今日のコラム・バックナンバー(1999年 3 月分)


INDUSTRYWEB HOMEへ戻る / 今日のコラムに戻る/ バックナンバーに戻る

掲載は日付順になっています。


1999.3.1

もう一つ、、、
彼らの「情報技術」に対する考え方を知っておく、というのも重要だと思う。

日本でももちろん「情報技術」について
あるいは「マルチメディア産業?」について
ここ数年、話題にはことかかない。

しかし、
「情報技術産業そのものが必要」というのと
「情報技術を既存の産業に利用する」
という視点は異なると思う。

情報技術産業そのものも、もちろん必要なのだけれど
既存の産業に情報技術をおおいに利用しようという視点が
これからは必要になるはずだ。
だが日本での議論の場合、ここに混同があると思う。

いまだに「情報技術」というと「情報技術産業そのものが必要」である
という議論しか始らない。
基本的には以前の「マルチメディア産業が新しい21世紀に産業」みたいな
話から少しも成長していないように思われる。

だから、「工業社会」か、「高度情報化社会」か、、、
という底の浅い、二者択一の視点しか出てこない。




1999.3.2

考えてもみてほしい。
農業社会から工業社会に、本当に変わってきたのか、、、と

表面的には確かに工業製品がこの200年あまりに作られるようになった。
だけど、農業製品や農作物や我々が食に供する食べ物や穀物が
つくられないのかといえば
いまだ、しっかりと作られてもいるし、それを元に人類は生存もしている。
農業社会がなくなったわけじゃけっしてない。

工業社会もこれからなくなっていって
高度情報化社会になっていってしまうかと言えば
それも間違いだと思う。
工業社会はいつの時代になってもなくなるわけじゃない。

しかし農業に工業が「重なって」きたように
農業、工業、の上に重なって情報化社会がくることも
たぶん間違いのないことだろう。
決して「次に来る」わけじゃない、「重なって」くるのだと思う。

で、情報化社会はもちろん
新しい情報産業も生み出していくのだろうし
既存の農業や工業をより「効率的」なものに変えていく可能性がある。

だけど日本では「工業社会」か、「高度情報化社会」か、、、という
皮相的な見方があまりに多いことが最近気になる。



1999.3.3

毎週やっているテレビ番組で
タレントのビートたけし氏が司会をやっている
「誰でもピカソ」
という番組がおもしろくてしょっちゅう見る。

芸術とか自己表現とかいうと
普通、我々のような人間には興味もないし
見ても難解でわかり辛いものだと考えて
敬遠する雰囲気がないでもない。

が、この番組、けっこう視聴率が高いようだし
見てみれば難解どころかけっこう楽しめる。

日曜日の朝、やっているNHKの「新日曜美術館」 
と言う番組も同じように「芸術」を扱っている番組なのだが
これは想像がつくように「普通の芸術番組?」だ。
筆者は見ていておもしろいのだが
たぶん「誰でもピカソ」と比べて
どちらが「おもしろいか」、と聞かれたら
「誰でもピカソ」と答える人が多いに違いない。

これは司会のビートたけし氏や渡辺満里奈さんが
魅力的だと言うこともあるのだけれど、
(特に渡辺満里奈さんがかわいいとも思うけれど、、)
結局は、番組の「コンセプト」そのものが
おもしろいと言う事なのではないかと思っている。



1999.3.4

筆者がこの番組を見て面白いと思ったのは、、そして好きなのは
芸術家でなくてもすべての人が「自己表現と言う事」が
出来るのだと言う事をテレビと言う大衆的な媒体を使って
アピールした事にあると思っている。

自分なりの「世界観」を「誰か」に向かって表現する事は
本来、「芸術家の仕事」と言う捉えかたが多い。
しかし、「感じたこと」や「やりたい」と言うこと、思うことを
素直に伝えたい人に向かって「表現」すること、
これは本来、誰でもができることだ。

それを「芸術」と呼ぶかどうかは別ではあるのだが、

こんなことも言えるのではないかと思うことがある
例えば、「こんなものを作ってみたい、」でも良いし、
あるいは、仕事で来た「図面」を見て、アルミの削り出し部品を
自分の知恵と技量を使って言われた通りの精度と形にしようと
作って見ても良い。
100人いれば100通りの「出来具合」があるはずだ。

もちろん、普通は図面指定や公差や意匠があるわけだから
自分の好き勝手に100%の表現ができるわけではない。

「言われたものやこと」を言われた通りに作る、というのは
「自己表現」というものとは違う

でも、自分の知恵や知識をそこに投入して
よりよいものや、あるいは、こうあるべきだ、と
いう考えでものづくりに取り組んだ場合、
芸術とまでは言わないにしても
そこに自己表現はできるのではないかと思うのだ。



1999.3.5

仕事の現場でよく
「芸術品を作っているわけじゃないのだから」
という言葉を耳にすることがある。
たしかにその通りだ。

「芸術品」の定義がいまいちはっきりしていない気もちもするが
まあ、確かに、「納期」や「品質」に、
あるいは図面指定や公差や意匠を考えれば
自分の好きや100%の表現でものを作っているわけにはいかない。

