今日のコラム・バックナンバー(1998年 9 月分)


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掲載は日付順になっています。


1998.9.1

さて、ちょうどそんな議論が行われていたころ、
歴史に残る大地震がリスボンを襲う。
哲学者のボォルテールは「リスボンの大災害について」という
哲学詩を発表する。
彼は、無数の市民を死においやった参事を目の前にして
なお万事はうまく進んでいるとしたら
それは人類に対する侮辱以外のなにものでもない、と
神学的楽観主義を批判し神の無能と無慈悲を論難した。

しかしルソーはこの詩に関しても
大災害をもたらした原因は自然の掟を無視して密集した高層都市を
建設した人間の自業自得であり、
神に責任はない、とボォルテールにも反論する。



1998.9.2

哲学者のボォルテールには悪の起源は相変わらず不可解ななぞであり
彼は万能であるはずの神を難時ざるを得なかった。
一方で「すべては善し」とする神学的楽観主義にとっても
悪は神の英知によって創造された最善の世界の不完全性に過ぎないとした。

しかしルソーには悪の起源は明白だった。
それは神の予定で創られたものでも人間の原罪に由来するものでもない。
悪の起源は人間の本性とも神とも直接には無関係であり
ひとえに社会との関係において生じる。
それゆえ、ルソーにとって悪は社会の改革によって現実に
解決可能なものであった。
ルソーはその解決策を民主的社会の建設と新しい人間教育に求め、
その構想を「社会契約論」と「エミール」に表して世に送った。

ルソーのこれらの作品の根本には人間は本来善良である、という
不抜の確信が貫いている。
人間性の弁護においてルソーはいかなる権威にも屈せず
一点の妥協もゆるさなかった。




1998.9.3

難しい話になってしまっていささか恐縮ではあるのだけれど
このルソーの思想や作品のなかに書かれていることは
現在の我々を取り巻く様々な現象や問題や不幸など
、、これらの作品のなかで言われることばで言えば「悪」、、
を捉えることにおいても当てはめて考えることができると思う。

今、我々を取り巻く、様々な形で起こる、様々な問題は
ややもすれば「人間」の本性やそこから生まれた「自然」や「ことがら」に
起因するものとしてむすびつけられやすい。

あるいは一方で、オカルトや超自然現象のようなものの所産として
我々には認知されない、手の届かない問題として捉えられようとする状況も
最近では多い。

しかし今こそ、理性的で科学的で冷静な判断、、をもって現象を捉える
ことへの努力が必要だ。そしてその基準尺となるものは
人間と社会との関係の成立に対する基本的な信頼なのだと思う。


人間自身によっての社会の改革と「悪」の解決は可能なのだと
我々を勇気づけてくれるルソーの思想は、今、200年後のこの時代になって
ますます輝きを増している。


ところで川合清隆先生がどんな先生でおられるのか知らなかったのだけれど
ものは試しと、インターネット上で検索してみた、、ら、
現在甲南大学の教授でおられるとのことがわかった。
啓蒙思想についての本も出版しておられるようだから読んでみようと思う。


、、、20年ぶりに見つけた新聞記事の断片と
小説でも読んでいるのではないかと思うようなここしばらくの新聞記事を
見比べて、深く考えさせられた一週間だった。





1998.9.4

やはりというか、先日の新聞に
「物質や環境に罪着せる」という題のコラムをある作家が載せていた。

人間が弱くなり駄目になってきているのはすべて
あれこれの物質のせいで、環境のせいで、その人間のせいじゃないのだと、
あくまで人間性にはふれないようにして責任を外部に持ち出す。
人間はいい子のままで物質環境に罪を着せることになっていく。
、、、と、人間自身ではなく外部環境のせいに問題をもっていこうとする
風潮が最近あるのではないかと指摘する。


