今日のコラム・バックナンバー(1999年 6 月分)


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1999.6.1

また、翌日の毎日新聞のなかのコラム「経済観測」には
「20世紀  日本の経済人  挑戦編   岩崎小弥太 」や
「上記の社説」が掲載された、5月24日付け日経新聞をうけるかたちで
今、日本の経営者のなかにうまれつつあるのではないだろうかと
思われる「変化」について書かれている。

  「NO」と言える日本、という言葉はいかつく、互いの
  緊張感をかき立てるものがある。
  それに対して言えば、「市場主義を超えて」は一見穏和
  に見える。
  しかし本当は痛烈な「志」があっての言葉ではないか。
  それが静かに経済人の間に広がっているのは、そこに
  「人間としての成長」を基軸とする21世紀の風を感じ
  てのことだとすれば期待がもてる。
                      (毎日新聞コラム「経済観測」)



たしかにこういう議論が最近聞かれるようになってきたと思う。

正直言って、「サミエル・ウルマン」の「青春」という詩を
思いださないでもない。
一時、経営者のなかではやり、奇麗に印刷され、額縁のなかに入れて
応接間の壁なんかに飾られていた「詩」だ。
ご存知の人も多いと思う。
流行るとみんなで同じように額縁入れて飾ったりするのが
なんとも日本的ではあるが、、、

、でも、こういう議論はあってもいいと思うし、これからも
あるだろう。、もちろんあって悪い議論じゃない。

確かに「21世紀の風」がものづくりや事業の現場に
吹き始めているのではないか、、そう思える。





1999.6.2

本来、「ものをつくること」が
国をつくっていくことに結びついていくのだということを
その向こうに見なくちゃならないのだろうと思う。

最近の偉い人達は、本来、懸命になって行わなければならないはずの
「くにづくり」を忘れてきてしまっていたようだ。
いつのまにか本来のものづくりやくにづくりを
忘れてしまった結果が今の日本だ。

でも最近の巷の様子には、新聞記事のように
ものやことをつくることを通じて国や国の未来に貢献ができることを
我々は決してあきらめたわけじゃないんだぞ!、と
少しづつ気持ちが高ぶってきているようすも見える。
うれしい動きだと思う。


たしかに一面的な工業社会、絵に書いたような製造業の姿は
これから変わっていくだろう。
だけど「ものづくりがなくなっていく」、なんてことはありえない、
国と国の間や地域と地域の間、時間の間で
得意とするものづくりのやり方が違ってくることもあるだろう。
でも、「ものづくり」はなくならない。
ものや、ことや、そして「国をつくる」ことを忘れた国は
滅びるしかないのだから。



1999.6.3

少しナイーブな問題なので慎重に考えてみなくちゃならないが
今の時代にかんがえなくてはならない問題が
ここのところ新聞やテレビなんかで盛んに報道されている
大手企業を中心とした「リストラ」、
それによる「失業」の問題だ。

昨日までここで書いた
「事業や経済人が国や未来への貢献やビジョンをもつことが今重要なのではないか」
というような内容ともおおいに関係のある話だ。

「リストラ」や「失業」によって「人材の流動化」がおきる、
、、たしかに経済を大所高所からみればそうなんだろうが
でも実際、一人一人の目線でものをみれば
これによって様々に悩み、苦しむひとびとが
現在爆発的に増えていることもたしかだ。

右肩上がりだった経済、、、
日本株式会社が全体としてとてもうまくいっていたいままで、、、
だれもこの経済やそれを支えていた日本型システムが
これほどまでにがたがたと崩れていくとは思わなかっただろう。



1999.6.4

いまや社会現象のようになってしまい、単なる雑誌や新聞の
記事の一つになっているような感じさえあるが
「リストラ」や「失業」の問題を国家の深刻な問題と捉え
「解決方法」や「療法」を探して行く視点が必要だ。

働くひとの教育や技術などを高めていくための方法や
それを社会や企業が積極的にバックアップしていく仕組み作り、は
少々遅いと思わざるを得ないが、
それでも今からでも強くやって行く必要がある。
今はまだ社会的な動揺のほうが多く現れているが
いずれそういう仕組みがもっと必要になってくる。
学生や若い人たちの就職難にしてもなんらかの方向を求める動きが
これから学生の間に現れてくるだろう。
そういうものを産業や社会がバックアップする仕組みが早急に欲しい。

