今日のコラム・バックナンバー(1998年 8 月分)


INDUSTRYWEB HOMEへ戻る / 今日のコラムに戻る/ バックナンバーに戻る

掲載は日付順になっています。


1998.8.1

先日 NHKスペシャル「海・知られざる世界」というテレビ番組で
「深層海流−二千年の大航海−」という特集があった。

深層海流というはアイスランド沖で氷と気候によって濃縮され冷えた
海水が深海へと降下しそのまま地球を一回りして北太平洋まで
の長い長い距離を移動していくという、二千年に及ぶゆっくり
とした海流の流れのことを言う。
ごく最近になって解明されてきたものだという。

表面近くの海流の流れと組み合わせて考えると
地球の温度調整を担う巨大なクーラーの役割を果たしているのだという。
非常に寒冷で過酷であるはずのアイスランド周辺を温和な気候にし、
一方熱帯の温度上昇で熱くなるはずの北太平洋の海水温度を冷ます、
そんなシステムになっているのだという。

だがこんな巨大で合理的な地球温度の管理を果たすシステムが
この一万年にわたってうまく作動していたのはまったくの偶然なのだという。
非常に繊細でなにかあれば簡単に仕組みが変化してしまうような
システムなのだという。
このシステムがうまく動かないときがきたらどうなるのか、
全地球的規模で気候のバランスが崩れ、農作物に深刻な
影響を与え、そしてそれは生態系への致命的な結論を作りだす。

それほど重要なものなのだという。



1998.8.2

ところがこの人類生存のための言わば生命維持装置が
最近変動を見せているのだという。
維持装置の最初の原動力である
アイスランド沖の海水の沈み込みの力が
21世紀中頃には現在の半分ほどにしかならない、
その結果、深層海流によってもたらされる地球規模の
気候変動の緩和機能は大きく狂っていく、らしい。


原因は言わないでも想像がつく、
炭酸ガスや人類の生産、生命活動の結果が
自然環境への直接的な影響のみならず
絶妙なバランスの上になりたっていた生命維持装置をも
くるわせつつあるらしいのだ。

問題なのはこういった気候等の変化が何十年という
比較的短時間の間で起こるのであろうということだ。

数百年から数千年の緩やかな変化であればまだ人類の
適応力によって対応していくことは可能なのだろうが
数十年という短いスパンのなかでは
農業や漁業などの食物を供給するシステムはもとより
生産システムや社会のシステムが対応していくことは至難のわざであろう。




1998.8.3

最近ようやくというか遅ればせながら、、というか
地球環境の維持をめぐる世論はようやく本気になってきたようにも思う。
企業活動にも単なる企業イメージのために
環境問題に取り組まなければならない、といったところから
「当たり前」の問題としてとりくまれるようにもなってきたように思う。

しかし地球という疾走する巨大なトラックが目の前に現れたトラブルに
気がついてあわててブレーキを踏んでみても
もうすでに止まることができないところまで人類はきてしまって
いるかもしれない、という悲観的な予想も一方でできる。

もちろんこれからきっと人類の想像を超えるような科学の発達も
あるのだろうから「止まれマーク」を通過してしまっても
引き返すこともできるのだろうし、そうでないとやりきれない。


地球環境を守ることはもうまったなしだ。
ここまで地球を汚してしまったのは間違いなく我々人間の仕業なのだが
地球を守ることができるのも我々人間しかいないことも間違いのないことだ。
同時にそれは「意識的な人間の営み」を通じてのみ解決可能であることに
そろそろみんなが気がつく必要があると思う。





1998.8.4

それにつけても最近考えなくてはならないと思うのが
「コマーシャルやメディア」の存在だ。

雑誌や新聞や、あるいはテレビの中でのコマーシャルの存在は
自分たちの想像する以上に
自分たちの生活や行動に影響や関係を及ぼしていることに
冷静になって考えてみると愕然とすることがある。

すくなくとも自分たちの「消費生活」? で
なにか欲しいもの、買わなくてはならないもの、
を考える時の判断基準が
そういう「コマーシャル」に影響されていることに
あらためて、今さらながらに、、驚いてしまう。

