今日のコラム・バックナンバー(1999年 4 月分)


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1999.4.1

対談の相手である徳大寺氏はそれを受けて
「それに関して思うのはメルセデスベンツですね。
メルセデスの車は相当いい。でも、もっといいのは、
じぶんたちの車にたいするメルセデスの説明なんです。」
という。

筆者は五木氏と徳大寺氏の言わんとするところは少々異なると思っているが
でも両方の意見はとてもよくわかる。

製品や技術や部品や、我々製造業のつくるものは
それ自身が企業や個人の、社会や顧客に対する自分の表現であって、
いわばそれは自分と社会や顧客との関係を「形にしたもの」だ。
もっと簡単にいえば、企業の理念が形になったものが商品だと言っていい。

だから本来はその形や機能にすべてが凝縮されていると考えていいが、
もちろん商品とはいっても現代の商品はたとえば車そのもの、、ではなく
車を中心としながら、そこに付帯する「すべてのものやこと」が
その企業の顧客や市場に対する、「財とサービスの提供」、になる。

「メルセデスの車」が商品という形になっているのだけれど
実際はそこに存在する人と人の関係やそれをつかさどる、ものやこと、
すべてが表現すべきことなのだ。
で、すごいのは、それをあえて言葉で表現するメルセデスの人間、、
ということなのだろう。

徳大寺氏がいうのはそういうことなのだろうと思う。




1999.4.2

自分たちが表現しようとしている「こと」への
自分たち自身による本当の意味・理解は
「表現しているだけ」では自分のなかで醸成され得ないと思う。

相手に伝える努力をして、なおかつそれが相手に伝わり、
なおかつ、あいてから反応が返ってきてはじめて
自分たちの表現していることの意味が見えてくる、
回りくどい言い方だけれどそういうことだと思う。


もちろん、大前提として、いくら情報化の時代とはいえ
自立的な企業が自社のアイデンティティーを持って初めて
企業間の本当の意味での情報交換、共有、言わばお互いの理解が
できていく、、、これはもう当然の前提だ。

そして「企業の表現力」と「企業のコアやアイデンティティー」を
同時に企業は身につけて行く必要があるとも思う。
どちらから、ではなくてどちらも同時に、、、

「企業の表現力」と「企業のコアやアイデンティティー」の
関係はそんなような関係があるのではないかと思う。




1999.4.3

そうやって考えてくると
「企業の表現力」と「企業のコアやアイデンティティー」というのは
たぶん企業が自分で自分の表現をしているだけではだめで
他社やとりまく状況や市場や顧客の変化や要求に
どこまで自分自身と照らし合わせ、擦り合わせをしながら
その比較や相互作用の出力ができるかどうか、、、
にかかっているということのような気がする。

インターネットというよりは
むしろ企業が顧客や産業や社会なんかの外部との接点や
そこから生まれる変化と状況を
どうやって自分自身の変化に積極的につなげていくか、
取り込んでいくか、という意味での
「情報技術」を身につける必要があるし
身につればそれだけ自分自身の変化発展も重要になっていく、
それは決して、テレビやラジオのような一方的なものではなりたたないはずだ。

実社会やありていのままの社会や産業を
ありのままに映し出す情報社会。
同時に我々自身も映し出すための努力をする。
それによっても実際の社会や産業が変化を促される、、、

その双方向の関係というのが
そろそろ見えてきたような、、、そんな気がする。

ものをつくっている当事者が語ること、
これからはそれがとても重要な意味をもつ時代になる。




1999.4.4

日本の近代化はクラーク博士の「ボーイズビアンビシャアス」に
代表されるような近代化に向けた事業でここまで引っ張ってこられた。
しかしその「ボーイズ ・ビー・ アンビシャアス」には本来
「ボーイズ ・ビー・ アンビシャアス for ○○○」と
「目的」が続いたのではないか、、。
「for ○○○」以下を切ってしまって
「青年よ大志を抱け」と訳してしまった。
それでは「立身出世」にしかつながっていかない。
、、と作家の五木氏は言う。

なるほどと思う。
あえて言えば「for ○○○」には
戦前ならば「お国のために」で、
戦後は「会社のために」とでも言えばいいのだろうか、、
だけど今、日本は「何のために」を見つけることができずに
立ち往生している状態だ。