他にも様々な方策をつくっていくべきだと思う。
主人公である人の目線も重要であることは間違いないし
まっさきに考えなくてはならないことだ。

ところで、残念なのは、ここのところ毎日のように新聞やテレビで報道される
これらの「話題」の取上げられ方が
少し視野が狭いのではないかと思われることだ。
もっといろいろな視点から分析することも必要なのではないか。
今起きているこれらのことが一体
日本のいままでとこれからにとってどういうことなのか
、を冷厳に見つめる視点がもっとほしい。




1999.6.5

50年あまりえいえいと築いてきた日本型システムは
それなりに機能していたのだし、
それなりに合理的だったのだとも思う。

いまだにこの上に乗って日本の経済や社会の大部分が動いているのも
動かしがたい事実だ。

が、一方でそれではやっていかれない、
その古い仕組みの上に乗ってはもはや「やって行けない」、、
という「産業」が登場してきているのも事実だ。

、で、この「部分」が今後は世界のなかで競争相手と戦いながら
日本の次代の産業の中心部分になっていくことは
止めることができない流れになってきている。

重要なのは、経済のグローバル化やアメリカ的合理性だけが
こういう日本型システムを突き崩しているとは思われないことだ。

いままで、日本型システムの、そのものの中に
すでに次の新しい日本の仕組みを必要とする胎動が
生まれてきている、そのことに目を向け、気付くべきなのだろうと思う。



1999.6.6

企業や事業が社会や人々の必要とする「もの」や「こと」を供給することを
自身のなかに位置づけなければ
社会や産業に貢献できない、社会や産業にその「存在」を認めてもらえない、、
、、そういう時代になってしまっているのだと思う。

でもって、これは大変なことなのではなくて
本来「当たり前」のことなのだと思う。

あえて誤解を恐れずに言えば
「リストラ」や「失業」も古い仕組みから新しい仕組みに変化していく
過程の出来事なのだと言えるかもしれない。

企業そのものだって時代の流れに逆らっていたとすれば
今後、時代に残っていけるとは思えない。
今日本の仕組み全体が見直しを計らなければ、ならない時代なのだ.

中小企業だって、今、自分たちの「場所探し」を始めているところだ。

大きな企業も中小の企業もそこに働く人々も、
そしてなにより日本そのものも
自分のアイデンティティー探しに取りかからねばならない時代なのだと思う。



1999.6.7

ところで右肩上がりだった日本の経済が今後
ずるずると真横に進む、あるいは下手をすれば
右肩下がりになっていくのかというと
それはとても短絡的な見方だと思う。

もともと右肩上がりの日本経済というものが
一体どういうものなのか、が
いまいちはっきりしない。
たぶん経済が「一本調子で膨張していくこと」を
右肩上がり、というのだろうけれど
それじゃこれからの時代は
経済が膨らんでいかないかというと
そんなことはない。
一本調子にあがるということは確かにないのかもしれないが
そんなことはいままでだってなかったことだ。


確かに近視眼的な見方をしてしまえば
もう街には欲しいものは売られてないような「気がする」し、
企業や産業が今のような状況が未来永劫続いていれば
これはまあ、お先真っ暗になって元気もなくなる、、
右肩だって下がっていくように思う。

でも人々が本当に欲しいものはもうなくて
企業がやることややるべきことがないかというと
それは大間違いで、
それこそやるべきことや創るべきことはいくらでもある。

経済評論家?の偉い人達の御託宣に、一緒になって
「ものづくり」や「ことづくり」の可能性を否定し
我々製造業の使命を忘れてしまってはならないと思うのだ。





1999.6.8

そう言えば
月曜日の日刊工業新聞に
江崎玲於奈氏のインタビューがのっていた。
江崎氏はこんど設立された「日本新事業支援機関協議会」の
会長に就任されたのだそうだが
そんな立場から新産業を捉える視点を
いくつかインタビューで答えている。