20世紀や、あるいは少なくとも最近の
消費と生産と分配の仕組みのなかには
そういう「コマーシャルやメディア」が持つ役割は少なくない。

今後はインターネットもその「コマーシャルやメディア」の一翼を
担うものとして間違いなく一般的なものになっていくだろう。

けっして「だめ」なのではない。
良いにつけ悪いにつけそれが持つ影響力というものを冷静に判断する必要がある。
これはなにも今に始ったことでもないだろうが。

「消費することによってなりたってきた社会」が
「消費することをよく考えないとまずい時代」になってきた今は
「コマーシャルやメディア」の使いかたもよくよく考える時代にも
なってきたのだと思う。




1998.8.5

これからの時代、産業として必要になることは
いままでのようないくつかの巨大な産業が
「基幹産業」として日本を担う、のではなく
いくつもの小さくて様々な生活や社会の側面に関連してくる
言わば「ニッチ」と言われるような市場に向けた産業が
たくさん現れて、それが日本を支えるような構造になっていく
のではないかと、ここでも何回か書いてきた。

海外との国際競争と「はりあって」やっていく産業ももちろんあって
いいのだろうが、
国内のニッチなマーケットに向けて物やサービスを提供して
いくことももっとたくさんあっても良いと思う。

もちろんこういう「グローバルな世界」になったのだから
いくらニッチマーケットといっても海外との関係や比較や
相対的な位置は考えなくてはならないだろう。
いくらニッチマーケットでも国内市場が「鎖国」になって
いるわけではないのだし国際的な視点や目線は
これからの時代はいくら地域の仕事や地場産業といっても
とても重要になる。





1998.8.6

様々な産業がたくさんあって全体としてそれらが日本を作っていく、
担っていく、ということは重要な視点だと思う。

通産省の発行する日本の事業分類一覧みたいな冊子にも
へーなるほどなあ、と思うような産業や業界がたくさんある。
こういったなかにももう一ひねりすればまったく新しい産業や事業が
生み出される可能性は高いしそれなりの市場の大きさもあると思える。


でもって、これらの小さな産業の種の希望の星で代表選手みたいな言い方を
されるのが「環境」と「医療」「福祉」の分野だ。
確かにこれからの時代の社会や産業や経済の重要な部分であるのは間違いない
だろうし、そこから生まれてくる具体的なものづくりの種やアイディアは
きっと多い。

いろんな新聞や雑誌や、あるいは「ベンチャー企業バックアップ雑誌?」
なんかをみていてもこの関連のサービスやものづくりのテーマは多い。

ここに新しい産業の種があることは確かだろうと筆者も思う。
実際、自分自身も、この何年か、新時代の産業にはこういった視点からの
ものづくりが重要じゃないだろうか、とことあるごとに言ってきた。






1998.8.7

しかしよく考えてみると、
そういう産業の種が確かに今後うまれて
くることに対する予感みたいなものはあるし
まだまだ実際にそういった産業そのものが生まれてくるのはむしろ
これからなのだ、ということはわかるとしても
それにしてもそのわりに地場産業でこれらの具体的な「成果」が生まれてきた
ということは残念ながらあまり聞かないように思う。

「小さなマーケット」なのだからあまり大きな話にもならず
「地場でひっそり」と、尚且つ「着実」に育っている
ということももちろんあるのだろうが、
思ったよりはまだスローなスタートだと思う。

電動車椅子を作ったとか、バリアフリーの製品群を作ったという話も
もちろん聞くし、環境問題に応えるものを考えた、作った、という話も聞くし
あるいは「もの」だけじゃなくて「こと」も始ったというようなことも聞くし
ひとつひとつの話をまとめてみればそれなりの産業の創出にも
なっているのかもしれないが
やはり日本の新しい産業を生み出すいくつかの重要な柱のわりには
まだまだ、具体例に乏しいように思う。

なぜなんだろうと思う。




1998.8.8

小さな、いくつかの産業の「種」や「コンセプト」があって
そういういくつもの産業の種から実際の具体的な「ものづくり」や「ことづくり」が
始るという、最初の言わば「方向」が間違っているんだろうか。

筆者はそれを間違いとは思わないが、
ただ、実際の我々地場産業の具体的な今日の状況と
こういった新しい「種」や「コンセプト」とを結び付ける方法論やアイディアが
少し足りないのではないかと、最近、思う。