かといって、「絶好調」のアメリカが
「西部劇」なんかに代表されるような
開拓による国家の建設を目標にしていてもきっと限りはあるはずだ。
いつまでもそんな方法が世界の納得を得ることができるとも思えない。

「for ○○○」「何のために」は
これから、日本もアメリカも
面とむかって考えざるを得ない、ことになっていくだろう。




1999.4.5

歌手の宇多田ヒカルさんがむちゃくちゃ売れている。

「オートマチック」という歌を昨年暮れに発表してから
続けさまに何曲かをだして、それがすべて
ヒットチャートを総なめにしている。
あれよあれよという間にだ。

別に流行にのるわけじゃないが、
実は筆者もアルバムを買った、といっても
自分自身で買ってきたわけではないけれど、、

学生時代にジャズにこって「レコード」を買って
訳知り顔で聞いていたころからもうだいぶ時間がたった。
いつのまにか音楽にふれる機会もなくなってきて、
いつのまにかCDが当たり前になってもいた。
それでも以前のように音楽に興味もなく、
ましてCDを買おうなんて気はさらさらない。

が、こんどの宇多田ヒカルさんには衝撃を受けた。
こんなに音楽における表現力の豊かな16才の若者が
生まれてきたことに驚いた。
それがどんなふうなのかは音楽評論家の評論に任せるとして
ジャズのレコードを買った以降、久しぶりにCDを買いたいと思った。

プロモーションビデオのぶかぶかのジーパンは今の若者ふうで
いつもと変わらない若者の音楽かと思っていたのだが、
よくよく聞いてみるとこれがなかなかすごい。

誰かがテレビで「いよいよアーティストと呼べる若者が出てきた」と
言っていたが、本当にそう思う。

宇多田ヒカルさんは歌で、だけれど、
きっとこれからは様々な分野で「自分の表現」ができる人が
たくさん生まれてくるに違いない。
いよいよそういう時代に入ったのだろうかと思う。
少し感激、、である。



1999.4.6

昨日、最近の音楽表現のこと、、、いや、そんなに難しい話ではなくて
単純に、若い人の表現が、それぞれに思いおもいの表現を
するようになってきて、
それもとても豊かな表現が上手にもなってきていて、
それが世代や括りを超えて
人の心や感性に触れてくることも可能になってきているように思う、
、それも音楽に限らずに様々な方向で始っているんじゃないか、、、
という話なんだけれども、
それを書いた。

今日は、ソニーが音楽用CDオーディオの新規格を発表した、
という話がテレビで放送されていた。

他にもすでにDVDオーディオという規格に業界では
すでに統一化の方向もあるそうで、
なにやら一昔前のVHSとベータの規格争いの話を
思い出さないわけにいかないのだが、
まあ、それはともかく、、、

それらのメディアはさすがにいままでのメディアと違って
いままでと同じ形状のCDであるが
そこに入る情報の「量」はソニーの音楽用CDオーディオで
「6倍」もの情報量なのだという。

DVDオーディオでも6個のスピーカーと映像!を駆動するための
情報量を蓄積できるらしい。




1999.4.7

テレビのニュース番組によれば
いままでのオーディオにとって代わるだけのインパクトがあるのだという。

載せること、伝えること、ができる情報量が多くなれば
音や歌の細かな表現とか、そういう「表現すべきもの」「表現したいもの」
を、よりいっそう感性に近づけていくことができるはずだ。
、もちろん、その情報量が多くなるそのこと自身が
感性を刺激したり表現を活発にするわけではない、
、が、しかし、表現をより「豊かにし、」「感性に近づける」ことは
間違いなくできていく、そのための下支えになる、ことだろう。

たとえばインターネットもそういうことだ。
「デジタル化」がそういう特質を持っているということも言えるが
やはりここは
「科学や技術の発達が感性や表現を最大限に発揮させる礎となっていく」
と言っておこう。

いずれ何年か、あるいは何十年か未来に
若者や人々の自己表現が最大に開花する時がやってくるのだろうと思う。
人の感性を研ぎ澄ますことももちろんだが、
それを伝える技術もこれからどんどん開花する、研ぎ澄まされていく。