でも、芸術品でなくても、あるいは逆に
「納期」や「品質」、図面指定や公差や意匠、、、
、、があっても、ものづくりに携わるものとして
自己表現もできるし、、そういう意識を持つことは
本来とても必要なことではないかと思うのだ。


「誰でもピカソ」に製造業の人間が
普通だったら芸術品と呼ばれないようなものを持ち込んで

「今はまだ、そんなに需要があるわけじゃないけれど
いずれこういうものが技術が必要な時代がくるんですよ!」

と、むちゃくちゃ微細な加工とか難切削材料の加工品とか
あるいは製品とか、そんなものを持ち込んで
製造業の自己表現をしたっていいのではないかと思う。



1999.3.6

この前、道を歩いていて考えたことがある。

ちょうどどこかのおばさんが横断歩道をわたろうと
横断歩道の傍らにたっていた。
反対側の車線では向こうのほうから車がやってくる。

しかしおばさんからみてそんなに近くは感じなかったのだろう、、
おばさんは横断歩道をわたり始めた。

思いのほか車のスピードは早かったのだろう、
みるみるうちに車は横断歩道のところまで近づいてきた。

自動車はスピードをゆるゆると落としてきて
同時にヘッドランプを点滅させた。まだ横断歩道までは結構ある。
おばさんはすでに横断歩道の真ん中くらいまで来ていて
その車が停止するのか、あるいは
早くわたれと催促する意味のヘッドランプの点滅なのか
判断することができずその場で立ち止まってしまった。

車は車で、おばさんが渡るのかわたらないのか判断できないから
スピードを落としたまま、横断歩道に近づいてくる。

その横断歩道のまわりには一瞬、なんとも時間の動きが遅くなったような
感じさえするような、そんな空気が漂った。

たぶん、おばさんにはその車のドライバーの意味することが
わからなかったに違いない。
はたで見ていた筆者もドライバーが意図することがわからなかった。

ドライバーはおばさんに自分の車がこれから通るから危ないから止まれ、
という意味なのか、あるいは、
こちらはもうゆっくりと行くから早くわたれ、という意味かで
点滅させたのだろうが、そのどちらの意味であったのかは
いまだにわからない。

たぶん状況を後になって判断すれば後者なのだろうと思えるが
その場の雰囲気は、あるいは歩行者の立場であれば
いくらゆっくりとしたスピードに落ちているとはいえ
車がまだ動いている前を渡る気もちには誰だってなれないだろう。



1999.3.7

「暗黙の了解」というのが我々にはある。

言葉に出さずともお互いの雰囲気やいつもの関係の連続から
お互いに言いたいこと、やりたいことがわかる、、、

というやつだ。

で、これが結構、日本の文化や考え方に色濃く反映されていて
良くも悪くも文化や仕組みを支えている、、というわけだ。

たしかにいいところもあるだろうと思うのだが
よく考えると
これは結構危ない「習慣」じゃないかなあ、と思う。

我々だって、気心の知れた仲間同士で話をしていても
「例のことは例のように考えていいのだよなあ」
などと振られて
「うん、そうそう、それで良い」
なんて答えて、
あとでまったく反対のことを指していたなんてことがよくある。

指示語で物事を示すことは、もともとそういう可能性を持っているのだけれど
かといってそれを止めるわけにもいかない。



1999.3.8

その前後の経験をよくよく理解し
お互いに共有していれば問題もないように思うが。
それがなかった場合は結構不確かな暗黙の了解、、誤解が生まれる可能性がある。
また、複数の人びとが情報を共有する場合、
そこには価値観や目標やビジョンの違いが「暗黙の了解」を狂わせてしまう
可能性が多分に出てくる可能性はある。

それぞれの人間が考えている目標や価値観によって自分にとっては良いと思うことでも
他人にとってはまったく悪いことになってしまっている可能性は高い。
10人いれば10通りの価値観があるのだからそれはまったく当然のことではある。

暗黙の了解という、、ところが実際には「了解」ではない、、
多くの誤解を含んだ「了解らしきもの」は
ことばの使用や表現の努力や理解の努力を行なわずにいれば簡単に生み出されてしまう。
これはそれをお互いに伝え、分かってもらうまでは
ずっと誤解や不了解として存在していくのであって
いつか自動的に解決や理解が進むというものでもない。


我々のまわりにはこの「暗黙の了解」が結構多い。
「国際的な関係」では当然それではだめで、ちゃんとお互いに文書にしたり
徹底的な議論等を通じて同意や合意までいかずとも
とりあえずお互いを知るということは決定的に重要なことであるのは
あたりまえとされる。
言葉に出さずともお互いに理解ができるのは日本人の美徳とか
例の日本人の不思議な微笑というのもそれでもあるのだが
これからその不思議な微笑や暗黙の了解の習慣が
国際的にも、そして日本の国内で続くとも思えない。