地場産業のリーダーである中小や零細企業を、あるいはできたての
ベンチャー企業を、取り巻く、今日的な状況のなかで
そういった新産業をリードし結び付けていくことはなかなかしんどい。

「新しい産業の種」といままでの地場のものづくりのリーダー達の
力から生まれる新しいものづくりとの間はまだまだだ距離が離れていると思える。

新しい時代の産業の種は確かにある。
それから具体的なものに広げていくベンチャーや起業家も今後は
生まれてくるだろうとも思う。
もちろんそこには日本特有の苦労もある。

ただしそれを地域の産業にまで具体例にまで広げていくのは
現状の方法論やアイディアの量では難しい。




1998.8.9

ひとつには以前ここでも書いた「地域の産業」や「新しいものづくり」を
プロデュースする「デザインプロデューサー」や「しかけ人」が
必要なのだとも思う。うん、これはやはり必要だと思う。

同時に、もう一つ具体的に必要なことがあるのではないかと最近思う。


どんな地域でもどんな企業でもいままでの得意としていた技術や歴史の蓄積がある。
少し言葉足らずになるが、言ってみればこういったものは
「地域の要素技術」に近いものだと思う。

こういう「地域の要素技術」はいろんな応用があって
もちろんきっと環境だとか医療だとか福祉にも生かせる部分がたくさんあるのだと
思うが、同時にそういう「単純な切り分けかた」をせずに
もっと違った、地域の特性にあった「地域の要素技術」の具体化の道というのも
あるのじゃないだろうか。

どうも環境だとか医療だとか福祉、だとかという話になると
そのまま「なにか」を造ろうだとかの話になっていきやすいのだけれど、
そういうアプローチ方法以外に切り分けかたがあるのじゃないか、と思う。
「もの」まではすぐにたどり着かないけれど
とりあえずこんな事はできるぞ、ということはだれにもあるのだろうから。


一言でいえば産業の種の切り分けかたはもっと多様で多彩でいいのじゃないかと思う。
確かに環境だとか医療だとか福祉が今後の日本の産業の種になっていくことは間違い
ないように思う、が、そういう「切り分けかた」だけじゃなくて
そう、将来のその町の顔を作っていくのだとしたら
町の表情を、いろんな切り口の、いろんな可能性をもった、
縦に割ったり、横に割ったりした、そんなことをみんなで繰り返すことから
町の多様な可能性が見えてくるような気がする。





1998.8.10

日曜日に朝のテレビ番組でやっていた。
東京と北海道を結ぶ「ジェット飛行機による安価な航路」を
北海道の中小企業のグループが中心となって企業化し
秋には正式に認可をとって就航させるという話。

一昨年の秋にある養鶏業者の社長さん達が始めたこの試みが
いよいよ二年後の今秋の実現に向けて加速を始めた。

始めたばかりのころは中小企業が始めることとして
いままで考えられないようなことだと一笑にふされていたのだという。
あくまでそんなものは「夢」だと、、

だが中小企業のおやじさんたちの夢はかないつつある。
全部で50億円もの資本金も道内の中小企業などからの資金集めをとおして
達成しつつある。

地元では全国のなかでも深刻とされる北海道の不況を
この安い民間路線の実現を通して打破しようという気運とやる気がうまれつつ
あるのだという。
いまや中小企業が始めた「ジェット飛行機による安価な航路を提供する航空会社」
は北海道の希望の星だ。

まだまだ、これからクリアしていかなくてはならない問題はたくさんあるだろう
と思う。いままでなかったような企業であるのだからむしろ困難と課題は
これからのほうが多いだろう。

しかし、すばらしい話だと思った。。
全国にいずれこういった試み、それは航空会社だけではない、
様々な生活の分野や社会の中に起こってくるのだと思う。




1998.8.11

いよいよお盆の帰省ラッシュが始って
「いなか」に位置する我が町の国道や幹線道路は
いつもに比べてたくさんの車で身動きがとれないほどだ。

ひところよりも帰省ラッシュは改善されてきたとはいえ、
まだまだこの先もこの「仕事」は続くのだろう。

考えてみれば帰省ラッシュも戦後日本の産業の発展と
そのなかでの家族や文化のあり方の変化の結果なのだから
そうそう変化したり、なくなったりするわけもない。

長い目でみれば「企業の分社化」や「企業に対する帰属意識の変化」
「SOHO」「情報技術」「小さくてニッチなマーケットとその供給者」
などによって「改善」もされてもいくのだろうが、、、、