そのなかで氏は
「真空管をいくら研究、改良してもトランジスタにはならないように
将来(の発展)は過去の延長線上にはない、ということを知るべきだ。
明日をできるだけ早く訪ねようとする意識が大切になる。
低迷する景気も同じで、景気循環の軌道に乗せようとしても
回復しない。産業構造を変えていくという新たな発展軌道に
乗せ換えていかなければならない。」
とインタビューに答えている。

その通りだと筆者も思う。





1999.6.9

進化の一時期には
改良による連続的な進化の時期もあるのだろうし
あるいは不連続的な進化の「一足飛び」が
ある時期もあるのじゃないか。
今はきっと、不連続な進化が始ろうとしているのじゃないか、、
もしかしたら社会構造や価値観、質、なんかも
変わろうとしているのかもしれない。

我々人間の欲しい「もの」や「こと」は
これだけ科学技術が発達して
およそ実現できることは実現してしまったような
気がするような現代においても
よくよく考えればまだまだ実現できていないことはたくさんある。

でもそういうことがどんどん加速度的に実現していくのかと言えば
そうそう簡単な話でもないだろう。

もしそれらの実現を押しとどめているものがあるとすれば
それは過去の延長での価値観や判断に
我々自身がとらわれていることに関係があるのかもしれない。
一足飛びの進化に向けて着実にそしてその意味をも我々自身が知らないうちに
物理的な準備や技術の準備は進んでいくのだろうが
最後にそこを飛び越えるのはあくまで人間の認識や意志が必要になるのではないか。
江崎さんの言葉で言えば
「明日をできるだけ早く訪ねようとする意識が大切になる」のだと思う。





1999.6.10

ここのところ
サッカーの試合がテレビで放送されていることが多い。

先日も日本と例のペルージャとの試合や
中田が日本のチームの一員として闘った
キリンカップなんかもあって、これらが放送されたものだから
なかなか見所があって楽しむことができた。

ところでこれらの試合を見たあと、必ずと言っていいほど
識者や経験者が現監督の采配を検証する番組が放送される。
深夜のスポーツ番組なんかはトルシェ監督の采配をめぐって
あそこはこうしたほうがよかっただの
あれはだめだったのだのなかなか手厳しい。

でもまあ、これはよく言われることではあるのだけれど
はっきり言えば「後からだったらなんとでも言える」

その時にそのまっただなかで闘っている人々の戦いに対して
まわりの人間がいくら経験者だからといって
「おせっかい」をただ受け入れるわけにはいかない。

ただ戦うことに価値があるのじゃなくて
自分の力と頭で闘うことに意味があるんだと思う。
もし、なぜそこでそういう戦いをしてそれが敗戦という結果に結びついて
しまったのだとしても、なぜその選択をしたのかを
戦いに参加したひとのなかから臨場感ある話として聞き出すことのほうが
よっぽど勉強になる。
でもそういうことを聞き出そうとする評論家はあまりいない。
これってサッカーやスポーツの話だけじゃないような気もする。



1999.6.11

だいたい、サッカーやスポーツの世界もそうだし
それ以外の世界、産業や社会のこともそういうことが
あるように思うのだけれど
出来事にたいしての「判断」や「評論」において
視野狭窄というか、近視眼的というか
そういうものが多すぎるのではないかと思う。

サッカーの試合についても
局面、局面の動きや状況は
たしかにその時どきの選手や監督、そして時には観客をも含んでの
一つの「断面」「様相」ではあるのだが

しかし当たり前のことであるが
その時間軸の前後の、言わば「歴史」と
その空間軸のまわりの、言わば「空間」の
複雑で多様な連関のなかで起きていることを
前提に捉えなければならないはずだ。

一局面や様相や状況のみを見て
あれはどうの、これはどうの、というのは
たやすくできるし、それが当てはまっていることもある。
でも、もっと大きな流れのなかで全体がどう動いているのか、
どうなっていくのか、を見て取る眼力が欲しい、



1999.6.12

同時にそれらサッカーの試合にしても社会や産業の状況においても
それらには「使命」や「理念」や
あるいはそこからくる「戦略」や「目標」「目的意識」が
根底にあるはずなのだが