その作家先生は決して人間に対してつめたい目でみているわけじゃないのだろうし
人間の可能性についても決してさめた目でみているのではないのだろう、
むしろ、「(例の)バイアグラの偽者が本物と同じように効く」、ということが
あるのだからそういう人間の「騙されるような馬鹿さ」をうまく極めていけば
その先に明るいものもあるように思う、と、「暖かい目」で
みてくれているようにも思った、、、
「物質や環境に罪着せる」という題の付け方はたぶん作家先生の
つけた題ではないのではないかと思ったのだが、、、





1998.9.5

物質のせいや環境のせいにする、風潮がある一方で
人間のもともとのせいにする風潮もある。
あるいは人間を作ってきた「社会」のせいにする議論もある。

たぶん、この先、こういう議論というのはいろいろなところで
繰り返されることになるのだろう。
「環境や自然」と「社会」、そして「人間」の関係はとても根源的で深い問題だ。
三つ巴のような形でこれからこういった議論は増えていくにちがいない。

「こんなになっちゃったのはなぜなんだろう。」
と考えてみることは大事なことだ。
しかし議論によっては悲観論や人間にたいする不信感しか生まれないこともある。
だけど、そこからは新しい仕組みや前むきな考えやアイディアや、、は、
なにも生まれてはこないのだろう。

「人間の馬鹿さをうまく極める」のがいいのか、
ルソーのように「悪」は社会の改革によって現実に解決可能なものとして
捉えるのか、は、あるにしても
「社会」と「人間」の関係になんらかの可能性や希望をもつことは
とても大切なことなのだろうと思う。







1998.9.6

以前ここでも紹介したことがあるけれど
筆者の住む街には
「プリンス・スカイラインミュージアム」
という車の博物館がある。

スカイラインという車、一車種に絞って展示されているのだが
単一車種で構成される車の博物館としては日本で唯一のものだ。

メーカーごとの構成ならいざ知らず、
単一車種で構成されるということは普通はありえないのだろうし、
それだけ長い間日本の「車好き」に親しまれ、時代を超えてファンを増やし
てきた車種ならではということができると思う。

今日、その「プリンス・スカイラインミュージアム」で
歴代のスカイラインを開発してきた中心的な人々を
招いてのトークショーがあった。
各地より熱心なスカイラインファンがたくさん詰め掛けて盛況だった。

ご存知の人も多いと思うけれど
スカイラインの生みの親である桜井慎一郎さんもいらしていた。




1998.9.7

筆者も実は以前スカイラインに乗っていたことがある。
桜井慎一郎さんと言えば自分自身にとってもあこがれの車の開発設計者だ。
今回、うれしいことにその桜井さんのお話を聞かせていただく機会もあった。

すでに最初のスカイラインの開発から四十数年の時間がたっている。
そのなかでずっとスカイラインを始めとした
「優秀な車」と「自動車のファン」を生み出してきた桜井さんのお話は
言わば、戦後の日本のモータリゼーションやものづくりを語る上で
かかすことのできない人のお話でもある。

桜井さんは車そのものもそうなのだが、
循環可能なものづくりの仕組み・システムにもとても
熱心に関心をよせられているそうで、
筆者や参加していた若い人たちにもとっても
刺激のあるお話があったと思う。

いくつかの話を聞かせていただくなかで
筆者にとって特に心を打たれたのは
今も真摯にモータリゼーションの未来と車の未来を考えている
桜井さん自身の姿勢そのものだ。
ただ単に車を作ってきたのではない、
それを通して、社会と産業と人の未来を見通すことに
取り組もうとする技術者として真摯でまじめな姿勢そのものだ。


ひとつの時代を切り開いてきたものづくりの先輩方が
学んできたもの、作ってきたもの、、、
我々、次の時代を担っていくもの達は
それらを再び自分達のものとしてうけつぎ、
21世紀に向けて拓いて行く責任があるのだと強く、思う。