しかし、それを、我々は言葉や表現で相手に伝え、
たとえ合意や同意は得られなくても
少なくとも「正しく知ってもらうこと」はできるはずだ。
それには表現し相手に正しく理解してもらおうという
お互いの意識的な努力が必要だし、「確認作業」や「技術」が必要になる。




1999.3.9

おりから東京都知事選挙で新聞やテレビは大騒ぎだ。
テレビを見ていると候補者先生がたのパフォーマンスが面白い。

にわか仕立てのパフォーマンスだろうか
自分の主義主張を身振り手振りで表現しているのだろうが
どうもこちらから見ていて
いっこうに候補者氏の言わんとするところが伝わって来ない。

意味なく(ように見える)、空を泳ぐ両手と
明日を見つめているとも思えない顔のしぐさ(失礼)は
滑稽でさえある。

「言語明瞭意味不明」の先をいくような
「暗黙の了解」や「暗黙の主張」などを選挙でされてはかなわないが
それにしても表現方法もそれなりにテクニックとして学ぶことが
必要じゃないですか、と「至極、立派な先生たち」を見ていてそう思う。

先生たちでさえそうなんだから
下々の我々なんかはもっと真面目に自分達を表現することを
学ばないといかんのじゃないかと思う、、、。

暗黙の了解でどっちかが損をすることは多いのだ。
やっていることは正しいのに暗黙であったがために
損をするようではつまらない。

我々製造業は納期や品質や図面指定や公差や意匠で
厳しく表現は規制されていても
技術や部品や製品に自分の自己表現ができる。
先生たちの未熟なパフォーマンスよりははるかに良い。

後はもっと自分たちを表現するテクニックを磨くことだ。



1999.3.10

ハワイのマウナケア火山に置かれた
日本の国立天文台「すばる望遠鏡」について
ここのところの新聞や雑誌で扱われていて
これがなかなか面白い。

月刊の「中央公論」にも「すばる望遠鏡」について
書かれているし
今週の「週刊ポスト」に連載されている
山根一眞氏のあの有名な「メタルカラーの時代」にも
「すばる望遠鏡」が置かれているハワイ観測所の
小笠原助教授との対談がのっている。

「中央公論」のほうは主に直径8.2メーターに及ぶ
鏡の「製作」と「使い方」に関する話、
そして赤外線を捉える望遠鏡として
自らの発する赤外線を制御することが重要で
温度管理が非常にシビアであるのだそうだが、
その管理に関する話、などが掲載されている。

「メタルカラーの時代」は
その望遠鏡で捉えたデータの蓄積と
その管理やネットワーク化の仕事について
詳しく書かれている。

両方とも面白い。




1999.3.11

基本的にはどちらも「コンピューター技術」があってこそ
なしとげられた、可能にした、仕事であることがよくわかるのだけれど
しかしそのすばらしい業績、到達点は
あくまでそこにいる「人々」の「柔軟で創造的な発想」が
その牽引力になったのだろうと深い感慨を持って思わずにはいられない。

理論的には限界を超えているとされる「すばる望遠鏡」の
直径8.2メーターに及ぶ鏡の実用化はどうやって可能にしたのか。

その鏡を関東平野に見立てても1ミリ以下の平坦度を実現した
驚異の加工技術ももちろんだが(4年間かかったのだという、、
まさしく現代のピラミッドだといっても良いかもしれない)
剛体ではなく柔軟な鏡の構造をつくり
鏡の後方から2百数十本の「アクチュエーター」で
それを支え、コンピューターで動的に面の形状を
制御することによって正しい像を結ぶことを可能にした
技術、などがあったのだという。

また、「すばる望遠鏡」が捉えた宇宙の神秘的な画像は
150テラバイトに及ぶ巨大なスーパーコンピューターに蓄積される。
しかしそれでも3年から4年でデータベースは
いっぱいになってしまうのだという。
動的で使いやすく、整理されたデータベースとするには
コンピューターの力を借りるのはもちろんなのだが
その膨大なデータそのものをどう蓄積、整理するかという部分では
柔軟で人間的な発想が必要になる。

そりゃそうだ、本来、データをただ蓄積することが目的ではなく
以前のデータやよその望遠鏡で捉えたデータなどと
比較したり、分析したりすること自身が重要なのだ、
まして蓄積するだけで目いっぱいになってしまうようなデータでは
力任せのデータの検索はそもそも無理があるらしい。
これは我々のパソコンのような世界とはどうも大幅に異なるようだ。
そういうなかでは整理整頓、使いやすいデータベースとその利用方法を
使う人間の視点で考えていくことはとても重要なことになる。


これらのスーパーな仕事は
コンピューターが重要なキーワードであることはもちろんだが
それを発想し現実のものにしていった技術者たちの
「柔軟で創造的な発想、大胆な発想」があればこそだ。