それらのことが考慮されずに
ただ単に「戦術」のことだけ「評論」していても
それでは「評論家」としては失格なのじゃないか、、、

まあ、もっともその
「使命」や「理念」や「戦略」や「目標」「目的意識」を
もともと持っていないサッカーチームもあるのかもしれないが、、、

もちろん「勝つ」ことを目標にしていることは当たり前であって、
どうやって勝つのか、どういうチームにしていくか、
結局、何を実現するのか、、
などを考えながらチームを作り試合をしていかねば
ならないのだろうと思うのだが。

で、これは再三書くようにサッカーのことだけじゃない。




1999.6.12

同時にそれらサッカーの試合にしても社会や産業の状況においても
それらには「使命」や「理念」や
あるいはそこからくる「戦略」や「目標」「目的意識」が
根底にあるはずなのだが

それらのことが考慮されずに
ただ単に「戦術」のことだけ「評論」していても
それでは「評論家」としては失格なのじゃないか、、、

まあ、もっともその
「使命」や「理念」や「戦略」や「目標」「目的意識」を
もともと持っていないサッカーチームもあるのかもしれないが、、、

もちろん「勝つ」ことを目標にしていることは当たり前であって、
どうやって勝つのか、どういうチームにしていくか、
結局、何を実現するのか、、
などを考えながらチームを作り試合をしていかねば
ならないのだろうと思うのだが。

で、これは再三書くようにサッカーのことだけじゃない。




1999.6.13

で、最近の新聞を読んでいたら
「新聞記者はもっと専門的な知識を磨くべきだ」、
というような記事が
いくつも書かれていることに気がついた。
ごく最近の読売新聞にも「メディア時評」という連載に
一橋大学の教授で、ソニーの社外重役の要請があって
ここんところの新聞を賑わしている中谷巌教授の
「専門記者まだ不足、新聞社は養成必要」という内容で
記事がのっていた。

経済の専門的な内容の会見などでは、残念なことに
当事者の意図しているところとは別の部分が取上げられてしまったり
問題を正面から捉えるのではなく揚げ足とりになるケースも
あるのだとかで

たしかに新聞の記事もマスコミの報道も
専門的な知識が必要になることは
いままでも今後も変わらない。いやますます、重要になっていくと思う。



1999.6.14

だが、「専門的知識」、という言い方を間違えてはいけない。
川の流れる方向をよくよく見定めたなかでの知識なのか
ただ単に川のなかのよどみの部分をのみ評論したものなのか、、

専門的知識を身につけたはずが
ただ狭い部分、本質ではないことに拘泥して
本来見ていかねばならないはずの部分を見逃してしまっているとすれば
それでは本末転倒だ。
養成することはもちろん必要なことだが
大きな流れが見えないような、単なる専門家用語でできた、
「専門的知識」だけでは困る。

だから、まあ、むしろ、大学の先生がたにも新聞記者にも
もっと「専門的知識」を我々普通の人々にも
わかりやすいことばで、ことと状況を伝える、、ことを望みたいし
「本質を捉えて伝える力」を望みたい。


正直言って、「国立大学の先生の大手企業への重役への就任」という
例の話題については?マークだと思っているのだが、
我々にわかりやすく、専門的な知識と、企業と社会の状況と本質を
伝えてくれるのならそれもありかなとは思う。



1999.6.15

6日の読売新聞の「けいざい独言」では
論説委員のかたがそれらのことを取上げて
経済人が「経済人の欲でっかち」を避け
教育のほうも「先生の頭でっかち」を避けたい、
、、から「交流」をお互いに望む声はこれから高まっていくだろうと
いっている。たしかにその通りだ。
それぞれが、お互いに「専門的知識」や「文化」を学びあうことは
必要なことだ。

でも、まあ、しかし、、
経済人や学校の先生や、あるいはもう一つの「先生」だけじゃなくて
我々「庶民」のほうももっと本質をつかむための「自助努力」は
必要だろうなあ、と最近思う。

いろんなことが、やつぎばやにおきる時代ではあるのだけれど
どうもそれらのことがただ「起こっていること」に慣れてしまって
それらがどう関連していて、そのなかになにが生まれて
どうなろうとしているのか、、
探ろうとしない。深く考えようとしない。
そんなことに妙に馴れてしまっているんじゃないか、、、

専門家の用語が連発されるのにも慣れてしまって
わかっても意味のないことばも多くて、
わからなくて当然で、
そのなかの本質を捉えようとする行為が無意味に思える状況がある。
これはまずい。

