今日のコラム・バックナンバー(1999年 1 月分)


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1999.1.5

あけましておめでとうございます。

いよいよ21世紀までの残る730日がスタートしました。

今年もインダストリーウェブは21世紀の製造業のビジョンを
探し作り上げる努力を力いっぱい続けて行きたいと思います。
よろしくお願いします。

ここのところ、新年の新聞を読んでいてもなかなか読み応えの
ある記事が多くて楽しめます。

どこの記事を読んでも
とても製造業や経済にとって大変な世紀末になるだろうという
予測でいっぱいです。
しかし同時にそれは反面「チャンス」でもあることに
気がつくべきだろうという記事も多いです。
筆者もその通りだと思います。

様々な状況もリアルに見つめれば
そこにはすこしづつではあっても
着実に新しい時代の芽が生まれつつあることに
我々産業人は気がつければならないのだろうと思います。




1999.1.6

筆者の住む街にあるCATVで
7年ほど前に放送された
「電子立国日本の自叙伝」の「ハード編」が
放送されている。
(ソフト編は三年ほど前に放送された)

年末の「今日のコラム」で書いたけれど
昨年秋にNHKで放送されたアメリカの国際金融取引きの状況を
レポートした「NHK特集」を編集したNHKの相田洋氏が
当時つくって評判を得たものだ。
単行本やビデオCDにもなっているし、いまでも手に入るから
ぜひ機会があったら見たり読んでいただければと思う。

ちょうど年末そのアメリカの国際金融取引きを扱った番組を見ていたら
そのなかで相田さんが
「ものづくりや技術や価値を生むことがとても大切なこと
    なのじゃないかと  金融取引きの現状を見るなかでむしろ考えた。」
というような一言を言っていた。
さすが「電子立国日本の自叙伝」を作っただけのことはある。




1999.1.7

そんな話を聞いてもう一度
「電子立国日本の自叙伝」の単行本を読み直そうとしていた時、
ちょうど地元のCATVで「電子立国日本の自叙伝」を
放送するという、、これはよかった。

全部で6話に構成されていてすべてに見ごたえのある内容だ。
7年も前に作られた番組だからすでに技術的には
一つ前の技術がレポートされていたりすることもあるが
相田さんのコメントもなかなか奥が深くて吟味して
聞いていると味わい深い。
レポートされている内容のなかにも心にしみた話がある。


日本のなかでトランジスターの量産技術を確立する場面がある。
アメリカの当時の特許を持っていた企業へ
情報を探しに日本人技術者が盛んに訪米する時期があった。
懸命にアメリカの技術から学ぶべきものを学ぼうと
真剣に、夢中になってアメリカの技術を学ぶ、、。
毎日、膨大なレポートを作成しては
日本で報告を待つ技術者仲間にレポートが毎日のように送る。
程なく数十冊にもなるレポートになっていく、、。

その数十冊にもなるレポートが番組のなかで紹介された。
あるページに偶然書かれている走り書きがあった

「志あるところに道あり」

本社の技術者に送ったメッセージなのか、自分自身にたいする決意なのか、、
当時、戦後日本を切り開いていこうとする真面目で真摯な技術者たちの
心根がかいま見えて感じさせるものがある。



1999.1.8

「電子立国日本の自叙伝」は1991年に放送されたものだから
正直いって今ではすでに陳腐化された技術も
当時の最新技術として扱われている面もある。
しかし、番組が主張し、迫ろうとしているものは
もちろん最先端の技術をレポートしようとしている
部分もあるのだが、それだけではない。
むしろ、人間が戦後の半導体産業の勃興と発展のなかで
どう関わってきたのか、の、言わば人間のドラマなのである。

番組は
  真空管に代わる半導体の発見
  トランジスターの量産技術を確立
  電卓戦争
  CPUの開発
の四つの分野をその時折の技術者たちの人間ドラマを主軸にして
展開していく。

その前後には今日の驚異の半導体産業と
それを支える周辺の技術の発達をレポートしたものを挟んで
見ごたえのある番組としている。

半導体の発見からトランジスターに至る分野や
CPUの開発においては当然ながらアメリカの半導体産業を
基軸にしながら進むのだが
しかし後半の現代の半導体産業を語る部分では日本の半導体産業を
レポートしなくては説明できない。
まさしく「電子立国日本の自叙伝」だ。

そして、おもしろい、興味深い、と思うのは
その日本の半導体産業をレポートしているようではあるのだが
むしろ日本の戦後史や文化を語らずに戦後の半導体産業も語れない、
番組はその「日本の戦後史や文化」を浮き彫りにしていくのだ。



