今日のコラム・バックナンバー(1999年 2 月分)


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掲載は日付順になっています。


1999.2.1

最近テレビによく出演する
三井物産の総合情報室長の寺島実朗氏の主張がなかなか面白い。

だいぶ以前だけれどTBSの深夜番組に出演しておられて
キャスターの筑紫哲也氏と対談していた。

ものを作ることはとても重要なことで実態経済を混乱させるような
最近の金融資本の動きこそおかしいのだと思う。
しかし、一方で「ものづくり」はものづくりとして新しいやり方や方法論を
学んでいかないといけない、、、それはネットワークや情報技術だろう、、、
こんなような内容だったと思う。

寺島実朗氏は月一回ほど、毎日新聞の「時代の風」という特集も
お書きになっているが
(半導体で有名な元東北大学長の西沢潤一氏も月一回書いている)
そこでも基本的にはマネーゲームで実態経済が翻弄されている現状にたいし
問題意識を持って書いておられた。

番組では、今は情報技術がマネーゲームの先端技術として中心的に
特化しちゃっているけれどこれからはものづくりももっと情報技術を
身につけていかなくちゃいけない。
また、これからはネットワークによって新しいものづくりの価値を
生み出していくことが必要だし、できるようになるだろう、、
ものづくりは重要だ、

というような、いつもここで話題になるようなことおっしゃっていて
とても勇気づけられた。




1999.2.2

今月の中央公論の二月号にも
三井物産の総合情報室長の寺島実朗氏が
「危機の本質と日本再生戦略」−21世紀の世界史における日本の役割−
という論文を掲載されていて興味深く読んだ。

氏の主張は明確だ。以下に引用する。

  21世紀の危機の構造が見え始めている。
  にもかかわらず、日本はいまだにその構造変化に体系的に対応することが
  できないでいる。もしわれわれが直面している危機が単なる「長期化し連
  鎖化した世界不況」であり「景気対策・信用収縮対策」のような手法で対
  応可能と考えているならばそれは間違いである。
、、、
   、、、この米国が90年代に入って大きくその正確を変え、資本主義の
  新局面をみせつつある。それをもたらしたものの本質はIT(情報技術)
  革新にある。
、、、
  「国家の論理と企業の論理」(寺島実朗著  中公新書)において論じたが
  要するに米国がIT革命で世界を主導する一方で「虚ろな金融主導国家」
  に変質しつつある現状を睨み、日本産業を空洞化させず、モノ造りを大切 
  にする軽装備経済国家として生き抜くこと、そしてむしろ外のエネルギー
  を招き入れるようなしなやかな国造りをすること、、、、

まったくその通りではないかと思う。
「虚ろな金融主導国家」に対して「モノ造りを大切にする軽装備経済国家」
をつくるべき、、、という部分は我々製造業に携わる人間にとって、
とても意味のある主張に思える。





1999.2.3

今、日本や日本の産業を襲う未曾有の「危機」は
けっして、循環的な要因がもたらした経済不況からというようなものではなく、
寺島氏が言うように日本が構造的な日本や世界をとりまく変化に
今だ対応できないでいることから生まれてきているものだ。
当然ながら小手先の対応では解決にならない。

市場が必要とする新しい「もの」や「こと」をつくるために
「ものづくりの仕組みそのもの」の変化が必要になっているのであり
それなしでは市場の必要とするものが造れない、、
、、とでもいうべき「ものづくりを取り巻く状況」では
ものづくりの技術を温存していれば良い、という時代ではないだろうし
それさえあればいずれ日本の経済は復活する、、、とは到底思えない。

一方で「グローバルスタンダード」などともてはやされ
インターネットなどの情報技術を「加速器」としてひろまった
、、、日本も対応していかなくてはならないとされていたはずの、、、、
新しいはずの「資本主義」の形は、実は非常に脆弱な基盤の上に
なりたつ金融資本主義へと変容する姿だったことも
明確になりつつあると思う。


情報技術を「加速器」としてひろまった金融資本主義の変容の荒波に
簡単に飲み込まれ、翻弄され、もてあそばれている今の日本を
助け出せるのは、たぶん、、「ものづくり」、、
しかし、それは「技術」や「やる気」をのみ、原動力としてのものづくりではなく
今はまだ金融工学の「加速器」としてその効率ばかりが注目される
「情報技術」の力を、むしろ我々のものづくりにもおおいに応用した 
「新しい時代の求める新しい時代のものづくり」なのではないかと思う。





1999.2.4

インターネットの上での「表現の自由」について様々なことが言われている。
インターネットに関連した「事件」の多発によるところが多いようだが
様々な意見が毎日のように新聞・テレビなどで議論されている。