で、そこには、
それぞれ相互に影響しながら相互に発展する関係というのも
きっとあるに違いない。

宇多田ヒカルさんの歌とソニーの新オーディオ装置、、
両方がこの時期に登場してきたということに今日的な意味があると思う。




1999.4.8

もう4月になったから学校にも新入生がいっぱい入って
近くの高校なんかも
あきらかについこの前まで中学生のような雰囲気を漂わせた高校生が
真新しい制服を着て歩いているのがわかる。

きっとルーズフィットのソックスにあこがれて
高校生になったら必ずあんな恰好するんだ、と
思って高校生になった子もいるんだろうなあ、、
と思ってよくよく高校生の足元を見たら、、
およよ、、まだ確かに「ルーズソックス」も多いのだが
明らかに「紺色のハイソックス」がまぎれているではないか、、
それも少数ではない、結構な数だ。

冬をすぎていたら知らないうちに「ルーズソックス」のブームにも
変化がやって来ていた、というわけだ。

なにやらもっとうれしいのはそれ以外にも
「自分のおしゃれ」をしている高校生も多いように思われることだ。
みんながみんな同じ恰好をしたい、、というのも
最近は少し下火で、自分の恰好やスタイルや表現が
自分にとっても大事なのだという雰囲気があるようにも見える。
ただ、これもしばらくして新たな「ブーム」が出現すると
みんなで右へならえ、、してしまうことが多いのだけれど、、

おっと、そういえば「だんご三兄弟」はどこに行ったのだ。
もう視界から消えつつあるぞ。
長くても連休までだ、と誰かが言っていたが
それをも待たないで「ブーム」は去ろうとしている。
いやはや、最近のブームの変化の速さはびっくりするばかりである。
「ルーズソックス」なんかは健闘賞ものだ。




1999.4.9

ここのところの新聞なんかで盛んに報道されていて
ご存知の人も多いとおもうけれど

一橋大学商学部教授の中谷巌教授が
こんどソニーの社外取締役になるらしい、
その正否について結構議論になっていて
新聞なんかで報道されているというわけだ。

中谷巌教授は国立大学の先生だから国家公務員であって、
、だからこんどの問題は人事院で「判断」すべき管轄になるらしいのだが

新聞などによれば
文部省や産業界などでは「競争力が向上し」「大学も活性化するから」
「結構なこと」だという判断にたいして
人事院ではたぶん承認は困難とする立場らしい。

どう判断すべきなのか、筆者もわからない。

産学官の連携や、そういったことが今後、日本で必要なこと、とか
いうのはここでいつも書いてもいることだし、
筆者もおおまかなところでは異存はないが、
かといっていくら税金を使って研究している国家公務員の大学教授が
研究成果を広めることも職務だと考えることもできる、
といって特定の企業の取締役になるというのは
すこし腑に落ちない気持ちもある。
ソニーが先生に期待するのは「経営の監督・助言」であって
それが「国立大教授とソニー役員の立場が利害をめぐって衝突するような
事態は考えにくい。(毎日新聞)」というのだが、
本当にそうだろうか。
産業界が「競争力が向上し」と言い大学も「活性化するから」では
特定の大手企業に競争力が囲われてしまうことにもならないか。

たぶん、こんどの問題の結論によっては
それを契機に有名どころの大手企業が
優秀な先生を役員に迎いいれることが始る可能性は高い。





1999.4.10

一方でこうも思う。
戦後の日本の企業のあり方が今、問い直されていることは間違いない、
企業の「社会」や「国民」にたいしての関係が
問い直されていることは間違いない。
企業は私的なものではなく公的なものだということも
以前にくらべれば盛んに言われるようになってきた。

なればこそ、そういう企業のなかで「経営の監督・助言」を行い、
企業の社会やひととの接点を見失わないための視座として
中谷先生のような優秀な学者を取締役として迎いいれるというのは
間違いではないだろうとも思う。

たしかに先生が言われるとおり
「単なる顧問やアドバイザーでは経営に参加できないから興味はない」
こともあるだろう。

事業の理念や設立の目的にそって事業を進めるのであれば
外部よりはその企業のなかで経営に参加するほうがもちろんいい。



1999.4.11

ましてソニーという企業が
創業者である故井深 大氏が創業にあたって起草した
「東京通信工業株式会社設立趣意書」の志が
いまだに脈々とその企業のなかに受け継がれている企業ならば