1999.1.9

最終回には
日本の半導体産業を支える500以上もの産業の
いくつかに焦点を合わせてレポートが進む

多くの中小企業を含む技能や技術やそして前向きな気持ちに支えられて
今日の半導体産業は戦後のスタートから今に向かって
アメリカの後を追いながら急激に発展してきたことがわかる。

しかし最近のアメリカの技術者たちは
独創的な発明や金のかかることは皆アメリカがやってきたのだ。
日本はそれを真似してお金もうけをしてきたのじゃないか、
、、、と手厳しい。
日本も西沢潤一氏なども同じことを言う、

、、だがそれはしかたのないことなのだろう。
世界の工場としてアメリカからも日本自身もそれを是として
ひたすら邁進してきたのだから、、
だが今日のような状況にきたのなら
日本も自分達の力で独創的な開発や製品を生みださねばならない。
それを国や産業政策や文化として定着させていかなくたはならない。

こういうことはもうバブルが終わったころからすでに様々なところで
繰り返し言われていることだ。
番組でも企画した相田氏は最後にそのことに触れている。
それはこの番組の最終的に明らかになった「テーマ」といってもいい。

筆者も8年まえには気が付かなかったこのテーマに今回気がついた。
筆者やマスコミが最近盛んに言っているこのテーマを
番組では8年まえにこの番組のなかで警鐘のように主張している。




1999.1.10

番組の最後の方で、昭和51年に通産省の提唱によって
4年間の間だけ設立された
「超LSI技術研究組合・共同研究所」のメンバーの方々が
その後一年一度の懇親会を行なっている場面が登場する

アメリカに追いつけ、追い越せ、と、
昭和51年に通産省の提唱によって4年間の間だけ
複数の国内大手の半導体製造企業が一緒に研究開発を行なうことを目的に
「超エルエスアイ技術開発研究組合」を設立し共同研究開発を
行なったことがあったのだという。
その組合のOB会で懇親会を行なっているのだった。

座が盛り上がっていくなかでうたわれる歌は「同期の桜」である。
当時の技術者たちの心意気を感じるのはいうまでもない。

少し番組をさかのぼるのだが
60年代にダイオードの回収技術の確立について番組に
登場した技術者の奥さんがエピソードを番組の中で
披露する場面があった。

戦後、進駐軍の米兵の腕に腕をからめて歩く日本人女性を見て
「技術と経済で負けたのだから
今にみていろ、こんどは技術と経済でで勝つんだ、と思った、
主人が頑張ったのもそんな気持ちの賜物だと思っている、、」

恐らくは多くの技術者たちは同じような心持ちで
戦後の半導体産業を切り開いてきたのだろうと思う。




1999.1.11

筆者はここで(「同期の桜」を再び声を合わせて歌うように)
技術者たちをもう一度集めて半導体産業やあるいは
それに代わるような産業を創ろう、進めようと
安直に主張するつもりはない。

日本はもう一度、真面目に真剣に新なものづくりの
技術や製品や仕組みを作ることを目指して
奮闘しなくてはならないだろう。
そんななかでは企業や個人が集まってみんなで考える、ということの
大切さややり方の重要な部分はもちろん生かされる部分もあるだろう。

しかし、先頭を行くアメリカの後をひたすら追っていけば
よかったいままでとは異なり、
自分達で自らの方向とやり方を見つけながら
進んでいかなくてはならない時代なのだ。
いみじくも「同期の桜」をうたっていた技術者の方が
懇親会の最後に言っていた「日本帝国株式会社」は
すでに通用しないと思うのだ。


「同期の桜」を歌いながら回顧している時期もあっていい。
これからの時代のものづくりを行なって行くべき我々も
そんな先輩たちから学ぶべきことは
おおいに学び、役立てる時期も時間もあっていい。

しかし、我々は、いままでとは恐らくは異なるであろう
これからの時代の「ものづくり」を
自らの感性と志で切り開いていかなくてはならないはずだ。


背中を追うのではない、
時代と歴史をしっかりと見つめ
新たな時代の社会や産業やそして人々が
ものづくりに求めるものは何なのか、
その多様な道を自分自身で、それぞれに探していかなくてはならないのだろう。