1998.9.8

よくよく考えてみると家電製品にもいろいろ種類があって、
それはもちろん、シロモノ家電と言われるものや情報家電と言われるものや
あるいは三種の神器と言われるものや新三種の神器と言われるものや、、、
いろんな見方があるのだけれど

こんな見方もあるのではないかと思ったことがある。

普通、家電製品と言われるものはみな、それ自身で
ちゃんと使えると思っているのだが、
テレビやラジオはよくよく考えてみると、
それ自身だけでは使えないことに気がつく。
CDプレーヤーだってそれだけじゃ使えない。
電波やCDに載って運ばれてくるコンテンツ、情報、
、、がなければそれ自身はなんの役にも立たない。

もっとも、洗濯機や冷蔵庫やエアコンだって、
コンテンツがなくても関係ない、と思っても、
それ自身でちゃんと使えると思ったら大間違いで
「電気」というものが「外部」から運ばれてこなければ
ちゃんと動かない。



1998.9.9

考えようによっては「荒野」の一軒家に住んでいることを
想像してみると良い。

外部の「資源」につながることなしに情報家電はもちろんほぼ文明の産物は
その力を発揮することはできない。荒野や原始の時代には必要ないのだ。
「車」だって「道」という「つなげていくもの」があって初めてその役割を
果たすことができる。
文明の産物は「つながること」によって初めて、使える状態になっている、
その力や特性を発揮することができる、と言ってもいい。
伝える「もの」や「こと」と、伝える「道具」と伝える「道」があって
ようやく初めて伝わっていくのだともいえる。

だから、逆に、少し乱暴に言ってしまえば
冷蔵庫や洗濯機はとりあえず別にして、
情報家電だって、テレビだって、こういうものは、要するに
最終的に情報なりコンテンツが必要としている人のところに
伝わることが本来の目的であって
家電そのものがそこにあることや所有することは本質的には
重要なことではない、のではないかと思う。
もちろん、それがなければ「伝わらない」、ことは
確かではあるのだけれど。



1998.9.10

考える方向を少し変えてみると
情報家電だって、テレビだって、ラジオだって、CDプレーヤーだって
本来、伝わるべき情報の翻訳機であったり
伝わるべきエネルギーの変換機であったりするわけで
伝える「もの」や「こと」がきちっと伝われば、
それで良いことになるはずだ。

なぜこんな話をしたかというと
これからの時代には、相手に情報やコンテンツが伝わっていく時に
その部分部分におけるそれぞれの登場人物や登場するものに対する
「必要度」や「価値観」や「重要性」が、案外我々自身が考えている以上に
簡単に覆ってしまう可能性があると思うからだ。

いままでは「情報やコンテンツ」を必要とする人やところに対して、
最終的に「表面的」にそれらを供給する人やものが
重要とされてきているのだけれど
もっと本質的に情報が伝わる、ということの意味を捉え直す
時代が、本当に近いうちに、やってくるような気がする。

これは、簡単に言ってしまっているけれど
いままで主流を担っていたと自負している主役と、脇役の交代が
交代する時代がやってくるという、人によっては結構「恐い話」だと思う。




1998.9.11

考えて見て欲しい、
企業が使うプリンターやコピーの機械なんかは
もちろんそれ自身が商売の種なんだけれど
そこに使うインクやトナーや紙なんかはそれ自身でしっかり商売にも
なっている。

企業の事務所なんかでよく利用している「コーヒー」も
コーヒーをいれる道具は只同然で配られていて
あくまでコーヒーそのものが商売になっている。


コンピューターやテレビやラジオやCDプレーヤーなんかも
あくまでコンテンツや情報を持っているところが
その価値を対価に変えていく時代がくるのであって、
もしかしたらそのための配信用の道具は相対的に
どんどん安く、あるいは只同然になっていくようにも思う。