そのなかに書かれている
「会社創立ノ目的
一、日本再建、文化向上ニ対スル技術面、生産面ヨリノ活発ナル活動」

と書かれている内容はまさに産学官で連携し実現すべきことであって
だれもが歓迎すべきことだろうからこんどの件は問題にはならないと思うし
むしろ歓迎すべきことだとも思う。

企業の「志」と社会や国家が必要とすることは本来けっして
相反するものではないし、一致した方向であってもなんの問題もない。
「企業は「利益を追求するもの」であって社会の利益とは合致しない、」
なんていう考えがもしもあったら本来おかしな話だと思う。


ただし昨日も書いたが、たぶん、こんどの問題の結論によっては
それを契機に有名どころの大手企業が
優秀な先生を役員に迎いいれることが始る可能性は高い。

すべての企業がその公共性を自覚し、
社会や国や国民のために持てる技術や力を発揮してくれるならば
国立大学の先生が役員になるなどして
社会に企業の公器たる面を「経営の監督・助言」こととして
行うことは歓迎すべきことなのだろうが
単なる「競争力」をもつための優秀な先生方の獲得、、、であれば
それは問題があると考えざるを得ない。
ましてそれを産業界自身が言うこと自身にも問題がありはしないか。



1999.4.12

最近は大企業のなかでもいろいろ問題を持つ企業もないわけじゃない。
、まあ、そういう企業なんかはむしろ
大学教授を「経営の監督・助言」してもらうために企業役員に
迎いいれるなんて発想にはたどり着くはずもないのだが、、、

単に優秀な頭脳を囲い込むための
企業と国立大学の教授の関係の深まりはこれからおおいにありうる。

今回の問題を契機に「ルールを明確にする」作業が必要がある、、
という議論があるようだが、それはもちろんだ。
同時にその関係をよくよく考え、
その企業がどんな企業なのか、よくよく監視するシステムを
つくっていく必要もあると思う。

「とんでもない企業のお先棒かつぎになっていた」、
なんてこともないわけじゃないからだ。

今、目の前に、1993年8月23日の読売新聞の切り抜きがある。
「言近意遠」という連載で、中谷巌教授が書いている記事である。
当時進んでいた「円高」の本質を捉え、その意味するところを考え、
日本や日本の企業の方向を占っている。



1999.4.13

6年も前に書かれたものだが
今日の、日本の企業に必要なことと状況を
すでにその時期に正しく捉えていると思う。
、ただし現状の日本はまだまだ、道半ばではあるが、、

そこにはこのように書かれている。

「考えてみると、戦後の日本企業は、外国からアイディアや技術を
借用し、それを改善して本家本元に勝つ、というパターンを
作り上げた。その体質はいってみれば「キャッチアップ型」であった。
円高がここまで進み、日本経済がここまで成熟してくると、従来の
「キャッチアップ型」ではもうやっていけなくなった。
「コモディディー化」したハード製品にいつまでもこだわっていては
倒産あるのみだ。
結局、外国ではまねのできない「ソフト的な知恵」が次々に創造できる
「ソフトに強い」企業体質を一刻も早く作り上げる以外に、
このジレンマを解く方法はないということになる。
これが今回の円高の基本的メッセージである。」
    「言近意遠」1993年8月23日の読売新聞の切り抜きから。
    
いまでこそ同じような主張は数多く登場してきているが
当時はまだ、日本の産業の状況やこれからの方向を正しく捉えた評論等は
ないに等しかった。
中谷先生は6年前にいち早くそれを主張していたと思う。



1999.4.14

今でこそそういう主張は当然とされ
様々なメディアで様々な人が同じようなことを言っているが、
自分自身が新聞を切り取って保管していることからみても
当時の筆者自身にとって新鮮で、なおかつ説得力がある主張
だったのだろうと思う。

考えてみれば
「消費者がどんな商品を望んでいるのかを調査して
  それに合わせて製品をつくるのではなく、
  新しい製品をつくることによって彼らをリードすることにある。」
     (MADE IN JAPAN  盛田昭夫他著)
と自らの規範をかかげ、人と同じことはやらない、と、
たとえばウォークマンを市場に問うたソニーの文化は
中谷先生のいう、これからの企業の製品つくりや企業の理念に
そのまま当てはまるものであるかもしれない。