7年ぶりに見た「電子立国日本の自叙伝」は
多くの示唆を与えてくれた。




1999.1.12

以前、作家の井沢元彦氏の講演を聞く機会があったと書いたことがある。

日本においてはなによりも和が大切で
根回しや話合いで、みんなで決めることがとても重要なことだと考えられている。
これは聖徳太子が「和をもって尊しとなす」と言った時代から
始った文化であって、今にいたるまでもこの
「みんなで決めよう、決めたことは間違いではない。」
という考え方は日本人の基本的なところである、
言わば、日本は話し合い至上主義国だ、
というのだ。

先日書店で見た作家の豊田有恒氏の「談合主義の功罪」という本にも
まったく同じようなことが書かれていた。
討論の欧米に対し、談合の日本、、、であって、
根回し、先送り、、の日本であると。
聖徳太子の「和をもって尊しとなす」についても氏は触れていた。

またこの前見た「電子立国日本の自叙伝」の話になってしまうけれど
トランジスターガールという良質で均等な能力を持つ人を
意識的にあつめて半導体や電子機器の製造をしたり
突出した人によらず、みんなで頭を寄せて考えることで
開発や研究を行なうことが
当時の日本の産業にとってはとても重要だったということなのだろう。
こういうやり方では「和をもって尊しとなす」が重要になる。

で、だいたい、こういうやり方は最近では否定される部分が多いと思うけれど
これからまったくなくなるかというとそうでもないのではないかと思う。

談合や先送りなんて、とんでもないが、
「和をもって尊しとなす」「根回し」が今後も力を発揮することはあるのでは
ないかと思える。





1999.1.13

「和をもって尊しとなす」とか「仲良きことは美しきかな」ていうのは
どうも最近否定されることが多いように思うけれど、
よく考えてみればどこが悪いのだろう。

みんなの仲がいいことや話し合いをすることが悪いことなんて思えない。

情報技術やインターネットやネットワークの時代になって
共同でなにかやろうとかオープンになにかをやろうとか
情報を共有しようとかすることが良いことだと言われて、
そのやり方もアメリカの最近のやり方を見本にしているらしいけれど
それだって「和をもって尊しとなす」ことや
美しいかどうかはなんとも言えないが「仲良きことは美しきかな」
と似たようなものだろう。

一人ひとりの能力や個性を発揮して多様な方法や道をつくっていくことも
もちろん必要になるのだけれど
「和をもって尊しとなす」や「仲良きことは美しきかな」という文化が
これからも力を発揮する部分があるのではないかと思う。

ただし、こういうことなのだろうとは思う。

個性や個人の能力を否定したり、削いでしまったなかで
平均的な、没個性の人の集まりがお互いにもたれあい
責任を回避しあう関係での「和」や「仲良い」ことと
目的や使命や理念で結ばれた人々が
個性や主張を持ち寄り徹底した議論やアイデンティティーをぶつけあい
よりよい関係や社会への表現のあり方を模索することは
同じ「和」や「仲よし」でもだいぶ異なる。
少なくとも個人や企業や組織の上でこの違いは決定的なのだろうと思う。

先のほうの「仲良しシステム」がまだ大きく幅をきかせているのが
まだ日本の姿なのだろうが
同じ仲良しでも違ったものも生まれつつあるのだろうと思う。

「和」とか「仲良し」とか「共同」とかが今後
さまざまなところで益々登場する時代になっていくだろうが
同じ「和」でも本質的な違いがある。
「仲良し」でひとくくりにすると間違える。




1999.1.14

アメリカの企業や国家の「やり方」が幅をきかせていることはよくわかる。

グローバルスタンダードが良いのかどうかはわからないが
少なくともいままで大手をふってきた日本的な経営が
いろんな問題をはらんでいることもわかる。

日本的「仲良しシステム」や「もたれあいの関係」や、、が
今の日本のなかでいまだに浸透していて
問題がなかなか解決していないこともはっきりとしてきている。

ちょうど今日の読売新聞にも長銀の特集が書かれているなかでも
「仲良しクラブ」という言葉もでてきて、社会的に
そういう仕組みや文化にたいする反省はあるのだと思うが。

確かに「仲良しシステム」や「もたれあいの関係」は困る。

しかし仲がよかったり和があること自身は何の問題もない。
みんな仲が良くってみんなが幸せならそのほうがいい。

競争によってむりやり勝者と敗者を作ることに意味があるとは思えない。
喧嘩しないと競争したことにならないなんていうのは
ちょっと違うのではないかと思う。




1999.1.15

ちょうど今日、テレビで「白線流し」というドラマが放送された。

ちょうど成人式だったこともあるのだろう。
20才前後の若者たちが高校卒業後に様々な道で生活し悩み学ぶ姿を
2年毎くらいにその時どきの世相を織り交ぜながら映し出していく。
今の若者文化や考えかたを一面的に扱ったものが最近、多いなかで
真面目に若者の姿を捉えようとしていて、とても好感の持てるドラマで
筆者はすきなのだが、、、