インターネットは「人の世界観」もいままではその人間のなかや、極近くにおいて
存在していたはずのものをありていに社会や外部にさらけ出す。
これは世界の人の数だけ、その認識や社会観、世界観を映し出すことになる。
今、問題になっている様々なことがらも、その認識の違いが生み出す摩擦の
数だけ起きてくるはずで、マスコミに取上げられることがなくとも
インターネットの上の「目玉の数」だけ、様々な「意見」や「認識」あるいは
「摩擦」の数は存在し、逆にそれがインターネットのダイナミズムや活力を
生み出しているのだとも言えると思う。

確かなのはインターネットの上の「表現の形」「認識の披露」は今後も人間の数と
その世界観の数にしたがって、加速度的に増えていくということ、
そしてそれはだれにも止められないということだろう。

最近、「インターネットの上の外部からの規制」について
様々な意見が新聞などで交わされてもいる。
情報技術が犯罪や人への危害に結びついていくなんてとんでもないことだが
認識や世界観の数だけ、そこには対立や摩擦も生じ、
同時に新しい価値観や認識、そして共感も生まれていくのだろう。
世界の多様性が失われていく状況を映し出しているのだと意見もあるだろうが
いやむしろ、新しい価値観や世界観も生み出しているのではないかとも思う。

「ナイフ」や「ツール」の使い方になぞらえるつもりもないが
インターネットのダイナミズムや活力を失わせるようなことは避けるべきだろうし
最終的にはネット社会の住民によって自律的にルールができあがっていくのだろう。
そしてそれが望ましいのではないかと思う。





1999.2.5

昨日の続きになるが、、、
最近、インターネットに関連した「事件」の多発によって
事件の温床になりうる、だとか、
インターネットによる新しい形の犯罪が生まれつつある、だとか、
様々なことが言われるようになった。

たしかに「良いこと」も「悪いこと」もともかくもインターネットの上では
いままでの「常識」からは信じられないような範囲と時間のなかに広がっていく。

こういう状況のなかで
インターネットの上での情報のあり方から始る最近の様々な議論は
「情報技術の可能性やインターネットの持つ特殊性」を基軸にし
結局、インターネットや情報技術そのものがもつ問題として
認識されていくようでもある。

だが冷静に考えてみればインターネットそのものが
犯罪や問題を起こす元凶でもなければ引き金でもないことは明らかだ。
あくまでその前に現実社会での人々の認識や世界観や社会観の
摩擦や問題、衝突とそこから生まれる行動がまずあるのであって
インターネットそのものはその「増幅」をしているに過ぎない。






1999.2.6

もちろん、いままでだったらさして問題にはならなかったような
、たとえば個人間の「いざこざ」でも
インターネットによる「増幅」は信じられないような影響をもっていて
たとえばそれが犯罪なんかになっていく問題もある。

誰もいない山のなかで「王様の耳はロバの耳」とおおきな声で叫んでも
さして問題になるとも思えないが
「拡声器」を持ちこんで山のふもとにも聞こえるような大きな声で一日中
叫んでいれば、これは王様にも怒られるし、犯罪として成立する可能性はある。
「頭にきた不満が大きい分、拡声器を使ったんで、悪気はなかったんだ」
といったとしても「拡声器」の効力をしらなかったではすまされない。

人によっては「王様の耳はロバの耳」と叫びたい時はあるだろうし
そう考えることはだれにも止められないものであることも確かだし
幸いというか、いままではそれが簡単に犯罪にまで結びつくような
こともなかったのだろうが、いまではインターネットのような
「拡声器というツール」がいとも簡単に安価に手にはいる。

こうやって考えてくると
表面的なところは、あくまで社会や個人と情報技術との間に
表れ始めた新しい現象に対し、我々自身が「理解できない、判断できない」
からどうしたらいいのだろうか、と議論している局面なのだと思う。
こういう局面は「拡声器」の効力をみんなが知ることや
ルールを作り、知ることでいずれ解決できる。
だけど最初に書いたようにあくまで現実社会での人々の認識や世界観・社会観の
摩擦や衝突とそこから生まれる行動が、まず、あるのであって
その部分の解決は本来他の解決方法で行なっていることだし
インターネットには関係のないことだろう。




1999.2.7

漫画「サザエさん」のスポンサーといえば
ずっと昔から大手家電メーカーがやっていることは
最後にサザエさんの「○○がお送りしました」という
聞きなれた声で誰にも印象に残っていると思う。
新聞によれば、ここでそのスポンサーが交代したのだという。

今日の「サザエさん」を見て確認しようとしたのだが
あいにくと見逃した。
なんでもこんどのスポンサーは全国に「ハンバーガーショップ」を
展開しているあの企業なんだという。

なんだか日本の家庭そのものというか象徴的な「サザエさんち」
 、、と言ってもあんな象徴的典型的家庭があったらお目にかかりたいが、
 だれでも日本の家庭を象徴的にしたものだという点では意義はなかろう、
 まあ、多様であるはずの家庭の姿が「サザエさんち」に象徴されてしまうこと自身、
 問題ありと思わないでもないが、、、
、、がアメリカ文化の象徴のハンバーガーの侵食を受けて
カツオやワカメやマスオさんのいる磯野家の食卓にハンバーガー
ばかりをならべているところは正直あまり想像できない。
でも最近では実際にはそういう家庭が多いことも事実だろう。