さて、今回の件を知って筆者はむしろ
これから産業界に登場すべきであろう小さな、しかし、志と理念をもち
社会と企業の関係をただしく受け止めることができる企業群、
「21世紀の企業像」を作り上げようとする
たぶん、多くのベンチャー企業や既存の小さな企業、のなかにこそ
中谷先生のようなビジョンを指し示すことができる優秀な先生を
応援団として必要としている企業があるのだろうと思った。

願わくば、これから生まれてくるであろう、たくさんの
そういった企業に中谷先生のような優秀な先生が続き、
様々な形で支援、援助、応援を形にしていってくれることを望みたい。





1999.4.15

筆者の住む町は比較的冬が長いというか、
春になっても寒い日が続く。

まだまだ夕方と朝は寒い。
で、ここのところ寒さもつづいたので
桜がいっこうに咲かない。

筆者の住む町よりも北に位置する町なんかでも
桜が咲いたというニュースを聞いていると
どうもじぶんところだけ桜の開花が遅れているような気さえしてくる。
まるで景気の動向を見ながら一喜一憂するあの気持ちである。


桜もそうだが、自然界の摂理は必ず法則に支配されていて
時間の流れなんかは微視的にみればちいさな変化もあるが
大勢としては大きな流れは変らずにとうとうと流れている。
これは間違いない。

我々の社会や産業の世界も
時代の大きな流れのなかにあることは間違いない。
ただし、いつみ必ず同じことを繰り返しながら時間を経過して
いくのかというと、どうもそうではないらしい。

人やその総体である社会が存在しているのだから
その流れ方は人の気持ちや志で大きく変る。





1999.4.16

「景気循環」と言われているが
単純に景気が循環するかというとそうではないだろう。
同じことを繰り返すのかというとそうでもなくて
まったく考えられなかったような仕組みが登場し
その上で違ったことも始まる。
人間が介在する法律や規制やそして仕組みも
大きく関係してくるから単純にはいかない。

新聞なんかでは景気が浮揚してきたみたいな話もでるし
それはもちろん歓迎すべきことなんだろうけれど
実際にはその裏側で
もっとおおきな枠組みの変化も現れているはずだ。

どうもそのあたりに気がつかないと
いつまでたっても「景気循環の出口はどこだ」という議論になる。
ちいさな山や谷は今後もくるだろうが
単純に考えてもいままでのような状況がやってくるとは思えない。


先日、我々が活動している「諏訪バーチャル工業団地」についての
レポートが掲載され発売された雑誌「実業の日本」に
一橋大学の関先生が中小企業の今後についてのレポートが書かれていた。




1999.4.17

その中に今話題の日本の生産力についての数字が書かれている部分がある。

関先生によれば今日の日本は依然として過剰生産力の調整過程にあるのだそうで、
たとえば自動車の生産台数でいえば
1991年の自動車生産台数は1370万台、
その内、内需が700万台、輸出が600万台強、

ところがアメリカは国内生産の車でないと買わなくなったし、
アジア各国も国産化したから、
その結果、日本の生産台数は1000万台に減り、
内需は6百数十万台でそんなに減っていないが、
輸出は大幅に減っている。
将来、内需は700万台程度、
、プラス少量が適切な国内生産能力と言われているんだそうだ。

これは1400万台の生産能力の約半分だ。

自動車以外にも日本の産業が輸出にたよってきて、
海外に販売しさえすれば右肩上がりでいられた状況は
もう明らかに終わったと思っていいだろう。



1999.4.18

過剰設備をどうするか、、という話が
ここのところの新聞、テレビ等で盛んに議論されているが

それの正否は別として
少なくとも生産力が「過剰」であること、は、
ほぼ間違いない。

しかし、いままでにも「過剰生産」によって市場に商品がだぶつき
ものが売れない状況というのはなんどもあった。

だからこんどの状況もいままでと同じ状況の繰り返しであって
ちょっと谷と山が大きいだけであるから
過剰な設備や在庫や雇用を解消すれば
(これがそもそもいままでにないような大きな量と問題になってもいるのだが)
また再び依然の道に戻ることができるという議論に容易に
たどり着いてしまう。