そのなかで、おとなが言うこんな台詞があった。

  戦争が終わった時は自分達は子供だった。
   その後はがむしゃらにやってきて
    それ以外に生きるべき方法を知らなかったのだ。

また、こんな台詞もあった。

  子供たちが未来をあきらめてしまったとすれば
    それはおとなたちの責任かもしれない。

一見、若者たちとおとなたちの世代の対立のようにも見えるのだが、
、しかしこのドラマの訴えかけてくるものはそうではないと思えた。
おじさんたちの世代と若者の世代を対立的に捉えるのではない。
そこにはお互いにたいする優しさや思いがあって
実際にはそんななかにこそ初めて社会や人と人の関係はありえるのだと思える。

問題があるとすれば
それを熟成させるはずの時間や機会を持つことや、
真剣に向かい合うこと自身が、、希薄になってきていることだろう。




1999.1.16

ところで
昨日は成人式で、テレビニュースをみていれば
全国の成人式の様子をレポートしている。

出席している若者のなかで、私語が多く、集中せずにだらだらと
式が進んでいくのは相変わらずだし
出席率そのものも相変わらず低いようである。

なかには成人式に出席した若者に一人5万円を支給する自治体も出てきたのだそうだ。
なんということだろう。

こういうことでもの分かりの良いおとなになったつもりなんだろうか。
若者たちに責任を持つことをやっているつもりなんだろうか。
若者たちと真剣に向かい合う時間をつくっているつもりなんだろうか。


戦後、がむしゃらにやってきた、日本をつくってきた、と
自負するおとなのなかに
それ以外に道を知らずに日本をこういう状況にしてきた、、
という反省がもしもあって
それがたとえ、こどもたちに他の道を選んでもらおう、探してもらおう、として
いるのだとしても、少なくともこんどのその行為はせっかく
大人と若者が正面から向き合うチャンスと、それ自身の価値を
低めてしまう残念なことだと筆者は思う。




1999.1.17

今の日本をつくってきたおとなたちを責めるつもりはない。
多くの若者もそんなことは思っていないと思う。

国や町をつくっていくなかで間違いや遠回りはありえるし
真剣に、真摯に家庭や町や国を考えていれば
そういうこともあっても必ずや元にもどっていくのだと思う。

しかし、最近のおとなたちの振る舞いは
それさえも自らおとしめてしまっているのではないのか。

成人式に出席するように5万円を払うことがおとなたちが行なうことではない。
若者たちとおとなたちが真剣に向き合うことこそ今必要なのだ。

おとなたちには
いまの日本のこれからのこと、振る舞い、にこそ
責任がついて回るのだということをわからなくては、、

子供たちが未来をあきらめるのは
今までのことからだけじゃなく、今とこれからのことから、なのだ。
そのことがわかっていない大人たちも多い。






1999.1.18

「事業」とはなんぞや。「マネージメント」とはなんだろう。
ベンチャー企業の話題が新聞やテレビで報道されることが
多くなるにつれて最近そんなことを考える。

もうだいぶ前の話で恐縮だけれど
年末にテレビを見ていたら面白いと思うことがあった。

タレントのビートたけし氏と
アダルトビデオに出演している俳優さんと女優さんが登場して
「最近のAV業界事情」みたいな討論番組をやっていた。

決してとんでもなく真面目な番組ではないのだけれど
かといって深夜番組でやっているような
AVビデオ紹介のような番組でもない、、。

最近の売れているAV女優さんは短時日で結構なお金をかせぐのだとか、、
番組でも最近売れている(らしい)AV女優さんが忙しい日常を話していた。

、、で、このなかで「番組をみているファンに一言」、と問われて彼女は
「AV女優も結構仕事は大変なのだから、それを分かって見て欲しい」
というような返事をしたのだが
ビートたけし氏がそれにつけたコメントがなかなか良かった。

  ファンの人はあなたが苦労しているだとか大変なのだ、とかは
  興味のないことだし、それを言うことをファンは望んでいない。
  こういうところであなたはそういうことを言っちゃいかんのだよ。
  お客さんはあなたの提供するサービスがすべてであって、
  楽しんでね、でいいのだよ。