そしてなにより「現代のピラミッド」を構築しようとする
彼らの真摯で真面目な「気概」だろう。

人類の知への要求はけっしてとどまるところを知らない。



1999.3.12

だいぶ前の話になってしまって恐縮だが、
7日、日曜日の夜に日本テレビ(TSB)の番組「知ってるつもり」で
ソニーの創設者 井深 大(まさる)氏特集があった。

井深氏が戦後、理念や志を中心にすえながら
ソニーという世界的な企業を起こしていった経緯を
井深氏御自身の生活や時々の状況をからめながら
番組にしてあって、とても考えさせられながら見た。

井深氏が創設時に作った「設立趣意書」も
たぶんはじめて実物が画面で紹介されたのではないかと思うのだが、
この「設立趣意書」は現在もソニーのなかに脈々と流れていて
たとえば盛田さんがそれを短くソニーというカンパニーの
企業理念としてまとめた「ソニースピリット」などとなって
今、ソニーの道標となっているのは有名な話だ。

ソニーについては最近は非常に多くの本が出版されていて
井深氏の自伝的なものなんかもとても興味深く読めるのだが、、
以前、ここで紹介したことがあったかと思うが、
昨年8月に出版された「ビジョナリーカンパニー」という本がある。
(ジェームズ・C・コリンズ、ジェリー・I・ポラス、山岡洋一訳・日経BP )

ソニーを含むいくつかの「ビジョナリーカンパニー」をあげて面白い分析をしている。



1999.3.13

「ビジョナリーカンパニー」の内容を簡単に言えば
企業が使命や理念を持ち事業を行なうこと、いわば、その企業が
顧客や市場やあるいは、社会とその企業の関係をしっかりと
捉え、そこから自分達の事業の輪郭を作り上げていくことが
これからの時代、ますます企業には重要であり、
永く世界的にも市場にも迎えられ親しまれ存在している企業は
分析してみると、皆「ビジョナリーカンパニー」だ、
、、、というような内容で、
ピーター・ドラッカー氏の本などとも一緒に読んでいると
非常に深く考えさせられる。

このなかに面白い一言があった。

「すばらしいアイディアやみごとな戦略が企業の成功をもたらすとの見方を捨て
  新しい見方を考えなければならなくなった。、、、
  会社を製品の手段としてみるのではなく、製品を会社の手段として見るように
  発想の転換をすることになった、、」

「ビジョナリーカンパニーがすばらしい製品やサービスを次々に生み出しているのは
  こうした会社が組織として卓越しているからにほかならず
  すばらしい製品やサービスを生み出しているからすばらしい組織になったのでは
  ないと思われる、、」





1999.3.14

筆者は「企業のアイデンティティー」や「存在価値」も
あるいは、「企業の製品も技術」も
「企業が使命や理念をもつこと」に結びつけていくことが必要だと思う。

そしてこれからは
   誰が、誰のために、何のために、どうやって、
   なにをつくっていくのか、何をするのか、、、
という「自己表現」としてのものづくりが必要になるのではないか。


よく言われるように「どうやって」は日本のものづくりが得意とするところだ。
また、最近は
    「どうやって」から「なにをつくっていくのか」が重要だ、
     そういう創造的なものづくりおしなくちゃいけない、、
とも言われるようになって、、
、、これはこのコラムでも書いたし、最近の新聞や雑誌にも
本当に多く書かれるようになった。
顧客が望んでいること、必要としていること、を的確に捉えて
すばやく商品にしていくことが必要である、とかも言われる。

もちろんそうだと思う。
市場や顧客が必要とする「なにをつくっていくのか」
を考えていくことはこれからますます重要になる。






1999.3.15

だが、あえて、その前に、いや、それと並行でもいい。
「誰が、誰のために、何のために、何をするのか、、、」
を考えることが必要ではないのか、、、

ソニーの井深氏がおっしゃっていたという
「21世紀は心の時代だ」
という一言はこのことに他ならないのではないのか、、、

きっと今後しばらくは日本の産業界やものづくりは
いろんな試行錯誤を続けるだろう。
「どうやって」から「なにをつくっていくのか」に意識がいくことも
しばらくは必要だろう。

だが、その向こうには、それを通じて自ら企業や個人が
「誰のために、何のために、何をするのか、」
を考えなくてはならない時代が来るに違いない。

井深氏の「21世紀は心の時代」の一言はそんな井深氏の表現だと筆者は思う。

ソニーが今、この時代にあって、日本や世界で注目を浴び、
また企業としても発展している、
その裏側にはその創設者井深氏の「志」が脈々と生きているからに違いない。





1999.3.16

さてさて、
自らのアイデンティティーや存在価値や理念や使命感みたいなものがあって
なにをやるのか、つくるのか、というところもはっきりしてきて、、
その次はなんだろうか。

きっと、その「意志」を社会や個人に伝えることが必要になる。

作ってみただけで、表現しなくては、、、相手に伝わらなくてはなんにもならない。
相手に通じ実現されてはじめてその「使命」や「志」は達成されるのだろう。

で、その企業の社会や市場に対する「意志」は間違いなく
「企業の提供する財やサービス」を通じて相手に表現されるのだろう。
「企業の提供する財やサービス」は「製品」であったり、
また「部品」や「技術」であったりする。