三種の神器とかでテレビや冷蔵庫や洗濯機やビデオやクーラーやを
持つことが日本の豊かな家庭の目標みたいな時代があって
なんだかようやくそれが達成できたような気がしたと思ったら
その目標を供給してきたメーカーが日本の代表的な家庭の「サザエさん」の
スポンサーを交代してしまったということか。
(注、その後、調べたら「交代」ではなく「追加」だった。)



1999.2.8

でも、ハンバーガーにしても家庭の目標の家電にしても
戦後の豊かな生活の指標みたいに考えられてきて
いままでも、そしてこんどのスポンサーもどちらも
その「指標」の供給メーカーという点では同じようなものだと言える。

もともと、豊かさの「指標」がテレビや冷蔵庫や洗濯機やビデオやクーラーなど
の家電をもつことだったこと自身を疑ってみる必要もあると思うが
、、そう考えてみると乱暴な話、ハンバーガーを家庭の食卓に置くことが
日本の豊さの指標になっていくのだろうかと少し立ち止まって考えてしまう。

本当の意味での豊かさとは一体何なのだろう。

テレビや冷蔵庫や洗濯機やビデオやクーラーを購入して家庭に置くこと、、
あるいはハンバーガーで食卓を飾ること、、
どちらもけっして「豊かでない」とは言えない。
いやむしろそういうものが家庭にあふれ
お金さえあれば食うことにも困らない、こういう状態を
「豊かでない」といったらこれまでこの国をつくってきた人々に申し訳ない。

けっしてテレビや冷蔵庫や洗濯機やビデオやクーラーを持とうとしたことや
ハンバーガーの文化を否定するものではない。
だが一方でなにか釈然としないものが我々の気持ちのなかにあることも事実だろう。

家電からハンバーガーになったことが指標の変化の予兆であるとすれば
じゃあ、ハンバーガーの次にくるべき「我々にとっての豊かさの次代の指標」は
一体何なのか、そしてそれはいつやってくるのか。
もしかしたら、それを予測すること自身が
今後の日本の「豊かさ探し」になるのかもしれない。




1999.2.9

早いもので人類が月の上にたってから30年の月日が流れた。
テレビに映る月表面にたつ人類の姿を捉えた感動的な映像を
ついさっきのことのように思いだす。
思えばすごいことをやったものだ。

ここのところ、今年が30年というきりの良い年ということもあるのだろう
新聞などでアポロの月旅行をふりかえる記事が目につくようになってきた。
新聞だけじゃなく、雑誌や、あるいは通信販売のグッズにまで
月着陸関係のものが増えてきて、それもなかなかよくできている商品だから、
思わず買ってしまいたくなった。

特のオルドリン飛行士が月の上にたつ写真のサイン入りの複製はなかなか良い。
月の降り立った時に飛行士が着けていた腕時計も復刻されたりして
筆者のような能天気なマニア心?をくすぐる。


ところで、最近のあの月旅行に関する歴史的な評論は
「あれはあくまで冷戦をバックにした戦争の恣意行為だ」というものだ。

まあ、確かにそれはあるだろう。

先日の毎日新聞にもアポロ計画についての評論がのっていた。
その当時、この計画を取材していた記者が当時を振り返って

「冷戦下、絶頂期のアメリカが建造したピラミッドだった」
「大国の覇権争いにアメリカが勝ったに過ぎない」
「振り返ってみれば、ビックサイエンスの背景には、
        みな冷戦がなんらかの形で影響を与えていた」

と当時を振り返って書いている。



1999.2.10

だからといってもしあの偉業を人類にとって価値のないものとして
評価する論調があるとすればそれは短絡的に過ぎるだろう
日本の宇宙開発がアメリカや旧ソ連と比べて遅れていることも
裏側にある冷戦構造が関係していたのだ、という意見もわからないではないが、

これは以前「科学の終焉」という本が刊行された時に
考え、ここにも書いたことだけれど
人類がいまだ認識が到達しえていない未知の現象や存在に対して
それを知ることに対する欲望や行動は、それがたとえ
科学の偉大な発見の数と質がそれに必要とする費用と比べて
相対的に低まってきているようになってきているように思えても
それらの未知への欲望と知るための行動は
決してなくなりはしないし低下していくものでもないと思う。

たしかにそこから知り得た未知の現象や存在に対しての知識や認識は
人類の生活そのものに直接的に関わっていく部分は少ないと思われるし
むしろそこから強引に成果を残そうとすれば
なかには「軍拡競争の直接的な成果は科学の発達を支えてきたこと」
なんていう表層的な見方にもつながっていく議論まで導きだしてしまう
ことにもなりかねない。