こんな内容だった。けだし名言だと思った。



1999.1.19

考えてみればAV女優も個人事業家だといえる。

彼女が行なっている「事業」に対して顧客が望んでいることは
苦労したり大変なことをやっていると顧客にわからせることではないはずだ。
あるいは彼女がたとえば留学のための資金が欲しいからとかの理由で
その仕事をしているかということも「顧客が望んでいる事業」には関係がない。

あくまで顧客が彼女に望んでいることはAV女優として演技している
そのものであるはずで、それこそが彼女の事業なのだろう。
であれば、テレビの討論番組に登場したからといってもAV女優として
自分自身をマネージメントしなくちゃいけない。
個人事業家として自分自身をマネージメントしなくちゃならないものとして
とらえなければならないのだと思う。

そこにはどうやったら顧客が喜んでくれるか、というマーケティングと
新しい技や付加価値を作る?、イノベーションが、
個人とは言え、マーケティングをすべき「事業」として必要になる。

ベンチャー企業と一緒にするなという意見も聞こえてきそうだけれど
事業として認識すべきこと、マネジメントすべきもの、という点では
まったく同じだと思った。




1999.1.20

さすがにベンチャー企業を志す人びとは
仕事が大変で、苦労が多いことはもちろん当然として、
そんなことで他人に認めてもらおうなんて
考えてはいないのだろうけれど

でも、自分のもっている技や技術や製品がちょっと特殊で高度、、
(かもしれない)といって
それがかならずや周囲に認めてもらえると考えたら間違いで
苦労しているから理解もしてくれるはずだと考えたらもっと大間違いだろう。
まして、事業にたいする動機付けとして
「お金もうけ」とか「自己実現」とかいう場合が多いけれど
それは「事業が顧客に受け入れられること」とは何の関連もない。
「動機付け」は力にはなるが「事業」の内容とはまったく関係がない。
P・F・ドラッカー氏が「事業の目的が利益の最大化というのは間違い」で
「利益は結果」だというのもそういうことだろうと思う。


顧客と自分の位置を冷静に考えて捉えること、
事業として捉えること、マネジメントすべき部分をつかんで
イノベーションとマーケティングを繰り返すこと、
そして、それを表現し伝えるテクニックもマネジメントすべき範囲だ。

なるほど、これはAV女優さんでもベンチャー企業でもおなじなのではないかと思った。



1999.1.21

最近売れている、セガのゲーム機のことを考えた。

ご存知のようにあのゲーム機の販売には
発売以前から湯川専務さんという現実の「専務さん」が
話題作りに一役かった。
俳優さながらにゲーム機の販促用の「ドラマ」を演じた。

前述のAV業界と同じように比較したら申し訳ないが
専務さんも言ってみればすでにその存在そのものが
「マネジメント」すべき対象になっているのだと思った。
また、マネジメントということばの意味に「演出」という意味は
本来ないと思うけれど「演出というマネジメント」もあるのだと思った。

現実の専務さんではなく、あくまで「キャラクター」というか
「ブランド」というか、そういうものとして
すでに一人歩きしているのだとも思える。
だからたぶん、専務さんが今後テレビに登場して
苦労話なんかはしないだろうし本当の生活感は出すことはないだろう。
あくまで視聴者からすれば画面のなかでの「ユカワ専務!」であって
実際にも本当の専務さんだったことが「ファン」からすれば面白いのだ。

「ユカワ専務!」をマネージメントすべきものとして
どこまで考えているのかは知らないが
ここまでやったのだから今後は「ユカワ専務!」をもっと
マーケティングし、イノベーションすればいいのじゃないかと
他人ながら、勝手にそう思う。

そのうちに「ユカワ専務!」というヒーローが登場してきて
「プレステ怪獣」や「64宇宙人」と子供たちの夢を
守るために戦う、、なんていうゲームが登場してきていい。

あっ、失礼、「プレステヒーロー」や「64ヒーロー」と一緒に
「常識妖怪」や「受験地獄」や「おとなの勝手怪獣」と
戦わなければいかんのかな。

いや冗談ではなくて、最近のネットワークゲームの浸透をみていると
家庭や家事、そして教育の現場に
こういうものがはいってくるだろうことは容易に想像がつく。

コンテンツの内容によっては教育そのものが内容として
定着していく可能性もおおいにあると思える。
その時は「ユカワ先生!」になっていることは、、、あるんだろうか?