「ものづくり」を通じて「意志」を伝えることは可能だと思うし、
むしろ今日本のものづくりに一番必要なことは
一連のそういう流れじゃないかと思うのはここまで書いてきた通りだ。

先日13日の日経新聞に
「素直に喜べない?、、若者の物作り回帰、、独創楽しい、でも歯車イヤ」
という特集があった。





1999.3.17

13日の日経新聞の
「素直に喜べない?、、若者の物作り回帰、、独創楽しい、でも歯車イヤ」
はこんな内容だ。

  「地道にものをつくるのは嫌い」という傾向の強かった若者に、このところ
   変化が起きている。
   伝統工芸、ファッション雑貨など様々な分野で、自主製作に励む例が
   増えているのだ。
   だが、よく調べると、中小の製造業など、日本経済を支える物作りの現場では
   若年層の人手不足が深刻化する一方で、手放しでは喜べない事情もある。
   この「物作り回帰」はどこまで本物だろうか。

たしかに記者のいう通りだ。
筆者のまわりでも若者が雑貨などを作ったりアイディア商品のようなものを
作ったりする話が多い。
一方で、(いやな言葉だしそれが普通のことばになってしまった害があると思うが)
「3K」という言葉に代表されるような仕事に
若者は携わることを敬遠するようになった。

記者の問題意識は、そういう現代若者気質があるのだから
伝統工芸、ファッション雑貨など様々な分野で、自主製作に励む例は
はたして本物なのか、、ということなのだろう。

筆者はこれをけして「物作り回帰」だとは思わない。
自己表現への要求の多様な現れだと考える。




1999.3.18

ものづくりから若者が離れてしまった、あるいは
逆に「回帰した」、という議論があるのは
本来、社会の現象を表面的にか見ていないことから生まれる議論だと思う。

もともと、「ものづくり」は人間の社会や人の成り立ちにとっては
「欠かせない」ものであるはずだ。

人間にとってものを作ったり、あるいは、なんらかの「こと」を興すことで
自分自身を社会に向かって表現することは
当たり前の要求であるのだと思う。

若者自身がそれに気がついているかどうかには関係なく
若者やあるいは社会に存在する「人」は
いつの時代でも潜在的に自分を表現しようとする要求と
行動する力は持っている。

だから「若者の製造業離れ」とか「若者の製造業への回帰」
などと言われるのはその若者が持つ本来的な可能性、や
要求というか、、を捉えた言い方ではないのではないか。

製造業から離れただの、回帰しただのというのは
そのときどきの状況の変化によって
表現力の方向が変化していく状況が映し出されているのを
解説しているに過ぎないのだと思う。

若者の自己表現への渇望はますます高まっていくだろう。
その方向は様々であり、多様である。
伝統工芸もあるしファッション雑貨もある。
もちろん製造業もある。

ただし、旧来の「製造業」の範疇で言われるものが
若者の自己表現を実現する手段になり得ているのかどうなのか、、
ここに問題はある。



1999.3.19

先日紹介した諏訪バーチャル工業団地では
時々講演会や講習会や懇親会を行なっている。

製造業の活性化のために情報技術が欠かせないものになっていく、
と我々は考えているのだが、同時に企業やものづくりに携わる人間が
自らの技術や製品や部品に表現すべき自らのアイデンティティーが必要になる、
もちろん理念や使命感もだ、、

それでないといくら情報化の時代といっても
アイデンティティーがなければただ情報化社会に一方的に埋もれてしまう。
情報化時代だからこそ表現すべき意志と、表現すべき内容と、表現すべきスキルが
ないといかんのだろうと考えている。

さて、そんなわけで
先日も高名なデザイナーの先生をお呼びして勉強会と懇親会を行なった。
なぜデザイナーなのか、
このコラムを読んでいただいているかたなら分かっていただけると思う。

先生のお話はこんなお話だった。
  だいぶ以前(20年〜30年)から医療機などを
  顧客や使う人の立場にたったデザインというもの考えて実践してきた。
  大量生産の時代になって、それでなにをやるのか、なんのための商品や
  デザインなのか、を、考えることが多くなってそれまでのデザインのあり方に
  疑問を持ちデザイン会社を起こした。
  売らんがためのデザインではなく「心」を表現、具体化するデザインや
  ものづくりがこれからは必要なのだろう。

先日の「知ってるつもり」のソニーの井深さんの話もでた。
井深さんの「21世紀は心の時代」とはきっとそういうことなのだろう、、
というご意見だった。

ものづくりに携わる人間としておおいに触発された勉強会だった。




1999.3.20

デジカメを買った。

普段あまり、こういうものとかパソコンは買わない、
家電製品も買わない、のだが、必要に迫られて買った。
携帯電話だって仲間うちで買ったのは最後のほうだった。

買ったのはソニーの「デジタルマビカ」で
フロッピーに画像情報が取れるので
いちいちケーブルをパソコンにつないで
情報の受け渡しをしなくて済む。

jpegという、ホームページなど、インターネットで一番使う形式で
静止画像を写し込むことはもちろんなのだが
mpeg2という動画も最大一分間とることができるし
その動画画像を簡単にホームページに載せることができる。