さて、お盆の花火をみるたびに
時の進行の速さを、一年という時間の短さを、思わずにいられない。
製造業や産業をとりまく状況の変化の速さにも唖然となる。
98年後半にはまたどんなことが起こるのだろうか、
我々はどんなことをしていかなくてはならないのだろうか。

、、というわけで「今日のコラム」はお盆あけまでお休みします。
それでは休みあけにお会いしましょう。






1998.8.17

みなさん、お盆休みいかがでしたか。




筆者は昨年に続いてまた車で遠くまでいってきた。

自分でそのなかの一員として車に乗っていながら
渋滞の大変さをウランでいるようではなんの解決にもならないのだけれど
それにしても高速道路に延々と続く渋滞の車の列をみると
、、、大変なことだなあ、、と今更ながらに思う。

でも一方で車という個室がそのまま家族や夫婦や友達を
そのままの形で移動することができることは
やはりとても便利なことだ。
確かに道中でのひととの出会いは減るのだけれど
それを目的にでもしない限りは
車の移動やモータリゼーションは今後も必要とされていくのだろうと
強く思う。

最近の車や消費財や生産技術や環境を取り巻くニュースなどを思い出しながら
渋滞のなか、今回もいろいろと考えることが多かった。





1998.8.18

国産の車のメーカーの中には2000年の遠くない時期までに
排気ガスの排出量を現行の三分の一にまで減らすのだそうだ。

こと排気ガスの量だけで言えば道や高速道路を走っている車が
現在の三分の一に減るということでもある。
考えても見て欲しい、今まわりを走っている車の量が三分の一にまで
減った状況を、
実際には車の台数そのものが減るわけじゃないのだから
渋滞が解消されたりするわけじゃないのだけれど
排気ガスが三分の一にまで現象するのはこれは福音だと思う。

これで車そのものを構成する物資や素材が三分の一にまで減少することが
できれば、、これはすばらしいことだ。
鉄のモノコックボディーの軽量化の研究も進んでいるようだからこれも
いずれ車に投入される素材全体の波及していくのだろう。

車に限らずすべての生産物に必要な素材や資源を
今後地球環境に影響を与えないような、、
循環が可能で後代に迷惑をかけないような、、
、、そういった生産の仕組みができていくのだろう。





1998.8.19

早くも今年の流行語大賞の本命が現れたようだ。
なんといってもここのところのテレビのニュースを独占した感のある

「不適切な関係」

が大本命だ。

「ある種の性的接触」

などというのも候補にあがるかもしれないが
そっちは使用するシュチュエーションが比較的限られるのに対し、
「不適切な関係」というのは「不倫」や「H関連」以外にも「使えることば」
だからこのほうが今後は「一般化」していくと思う。

なんていったっていままでえらそうなこといっていたりやっていたりした企業や
えらそうにしていた人達が「不適切な関係」で「いろいろなこと」をやってきて
いたことを最近たくさん白日のもとにさらけ出してしまって
「不適切な関係」ということばで表される現象はここのところの日本では
超満員御礼状態なのだから、、、いやホントにまったく、、、さみしいかぎりだ、、


冗談はさておき、、、
そういう「不適切な関係」が社会や産業のいろんなところでまだまだ
、、どころか、、しっかりと残っていて、

一方のほうで今生まれようとしている「適切な関係」やその上にこそ初めて
築くことができるだろう「適切な社会」「適切な産業」が
そういう「不適切な関係」との「せめぎあい」のなかで
最近の様々な社会や産業の閉塞的な状況が作り出されているのではないか、、
と最近、思う。





1998.8.20

などと言っていたら本当に「不適切な関係」が流行語大賞になりそうな
雰囲気になってきた。
たぶん「適切な関係」では流行語大賞にはならないのだろう。
それほど「不適切な関係」が横行していて「不適切な社会」になりつつあって
それを揶揄する気分がこういう言葉を流行させる土台にもなっているのだと思う。