これはよく言われる「教育の問題」といっしょだ。
計算の意味を考えずにただ結果が合っているかどうかで判断する。
思考することをやめ、ただ自動的に結論をだすことに専念する。
これはまずい。



1999.6.16

今日の新聞に家電メーカーが
家庭の台所で使う「電子レンジ」をインターネットにつなげて
「情報端末」として使えるものにして販売するんだと言う話が
のっていた。

その名も「インターネットDEこれつくろ!」というんだそうだ。

まあ、正直いって電子レンジにインターネットをつなげるようにする
(インターネットに電子レンジをつなげる?どっちなんだろ?)
のは数年前にインターネット上にレシピ集を載せたサイトを
大阪のエネルギー会社が開設したときから
こういうことはいずれおきるだろうと思っていたが、
、、うむ、それにしても本当にそういう状況になったか、、

ここでも以前から書いているが
冷蔵庫もインターネットにつながる時代になったし
湯沸かしポットだってネットワークにつながる時代だ。

テレビやラジオだって昔からネットワークにつながっているし
それらがインターネットにつながるのはもう目の前の話だ。

「オーディオ」がネットにつながったというのは最近新聞やマスコミで
報道されているから知っているでしょ。
音楽がネットワーク上で配信される時代になったというわけで、、
まあ、これは少しはやすぎたりいさみあしで御用になってしまったり
したけれど、、




1999.6.17

まあ、いずれにしても
ネットワーク電子レンジなんてのは、結構いいと思うなあ、

最近登場した、本当の情報端末らしいといえば
一番それらしいかっこをしている携帯電子手帳みたいなやつ、、
インターネットへの接続を前提につくられているのなんかが
最近は登場してきていて、
メーカーがホームページというか「情報のまとまり」を
メーカー自身で考え編集してきていて
もう家電メーカーとは呼べないような状況ではある。

家電メーカーが映画会社やコンテンツを買い集めている時代だし
なかには保険屋さんや株屋さんを始る時代だから
そんなことおきてもちっとも不思議じゃないけれど

コンテンツの中身を売るためにその「表現機器」を売るのか
「表現機器」を売るためにコンテンツを売ろうとしているのか
それは筆者にはわからないけれど
まあともかく、そんな状況になってきている

情報と情報を伝える道具の立場がどうなっていくかはわからないが
でもそんな混沌とした状況のなかから
いろんな可能性や商売が生まれてくるのは間違いない。




1999.6.18

携帯電子手帳や情報端末としての携帯電話なんて所詮
ビジネス用か子供たちのコミュニケーション用と考えているんだろうけれど
それが電子レンジだったらもっと可能性は広がるように思える。

家庭の主婦や料理をするひと、すべてがお客さんになる。
いやいやつくっているひとだってお客さんだし
好きで創る人もお客さんだし
それを使ってビジネスやろうとしている人も
メーカーにとってはお客さんだ。

だから携帯電子手帳や最近の情報端末の携帯電話なんかよりは
電子レンジのほうが、むしろ可能性を感じさせる。

メーカーの方ではレシピ集をつくって情報配信するんだそうだが
たぶん、それと似たようなサイトは一杯できるだろうし
例のエネルギー会社のサイトももっと力が入るだろうし
地方のウマイもの屋さんはそれでつくれる名物料理を公開するだろうし
それを集めたリンク集も出現するだろうし
テレビ番組の料理番組なんかはきっととっくに動き始めているんだろうなあ、
まあ、ともかくいろんな可能性が考えられる。



1999.6.19

筆者だったら、、レシピも面白いけれど
ほかにもいろいろありそうで、いろいろ考えたくなる。

たとえば、レンジでチンしている間は時間をもてあますから
その間に読んで楽しめる企画を考えるなんてのはどうだろう。

題して、「電子レンジお待たせタイム用読み物」

ちょうど30秒とか一分とかレンジでチンしている間で
読み終えることができる短編コントとか
ゲームをホームページのなかで楽しめるなんていかがでしょうか。

ところでまったく話は変るけれど
キッチン以外で食事をする場合、
なにか冷蔵庫なんかから取り出してレンジで暖める必要がある場合は
しょっちゅうだろうけれど
レンジで暖めている間はみんなどうしているんだろうか。