筆者の住む諏訪地域は昔からCATVによる同軸ケーブルが
ひかれていてテレビ番組の供給を行なっていた。
最近はインターネットのサービスもはじめたのだが
回線の送れるデータの量は飛躍的に高まるから動画だって問題ない。

筆者らの運営している「諏訪バーチャル工業団地」と
CATV会社である地元の「LCV」と、また、自治体の協力もあって
一緒に「プロジェクト98」というプロジェクトを進めている。

情報技術を使い製造業の活性化を進める、、という
「諏訪バーチャル工業団地」の目的のなかの一つを
このプロジェクトでも推進しているのだが
ここでも動画が使えるというのはすごいのだ。

企業や個人の自己表現には音や静止画や文字ももちろんなのだが
動画の威力はやはりすごいのだ。




1999.3.21

「プロジェクト98」用のホームページに動画を貼り付けたから見てくれと
メールで送ったら
その後「みえたぞ」「音も聞こえるぞ」「どんなふうにやったんだ」という
仲間からのメールが入ってくる。

こちらとしては難しいことを苦労してやったんだと、本当は言いたいのだけれど
実際は「デジタルマビカ」でちょこちょことまわりの風景を撮って
フロッピーからパソコンにうつしてホームページに載せたに過ぎない。

インターネットに詳しくて、そういうことを生業にしているような人からすれば
なにをそれしき、、なんだろうけれど筆者としてはこんなに簡単ならば
私にもできるのだから、みんなにもそう難しくないだろうなあ、と思う。

かように道具というのは使い易くなっていく。
そう言えばパソコンもむちゃくちゃ簡単なやつがでてきた、
(メーカー名を出すとまたどっかになってしまうから止めるけれど、、)

もうちょっと「デジタルマビカ」の宣伝をすれば
静止画や動画を撮ったら、ちゃんとそれを
ならべたHTMLのファイルを自動的につくってくれて
それさらホームページに載せてしまえばいちいち一覧表を作らなくても良い。




1999.3.22

欠点がないわけでもない。他の製品にその欠点がないのかどうかは知らないが、、。

先日、仕事で出かけたとき
そうだこれなら簡単、とばかりに手元にあった「デジタルマビカ」を
車にほうりこんで現地に向かった。

途中でフロッピーがぬいてあることに気がついて
道中にある「郊外型パソコン安売りショップ」に入り
フロッピーを購入、これで安心、これは便利だと、
現地まで行って気が付いた、電池が切れているのだ。
昨晩、会議があって仲間が撮影、長時間それに使ったとき使い切ってしまったらしい。

結構リチウム電池が高性能で少しくらい撮っても電池が減っていかなかったから
安心していたのが間違いだった。
ずっと会議中電源いれていたらそりゃ電気もなくなる。

そこで町の電気屋で電池を買っていれれば使えるのではないかと考えた。
が、携帯電話で家の者に取説を読んでもらって、使えないことが判明、
せっかく現場まで持っていったにもかかわらず
写真はとれずに帰ってきた。
市販の電池が使えればいいのだがなあ、、と思った次第。
他のデジカメでは市販電池が使えるようなものもあるので
フロッピーを使えるついでにそこまでできればうれしい。

それにしても写したその場でフロッピーで人に情報が手渡しできる
、、というのは便利である。



1999.3.23

それにしても最近のビジネス雑誌には
「デジタルカメラ」と
「モバイルツール」と
「携帯電話」」の話題が多い。本当に多い。

まあ、今売れている商品のなかでは「旬」であるのはわかるのだけれど
「よくもまあ」、と思うほどだ
それだけ個人や企業の情報技術の利用が当然のこととされて結果なのだろうけれど
それにしても最近のビジネス雑誌も少しは違った切り口はないものだろうか。

メーカーのカタログをそのまま載せて購入の手引きになっているのは
それはそれで役に立つのだけれど、、。
コンピューター関連のビジネス雑誌だから仕方ないのかも知れないが、
もっと違った話もいくらもあるだろうに、、

これらが今、実際にどんな使い方をされているんだとか、
世代ごとの利用実態はどうなんだとか、問題はないのかとか、、、
同じようなものをつくっているんだけれど
各メーカーの戦略とか今後の方針なんかもあきらかに異なるのだろうから
そんなのもユーザーとしては聞きたいところなんだけれど、、

ところで動画デジカメと静止画デジカメとデジタルビデオの
関係はどうなっていくんだろうか、、、。
インターネットやデジタル放送や多チャンネルとの関係はどうなっていくのだろう。
メーカーの見通しや考え方を聞いてみたいものだ。
筆者としてはこれから一億総放送、情報発信者の時代がくるんだと思う。
デジカメでお互いに簡単に送られる動画をみていてほんと、そう思う。




1999.3.24

ちょっと微妙な話題だから、うまく書きたい、、。
本来、こういうことに「無用に気を使う」というのは
おかしいと思うのだけれど、、

セクハラの話題がここのところ新聞に詳しい。
こんなことをやったり言ったりすればイエローカードとか
これならレッドカードとか、、いろいろ解説してくれている!?