さて、言葉と言えば、最近「もらとりあむ」だの「ハードランディング」
「ソフトランディング」だの「調整インフレ」だの、
あるいは聞きたくもない「昭和恐慌の再来」だの
よくわからないことばや、一人歩きしたことば、がまかり通る。

しかし、使っている人やマスコミもよくよくことばの重要性を考えて使うように
したほうが良い。
いっちゃ悪いが筆者も含めていつも現代用語辞典を買って持って歩いている
わけじゃないのだし
そんなわけのわからない言葉を何度も聞かされても
不安と憶測を呼ぶだけで本当のところはなにもわかりはしないのだ。

こういう時代になってくると例えば「普通」ということばさえ意味を失って
くることが多い。
どこまでが普通でどこまでが普通じゃないのか、いままで当然と思っていたことが
当然でなくなっていたことだってたくさんある。

自己満足のみで人に伝わらない「言語」は言葉じゃない。
ちゃぱつのおねーちゃん達でも理解した「不適切な関係」くらい
人にわかるように説明するのも使っている人やマスコミの責任じゃないのかな。





1998.8.21

「情報化時代」「科学の時代」と言われるようになって久しい。

「情報化時代」「科学の時代」が我々産業人にもたらしたものは
たぶんいずれ時代の経過のなかで明らかになっていくのだろうと思う。
逆に我々産業人が「情報化時代」「科学の時代」に与えてきたものも
いつの日か明らかにされていくのだろうと思う。


よかったことも、悪かったことも、きっといずれ
「あーそうだったのだ」と思い出される時がくるのだろう、が、
しかし今はそれを知ることは残念ながらできない。
とても残念なことなのだけれど、、、
それは時間の経過を経てのみ分かってくることなのだろう。

ただしこれだけは言えるのだろうと思う。


我々「産業人」はごくまじめに真摯にものづくりに向かってきた。
これはどこの産業人も自負を持っていることなのだろうと思う。

しかし、なぜここまでまじめに、真摯に「ものづくり」と「まちづくり」と
「くにづくり」に懸命に関わってきたのに、きたはずなのに、
今のこの国をめぐる、この「ていたらく」はいったいなんなのだ。





1998.8.22

「不適切な関係」のなかで不適切なことをやってきた人々ならともかく
まじめに真摯にものづくりに携わってきた「適切な人々」が
この国の未来と子孫に残すべきものを懸命に作り上げてきたはずなのに

いったいなぜこんな
先の見通しのたたないような国、
希望が持てなくて、未来もないようで
子供たちだっておとな達だって日本人であることにほこりがもてなくなって
しまうような「こんな国」になぜなってしまったのだろう。

今の日本は多くの適切なことをやってきた人々からすれば
疲労感と閉塞感ばかりがつのるような状況になっていることはまちがいない。

こんな状況をつくりあげてきてしまった責任がどこにあるのか、、
少なくともその責任の所在をはっきりさせていくことは必要なことだと思う。

そうでなければいままで懸命に国や町や産業をになってきた人々にとって
日本人であること、いままでやってきたこと、に
再び誇りが持てるような時代はやって来ない。




1998.8.23

「ハードランディング」だの「ソフトランディング」だの
の議論も賑やかだけれど
まじめに国を作ってきた人びとに、不適切なことやってきた人たちの「つけ」を
まわされるのであればたまったものではない。
これは政治的なことや政策的なことにたいする意見でもなんでもなくて
多くものづくりに携わってきた人々のごく素直な感想だと思う。

日本を「ハードランディング」させるか「ソフトランディング」させるか
なんて議論は冗談ではないぞと思う。
「ハードランディング」にお付き合いさせられるようなことがあったとしたら
とんでもないことだと思う。
よもや「不適切な関係」が「ソフトランディング」することになったとしても
その財源は「まじめに適切な関係を築いてきた人々」から捻出させられることも
よくよく考えてみてもらいたい。

まじめに真摯に「ものづくり」と「まちづくり」と「くにづくり」に
懸命に関わってきた「適切な人達」には「ランディングなし」が
本来あたりまえではないか。




1998.8.24

「国民のみなさんにはある程度覚悟はしてもらいたい」
などとは、冗談ではないと思う。

確かにここまできてしまったからには
「国民一人一人が痛みを感じ」なければ先に進めないことも今後あるかもしれない。
しかしその前に責任の所在ははっきりとさせなければならないのではないか。
国民に「ハードランディング」にしろ「ソフトランディング」にしろ
お願いする前に「不適切な関係や仕組み」で、日本をこういうふうに
してしまった「不適切な関係」者の責任はしっかりと明確にさせるべきだろう。