1998.9.12

そのうちに家電屋さんでテレビも只で「販売」される時代がきて
あくまでそれでうけることができる情報やコンテンツ、そのもの、が
有料になっていく、、、
あるいはコマーシャルや宣伝をみた時間が積算されていって
その分だけお客さんにインセンティブが与えられる、、

そんな時代や仕組みも案外近いうちに始るのではないかと思う。

もうだいぶ昔になってしまったけれど
インターネットの接続が只になるかわり
宣伝やコマーシャルをみることが義務づけられる、、ような
仕組みを考えたところがあった、
残念なことに時代が少し早すぎたのだろう、、
結局それは市場に受け入れられなかったのだけれど
いずれそういう仕組みが浸透してくる時代が近いうちにくるのだと思う。

で、それはむしろそういうサービスを考えたところが始める、、というよりは
すでにそれで「販売するもの」を持っている、あるいは作る方法を持っている
、、それというのはもちろん情報やコンテンツそのものに他ならないのだけれど、、
ところが圧倒的に優位にあるのは間違いのないことなのだろう。

だから相対的に言えば
道具を作っているなんてのは重要なことではなくなっているのだと思う。
いまそれに気がつかない家電屋さん達がいるとしたら
それはこれからのそういう根本的な変化に頭が対応できていないとしか言えない。

そして、その変化は思う以上に早く起きるだろう。



1998.9.13

たぶん自動車もそうだろうし、他の産業でもそうなのだろうけれど、すでに
家電業界なんかはそういう根本的変化が連鎖的に起こり始めているのだと思う。

自動車を供給すること
家電を供給すること、、
が自社のドメインだと思っていたら
自分のアイデンティティー(と思っていたこと)が
根本から覆されることにもなり兼ねない。

自動車が欲しいのか
家電が欲しいのか
テレビが欲しいのか

それとも
コンテンツが必要なのか
情報が必要なのか、、

この捉えかたひとつによっては
とんでもない主役と脇役の交代劇が
今、始ろうとしているのではないか、、

「企業ドメインの見直し」、とはよく言われることだけれど
本当にそういう「捉えかた」の変化と自らの変化を呼び起こすような
時代が、たぶん、もう、すでに始っているのだと思う。





1998.9.14

もう十年も前になるんだろうか、
ふるさと創生資金だとかいったっけ。

全国の自治体すべてに一億円づつ配って
使い道はとやかく言わないから
自分らで考えて自分達の町のために使いなさい、、
という、お金の「ばらまき施策」があった。

今の日本の状態から言えばあーそんなこともあったなあ、
と、この十年の変化に結構深く考えを及ばすことになるのだけれど、、、

、、本当にあの一億円はどうなったのだろうか、、、

もち、筆者はああいった「ばらまき施策」には反対だし、
あれ自身バブル以外のなにものでもなかったのだろうけれど、
その後がどうなったかという話が知りたいものだと思った。

なかには結構有意義に使われているところもあるかもしれないし
いつのまにか、どこかに消えちゃったところもあるだろうし、、、
でも、きっとたぶん、もう忘れられてしまったようなところが多いのだろうなあ。




1998.9.15

それにしても最近テレビや新聞を賑わすように税金の「無駄遣い」や
「民意にそわない使い方」がつくづく、多いものだと思わされる。
税金だけじゃなくて、日本中が無駄の固まりで四苦八苦しているようにも思う。

国家がきちっと形を整えていくにはそれなりに
国として必要なものは整えていくのは当然なのだし
それに必要な人的な配置もあるのはもちろんなのだが
それにしても最近は無駄遣いや民意にそわない使い方が目に余る。

しかし、これは税金の使い方だけじゃない。
いまでこそ民間企業も長く続く不景気から
派手な振る舞いはなくなっているように思うけれど
一時の日本は民間も含めてみな同じようなものだったではないか。