1999.1.22

最近、パソコンが「デザイン」されるようになってきた。

アップルのデザインがご存知のような若い女性が好むような
最近はやりの「スケモングッズ風デザイン」で当たり、
ソニーは「バイオ」でしっかりとデザインし、
あの薄型ノートパソコンを大きく当てた。

パソコンを選ぶ場合の選択基準は
少し前までは「価格」と「性能」がダントツで
デザインは5番目あたりだったらしい、が
最近はデザインも重要視されて順位があがってきているのだという。

これはどういうことだろうか、

デザインが重要視されるようになってきているとはいえ
もちろん性能や価格が問題なくなっているわけじゃない。
一部の消費者、それも、なんでも真っ先に飛びついて
消費の先端を走っていくような先端ユーザーと呼ばれる部分、、
こういうのを「ビジョナリー」というのだそうだが、
そういう部分や個人の生活ではなくてビジネスユースや
個人でもまったくの趣味的な部分で特化しているユーザーの部分、
、、は、今後も性能や価格重視でコンピューターを選んでいくのだろう、、

しかし、それ以上に他の商品と差別化された商品を「消費者」が
望んでいることも確かだ。






1999.1.23

そんな「消費者」はどんな消費者かと考えてみれば
なんのことはない、、普通の消費者であって、
普通のおばさんだったりお嬢さんであったり、
普通の若者であったり、、、、なかには普通のおじさんもいたりするんだ。
まあ、、最近言われるように、、、「普通」、、、で括って「消費者」を
十羽ひとからげにするのも危険なのだけれど
いままでの「ビジョナリーユーザー」に比べれば
まったく「普通の消費者」だといえる。

安いに越したことはないがかといって、質感がまったく劣っていてはいけないし
ブランドだってよくわからないような「個人で作ったような怪しげなブランド」
では困るのであって、友達との会話に
「私、マックの色の付いたの買っちゃったんだ」、とかが言えて、
ソニーのバイオの薄紫色で厚さも薄いノートパソコンをバックに入れて
旅行に行ったりするのがかっこいいのである。

HDDの容量やCPUがどうのメモリーがどうのは関係ないのであって
アップルやソニーが出した商品なんだからとりあえず問題はないはずなのである。

結局こういう、消費者の「本体部分」がビジョナリーにおくれること
何年かして、ようやくと最近、コンピューターの消費を担う順番が
やってきたということなのだろうと思う。




1999.1.24

これは本来、パソコン消費の本当の有りようはこれからだということ、
そしてなにより、パソコンの本来の発展はこれからなのだということ
と言っていいのだろうと思う。

女性やおばさんや若者や興味が薄かった消費者が思わず買って
使ってみたくなるようなものがこれからもっともっと登場するに違いない。

ただ、パソコンの機能が発展し、できることが山のようにあり、
後から「できることが増えていく」ような商品というものはいままでなかった
、ということにも気をつけておく必要があるだろうと思う。

テレビやラジオや電話やファクスのようなものも
そうはいっても機能は買った時のままだしそれも単純な機能だった。

ビデオはメーカが機能を増やしていったのだが消費者から機能が多すぎるとして
一時、逆の意味での割高感をつくってしまったことがあったから
そのあたりの反省もある。

だからパソコンも機能が増えるからといって
消費者のことを無視して勝手な商品をつくって市場に
投入していったらまたもや以前と同じようなことにもなるだろう、
しかし「機能が発展することができる商品」という可能性はそうはいっても
これから無視できるものではない。

パソコンの持つ機能や生活にたいするその可能性を
どうやってこれから消費者になるであろう「普通で一般的な消費者」に
どうやって説明し、わかってもらえるか。
もちろん、コンテンツや機能の部分、価格の部分で
やらなければならないことはこれからもたくさんある。
きっとこれからしばらくは様々な試みが進むだろう。

そして「デザイン」がここに果たす役割は大きい。
パソコンユーザーは機能と価格だけでパソコンを選択するハズ、、
、、なんて考えている家電メーカーはさすがにもういないだろうけれど

社会や市場と製品を結ぶまず最初の鍵は「デザイン」だと
これからのパソコンの市場の動きを見ていればわかるんじゃないか、、、
工業デザインが果たす役割がこの時期に明確に見えてくるはずだ、興味深い。