何度も言うが、ここでは過剰な設備や在庫や雇用を解消することの
正否を言っているのではない。
それらが現状では過剰であることは間違いない。
状況によっては設備の廃棄・更新などはあっても良いとも思う。
しかし、それを「適正な量」にしさえすれば
また再び依然の日本の仕組みやビジネスモデルに
戻ることができると考えが、その根底にあるんだとすれば
それは単純過ぎる話だと思うのだ。

問題の時代的な背景はそんなところにあるんではない、ところに
気がつかなければならないと思う。




1999.4.19

これはここで何度も批判している
「日本(の経済や産業)には技術があるから大丈夫」という
安易な楽観論と表裏一体をなすものだとも思う。


日曜日の新聞にもこういう話を盛んにする先生が
経済回復の兆しがみえてきているとして
景気が悪い、悪い、と言っている一方で
地道に商品や技術を磨いてきた企業は
しっかりと世界に通用する財やサービスを作りだしていて
これからアジアの景気の回復と関連しながら
景気は回復すると言っておられる。

たしかにそういう企業もなかにはある。
それらからは企業規模を超えて学ばなければならないものが
あることも事実だ。

ただ、これらの議論の根底には
旧来の日本株式会社の仕組みに対する期待が
いまだにあるように思う。



1999.4.20

過剰設備の廃棄にしろ、日本の技術にたいする過信にしろ
そういう議論のなかからは
日本株式会社という枠組みのなかでどうするこうする、という
視点しかみえて来ない。
結局これらの議論のなかから最終的に導き出されるものは
旧来の日本株式会社の仕組みから余分なものを捨て、
再び延長線を効率的に駆けていくための議論だ。

もちろんそれもあってもいいだろう。
それによって勇気づけられる人も企業もたくさんあるし、
身軽になる人も企業もたくさんある。
(ただし、過剰な設備や在庫や雇用を解消すれば
  それが大きく跳ねかえってくることもよく考えねばならない。)

だが、本当に必要なのはそういう議論だろうか。
今、我々はもっと変化の兆しとその基本にある
時代の流れに敏感でなければならないと思う。




1999.4.21

日曜日の夜、
NHKスペシャル「世紀を超えて・企業革命」
    −巨大企業の世界戦略−
をみた人はおいでだろうか。

GEのジャック・ウェルチ会長が出てきて
GEの戦略について語っていた。

ウェルチ氏はGEの、あるいはこれからの時代に必要となる
企業にとって重要な三つの点をあげていた。
番組では以下のような言葉にまとめ上げていた。

1、勝てるゲームでプレイする。
2、競争のカギはスピードアップ
3、サービス分野への展開

その基本にあったのは時代の変化を恐れず、的確につかんで予見し、
むしろチャンスとして捉え、先駆けていくことがなによりも大切だ、という
まあ、最近の話としてはよく言われている話なのだが、、

特にスピードが鍵ということでは
我々中小企業の強みはそこにこそあるのだと思うが、
最近は大手企業も意志決定がすばやく行われることの重要性が
盛んに言われるようになってきている。

もしも、我々のような小さな企業がフットワークが悪く、
あんな巨大企業が小回りが効いて、、なんてことになれば、
これはよっぽど我々もがんばらなくてはならないと思う。



1999.4.22

最近、よくであう議論に
「アングロサクソンモデルへの批判」がある。

最近は、もてはやされるビジネスモデルが
どうも欧米型というか、競争原理や市場原理が一番の基軸であって
みんな仲良く、のような「日本的、情緒的な仕組み」は
否定されるべきもの、という議論が多かったように思えるのだが、

ここ最近、本当に最近の話だが、
そういう議論ではなく、
やはり日本的な文化や精神や、やりかた、仕組み、
そういったものをあえて重要と捉え、引き継いでいくべきではないのか、、
という議論が登場してきている。

テレビなんかでみていてもそういう主張をされる識者が
急激に増えてきていることに気がつく。

主張のまとめ方はいろいろだが、簡単に言えば
「アングロサクソンモデルへの批判」である。




1999.4.23

たしかにその議論にも一理あるのじゃないかと筆者も思う。

グローバルスタンダードに対応していかなくてはならないとか、
世界に通用する経済の仕組みややり方や考え方が必要だ、
と、繰り返し、
日本のいままでをしっかりとつかみきらぬまま、
ただそれと比較しながら、これまでの日本の仕組みを批判すれば
次のステージに移ることができると考えているのではないかと思える。

