今日のコラム・バックナンバー(1998年 7月分)


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1998.7.1

ベンチャー企業を育成しようとかいうことばが新聞や雑誌に
書かれるようになって久しい。

今は「第三次ベンチャーブーム」だとか、それもそろそろ終わりだとか、、
なにやらベンチャーというのはブームで起きてブームで終わるものでも
あるらしい。

国を作ったり、町を作ったり、企業を作ったり、
あるいは冒険によって時代を切り開いて行くことは
決してブームで行なうようなことじゃないのだろうと思うのだけれど
なんだかこの国ではブームというのが結構盛んで
一時のファッションや靴下のように、はやっては消え、はやっては消え、、、
するらしい。

筆者はアメリカに行ったことはない、住んだことはもちろんない。
アメリカの文化や情報は人づてに聞くか、本や新聞で知るしかない。
アメリカから勉強する部分はあるかもしれないしないのかもしれない。
今のアメリカが「すばらしい」かどうかもわからない。
そういうものがあるとすれば真摯に目を向けなければならないことももちろんだ。
でも盲目的に「アメリカはすばらしい」と言うつもりもない。

、、でもきっとリンドバークのような冒険家を輩出する土壌というものを
アメリカは持っていることは間違いないのだろうと思う。

それも単に冒険家というだけじゃなく時代の使命感に燃えた冒険家を生む土壌を。






1998.7.2

先日新聞に書かれていた記事を読んでそんなものかなあ、と考えさせられた。

どこかの大学の先生が子供たちを集めて「ベンチャー起業家養成キャンプ」
というものを始めたのだそうだ。
実際にそこでどんなことを行なってどんなことを子供たちが深く学んだかは
新聞の記事をみるかぎりではわからない部分も多いのだが、、、

    「ひとり当たり2000円の利益をあげて大喜びした子供もいたし
     「大企業に行くより自分で商売始めたほうがいい」と感想を述べる子供もいた」
        と教授は狙い通りの成果に満足げだ。、、、

とのことだけれど、、、
もっと先にやること考えることあるのじゃないのだろうか。

いまの子供たちが「大企業に行くより自分で商売始めたほうがいい」と
考えることが重要なのか、
社会的責任というものもしっかり理解した上で「自分の人生自分で決めて、
社会に対して自分の表現をしていきたい」と考えることが重要なのか、、、

結果的に同じように起業したとしても大きな違いがあるように思う。

けっしてお金をもうけようとすることを否定するわけじゃない。
企業が「適正」な利益をあげようとすることは当たり前のことだ。
子供たちを金銭感覚が薄い「天使」に育てようということでもない。

でも、しっかりしたアイデンティティーを国も自治体も個人も企業も持っていないのに
お金儲けの方法ばかり子供に教えてどうするんだろう。
少なくとも子供たちには多感な少年時代に学ぶことが他にもっとありはしないか。

起業家精神とお金儲けって同じことなんだろうか。






1998.7.3

いよいよサッカーワールドカップの決勝ラウンドが始って、
世界のトップレベルのサッカーがどんなものか
毎晩テレビでみることができる。

残念ながら日本チームは予選で三連敗してしまって
まことに残念な結果になってしまったのだけれど
世界のレベルはそれだけ高かったというごく単純な理由を
今更ながらに思いしらされた、、、ということだと思う。

週刊誌や雑誌でも日本チームの敗退の理由を
いろんな識者が評論していて
失礼ながら、なるほど、、いろいろ考えさせられた。

監督の采配や日本人選手のやる気のことだとか
あるいは例の、正式メンバーへ有力選手が登録されなかった問題だとか、、、
いろんな「理由」が書かれている。
中には「怨念」なんていう話まででてくるようなのもあって
なにやら卑弥呼の昔の話のようでもある、
おいおい、近代サッカーの話ではなかったのかいな。



いずれにしろ様々なことの総体として結果として敗退してしまった、、
ということなのだろうと思う。
だから簡単に言えば「世界のレベルは高かった」というほかはない。



1998.7.4

ただしこれだけは考えておく必要があると思った。

日本の得意は組織力によるサッカーであって、個人技や体格に優れた
外国チームにはそれをもって勝たねばならない、という議論だ。
この話はむしろ今回の結果で「そうじゃないのじゃないか」という
否定的?な雰囲気も生まれてきているようだけれど
少なくとも直前まではそういう考えかたはあったと思う。
もちろんいまでもそういう考えかたに日本チームの今後を
かける考えかたも多い。


だが今回見ていて思ったことは
個々人の能力や表現力がしっかりとしたものになっていないと
チームの力も引き出せない。
たとえいくら組織的に動くことが重要であったとしても
個人の能力が基本的に高まっていないと組織の力も弱い。

いやもっと本質的な事に迫って言うならば
個々人の力は個性や表現力が乏しくてもそれを集団で行なえば
なんとかなるというのはまったくナンセンスだと思えた。
また力のある個性的な個人を集めて個性を殺して集団的に行なうことが
強いことになるのかというおそれも本来おかしい。

個人個人のプレーヤーの能力にいろいろ注文をつけるつもりで書いているのではない。
ただそういう個人と組織の関係についての「考え方」が
まだ日本のチームは世界的なところまでたどりついていないと思うのだ。