きちっとしたステップを踏まずに「ハードランディング」なり「ソフトランディング」
なりができるとしたらそれは大間違いだと思う。

それなくしては我々日本人の我々自身に対するアイデンティティーや自信は
いつまでたっても持てないままだ。

「不適切な関係」がのさばったままで、何の反省もなく、
一方で、地道にものを作り、国を作り、町を作ることが「すばらしいこと」だ
と思えなくなるような社会、まじめさが反映できないような社会は
早晩、いきづまるに決っている。




1998.8.25

それにしても最近の経済関連のニュースをみていると
なぜまあ日本は、こんなになってしまったのだろうと驚かされる。

歴史があって、大きくて、よく言われるような
「「経営資産」に恵まれている「大企業」「優良企業」が
ふたをあけてみたらまったく会社として機能していなかった
なんてことがこのところ毎日にようにニュースとして届いてくる。
これは企業の話だけではなくて「日本」も同じことなのだけれど、、

100年以上も営々として営まれてきたような企業が持つ
様々な有形無形の経営資産というものはそうそう簡単には崩れないと
だれしもが思う。

そんな企業がバブルというその時の経済政策によって生まれてきた
落とし穴でいとも簡単に崩壊していくなんてことがあるんだろうか。

バブルのつけだ、想像を絶する未曾有の「バブル」だった、、
ということももちろんわかるのだけれど
じゃあ逆に、バブルがなかったらこういった日本や企業は
いままで通りに「日出る国」、「日本有数の有名企業」でいられたのだろうか。
歴史に「もしも」は通用しないのはわかっているけれど
考えてみる必要があると思う。





1998.8.26

この前ここでも書いたけれど
「ソフトランディング」か「ハードランディング」かで
様々なメディアでたくさんの意見がかわされている。
いよいよ佳境に入った感がある。
だがそういう議論で本来良いのだろうか。

「ソフトランディング」の人の意見を聞けば、なるほどとも思うし
「ハードランディング」の人の意見もなるほどと思う。

だが、本当に「ソフトランディング」か「ハードランディング」かという
二つの選択肢しかないのだろうか。

もともと我々中小企業を始めとする国民の大部分も
少々浮かれた時がなかったとは言わないが、
バブルには無縁だった人のほうが圧倒的に多い。
勝手に舞い上がった日本国を「ソフトランディング」だの「ハードランディング」
だのは、舞い上がらなかった我われにはまったく関係のない話だ。
もともと我々国民の大部分は「ランディングなし」で当然なのだ。

よもや、お付き合いしなくちゃならないのであれば
できるだけ「痛みがないように」、が当たりまえだろうし、
あるいは「ケースバイケース」という道を模索することもあって当然だろうと思う。
「二者択一しか道がない」、というような単純なことではない。
もともと「二者択一しか道がない」と思わせるような状況の説明も言葉足らずだ。



1998.8.27

こういう「ハードランディング」のような話の延長には
日本の幕末や海外の歴史などの一幕をなぞらえて
「血を流すほどの、徹底的な改革をしなくちゃ、
新しい時代は来ない」、という昔からよく聞く議論も、
あるいは、「一度はそういう「どんづまり」までいかないと
日本は再生しない」、、などという無責任な議論もある。

両方とも歴史の一部や様々な国で行われてきたことを今に当てはめてみて
無責任な評論家然として言っているような議論であって、
景気が悪い時代が続くと「戦争待望論」みたいなものまででてくるのに近い話だ。


筆者はそれは間違いだと思う。
仮にもし国民がみんな「どん詰まり」を味わうほどまで
おいつめられたら、それによって国や国民が失うものは計り知れない。

「ハードランディング」によって国民に多大な影響がでるような
ことはあってはならないだろう。
もちろん一方でこういった事態にしてしまった責任者が
「ソフトランディング」「おとがめなし」ではおさまらない。