前述のようにレンジが動いている間、その場で時間をつぶすのも一つ
だけれど、それももったいないし、
かといって居間とかに移動してしまうとまた「ピー」と呼ばれて
キッチンまでもどってこなくてはならない。

電子レンジを居間とか、要するに「食事をする場所」に
おいておけばいいと思うのだけれどどうだろうか。

まあ、これは学生時代の生活のような発想で、
万年布団に寝ていればすべてのものに手が届くというやつで
不精ものの典型なのだが、
もともとこれからの家電や情報技術なんかは
「不精者」を育成するための道具を揃えているような、、
気がしないでもない、、。



1999.6.20

家庭で「単独」に仕事をしていると思っている
「洗濯機」や「掃除機」でさえ
インターネットにつながる可能性だってある。
どんな使い方があるか?
それはちょっと知的ゲームみたいだから考えてみてほしいが。
冷蔵庫だって湯沸かしポットだって単独で働いていたはずだが
ネットワークで動き始めたんだから可能性はある。

仕事や、社会や家庭で行われている
ほぼすべてのことは「外」となんらかのつながりが
なければ実現できないことが圧倒的に多い。


結局、「しごと」や「行為」、の中身に
「情報」が必要なものはネットワークが必要になる
ということなんじゃないか。




1999.6.21

ただし様々な「しごと」や「行為」を
単純にいままでの「仕事のやり方」からだけみていると
ネットワークや情報を必要としていないように見えることがある。
が、よくよく見てみると
本来、ネットワークが必要とされていることなのに、
あるいはネットワークがあればもっと合理的によりよく仕事ができて
いる場合があるのに、
ネットワークがなかったために、
あるいはそれを支える仕組みやバックアップの仕組みや、、
、、たとえばアウトソーシングの仕組みがそうなんだけれど、、
そういうものがなかったがために、
便宜的にほかの方法がまかり通っていたことが結構多いことに気がつく。

掃除も洗濯も炊事もみんな個人や家庭が行うべきこと、、
、、というのは当たり前のように考えているし、
今のところたしかにそうなんだけれど
だけれど本当は「そういうやり方でしかできなかった」のじゃないか、、。
掃除にも洗濯にも炊事にも「ネットワーク」というものに
載せる仕組みや方法がこれから出来ていくとしたら、、
案外、個人や家庭でやるもの、、という考え方も簡単に覆るかもしれない。




1999.6.22

それはそうと、
ネットワークというとどうしても「インターネット」と考えがちだが
ほかにもいろんな「ネットワーク」の道具というのはある。

最近では携帯電話もそうだし
ポケットベルだってそういう道具になり得る。
最近始った「自動販売機」のネットワーク化
、たしか自動販売機の外観部分に広告のための看板をつけて
遠隔地から情報を流し込むというアイディアだった、
は、ポケットベルの機能を使っているはずだ。

どこか離れた場所でなんらかの出力をしたい場合
携帯電話やポケットベルは結構使えるはずだ。
家庭や個人間でこれからもっともっと
つながる可能性のある携帯電話やポケベルは
ネットワークのための貴重な道具になる。

ちょうどさっきテレビを見ていたら
パーフェクトTVなんかもデジタル放送化されていくと言っていた。
放送と通信の融合が始って
たとえばコンビニやなんかの店舗への情報の配信なんかにも
使われていくんだろうとのことだ。

ネットワークということならば
まだまだたくさんある。
水道もそうだし電気もそうだ。
牛乳配達もそうだし新聞配達も、宅配も、郵便も
みんなみんなネットワーク、、である。

これは本来、いろいろに使えるのじゃないか、、、
考えてみる必要もあると思う。



1999.6.23

今日、国道ぞいの信号で車止めていたら
横のお店からミニスカートをはいたお姉ちゃんが
「ありがとうございましたあー」といって出てきた。
黄色のTシャツ着ていて背中にはなにやら文字が、、、

「スカイパーフェクトTV・・・」

ほー、なーるほど・・・

最近スカイパーフェクトTVのテレビ宣伝が活発だなあ、とか
デジタル放送にむけて放送と通信の業界が
怒涛のごとく「動き」がでてきていて
なにやら嵐のまえ静けさのような感があるなあ、、と思っていたら
もうすでにこういう「地道な動き」があるんだ、、