1999.1.25

最近、日曜日の朝のテレビ番組では経済評論家がたくさんあつまって
景気の先行きを占ってくれているんだけど

先行き不安の評論家の評論も先行きダイジョブの評論家の評論も
なんだかもう一歩、聞いている我々の気持ちの中に入って来ない。

それぞれなかなかもっとだと思わせるものはあるのだけれど
何かが足りないのではないかと思うのだ。

なんなんだろうかと何度も考えた。


結局、これまでの経済施策の効力やこれまでの経済状況から
判断される状況判断だとかで
我々国民を含む一人ひとりの「人間」の姿や顔がそこにはないように思う。

たしかにあくまでそれを含めての「経済」や「国家」の総体なのだから
一人一人の意志や志や気持ちや、、そういった個々のものは
国家の成り立ちや経済の行方には直接関係はないようにも感じるのだけれど
本当にそうだろうか。

政治や経済が昏迷の度を深め、国家の行方が見えていないとき、
それをよしとする国民はいないだろう。
けっして、目の前の生活で与えられるがままをよしとして
生活しているわけではない。

すべてとは言わないけれど、多くの国民や市民は
なんとか明るく、豊かな明日を思い描いて、今日の生活を生きている。

その結果がこの現代の文明なのだろうし
「20世紀の科学文面な間違いだった」なんて言っているような
ひとたちもいなわけじゃないし現代の文明の「良否」を
ここで判断するつもりもないが
でも、ここまで価値や富や財やサービスを多く作り出してきた
ものはだれでもない、我々人間、、、である。

人間が人間たることができたのは
何よりも「ものづくり」「価値の創造」によってなのだと筆者は思う。




1999.1.26

そしてそこには間違いなく、「人々の持つ意志と志」は存在するのだと思う。
「意志と志」と言っても、オカルトや宗教の話ではない。
自分達で国家や国家の礎である「経済」を
つくっていこうとする「意志と志」だ。

この日本にもなんどもそういう時代はあったのだと思う。
幕末から明治維新を通って近代国家を建設するに際しても、
戦争のあと、焼け野原から現代の経済的な繁栄を築いてきたのも、
その後ろには自分達で国をつくっていくのだという「意志と志」が
あったのだと思う。

もちろんそれだけで国家や経済がなりたっていくかというと
そうではないのだろう。
教育や社会を支える様々な制度や法律や仕組みを少しづつ整え、
また「ものづくり」や「価値の創造」を支える、
科学技術やものづくりの技術を高めながら、
ようやくここまで日本を形造ることができたということも間違いのないことだ。

しかし、なによりここまで日本が国をつくってきたことの
根底には「国を造ろうという意志と志」があり、それを支える多くの人々が
いたからだと筆者は思う。



1999.1.27

景気の先行きを占ってくれて
先行き不安の評論家も、先行きダイジョブの評論家も
懸命に国家の行方を考えてくれているのだろうが
政治や経済のそのものの中には
ひとり一人の主役がそれぞれに意志をもって生活し、
国を支えていることを忘れてもらってはこまる。

時にそれは、間違った方向に振れてしまったり、
目先の利益にのりたがり、遠回りでも確実な道を選ぶことを
ためらったりすることも多いのだけれど

でも結果的に見てみれば、いつも国や経済は国民やその中に人々の
力で動いていることを忘れてはいけないだろう。

政治家が国民を票をとるための票田としてしかみていないとか、
そんなのは論外として、

経済評論家も今、こういう国のなかで国民ひとり一人が
どういう気分でいるのか、、
一人一人がこのままで良いと思っているのかいないのか、
どういう国や経済を造ろうとしているのか、努力は始っているのか、、、
そういうことをしっかりと見るべきだろう。

、、少なくとも、、、我々ものづくりに取り組む真面目な人間は
経済の評論で食おうとせず、無責任な傍観者でいることは望まない。
明日の日本を造ろうとして努力をしている、その努力も進んでする。
日本の至るところで21世紀の「胎動」は始っているのだ。

時代を横に輪切り、ただ、そこにある形状だけで
時代を計ろうとしていないか、

横に輪切り、同時に縦にも切ってみる、
そこには必ず、時代が起こしている変化も読み取れるはずだ。

国民や我々経済をつかさどる人間も、そういう一面的評論で
右往左往するのはよそう。

仲間が言っていた、「経済は厳しい、、だけど俺は頑張る!」

こういう気分を評論できないでなにが評論家だろう。





1999.1.28

ここのところ、真面目一方のコラムが続いたから
少しは息抜きをしよう。

毎日、読んでいる新聞のなかで
面白いと思わず笑ってしまう紙面がある。
毎日新聞の「中畑流万能川柳」、
企業社会や製造業の世界にも関係のあるのもあって
なかなか面白い。
最近もいくつか面白い川柳があった。
(ここに転載するの、勘弁してね。)