ものづくりや産業づくりの分野でも
最近よく言われるのは
「シリコンバレーのような産業復興モデルを日本にも」
という主張だ。

しかし、学ぶことは確かに重要だが、
無批判に、そして、日本の現状や歴史を考えぬまま、
闇雲に外国のやり方を真似る、のはどうなんだろう。





1999.4.24

一面的な、あえて言えば盲信的とも言えるような
(そういう議論もあるように見受けられる)
「外国崇拝」はもうやめたほうがいい。

もちろん、筆者は「アングロサクソンモデルへの批判」も
一面的にならぬように考えなくてはならないが、
しかし、一方での無批判な「日本回帰」にもなっていかないように
注意しなくてはならないと思う。

日本の文化や仕組みややり方も残していかなくてなならないものも
もちろんあるが、批判されるべきものや変えていかなくては
ならないものももちろん、いまだに、多い。

結局、本当はなにが重要なのか、

まずはこの世紀が日本と世界にとってどういうことだったのか、、
今の日本が世界のなかでどういう位置にいて、どういうことになって
どうなっていくべきなのか、
しっかりと捉え直していかなくてはならないだろう。

もう一つは、これからの時代の変化を見通すことだ。
特に情報技術や通信技術やロジスティックの大きな変化は
国家間の位置関係や国家や民族の価値観を大きく変えていく。
この分野への洞察を深め、それぞれとの関係を
しっかりと理解せねばならないのだろう。




1999.4.25

昨日のテレビのニュースでやっていた。
日産自動車が開発したハイブリッド電気自動車が
来年、発売する予定なんだとか。

いよいよ各メーカーとも次世代の自動車の
市場への投入にむけて
いっせいに動きだした感じである。

以前にくらべて、省エネとか環境問題とかは
当たり前の課題になってきたから
いまさら省エネ環境対策車などの開発自身は
たいした話題にはならないのだろうが、
マスコミにはこういう話題はぜひとも継続的に、できれば深く、
扱ってもらいたいものだと思う。

我々インダストリーウェブの母体ともいうべき
諏訪湖電走会も、また、今年5月の連休に行われる
電気自動車のレース「ワールドエコノムーブ」に
出場すべく、毎晩のようにレース車づくりを進めている。




1999.4.26

5年まえに「電気自動車は時代の要請によって
必ずや産業になっていくし地域産業の活性化にもつながるはずだ。」
として「諏訪湖電走会」の活動を始めたのだが
そうこうしているうちに電気自動車は走りはじめたし、
世の中の風向きも変わってきた。

現実にも商売ベースで電気自動車が走り始めたことは
我々の活動におおいに励みになっている。

5年まえに我々の主張を見て冷ややかな目で見ていた
地元や製造業の人達もいないわけじゃなかったが、
最近では評価も変わってきた。
確実に時代は変わってきている。

できるならもっともっと、新聞や雑誌やテレビも
こういった産業の話を扱って欲しいと思う。
それも、大手企業が車を開発したとか
販売を始めたとかいう話だけではなくて
こういう新しい産業に結びついていくはずの
地方や若者やちいさな企業がはじめている様々な試みを
取上げてもらいたいと思う。きっと勇気づけられるはずだ。

遊びみたいな、こんなものが、と思うようなものでも
いずれ時代の要請によってどんな形で市場が生まれるとも限らない。

まして、いまの時代にあっては4年や5年のあいだに
時代の変化は思う以上のスピードで起こる。
これは車に限っての話ではないことはもちろんだ。
時代を望み、さきがけた報道をぜひ、して欲しいと思う。




1999.4.27

昔、高校の体育系の部活で「やみなべ」というのがあった。
最近は国民が高校生のような「やみなべ」を食わせられるらしい。

クローン牛の牛肉がすでに我々消費者が知らないうちに
市場に流通していた、、、という問題が
ここで浮上してきて問題になってきている。
これは見逃すことのできない大きな問題だ。

ところがこの問題を扱う状況にすこし「あれ?」と
思わせるような感じがしている。

というのは、すでに議論が「クローン牛の牛肉は安全かどうか」
というところに議論に進んでしまっていることについてだ。

研究者はクローン牛の牛肉は安全であるという。
たしかに遺伝子の操作という段階ではないのだから
安全であるかもしれない。

また、クローン牛の牛肉が安全であるかどうかはこれからも研究して
いく必要があるし、それを否定するものではない。
今後家庭や業務用に使われる時代がくる可能性も否定する
ものでもない。