CATVも地上波も携帯電話も衛星放送も
ここのところとても動きが活発、
webTVやネットワーク端末やゲーム端末や、、、
NTTのインターネット接続の展開とか
ちかいうちに、、というか
もうすでに一つの方向にむかってごうごうと流れが始っているんじゃないか、、、


我々のように地域で産業や社会につながる人間もこういったインフラの上で
自分たちのためにどうこういったインフラを役立てていくか、
自分たちでどう使い道を考えていくか、、
自ら考えなくてはならない時代をむかえつつあるのだと思う。

毎日の新聞やテレビなんかの報道にあるようなきらびやかな、、
たとえばアメリカでインターネット関連株が高値をつけた、、
というような、、そんな状況の裏側で、
インフラや情報網の整備に向けた地道でひたむきな努力と
それを利用して産業や社会にうまく利用していこうとする
地域や産業界の真摯な努力、
この二つがかさなりあって始めて地に足がついた情報化社会が
切り開かれていくのだろうと思う。

我々も頑張らなくては、、、

黄色のTシャツ着てミニスカートをはいたお姉ちゃんを見てそう思った。




1999.6.24

最近、郊外の電気屋さんにいくことがあった。
見ていると結構面白いものだから
いろんなコーナーを見て回っていた。

一番興味を持って見てきたのが
「テレビ」のコーナーだ。

しばらく前からブームの「平面ブラウン管」のテレビが
各社から発売されていて
特にS社からは小型のそれがつい最近発売されていて
デザインのよさに思わずじっと見ていた。
正直言って平面ブラウン管に馴れてしまうと
いままでのブラウン管での画像が歪んで見えて
品質の低い製品のような気さえしてしまう。
まあ、たしかに一世代前の製品になりつつあるのだ。
平面ブラウン管で一つの市場や顧客の要求が
新たに開けたことは間違いないことなのだろう。


「平面ブラウン管」のほかにも
画面が二分かつになっているものとか
例の「ハイビジョン」に対応したものとか
いろんなテレビがあって見ていて飽きない。

特に画面が分割できてそれぞれでいろんなことが
表現出来るタイプのものは、きっと今話題の
放送と通信の融合、テレビとインターネットの融合、、
ができるようになっていくための前哨戦なんだろうと思える。





1999.6.25

ここで時々紹介する雑誌、
車の雑誌なのだけれど「NAVI」という雑誌がある。
なかなか切り口が鋭くて、
たとえば今月号の鈴木編集長の「NAVI INSIDE」という
コラムなんかは
自身が体験した婦人警官との駐車違反の取締との「攻防」を
レポートしていてすっげー面白い。

まあ、それは買って読んでいただくとして
そのほかにもハッとした記事があった。
こういう観点のレポートを書く自動車雑誌はなかったし
たぶんこれからもないだろうから
「NAVI」のファンは止められない。

ちなみに昔からあるタイプの自動車雑誌の新車レポートって
いうのは、加速がどうの、乗り心地がどうの、
たぶんに記者の主観的一面的、一方的レポートが書かれていて
それもまあ、下手な文章で飾りたてるものだから
(人のこと言えないが、でも彼らはプロなんだから、、)
読むに耐えないものも結構多くて閉口するばかりだ。




1999.6.26

正直いって日本のモータリゼーションの、特に
安全や社会との関わりや個人の豊かさや
あるいはものづくりとの関連や、
そういったことに対する奥行きがない議論や
底の浅い表層でしか語られないことの責任の一端は
モータージャーナリズムによるところが大きいと思っている。

まあ、日本の経済を底支えした巨大で重要な柱の一本が
自動車産業だったことは間違いのないことだし
そこに大きく関係し関係されるはずのモータージャーナリズムは
良くも悪くも関係なし、ではいられない、はずなのだが、、、

それにしてもこの10年におきた日本の「自動車をめぐる変化」を
当時から見据えてレポートし、あるいは警告してきたジャーナリズムは
あったのかというと、はなはだお寒い状況だったのではないかと思う。