    出る杭をうっかり他社に引き抜かれ
                          久喜  宮本さん

うむうむ、なるほど、、
出る杭は普通、その会社のなかで叩かれるのだろうけれど
叩いているつもりがいつのまにか引き抜かれていたりする。
これからはよくありそうな話、、
、、これもこれからよくありそうな話、

    出したけど部下から来ない年賀状
                          八尾  山本さん


製造業には関係ないけれど、これも面白くって笑えた。

    お仕事でパパは夜にはママになる。
                          福岡   ぬらりひょん

おまけ、、
    ところでカワヤナギってなんのことなの?
                          身内   全角カタカナ




1999.1.29

読売新聞にもちょうど第一生命の「サラリーマン川柳コンクール」の
入選作100句が発表されていた。

「サラリーマン川柳」というだけあって
このほうはもっと企業社会や今の状況を伝えていて生なましい。

   キーボード叩けぬひとから肩たたき

   きついけどあるだけいいかこの仕事、

   経済も回復させろバイアグラ

失業率がいままでにないような数字をしめした今、
こういう状態の国や経済を笑い飛ばすことも
なかなかできる気持ちにはなれないだろうが、、

でも、時の為政者にむけて精いっぱいの抵抗や皮肉のメッセージもこめて
川柳や笑いに時に気持ちを向けてみるのもいいだろう。

そういえば劇作家の飯沢ただす氏が昔「武器としての笑い」という本を
書かれていたことがあって興味深く読んだことがあった。

「失業者」だけじゃなく、「失望者」がこれ以上増えないように
せめて笑いのなかにでも明日への勇気と活力を見出すのもけっして
悪いことではないだろう。




1999.1.30

筆者の住む信州は最近めっきり有名になった。
オリンピックは昨年終わったし
最近有名になった「御柱祭」も昨年終わった。

で、今年になってまたなにが有名になったかというと
例のオリンピック誘致の時期の不明朗なお金の動きと
飯田で行われた某有名落語家の寄席をめぐり
主催者側とお客さんの間におきている紛糾の件だ。

オリンピックの件は
昨年に続いて長野県の知事と長野市長が
またも今年もテレビの顔になってしまった。

この件に関しては事実が究明されていくのを待つということなのだろうが
すくなくともこれだけは思う。

オリンピックが商業主義に向かっているという意見は
これは以前からあった話で
世界中の識者ならみんなそういうことに対する問題意識はもっていたはずだ。

いずれ同じではないにしろこういうことは起こり得ると
みんな内心思っていただろうし、、
ともかくも「オリンピック」にしろ近頃は
ものごとの多くが資本の論理で進められる、ということが多い。

マスコミが商業主義によって事実を捏造するような問題を
描いた映画が最近多いことをみていても
あるいは最近、問題になる「援助交際」にしても
、、まあ、ともかく、、お金が、資本があらゆる「関係」や
「価値観」の上に及ぼすことが最近あまりに多すぎる。




1999.1.31

信州の飯田で、某有名落語家の寄席をめぐり
主催者側とお客さんの間におきている問題の件も
「お金」が絡んで紛糾した。

「お金を払えばなにしたっていいだろう」と居眠りをしていたお客さんが
本当に言ったかどうかが問題になっているようだけれど
「お金を払えばなにしたっていい」は本来、社会では通らない話であるのは
あたりまえではある。

じゃ、もしもお客さんからお金をいただかずに落語会を行なっていれば
勝手にお客さんを追い出していいのかといえばそれも違うだろう。

本質はお金の問題ではないはずである。
落語家氏も、だからこそ、途中で退場したのだろう。

だから逆に、筆者には落語家の「途中で退場」が少々解せない、
最終的にはもどって最後まで続けたのだというが
いくら最後まで聞けたと言っても途中で落語家に退場された
お客さんにとって「途中で退場」はいただけない。

多くのお客さんにわざわざ来ていただいた限りは
精いっぱいの落語を、たとえお客の一人が居眠りをしていても
行なってしかるべきではないかと思う。

お客さんは主催者を訴え、「落語家氏は主催者にエールを送った」
、とのことだが、ことはそれでは解決しない。

はたして「桟敷席」から「蚊屋の外」に置かれてしまった他のお客さんは
どう思っているのだろうか。



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