しかし今回の問題はそこにあるのではない。



1999.4.28

少なくとも今回の問題の出発点が
たとえ遺伝子操作ではなくても
生命の管理や操作を人間が行うという
非常にナイーブな問題であることは間違いない。
最近のこういう関連の話題が国民のなかで非常に熱心に
捉えられ、語られているのはなによりの証拠だ。
生命や健康に関することに対して神経質になるのは当たり前の話じゃないか。

こういうことが国民に知らされずに済まされてきたこと自身が
問題なのだと筆者は強く思う。

「安全なのだからいいじゃないか」、、という問題ではない。

新聞なんかを読んでいると技術者や研究者、関係者は
「クローン牛の牛肉は安全である」という議論に持ち込もうと
躍起になっているようにも思う。

これは自らの技術や研究を、
国民やその健康や生活や命の問題を
あるいはそこに存在しているはずの、自ら勝ち得てきたはずの、
科学や学問などへの人々の信頼を、
根こそぎ揺るがせてしまうものだ。



1999.4.29

なぜ、こんどの問題に対しても様々な方面から
大きな声で反対意見が出てこないのだろう、不思議でならない。
国民の命と健康に直接関わる問題のはずなのに
なぜもっと積極的にとりあげ議論しようとしないのか。


クローン牛の牛肉は安全かもしれない、
でももしかしたら安全ではないかもしれない。
大多数の国民、市民、消費者の気持ちは
本来そういう問題に敏感なのだし、それは当然のことだ。
そこがはっきりとはしていない状況のなかで
見切り発車してしまったとしたらそれは
科学者自らの作り上げてきた信頼を損ねるものだ。

「そうは言っても安全なのだから」、、というのであれば
あえて言わせてもらえばそれは研究者のおごりだと思う。

国民、市民、消費者の感情や気持ちを無視した形、
あるいははっきりとしていない状況で
こういうことが行われているとしたら、
それは長い目でみても良い結果が生まれるとは思えない。

我々消費者もこういう議論に知らないうちに
いつのまにか飲み込まれていってはならないと思う。

焦らずに、ともかくも、この重要な問題を
国民や消費者の間でまじめに議論する。
そして、国民、消費者の健康に直結することなのだから
そこにおける事実は隠すことなく公表する。

少なくとも、わけのわからないようなもの、
みんなが関心を持っていてこれからも重要な議論の対象であるものは
「黙ってみんなに食わせるようなこと」だけは即刻やめるべきだ。





1999.4.30

先日ここで紹介させていただいた、私たちインダストリーウェブが
始まるきっかけになったグループ「諏訪湖電走会」は
毎年秋田で行われる電気自動車のレース「ワールドエコノムーブ」に
参加するため一人乗りのちいさな電気自動車のレースカーを
作っている。

これがようやく出来上がり、明後日から始るその「ワールドエコノムーブ」に
行ってくる。

これで5回目の参加だ。
毎年12時間もかけて秋田県までいくのだが、
よくもまあ、続くものだと我ながら思う。

しかしそれにしても、毎年苦労しながらも
仲間とこういったことをいやだとも思わずに
続けることができるのは
なんといっても「ものづくりの楽しさ」を
思う存分味わえるからだと思う。

すでに丸5年ほどの活動になるのだが
その間に集まり、一緒に夢を見る仲間も増えてきた。

夢といってもそんなにたいそうな夢なわけではない。
環境問題や省エネ問題を始め、自動車産業や交通環境が持つ問題に
真正面から産業が応えなければならない時代が来る。
我々はそういう時代にたのしみながら参加していきたいと考えている。

自分たちのやりたいことと社会や産業が必要としていることの方向が
一緒の方向になっていくなんて素敵なことだと思う。

まだまだ我々のやっていることはインダストリーウェブも
諏訪湖電走会も始ったばかりでありよちよち歩きの段階ではあるが、
今後もゆったりと、しかし、着実に進んでいきたいと思う。

、、というわけで明日からの連休中「今日のコラム」はお休みです。
連休後はまた結果を報告できると思います。それでは。



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