ところで
昔、作家の山口瞳氏の小説で映画にもなった「居酒屋兆次」というのがあった。
俳優の高倉健氏が主人公で寡黙な焼き鳥やの店主を好演していて
以前はよくカラオケスナックで加藤登紀子うたう主題歌をうたったものだ。
、、で、この歌は高倉健氏もうたっていて
このなかになかなか良いセリフがある。

「人が心に思うことは誰も止めることはできない。」

別のセクハラの擁護するつもりは毛頭ないが、本当にないが、
いくらセクハラをやっちゃいけない、言っちゃいけない、、といっても
それで当人の気持ちや心の中まで規制することは不可能だ。

だからって「規制したり問題にすることが無意味だ」というわけじゃないのだが

どうも、表面のことを捉えて本質の問題を捉えていないと
思うのは筆者だけだろうか。
言葉や行動を規制すれば中身まで変ると思うのだろうか。
日本には言霊(ことだま)という信仰というか、言い方があるが
そんなことまで影響しているんだろうか。

最近、そんな話が多い。



1999.3.25

最近、新聞にこんな記事がのっていた。
「技能工」という呼び方を変えないと
いつまでも暗いイメージがついてまわるからいけない、、
というわけで
「テクノクリエーター」という呼び方をするんだそうな。
どっかの公的な団体だか業界団体だかが考えたらしい、、、。

そう言えば地元の新聞なんかでも人の募集をする時に
「○○工」とか「○○員」とか書かれていることが多い。

そのなかには「自分のことをその言葉で括られたらいやだなあ」、と
たしかに思われるようなことばもあったりするのだけれど、、

、、それよりともかく
テクノクリエーターという呼び方が一般的になるとは思えない。
もしテクノクリエーターという呼び方をするのなら
テクノクリエーターがどんな内容の仕事なのか
明示する必要がまずはあるだろう。

人は「言葉」と「イメージ」を結び付けることができる能力を持っているから
共通したイメージがあれば言葉も交換することもできるかもしれない。
でも、もともと「技能工」のイメージがまったくはっきりしない。
逆に「技能工」のイメージや概念がしっかりと言えて
それがものづくりの上で重要なものとして明記されれば
別に「テクノクリエーター」でなくても良いはずだ。

よっぽど、一方的に作られたような「誰が聞いてもいやな言葉」でもないかぎり
言葉を変える前にその意味やイメージをよくよく考えてみたほうがいい。
なかには誇り高い言葉の意味や誇りを「もたせなくちゃいけない」言葉もある。
簡単にかんがえちゃいけない。

「技能工」でもなんでもいい、その意味やイメージのもとになっているものを
よくよく考えてみることが必要なのじゃないか。

そのうちに「ものづくり」「製造業」が暗い言葉だからなにか違った言葉に変える、
、なんていうことになったら絶対に認めちゃいけない。




1999.3.26

三寒四温とはよく言ったものだ。
徐々に冬から春に季節が変わっていくのを端的に捉えている言葉だと思う。

先週はもう春そのものといった感じで
山梨では桜も咲いたというのに
今週は雪まで降って、一気に冬に後戻りだ。

でも確実に春はやってくる、
そこここに春の到来を示すものが顔をのぞかせていて
木々の芽も膨らんでいるし日差しも確実に春のそれだ。
少しくらいまた雪が降ったって雪どけのペースは早い。

天気だけじゃなくて
景気の三寒四温はそろそろ見えてきているのじゃないか。

いつまでも冬だと思って縮こまっていたら
見えるはずの春の息吹も見えないことにもなる。

景気の「つくしんぼう」を探すのは悪いことじゃない。



1999.3.27

「NAVI」という車の雑誌があって
ここでもたまに紹介させてもらうのだけれど
いつもなかなか考えさせられる特集が多い。

先日発売になった「NAVI 5月号」では
作家の五木寛之氏とモータージャーナリストの徳大寺有恒氏が
「いま、ふたりで話そう。日本人の宗教、クルマ、文化をつなぐもの」
という表題のついた対談をしている。
このなかで五木氏が主張する言葉になかなか考えさせられるのだ。

一つは
車も社会も、すべてのいままでの日本の上に作られてきたもの、
特に、戦後の日本のなかで作られてきたものは、
欧米の文化や文明との比較の上でなりたってきていて
ヨーロッパなんかに対する「コンプレックス」を繰り返している。
しかし、これからはなにか自分のもの、、日本独自のものを探すことで
西欧文明と平座でつきあうことができるのではないかという主張だ。



1999.3.28

これは氏の様々な主張の根底にあるもので
たとえば環境問題に対する構えも欧米なんかと日本の考え方の違いは
「蚊」や「虫」とどう付き合うかということでも現れるという。