要は「ケースバイケース」で進めることだと思う。
少なくとも「もうこれしかない」、という単純で画一的な選択肢の選びかたは
こういう時代にはふさわしくない。



1998.8.28

記録的な大雨による被害が続いている。
28日の金曜日も朝から電車の通行見合わせや
高速道路の通行止めなどが相次ぎ混乱も起きた。

そう言えば最近は長野県下での地震が頻発することといい、
今回の大雨の騒ぎといい、
国内で自然災害が多くなっているように思う。

また、海外でも記録的な自然災害というものが頻発している。

どこかのテレビのニュースキャスターではないが、
「ノストラダムスの大予言」に向かっているのではないかと
思わず考えてしまうこともある。

筆者はオカルトだとか占いだとかは信じない。
超自然現象などと呼ばれるものは
暇な時にテレビ番組で見てビールのつまみ代わりにするくらいだけれど
確かにこんなに自然現象での変化が続いてきたり
まして経済的な変化まで起こってきたりすると
少々、「そんなこともあるんかいなあ」、と思わされる時もある。

一体なにがこんな「世紀末的な現象」を起こしてきた
「根本原因」なのだろうと思わず考えてしまう。

たぶん、こんなことはきっと近代文明によって
恩恵を受けている人や生きている現代人なら
多い少ないはあっても少しは考えさせられているのではないかと思う。




1998.8.29

今後、そういう世紀末に対するばくぜんとした不安から
「根本原因探し」「犯人探し」が
起きてくるのではないかと思う。

その時に、きっと、やり玉にあげられるのは
「20世紀の科学文明やそれによって作られた経済」そのものになるのだろう。

たしかに20世紀の科学文明によってとんでもないところまで
地球や人間を取り巻く環境は来てしまったのだけれど

過度の20世紀の科学文明に対する批判や過小評価、
あるいは一面的な評価は
オカルトや超自然現象なるものへの信奉と同じで
健全な人間社会のあるべき方向とは思われない。

いまはまだ、それほど表立った話にはなっていないが
今後こういった「話題」は急激に人々の気分や価値判断に多大な
影響を与えはじめると思う。たぶん近いうちに、、。

理性的で科学的で冷静な判断が社会全体や一人ひとりに重要になる。
今、そういった基準尺のようなものを我々に与えてくれるのは
なんなのだろう。






1998.8.30

最近、20年も前にコピーしておいた(たぶん)新聞記事を偶然みつけた。
啓蒙思想家として有名な
ジャン・ジャック・ルソー(1712年〜1778年)
の思想について仏文学者の川合清隆氏が書かれたものだった。

これを読み直して、現代の我々が直面している様々な問題も
今から二百数十年も前にルソーやフランスの人々が直面していた問題も
あまりかわりない、いやむしろ当時、フランスの人々が
直面していた問題はいまの我々に多くの示唆を与えてくれると思えた。

製造業の話とはいささか離れていってしまうようにも思えるが
我々の「社会のありよう」と「物作り」や「20世紀の科学文明」は
決して別のものではないのだし、
理性的で科学的で冷静な判断を与えてくれる基準尺として
ジャン・ジャック・ルソーや当時のフランスでの議論は
とても学ぶものがあると思えた。
以下、少々、難しい話でもあるけれどここで紹介したいと思う。




1998.8.31

ジャン・ジャック・ルソーの初期の作品として有名なものに
「人間不平等起源論」がある。
ルソーの考えは不平等の起源は人間の本性・自然にはなく
社会に起因するものである、というものである。

そのルソーの「人間不平等起源論」が刊行されると
「フィロポリスの手紙」という批判文が現れた。
「フィロポリスの手紙」では、社会は人間の諸能力の所産なのだから
社会もまた自然である。人間はその本性にしたがって都市を建設する。
それが神の定めであるのだから社会を悪く言うのは
神の意志に不平を唱えることになる、という考えからルソーを
批判した。

これは、「現世をありのままに見れば万事はうまく進んでいるのだ、、」
という当時の神学的楽観主義に裏打ちされたものだった。

それに対してルソーは、社会は人間本性の直接的所産ではない。
現実の社会は人間本性によって直接的に決定されてはいない。
人間はこのような不平等な社会と別な社会を建設することも可能
だったのだ、、、と反論する。


INDUSTRYWEB HOMEへ戻る / 今日のコラムに戻る/ バックナンバーに戻る