テレビや新聞は官僚や政治家のことをわらうけれど
日本全体がわらわれるようなことをいままでやってきてしまったつけが
今になって吹き出しているのかもしれない。

世界で一番お金持ちの国、だとか
日本にあつまっているお金で世界中の土地が買える、とか、、
科学技術が発達した国、だとか言われて
調子にのってきた「つけ」、だといえば、、そうなのかもしれない。
あの時、もっと足を地につけていれば、、そうかもしれない。
それにしても、、、みんな懸命に日本を作ってきたはずのに
それなのにこの日本のありさまはなんなのだろう。





1998.9.16

ずっと長いあいだ、
「まじめさ」を疎んずる風潮があったように思う。

一生懸命やることやまじめに物事をなすことが
恥ずかしいことのように言われたり、疎んじられてきたり、
恰好の悪いことのように言われてきた。

結果さえよければ、スマートに出来れば、、それで善し。
カッコよさやスマートさが全面に出て、
まじめであることや真摯であることや
不格好であることが評価されない時代が続いてきたように思う。


一方で、
「企業の利益」をだすことが一番の目的と考えて、
そのためには人間として当たり前の常識や、
社会人としての常識までも捨てても構わない、
なんてことが平気でまかり通る企業社会、、、
「まじめさ」を疎んずる一方で、そういう「いびつなまじめさ」も
自らに課してきた、そんな時代でもあったように思う。



個人も社会も、真面目に本音や本質で物事を捉え迫る努力をしないと
時代はとんでもないしっぺ返しを返してくることを
この間、我々は思い知らされている。
振り返ってみれば、やってきたことにはしっかりと結果がついている。

「時代」に遠慮はない、甘くもない、シビアである。



1998.9.17

最近のテレビのコマーシャルで
食べものを「懸命に食べる」コマーシャルがやけに多いと思っていた。

なぜなんだろうか、と考えていたら
ちょうど、新聞のテレビ欄に
「生理的に受け付けない人も多いのだから
ああいったコマーシャルは考えものではないか」
という投稿記事が載っていた。
結構同じような投稿意見が多かったようである。

筆者は実はこういったコマーシャルが最近多くなったのは
表層的な部分や浅いコミュニケーションの上で物事が進むことが
当然のようになってしまったような時代のなかで
一方で、我々の中に本質に迫ろうとすることを望む気分や
「懸命さ」「純粋さ」を望む気持ちがあるからなのではないかと考えていた。

食べ物のコマーシャルにも「ピュア」であることや
まじりっけがないことが強調されているものが最近多いのも
それと同じようなことではないかと思う。

確かに生理的に受け付けない、という気持ちもわかる。
人の感情や感性や生理に関して、目一杯近くまで迫って来られるのは
心地いいものではない。
人と人の物理的な距離にも適正な距離があるのと同じことだ。

だが一方で、人によってはあのようなコマーシャルにたいして
ある種の心地よさや共感みたいなものが
感じられているとしたらどうだろう。
逆に言えばあのコマーシャルに対してわざわざいくつも投稿意見が
あったこと事体がそういう問題を突きつけてきたと考えられなくもない。


あのようなコマーシャルへの他の意見も聞いてみたいものだと思った。



1998.9.18

アメリカの大統領がプライベートな私生活を
全世界の新聞や雑誌やテレビや、
それこそ世界中のマスコミに取り上げられてしまうことになった。
インターネットに公表された私生活をめぐって
今、巷のマスコミは大騒ぎである。

大統領自身に偽証の疑いがあることが事態の本質なのだというが
インターネットに流れているという詳細な私生活が
新聞や雑誌やテレビやでここまで公表されるにいたっては
なにやらことの本質が見え難くなってきていて
なんとも事態が分かりづらい。

結局、今回の問題はプライベートな問題なのか
公務や職務上の問題なのか、政治の力関係の問題なのか、
、、、よくは分からない。正直言って筆者には興味のない話ではある。