もちろん車の加速性能や乗り心地や若者を「煽動」するような
本や記事があってはいけないというつもりもないし、
その本の編集の方針や目指す顧客を開拓するにはそういう記事一辺倒の
本が増えていくこともしかたないのかもしれないが、
一方でもっと地に足をつけた文章を読ませてくれる本やジャーナリズムが
必要であったし、今でも欲しいと思う。

ある意味、自動車業界の販売につながったような記事しかかけないような
ジャーナリズムや本は自動車メーカーのカタログの一部でしかない。



1999.6.27

少し話がずれてしまったが、雑誌「NAVI」のなかに書かれていた
ハッとした記事、というのはこうだ。

記者は最近発売されたばかりの某国産自動車の試乗会に参加した。

なにげなくスイッチを入れた
CDカセット一体AM/FM電子チューナーラジオ!から
流れてきたのは宇多田ヒカルの歌だった。

これはラジオからではなく主催者があらかじめ用意しておいた
CDだった。

試乗会であるから記者はスイッチを切り「試乗」に専念することも
できたのだろうが、スイッチを「消せず」にずっと試乗のあいだ、
聞いていた。

記者は言う。
「最後までCDを聴き通したとき、私は、まことに勝手ながら、
○○○○(自動車名)は宇多田ヒカルの魅力の前に敗れた、と思った。
もちろん悪いのは私である。私がCDのスイッチを切ればよかった。・・」

「「ファーストラブ」をかけ続けないと、この心地好さが
消えてなくなってしまいそうなことが、私には耐えられなかった。
○○○○(自動車名)には走り出して何の不満も見出せなかった。」

「でも宇多田ヒカルのCDがないと、運転していてツマラナイ。・・」

「もちろん音楽を奏でる能力も、○○○○(自動車名)のものである。
自動車にラジオが搭載されて生み出された、自由に移動する個室と
音楽の合体は、人類の歴史上、画期的に刺激的な発明であったことは
疑いない。」



1999.6.28

ここからがもっと面白い。

「それにしても開発スタッフの人がポロリと言った、「デザインはどうですか。
サイズとパッケージを考えていくと、どれも同じようになってしまうのは
しょうがないと思うんです。」というひとことはイカンと思う。」

「○○○○(自動車名)の開発陣に欠けていたもの。があるとすれば、ほんの
ささいなザッツ・エンターテイメントな心ではなかったか。
いや、それは違う!と私はハタと気づいた。○○○○(自動車名)を買ったら、
「ファースト・ラブ」も自分のお金で買えばいいんだ。」(終わり)
       

                           
最後の二行は記者の「皮肉」や「モータージャーナリスト風のまとめ方」
としても(いや後述のようにこれこそが重要なことなのだが)
記者がこの車をとおして、見つめ、評論していることは
今、日本の自動車やあるいは日本の「これからのものづくり」に
おおいに関連する、重要で貴重な示唆が含まれていると筆者は思う。




1999.6.29

たしかに四つのタイヤに乗っかって
決められた道路を走り、人や荷物を乗せて、高速にかつ、パーソナルに
移動を受け持つということでは自動車ほど最適な乗り物はない。
多目的でありながら、これほどその多目的という用途を
確実にこなせる「もの」はほかにない。

いくら電車や飛行機が発達し便利になっても「自動車」というものの
利便性や特質はむしろこれからますます際立っていくだろうと思う。

で、その目的や使用方法にそって自動車そのものが多様化し、
人々の様々な暮らしや生き方や生活の仕方、一つ一つに
応えていくのならば、
「サイズとパッケージをかんがえていくと
どれも同じようなものになってしまう」
というのは本当なのだろうか、はたしてそれでいいのだろうか。




1999.6.30

同じような規格や寸法や、百歩譲って車のコンセプトや
買ってもらうべき顧客までも同じような想定をしたとすれば
たしかにその結果、似たようなもの、同じようなもの、に
なっていってしまうこともありえることだ。

しかし、ならばこそ「ほんのささいなザッツ・エンターテイメントな心」
が決定的に重要なのではないか。

「どれも同じようになってしまうのはしょうがないと思う」ではなく
だからこそ、そこに
人々の様々な暮らしや生き方や生活の仕方、一つ一つに応える
努力と感性と「ザッツ・エンターテイメントな心」が必要
なのではないか。



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