1999.2.11

新聞には、前述の、当時アポロ計画を取材した先輩記者氏が
この遠大な計画の取材のなかでむしろ地球を見詰め直すことを重要だと思った、
とも書かれている。
別枠では、後輩記者氏が
そうはいっても「未知なる宇宙への夢は捨てられない」のだと言っている。
筆者は両方ともにうなづけた。

あのアポロ計画など、未知への探求という人類による行為は
そのまますべての人類の行動を説明するものでもある。
たぶん、戦争や冷戦がなくとも、人類はいつの日か
月に降り立っていただろうと思う。
それは人類の持つ人としての「特質」だからだ。

一方で地球を見つめ直すことに戻ることが必要でない、かというと
決してそうではないと思う。
我々には今地球の上で解決しなくてはならない目の先の課題が山積みだ。

そして大切なのは、月を目指してこの途方もない計画を推し進め
月に降り立つことができたからこそ、
この地球を外側から見つめることも初めてできた、、、
あるいは、人類の未知への知るための努力と行動はそのまま
自らの足元を見つめることでもある、、
という我々の行動そのものに対する「意味付けと認識」なのではないか。

宇宙への夢や希望を決してなくさない、
そして、実現に向けて努力し実現するからこそ、そしてそのなかにこそ
むしろ自分の足元が見えてくる。
それはけして、相反することなどではないのだろうと思う。

その両方ができるからこそ人類の英知はすばらしい。

今年の夏はきっと人類月着陸30年周年で盛り上がるだろう。
オルドリン飛行士が月に立つ写真を眺めながら、
科学技術の世紀20世紀、そして人類と知識と技術のことを
もう一度考えてみるのも悪くないと思った。




1999.2.12

アメリカのベンチャー企業で
いよいよパソコンそのもをただで配ることまでおこなって
しまうところがあらわれたんだそうだ。

一時、日本にも
インターネットの接続料金を只にして
そのかわり、専用のブラウザーから
企業の宣伝広告が自動的にダウンロードされて
いわば「お客」さんは只の接続料と引き換えに
強制的にその広告を見る、というようなシステムが
あったのだが、
アメリカのこれはその仕組みや方法をもっと「進めた」
ものだと言える。

でもってこれはインターネットだけの話かというと
そうは思えない。

将来はインターネット以外の分野でも
こういった方法は使われていくのではないかと思う

例えば将来はテレビだって只で配られる時代が来ないとも限らない。
それも「広告」だけじゃなくて
テレビで「配信」される内容そのものが有料化していく可能性もある今
その課金の手段として
その表現機器としての「テレビ」を無料でくばってしまう、
という方法はおおいに考えられる。




1999.2.13

こういう時代には、無料に近いような、
あるいは「ただ」で配られているような、たとえば携帯電話なんかを
「みんなで懸命に作ってきたはずの「生産物」が
只で配られてしまうことに疑問を感じる」という
意見があるのもわからないではないが
けっきょくもの作りの範疇が変わっていかざるを得ない時代なのだろう。

ひょっとするとシェア争いをしていて有名な衛星放送業界だって
その内には受像機を只で配ってしまう、という手口だって
かんがえられなくもない。

また、テレビやコンピューターのなかだけの話だと思えば
これも違うだろう。
冷蔵庫だって同じようなことはありえる
生鮮食料品を販売する企業が
自分のところの「商品」を顧客先で
保存してもらうために冷蔵庫そのものを顧客に
預けて使ってもらうことだってありえる方法だ。
そうやって考えてくると
顧客の必要とするものがいったいなんなのかということを
考えてみることがもっとも必要なことになるのだとと思う。
つまりは顧客はテレビやコンピューターや冷蔵庫そのものを必要と
しているわけではないということだ。
このあたりの話はここでなんども考えてきたからこれ以上書かないけれど
結局、顧客のところで実現すべきことがらを
メーカーが供給して行く場合、そしてそれ自身が価値である場合
その実現するための表現機器は只にもなりうると思える。




1999.2.14

考えてみるとそういうものって案外多い。
一番典型的?なものといったら
「電気」がそうだ。あるいは「電話」もそうかもしれない。
両方とも客先で「実現」されてこそ価値を生むわけで
そのための表現道具は只で配っても良い。

その分の負担は電気や電話の費用にかけられる場合もあるだろうが
あるいはそこに「広告」という形で広告主が負担する場合もあるだろう。


電気メーカー、、、というか、電力会社が
自社の商品である「電気」を使ってもらうために
電気器具を無料で配ったりするのはちょっと考えられないかもしれないが

考えてみれば電話会社が受話器を無料で配ったりすることは
携帯電話で同じようなことがすでにおきている。
この場合は費用は電話代に転嫁されていると考えるか
あるいは市場のシェアを取るための方法とも考えられるけれど