欧米では「殺虫剤」であり、日本では古くは「蚊やり」だったのだそうだ。
「殺虫剤」は西洋的近代の考え方であって、
たとえば、あるいは種子島銃が日本にわたってきても
銃という道具として日本に根づかなかったのは、根底に
そういう思想の違いがあったからではないかと言う。

一方の「蚊やり」は単に虫がやって来ないようにする方法だ。
この「蚊やり」という考え方を氏は、
「生きとし生けるものの遺伝子は根の部分で共通なんだということを
千年も前に(日本人は)気がついていて、生命においては
みんな一緒だという感覚から来ていると思う・・」という。

筆者は五木氏の主張にはうなずけるものが多いと思う。

(そう言えば先週末、日本中を騒がした「不審船事件」は
 その対応をめぐる意見の中にも日本にも「殺虫剤」と「蚊やり」の
 二つの文化があることを如実に示したように思える。
 でも最終的には「蚊やり」の結果に終わったことは記憶の通りだ)

日本の文化や文明、価値観、死生感、自然や環境に対する考え方、は
日本に古来からある「自然と共生」していくという考え方として
最近は欧米でも重要なものとして捉えられているようでもある。

そして五木氏の言うように
こういう日本の持つ価値観はむしろ今後、外国との付き合いにおいても
主張すべき大切な「日本のアイデンティティー」であるのではないか思う。



1999.3.29

このあたりは三井物産の寺島実朗氏がおなじようなことを盛んに
テレビや雑誌の上で主張されている。

最近の雑誌、新聞、テレビなどでも全般的に同じような観点の話が
多くなってきているようにも思う。

そういえば3月26日の読売新聞の
「20世紀・どんな時代だったのか」という特集で
ちょうど
「集団・組織を重視する日本」を分析していた。

「みんながやるから自分もやる」という「他人指向型」の日本人や
その上で行われてきた日本の企業社会も、
現在、壁に突き当たってしまっていて
これからはそこから抜け出していくためにも
「他人指向型」は減っていくだろう、、ということなのだが、

しかし、他人とも「共生」していくことをよしとしてきた日本人は
人との摩擦を避け、人と同じように生活することをうまくこなしてきた。
そこでは個人の主張や表現というようなものは
「共生」や「集団・組織を重視」を妨げるものとしか写らない。



1999.3.30

たしかにこれからの時代には「他人指向型」は減っていくだろう。
一方で「他人指向型」に見えなくもない「共生」も
これからむしろ重要視されていく。

他人や自然と「共生」していくことと、
「他人指向型」で生きていくこととはどう違うのだろうか。

他人や自然と「共生」しながら、なおかつ
「他人指向型」から脱却しながら生きていくということはあるのだろうか。

きっとこのあたりに「日本的」な答えがあるに違いないと思う。
で、そのことは「日本的」であってもいっこうに構わないのだと思う。

まわりとの共生しながらその中でなお、自分をうまく生かす、表現する、、
そんなことがこれからは必要なのだろう。
もし、日本のこれからを考えていくのならば
そのあたりにこそ我々の道とアイデンティティーがありはしないか、、、

日本の、、企業の、個人の、自分のアイデンティティー探しが始っている。




1999.3.31

話がだいぶ飛んでしまったが、
作家の五木寛之氏とモータージャーナリストの徳大寺有恒氏が
雑誌「NAVI 5月号」で
「いま、ふたりで話そう。日本人の宗教、クルマ、文化をつなぐもの」
という表題のついた対談をやっていて
それを読んでいて感じた二つ目の「なるほど」は、

前述のこととも関係するのだが、
ものづくりを表現として捉えるべきだと考える時、
日本のものづくりはもっと「作り手がしゃべるべきだ」という
五木氏の主張だ。

「自分たちがやっていることを言葉にして表現してみる。
しゃべっているうちに分かってくるんですよ、、
「オレは何を考えていたのか」ということが。
、、しゃべっているあいだに自分が無意識にやったことが意識化されてくるんです。」

自分自身の内部から
自分のコアやアイデンティティーを確認しようとしても
それは難しいことだ。
あくまで他との比較や摩擦のなかから生成されるべきものだろうと思う。

相手に伝えるべき「ものやこと」が、まず、あって
同時にそれを伝える努力もする、、ものづくりには必要なことだ。

しかし、もともと表現すべき「なにか」がなければ表現もなにもない。
そして、
それはたぶん、「もの」がそこにとりあえずある、、だけでは成立しない。
「商品を作りました」だけではだめなのだ、、。
それがもつ背景や企業の表現すべきことがら、が、そもそもなければ
成立しない。

ことばにする、しゃべる、ということは相手があってのことだ。
これを通して企業は自分たちのことをあいてに伝えることができるし
自分自身も自分の「確認」ができる。
で、この「自己確認」は商品をつくっているだけでは完結しない、、
ということなのだろう。




INDUSTRYWEB HOMEへ戻る / 今日のコラムに戻る/ バックナンバーに戻る