だがだが、
今回の「事件」がインターネットでの詳細な情報の公開と
それに続くマスコミ全体の再発信については
いささか深く考えなくてはいけないのだろうと思わされた。



1998.9.19

これほど詳細な情報が全世界と短時間に出回ったということは
たぶんいままでにない。
個人の私的な情報がこれほど詳細に広く流されて
それをまた再発信されたということでは
たぶん歴史に残ることにもなるだろう。

インターネットや情報を担う産業が今後、
様々な形で社会や産業や教育や個人の生活やに及ぼす影響というのは
我々が思う以上に強烈である、、、それはたぶん間違いない。
つくづく人類はすごいツールを作ったものだと思う。

今回のインターネットやマスコミの情報の扱いかたについては
日本では昨年あった、インターネット上での刑事事件の犯人探しや
氏名の公表や、そういった情報時代特有の「問題」などとともに
今後しばらくその事をめぐって議論があるだろう。

こういうことを繰り返しながらきっと人類は情報やツールの使い方を学んで
いくのだろうとは思うが、しばらくは試行錯誤が続くに違いない。
賛否両論もあるだろうが、そういう議論は必要なことだ。

しかしそれにしても、、
「情報スーパーハイウェイ」を推進してきたクリントン大統領が
まさか自身の私生活をその「情報スーパーハイウェイ」の上に
流されることになるとは、、いささか皮肉ではある。



1998.9.20

以前、ここで書いたことがあるのだけれど
この何年かに本屋で売られるようになった「コンピューター雑誌」の
種類の多さは想像を超えるものがあった。

ちょうど筆者がインターネットに興味を持ったころから、
雑誌も様々な種類が出るようになって
いまでは本屋の雑誌のなかではたぶん一番ブースの広さを
占めるほどになってきていた。

ただし、2〜3年まえに雑誌が増え始めたころの
あの「新鮮」な感じというのはすでに消えてしまっていることも確かだ。

ちょうどインターネットがその「新鮮な感じ」の牽引役だったのだろうと
思うのだけれど、
ともかく本屋に行ってインターネット関連の雑誌を読めばそこには
知らない世界にとても刺激的な知識が書かれていて
筆者は強烈にインターネットに引き付けられたものだった。

しかし今、コンピューターやインターネット関連の雑誌の前に立っても
あのころのような「刺激的」な感じはすでにもうない。



1998.9.21

出されている雑誌の種類はいまだにきっとすごい数だろうけれど
すでにどれも同じような内容になってしまっているし
あまり変化のないような内容で、すでに焼き増し記事でしかない。

はっきり言えばすでにもう、コンピューターやインターネット関連の雑誌の
爆発的に、伸びる時期は終わっていることは間違いないだろう。
むしろすでに、淘汰の時期に差し掛かっているのかもしれない。

そういえば普通の新聞でもインターネットが
昔のように特殊に扱われることもなくなった。
工業系の新聞でも、一時はなにがインターネットでなにがデジタルなのか
まったくわからない、ような腰が引けたような記事が多かったのだけれど
最近は通常の話題の中にしっかりと落ち着いているようなった。

なかにはどこかのゴシップ記事みたいに
インターネットにのることがいままでになかったような記事が
載ったことは大きな驚きを持って世界中が捉えたのだけれど、、

まあ、大体は、インターネットの上で起きるだろうことは
もうだいたい起きてしまった、みんなが見てしまった、
といってもいいだろうと思う。



1998.9.22

ただし、
情報技術やインターネットが本当に我々の生活や社会に
及ぼすであろう様々な形での影響を
考え、評価するのはまだまだこれからだ。
試行錯誤はまだ当分はつづけなくてはならない。

雑誌にインターネットの専門雑誌ができる、、、
新聞記事にインターネットの専門用語満載の話題が載る、、、
これはそろそろ「終わり」に向かうのではないか。

これからはきっとそんな「雑誌」や「新聞記事」の隣には
情報技術やインターネットが、生活や社会や産業と密接なつながりを
持ちはじめていく、、その可能性や結果を捉えた
記事や雑誌や情報が急激に増えていくのだろう。
そしてそこからが本当の本番なのだと思う。