もし、電気器具や電話のなかで
顧客に必要な広告が効果的に打てるとすれば
これも広告をも巻き込んだ産業になって行く可能性があると思う。
そりゃ、コードのなかを流れる電気で広告を打つというのは
少々無理があるとおもうが
電話だったら受けた通話の10本に1本は広告会社からの
宣伝だったりすることも考えられないわけじゃない。
さすがに受けた通話のなかに突如「広告宣伝」が混じっていたら
いろいろ思うだろうけれど
もしそれが機器の購入代金も無料で電話代も無料だったら
けっこう喜んでつかうのじゃないか、、
通話一本まるごと宣伝に使ってしまうのも
問題だとすれば通常の通話のバックグラウンドに
宣伝文句なんかを流すことができてもいいかも知れない。
若者むきの音楽会社なんかは、これはほんと、使えるのじゃないか、、

完全に無料とはいかずとも
例えば広告会社経由で友達に電話すると
会話のバックに宣伝したい最新の音楽や新譜なんかが流れていて
顧客である若者は新譜をいち早く知ることができるし
電話も安くなる、、、広告会社も音楽会社も皆ハッピー、である。




1999.2.15

そういえば、今月からサービスがはじまった
「文字電話」だって同じようなことができるはずだ。
「音電話」(という言い方もおかしな言い方だけれど
文字電話というものができた以上「音電話」もありかな)
に比べたら文字電話のほうがもっと「広告宣伝」には向いているだろう。
「音電話」の画面の一部に宣伝広告が流れてくるなんてことは
けっして考えられないことじゃない。

そういえば携帯電話とインターネットをつなげるというプロジェクトが
家電メーカーや通信機器メーカー、通信会社なんかの間で進行しているらしい
これが実現されれば無料で配られて手にいれた携帯電話に
知らない間に音楽の新譜や遊びの情報やなんかが
どんどん入ってきているような時代もやがてやってくるのだろう。

こうやって考えると、将来のパーソナルな「端末」は
携帯電話とゲーム機になっていくのじゃないかと思える。
これにテレビがくっつけば、これはもう最強の通信道具!だ

ビジネスの現場や製造業の現場では
パソコンやパソコン付NC工作機械が
ネットワーク端末になっていくのだろうし
若者や家庭の主婦には
携帯電話や家庭の電話やゲーム機とテレビが
端末になっていくのだろうという気がする。

今日はなんだか「アイディアノート」のようになってしまった。
それにしても最近の家電や情報端末、コンピューターなどの
産業をめぐる動きをみていると
次の時代の商売の種と姿が見えてくるようでとても興味深い。



1999.2.16

あまり野球という競技には興味を持っていないので
詳しいことはわからないけれど、でも、最近テレビでマスコミが流す
「野村再生工場」ってあまり良い語感はしないなあ、、、。
世は「リサイクル」ばやりだから野球選手まで「工場」で
「リサイクル」されるんだろうか。

ほかでは評価されなかった選手や、芽を出すことができなかった選手の
良いところや、伸ばすことができるところを見て取って
そこに的確にアドバイスをすることで、
成長ができればそれは良いことではあるのだし、
もちろん選手自身も「野村再生工場」で「再生」してもらってありがたいと
思っているのだろう、、そのこと自身はいい、、。

でもなにか「再生工場」っていう言い回しはしっくり来ない語感がある。
、、なんか、「量産品ロボット」が役目を終えて回収されてきて
部品を取り替えて化粧されてまた出荷されていくような
なんだか殺伐とした未来のロボット再生工場みたいな気さえする。
昔見た、初期のロボット漫画あたりにでてきそうな一場面のようでもある。

「野村再生工場」がそれだということではない。

「再生工場」の持つイメージのどこが問題なのだろうと考えてみるが、
「再生」は「再生の日」なんてことばもあるくらいだから
その部分は本来良いはずだ。だからきっと「工場」という部分をやめれば良い。
いや、こちら「製造業」としてはやめてもらいたい。

継続的に、システマチックにできることを「工場」というイメージに
重ねられてしまうなら、なんか、いやだな。
我々製造業の人間だって人間の温かさをものづくりに投射しようと
考えているくらいなんだから、、

スポーツの世界はなおのこと「再生工場」なんてやめて
少なくとも「再出発工房」とか「難波再生人情道」とかなんとか
人間ぽくって、ほんわかするような名前、だれか考えてみませんか。



1999.2.17

21世紀はあくまで2001年から始るのであって
2000年はあくまで20世紀の一番最後の年である。

これが結構誤解されていて
1999年が最後の年で2000年から21世紀が始ると
考えている人が結構多いらしい。
そういう人は今年が21世紀最後の年だということになるから
気分的にはもうすでに結構忙しい、、、

