思いを持って見ていたのか、、、
筆者は考えさせられてしまった。

ジョンFケネディーJr氏だけではない。
故ケネディー大統領も、あるいはいままでに
国民の先頭にたって国の未来を
指し示してきたたくさんの人々とその生き方を、
あるいは政治家や一部の人だけじゃなく、
多くの国民や若者やあるいは産業人が
リスクを恐れずに進む生き方というのを、
お互いに認めあう文化がそこにあるのなら

やはりアメリカの文化や国そのものは
懐が深いと思わざをえないと思えた。




1999.7.26

毎月26日ころは
本屋にいけば車関係の雑誌が発売されている。

今日、本屋で立ち読みしながら車関係の雑誌を見て驚いたのは
以前から話題になっていた
ホンダがこの秋に発売すると言われている車
「インサイト」のことだ。

なんといよいよ世界ではじめての「3リッターカー」なのだという。

「3リッターカー」といっても3000CCの排気量を持つ車
という意味ではない。
100キロメーターを走るのに
3リッターのガソリンで走ることができるということ
つまり普通聞きなれた言い方にすれば
1リッターあたりで33.3キロメーター強を走ることが
出来る車ということになる。
実際にはリッターあたり35キロメーターを走るというのだから
これはすごいことだ。

世界ではじめて発売されたトヨタのハイブリッドカーのプリウスに続いて
二番目の発売になるホンダ初のハイブリッドカーということなのだが
しかし、世界初の「3リッターカー」の栄誉を手にいれることになった。

いやはや、技術の進歩というのは人の認識よりも
はるかに先をゆくものだとつくづく思う。



1999.7.27

ところで四年ほど前の時点で
我々人類にのこされた原油の残りは
このまま使い続ければあと40年あまりで終わり、
という話があった。

実際には諸説あって、100年あまりあるとする説や
いやもうあまりのこされていないのだとか
本当はもっとあるのだが
世界戦略上の問題で大国が備蓄しているから
実際はわからないとか、で、本当のところは
みんなわかっていないのだと思える。

ただ、これだけは言えると思うのは
ともかくもいずれ石油が終わる時がくるということ、
うまく使えばそれでも少しづつは「延命」できる、ということ、
でもいつかはやってくる石油なしの時点までには
それに代わる代替エネルギーを見つけ、うまく利用する
やり方を見つけておかなければならないということ、だ。

で、まあ、世界中の車のメーカーが
そういう状況はもちろんわかっていて
様々な開発を進めていることは確かなのだし
昨日書いたようにそれなりの結果が出ていることも確かなのだけれど

そのわりに我々市民国民の側に緊張感というか
問題意識というか、がないのはなぜなんだろうか。



1999.7.28

アイドリングストップだって
その正否がこの前新聞に報道されて話題になったが
アイドリングストップをやってもたいして役に立たない、
いやむしろ逆効果だという結果が出た、と
ああいう形で報道機関から言われると
もうすでにアイドリングストップをする意見や世論も簡単に
失せてしまっているし
なかには、やっぱりね、なんて意見さえ聞かれる。
なにかいまいち、こんな状況でいいのかなあ、と
考えざるを得ない。

運送会社の車のうしろに「アイドリングストップやります」
なんてステッカーはって(はらされて?)
いまさらアイドリングストップは意味がない、なんて言われても
業界も困っているんだろうなと
前を走る車のうしろに貼られたステッカーを見て思う。

「アイドリングストップ」を運動ではなく
緊張感のない「標語」にしてしまった問題がそこにはあると思う。



1999.7.29

そりゃ、たしかに
いくら「省エネ」「環境」の対策をほどこしてある車だからといって
消費者がわざわざ高価な車を買うわけがないというのもわかるし
経済効率を落として?まで「逆行」することも事実上できない、、
、できるわけがない、というのもわかる。
国民全員がみんなで目をつり上げて「省エネ」だ「環境」だ、
とひたすらにやっていくのもしっくりこないし
あえてその部分を補っていくのが科学技術の役割だとも
思ってもいる、、

そういう意味で自然な流れで「省エネ」や「環境」問題が
経済行為として解決されていくのが理想だとは思うのだが、
たしかにそれが可能ならば
お役所的な「標語」を掲げることだけでもいいのかもしれない、、

が、それだけに任せておけない状況になりつつあるのも事実なのだ。



1999.7.30

だから、今、本当に必要なことはアイドリングストップを
やる、やらない、ではなく
それを一人ひとりが自分の考えで判断すること、
お仕着せの標語ではなく、「運動」として
捉えていくこと、が必要なのだと思う。

アイドリングストップだけの話ではない。
すべての省エネや環境に関することはもちろん、
およそ問題があって、解決をしなくちゃならないことがある場合は
「標語化」ではなく「運動」として育てるかどうかが必要な
視点なのだと思う。

「意識改革」なんて言葉は簡単に使いたくはないが
いくら科学技術やものづくりの技術が進展していっても
「省エネ」や「環境」やらの問題解決を
お仕着せの「標語化」で進めることが
できると考えているとしたらこんなおめでたい話はない。





1999.7.31

車の話題が続くが、
日本国内で生産された車の台数が20数年ぶりのレベルまで
落ち込んでいるのだというニュースが流れた。

景気が悪いと車の買い替え需要だって低迷するのは当然なのだが、
なればこそ、メーカーもせっかくのチャンスだと考えて
思いきって省エネ自動車や電気自動車や
やたらに燃費がよくって排気ガスがでない車を作ったり、、
あ、そうそう、長く使えて、愛着がわく車、、
これからの消費者というか生活者の一人ひとりが欲しいと思う車も、、
今のうちから懸命になって開発して
いずれ買い替えをしなくちゃならない時はくるわけで、いつのまにか
大部分の車がそういう車になっていくようだったら良いのになあ、と思う。

そのわりにはあまり「車そのもの」や「車の販売の仕方」
が、かわりばえしていないなあ、と思うのは
筆者だけだろうか。
車のデザインは確かにでるくるまごとに新しい意匠をまとって
登場するのだけれど
その背景にあるものはたいして変わっていないのじゃないか。



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