1998.9.23

そう言えば、、
インターネットやコンピューターの雑誌に
本屋のブースや棚から追いやられていたいろんな専門雑誌が
ここのところ少しづつブースにもどってきたように思う。

特に筆者のような立場からすれば
工業向けの雑誌がこのところ増えたり
内容的に深いものになってきているように思う。
これはとてもうれしいことだ。

この三年ほどは、インターネットやコンピューターの雑誌と
工業系雑誌は同じような場所におかれていて
インターネットやコンピューターの雑誌が幅をきかせてくるにしたがい
工業系のそれはどんどん少なくなってきていた。
これはたぶん筆者の町の本屋に限らないと思う。
一時はそういう雑誌を本屋で見つけることが困難なほど、、なかったのだ。

このまま工業系の雑誌はなくなってしまうのじゃないか、、
と思うほど、置かれている部数も置いている本屋さんも少なくっていった。




1998.9.24

まあ、もともと、こう言ってはなんだけれど
工業系の専門雑誌にも問題もあったように思う。
だいたい工業系の雑誌はいつも「同じような記事の繰り返し」みたいな
ところがあって、一年か二年すれば必ずまた、同じような内容の
特集記事を再び載せているように思う。

もちろん、新しい工具や機械が登場すれば新しい加工方法なども
掲載されたりするから、それなりに続けて読んでいれば
それなりに知識はつくのだけれど
結構、「またこの記事かあ」、と思わされる時が多くてちょっと購買意欲を
そがれるところがあった。

、、が、ここのところ、そういった「工業系雑誌」の内容に
結構、刺激的でいつもと違う内容や記事が増えてきているように思うのだ。

これは理由としてはいくつか考えられるのだけれど
やはり新しい加工技術や機械や工具、
あるいはものづくりの新しいテーマが
時代と市場に要求され、登場し始めてきていると
いうことじゃないのかと思うのだ。




1998.9.25

もちろん新しい工業技術ばっかりというわけじゃなくて
古いけれどもう一度注目すべき「新しい技術」もある。
いままでの延長上の技術の内容もあるのだが
それなりに新しい部分があって結構「おう、なるほど」と思うような
ものもある。
前述のように、最近の工業系の雑誌には製造業界や産業に生かす観点での
インターネットやコンピューターやネットワークやFAのことも
載るようになってもいる。

そういうものも含めた「時代と市場に要求された新しい技術」が
登場しはじめていて、それを工業雑誌が扱うようになってきた。

本当の意味でのインターネットの産業利用の糸口が見え始めてきたのかもしれない。
インターネットそのものがビジネスになっていく時代もまだまだ続くだろうが
インターネットの中にいままでの産業ビジネスを位置づける、時代も
ようやく、やってきたようにも思う。

スティーブジョブスが以前に雑誌で言っていた。
「インターネットで一番儲ける人はインターネットで売るものを持っている人」
の時代がやってきたのじゃないか。




1998.9.26

バブルの時から始ったのだろうが
日本中に「博物館」や「美術館」と呼ばれるものがたくさんある。
それぞれの町に昔から用意してある「産業館」みたいなものまで加えれば
たぶん、数えたら驚くほどの数であろうことは容易に想像がつく。

ただし、そのすべてが経営的になりたっているのかというと
とってもお寒い現状であろうことも
新聞や雑誌を読んでいればこれも予想がつく。

民間や個人が始めた美術館や博物館はまだしも
(まあ、これだって、バブルの乗じてスタートしたところは大変なことなのだろうが)
自治体が箱もの行政の一環として作ったものは
つくってはみたけれど、、、の状況であるところが多いようだ。