まあ、たしかに2000年という数字に「2」がついているから
きりとしては2000年から始ってくれたほうが
なんかぴったりもくるような気がしないでもないが
スタートする年はやはり「2001」からというもんだろう。

問題は2000年という年を
「世紀末」という捉えかたをする気分が多いことで
これは少し考えなくてはならない問題だと思う。

「総仕上げ」という捉えかたをすれば
ぴったりこないだろうか。

来年の「2000年」はマスコミなんかの間で
20世紀はどんな世紀だったのか、というような番組や特集が
いくつも組まれるだろうが
「世紀末」という発想からはあまりポジティブで
21世紀につなげて行こうという発想は生まれにくい。
「総仕上げ」なり「正しい評価」をする年と考え
21世紀に正しくつなげて行こうとする姿勢が
必要なのだろうと思う。




1999.2.18

自分だけはかかるまいと思っていた風邪を
とうとうひいてしまった。
抵抗したあげくにひいたせいだろうか
いっきに強烈な状態にまで追い込まれた。
夜になってもなかなか寝付かれず
何度も起き上がっては又寝る、そんなことを繰り返す。
咳込むとしばらくもうろうとなるほど体中に響く。
そのうちには体中の筋肉が痛み出す。

幸い休みの間にひいたからその間にようやく峠はこして
なんとか休みあけには仕事に復帰できる状態になったのだが。

今年はこのインフルエンザで何人も大切な命を落とした。
あれだけの強烈な風邪だと体力のないお年寄りや子供では
本当に大変なことだったろうと思う。

普段、なんらかの問題を人間や社会が抱えた場合、
小手先の解決ではなく、本質的な解決を目指さないと
本当に問題は解決しない、、
表面的解決で糊塗しようとするとむしろ本当の問題の解決をも
遅らせてしまう可能性さえある、、、
と思っているのだけれど

風邪も病もそこんとこは基本的にはいっしょだと思う。
しかし、表面的な解決かもしれないけれど
取り返しのつかないような状況になる前に
「咳止め」や「解熱剤」や「風邪薬」を飲むことによって
それを防ぐことはできるのだとも思う。
本質的な解決への努力ももちろんする、一方で
それ自身が本質的解決を妨げてしまうような表面的解決、、、
ではなくてとりあえずは痛みや熱を取り去って
どうしようもない状態にだけはしないための
療法というものも大切なんだと、
ふらふらする頭のなかで考えていた。



1999.2.19

この前、テレビで
足の裏の「感覚」を大事にすることは
その人間の知性や感性の発達にとって重要な働きをしている云々、、
の話をやっていた。

なるほどなあ、と思う。

人間が長い猿の時代から人間になることができたのも
直立歩行して手が自由に使えるようになったから、
そしてそれで
ものをつかんだり、道具を使って働くようになったからだ、
とはよく言われる。
結局、その本質的なところは
「人間」にとって外部の独立した存在の環境を
自分と別の存在として客観的に捉えることが
できるようになって初めて、人間は人間として
自分を認知したのじゃないかと考えた、、
ということではないのかと思う。

それには優れた「外部を認識する器官」が不可欠だ。
優れた触覚としての手や、俗に言えば5感をつかさどる
感覚器官がそれなのだと思う。

足裏の感覚も考えてみれば重要であるだろう。
地面と自分の位置関係や自分の重さ、などは
足を使って知るということは確かにある。





1999.2.20

人間にとって自分を取り巻く外部や環境を理解するための
様々な感覚が正常に機能する
ということはとても重要なことだ。

もちろんそれは5感と言われるものだろうし
もしかして第6感とも言われる部分も含まれているかもしれない。

同時にもう一つ、もしかしてそれら以上に重要なもの、と言えるものが
あるかもしれないと思う。

それはそれらをフルに動員して得られるものかもしれないし
それ「自身」が結果なのかもしれないが、
人間にとって自分を取り巻く外部ということでは
「物理的環境」との関係だけではなく
「社会」のなかの自分の位置を知る、ということが
ひとり一人にとって今、とても重要なことでもあるのだと思う。

いやむしろ「物理的環境」は
優れたセンサー技術やアクチュエーターの技術、
コンピューターの仮想技術によって
ますます人間の感覚にそういうものは近寄ってくるだろうが
相対的に「社会」的な関係を捉えることが
人間にとって難しくなっていく。

コンピューターの仮想技術もそういったものを
人間にバックアップできる日もくるだろうが
しかし、社会と人間の関係を正しく位置づけるもっとも基礎的な
「評価軸」「基軸」があってそれは初めてできることだ。





1999.2.21

ところで物理的な環境もそうだし「社会」もそうだが
「それら」は自分をも含んで相互の関係がとても色濃く、
そこには反映されてしまう。
自分の作った「環境」や「社会」に自分自身が
とても強く影響を与えられてしまうということだ。
最近の言葉で言えば「相互作用」「インタラクション」
とでもいうのだろうか。

で、最近、これはまずいことなのではないだろうかと思うのは、
物理的な「環境」も「社会」も
自分自身がそれを作りだしている一方で
作り出したその「結果」に自分自身が影響されているということに
我々自身があまりに無頓着過ぎるのではないか、

ダイオキシンにしてもそうだし、
あるいは最近、様々おきる社会的な疲弊を表したような
「事件」にしても
その奥には自分たち自身が作り出している
環境や社会への相互作用があるのだということに
目をむけなければならないはずだ。

ところが今はそこへの視点が欠落しているように思えてならない。

センサーや感知器官の性能もどうも機能の低下を招いているようでもあるが
やはり「評価軸」「基軸」そのものもぐらついてしまっているのが
問題のようにも思う。



1999.2.22

新聞に出ていた記事で、へーそんなことあるんかいな!?と
むちゃくちゃ驚いた。
極低温の状態だと
光の速さがなんと時速60キロまで減速できるのだそうだ。

ナトリウム原子の気体を絶対零度近くまで冷却することによって
気体原子を凝縮しその「極限の気体」の中にパルス状の光を入射する。
その結果、光は濃密な気体と相互作用して
速度は真空中での約2000万分の一にあたる
秒速17メートル(時速61キロ)まで
低下させることに成功したのだという。
米ハーバード大の研究グループがやったんだそうだが、
それにしてもにわかには信じられないような話だ。

光よりも早いスピードというのはありえない、と習ってきたが
新聞記事ではないが、これだったらたしかに競輪選手でも追い越せる。
(とはいうものの、なぜ「競輪選手」と比べたのかいまもって腑に落ちないが、、
  まあ、60キロというスピードが自転車で人間でも出せるスピードだと
  言いたいのだろう。思わず笑ってしまった。)

これが本当ならば応用によってはいろんな可能性はある。
光をためておく入れものだってありえる。
以前冗談で、光を一方からいれるとじわじわと染みていって逆から「ぽわっ」と
遅れてでてくるようなものってあったら面白いだろうなあ、、でも無理だよなあ、
なんて言っていたのだが、これが本当になってしまいそうだ。

どう考えてもありえないと思いこんでいるものでも
案外、簡単にくつがえされることはいまでもあるということだ。

一昔前にあった「常温核融合」みたいに
散々盛り上がったあげく、「どうもうそっぽい」、、ということが
今回はないことを期待したい、個人的には、、、、




1999.2.23

もう新聞に書かれているからご存知の人も多いだろう。
日本のロケット開発の第一人者である
糸川秀夫氏が亡くなられた。

今日の毎日新聞コラムは糸川先生のことにふれている。
なかなか良い話だと思うので紹介したい。

  ・・・独創と創造力を重んじる糸川さんは
  「現実対応、便利主義、結果主義もある程度は良い。
    しかし、極限に行くと破局に至る。」
   と日本の生き方を憂いていた。
  「事物の評価、人間の評価、みな同じである。
     「なぜ」は日本でははやらない、
     「どうするか」が大切なのである。
   今の不況対策がよい例である。
   右も左も「HOW」だらけ。「WHY」不在。」
   92年に本紙(毎日新聞)によせた論文の一節である。・・

宇宙に思いをはせ、
「どうやって」圏外に飛び出していくかを
生涯の学問とされた糸川先生は
実はその底に「なぜ」「何のために」という
問題意識を持っておられたのだろうと思う。

一見、実利実学とはなんの関係もないような「ロケット開発」に
遥かで、深い「意識」をのせて、
「なぜ」「何のために」を貫かれた研究者としての姿勢に
我々は多くのことを学んでいかなければならないと思う。

ご冥福をお祈りします。




1999.2.24

先日
    日本貿易振興会長野貿易情報センター
  (財)浅間テクノポリス開発機構
  (財)長野県テクノハイランド開発機構
の主催で
   平成10年度国際産業交流事業
  長野-ジョージア マルチメディア/情報通信
  ビジネス&テクノロジーアライアンスフォーラム/商談会
という催しが行われた。
通商産業省・JETROローカルtoローカル(地域国際化)産業交流事業の支援で
平成8年度から米国ジョージア州(アトランタ地域)との交流事業が進められており、
今年度は、米国ジョージア州からミッションを迎え、交流事業が開催された、
ということだ。

今回は「ジョージアモデル」ともいえるだろう言わば産学共同で
地域産業の振興をおこなっていくモデルの構築と経験の蓄積の話を
  ジョージア工科大学
  ジョージア先端情報通信技術開発センター(GCATT)
  GCATTマルチメディア技術研究所
  ジョージア州先端技術創業支援センタ(ATDC)
  そしてそのなかのいくつかの企業、等から
興味深く聞くことができた。