1998.9.27

なかにはバブル時代からじゃなくて
バブルの崩壊後に町の産業や観光おこしを目標に
そういったことを始めたところも結構あって、
読みが浅かったのだろう、当初の計画での予想と大きく見込みが
ずれてしまい困っているところもとても多いようだ。
きっと多くの自治体や担当部署や担当者にとっては頭の痛いことではあるだろう。

「博物館」や「美術館」だけじゃなくて三セクと呼ばれている
民間と自治体で始めた多くのプロジェクトが
危機的な状況に陥っていることはテレビや新聞での情報を
みていればよくわかる。

だいたい、なぜこんな結果になってしまったところが多いのだろうか。

見通しの甘さやバブルの崩壊や景気の悪いことや
、、理由を考えればいくらでも出てはくるが
民間の奮闘ぶりと比べれば
そういうプロジェクトの失敗があまりに多すぎる。
まあ、バブルに踊った金融機関や民間企業もたくさんあるのだが
それにしても多すぎる。
バブルの崩壊や景気の悪いことは
国民みないっしょなのだから、言い訳にもならないだろう。





1998.9.28

さすがにこれではまずいと思うのは当然で
どこの「官営」の「博物館」や「美術館」も
どうやったらお客さんを呼び込んでこれるか
なんとかいろんなアイディアを出そうというところもでてきたが、
なかなか結果に結びついていかないようではある。

だいたい、行政が観光そのものを考えることに無理があるようにも思う。
まあ、これは観光に限らず、多くの産業施策にいえることだろうけれど、、

町のなかのそういった「博物館」や「美術館」用「建物」は
それだけで単独に考えられたものが多い。
あえて、情熱が不足しているとまでは言わないけれど
少なくともこういったものを魅力的にするコンテンツが圧倒的に不足しているし
そもそもコンテンツそのものを作りあげていくノウハウが決定的に不足している。
よく言われる「箱もの」ってようするにこういうことだと思う。

そういう官製の「箱もの発想」で、
顧客の必要とするものやコンテンツを作り運営していくことは
あえて言わせてもらえば、、難しいことだと思う。




1998.9.29

「箱もの発想」もそうだけれど
こういったものの一番の問題はそれ自身が自己目的化してしまうことだ。

それ自身を進めることが目的になってしまうと
そこには「広がり」や「他のものとの結びつき」の発想が貧困になる。

産業政策なんかにはそういう発想がとても強くて
ハードはハード、ソフトはソフト、
工業は工業、商業は商業、農業は農業、観光は観光、、、
という、とても内むきの発想であると思う。

こういう発想は
「分離して管理していく発想」であって、
「作りあげていく発想」では決してない
と言ってもいいと思う。

本来、工業も商業も農業も観光もお互いに深い関連があって、
産業政策とかを考える時は結び付ける発想、というのが欠かせないのでは
ないかと思うのだ。
だけど残念なことに管理することが目的になってしまったり
政策自身が自己目的化してくると
結び付けて新しいものを作っていくという発想に至らない。




1998.9.30

農業や商業や観光と、製造業との結びつきは
本来いろんな形があるのではないかと思う

もちろん農業と商業とか
農業の観光とか、商業と観光とか、にも
それぞれに関係はつくれるはずで
そういう意味では、すべての産業にいろんな形での
結びつきの「線」はひけるはずなのだと思うのだ。

人間の結びつきから仕事上の結びつきから
、浅いものから、濃密で深いものまで
様々にそういったいろんな結びつきが本来可能なはずだ。

でも残念なのは、考えてみると
産業政策もそうなのだが、我々「産業人」の発想も
そういう「管理や分断から始った結び付けない発想」に
どっぷりとつかってしまっていることに気がつかないと
いけないのではないか。

我々製造業の人間から見れば
目の前の農業や商業や観光や、あるいは漁業や
いろんな産業の中にものづくりが役立つことが
本来たくさんあるように思う。



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