学ぶべきもの、貴重な話、等たくさんある。

筆者自身にとっては、考えさせられたことが二つあった。
一つは
シリコンバレーモデルとかジョージアモデルとか
あるいは北イタリアモデルとか
経済的に復興している世界各地の地域産業集積地の
「成功例」を「真似」するのではなく
日本には日本の長野には長野のやり方があるのだろうということ
これはジョージアから来た彼ら自身がそう言うのが面白い。
それと、
産業の活性化には情報技術の利用が大きな役割を
果たしていくのだろうということ。
この二つだった。




1999.2.25

ここ数年、アメリカのシリコンバレーの産業復興モデル、、
(という言い方でいいのだろうか、、?、、)
それを日本の地域産業にも応用していこうという議論が
日本国内で盛んに言われることが多い。

あるいは北イタリアの繊維産業のモデルを日本の産業に応用していこう
なんて話もよく聞く。

しかし、国や町や、あるいはその町の歴史やそこに住む人々の
気分や価値観や生活そのものだって大きく異なるのは当然だけれど
同時にそこにおける「産業」やあるいは
「まちづくり(このことば自身がよくわからないが、、)」
の方向ややり方もそれぞれに違っていて当然なのだろうと思う。

世界中もあるいは日本のなかにだって
二つも同じ町や国があることなんてありえない

自分の町とは異なる、「よその町」が
どんな風に町をつくってきたのか、産業を興していったのか、
その方法論を学ぶことは価値もある、重要だとも思う。
けっしてそれが間違いだと言うつもりはない。

しかし、機械的にそれを自分の町や国に持ち込んでくることによって
町や産業をつくっていこうという気分や方法論があるとすれば
それは安易すぎる。

そして、なにより重要だと思うのは
自分達の国や町の将来へのビジョンがなければ
なにも始らない、ということだ。




1999.2.26

「長野-ジョージア マルチメディア/情報通信
  ビジネス&テクノロジーアライアンスフォーラム/商談会」で
「ジョージアモデル」を紹介してくれた彼らは
けっして「ジョージアモデル」がいいから日本や長野に応用したら良い、
なんて言わなかった。

「君たちは自分達の方法を探したらいいのじゃないか、
  ちなみに僕らはこうしたけれど、、、」

彼らの「ジョージアモデル日本版の提案」が提案されることを
期待していた人がいたとすれば期待外れの話だったかもしれないが、
筆者はもし「君たちも我々のようなやり方でやったほうがいいよ」なんて
彼らから言われるようだったらいやだな、、、と思えて
最初、このイベントに行くことに乗り気ではなかったのだが
結果的には彼らと話ができて、とてもよかったと思った。

彼らからの「投げかけ」に対して
我々は我々の道を自分達で考え切り開いていかなければならないだろう。






1999.2.27

彼らから学ぶことを否定するということではもちろんない。
彼らの経験のなかから我々も学ぶべきものはおおいにある
あくまで機械的に無批判に取り入れていくようなことはやめたほうが良い、、
という意味だ。


じゃ、あえてその学ぶべき本質は何なのだろうかと考えた。

それは彼らの「仕組みつくり」、「基本的な方法論」
言い方をかえれば「ビジョン作り」だと思う。

彼らはいいか悪いかは別として国や産業のビジョンを明確に持っていると思えた。
それが彼らが「開拓者精神」や「ベンチャースピリット」として
国を興したときからあるものなのか、
後から後天的に作り上げてきたものなのか、
、、それはここではあえて考えないけれど

しかし、、とりあえず、現状、日本にはそれがまずない。

国や産業のビジョンがないこと自身が日本のアイデンティティーだ、、
という人がいないわけじゃないだろうが、、、

あえていえば彼らのやっていることの本質は
「ビジョンに向かっての運動」なのだと思う。
けっしてまちづくりや産業つくり「そのもの」に
収束していってしまうものではない、それではないのだ




1999.2.28

すでのビジョンがあって、それに向かって国をあげて
進もうとしているアメリカと、まだ、ビジョンそのものがない日本。
これでは進もうにも進めない。

あえて「方法論」を学んだところで
ビジョンがなければどうにもならない。

じゃあ、どうやったらビジョンがつくれるのだろうか。

これは国にしても町にしても、誰かが持ってきてくれたり
つくってくれたりするものじゃないことだけは間違いない。

未来の国や町のビジョンとそれに進んでいくための仕組み作りや方法論を含めた
モデル作り、、、
こればかりはその町や、国の主人公が自らつくっていくしか方法はない。

あえてそのためにまずやらなければならないことがあるとすれば
自分達の町や国をよくよく見直すということだろう。

自分達のつくってきた町や国が今、どういう状態なのか、
なにが財産や資産でなにが負の資産なのか、
強いものはなにで弱いものは何か、良いことは何で悪いことは何か。

そこからどんな未来像が生まれてくるか、、これはわからない。

あ、、だけどこれだけは考えておく。日本にはものをつくる力がある。





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