1998.7.5

個々人の力はどこからくるのか、ハングリーさにもよるだろうし
個人の表現に対する欲望もあるだろうし使命感もあるのだろうとも思う。
それによって培われた技術や能力、表現力、そういったものを持った
個性的で能力のある個人で集まった「目的を持った集団」があって
そのなかでそれぞれの個人が自立的に能力を発揮する。
そんなことが必要なのではないかと思えた。

これは最近のものづくりにも言えることだ。

個性的で能力のある企業や個人が
あるドメインを持って自立的に物作りに参加してくる。
そういうネットワークを自分たちで作ってものづくりを進める。
サッカーとまったく同じ話じゃないか。

集団や組織、それと個人との関係、
単なるサッカーの話ではない。これは日本型システムの話なのだ。




1998.7.6

以前この今日のコラムで書いたことがあるが
神戸製鋼のラグビーチームのキャプテンだった平尾誠二氏の著作
「イメージとマネージ」(集英社)
サッカーの名古屋グランパスの監督だったアーセン・ベンゲル氏の著作
「勝者のエスプリ」(NHK出版)
は、ともにスポーツとしてのサッカーやラグビーの話だけでなく
集団や組織、それと個人との関係、についてとても示唆に富む話が
読めてとても面白い。

今回のサッカーのワールドカップの一連の「経験」についても
これらの本を読みながら振り返ってみると
なるほどと思うことがたくさんある。
チームと個人の表現力という点では両氏の考え方、主張は
おおいに日本チームの今後の参考になるだろうと思う。


中に書かれていた平尾誠二氏のこの一言はとても痛快だった。

「そいつにあうポジションがなければ、むしろ新しく作ってやれば良いんですよ」

神戸製鋼の二年めにポジションの名前を全部変えようとしたことがあったらしい。

「結局やらなかったんですけどスタンドオフなんてよくわからないし、センターなんて
抽象的過ぎる、もっと役割にふさわしい名前があるはずだって言って、、。
例えばフルバックなんて、この言葉がポジションをしばっていると思ったんです。、」

そこまで柔軟な発想をもってこそ
日本選手権7年連続制覇を成し遂げることができたのだろう。

今回の「ワールドカップ」の一件からいろいろなこと考えさせられた人、
お勧めですので是非読んでみたらよろしいかと思います。




1998.7.7

近くのショッピングセンターの野天の駐車場のまわりには
さつきを植えた花壇がある。

外からその駐車場に入るにはちゃんと入り口から入ればいいのだけれど
遠回りになるから大抵の人はその花壇をまたいで入る。
おかげでそこに生えているさつきはとても見られたような状況では
ないみすぼらしいありさまだった。

先日そこを通りかかってなるほどと思った。
知らない間に人が通れるようにちゃんとした道が作られていて
さつきの花壇をまたがないでも駐車場に入れるようになっていたのだった。

花壇の花が踏み潰されないようにするには
花壇を容易に超えられないように壁を高くするという方法もある。
だけれどこの場合はお客さんが遠まわりをしなければならない
ということが決定的になってしまう。
かといって道を作らなければいつまでたっても花壇は踏まれるままだ。

結果的にこんな小さな道だけれど
そんなものでもつくっただけでたぶん花壇を守ることはできるだろうと思う。
お客さんや通行人の利便性はむしろ改善されているはずだ。

なんだそんなことかという人も多いと思う。
確かにショッピングセンターの駐車場の管理者だったら
花が枯れることにこころをいため、お客さんや通行人にも便利でないと考えれば
そういうアイディアは当たり前に出てくるとも思う。

けれどそういう発想を我々がいつもしているかというと
案外そうでもないのじゃないだろうか。
当たり前のような話だけれど結構深く考える事がここにはあるような気がした。



1998.7.8

いやー暑い!です。
やっぱり夏はビールだ!

てなわけで最近の「マイブーム」は
テレビでよく人気女性タレントが宣伝にでている
さわやかビールである。

ここ最近は赤ワインがはやりとかで
自分としても健康が気になるし
かと言って酒も飲みたいし、、ということで
自分としてはたいしてウマイとも思わない
赤ワインを買ってきては飲んでいたけれど
やはりこの暑さが続くとビールが飲みたくなる。


赤ワインが人気になったということの理由のひとつはその中に
ポリフェノールという成分が入っていて
これが健康に良いということらしいのだが

そのうちポリフェノール入りのビールなんてのもでてくるかもしれない
カロリーが低くてポリフェノールも入っていれば
なにも無理してウマイとも思わない赤ワインを飲まなくても
いいのだからいいと思うけれど、、

健康というキーワードで消費の方向というのも
変わってくるということもあるけれど
やっぱり嗜好はそうは変わらないと思った次第、、




1998.7.9

そう言えば一時ブームになった、いやもちろんいまではしっかりと
ビール好きの中に根づいた感のある地ビールというものがある。

残念ながらまだ全国的に名の知れた「メーカー」と言っても良いほどの
地ビール屋さんはそうたくさんはないが
結構な数の地ビール屋さんが各地にこの間生まれたことは間違いない。
規制緩和の影響はあったのだろうと思う。
少なくとも隙間をぬって様々新しい商品は生まれてきているのだ。


ビール好きもワイン好きも日本酒好きもお酒好きは今後も減ることはない。
お酒を飲む人は景気が悪くても飲むときは飲む、
そりゃ少しは減るかもしれないが、、
たくさんの左党とたくさんの嗜好があってますますいろんなニーズにそった
お酒も生まれてくるだろう。
酒屋のショーケースのまえでどれにしようか考える選択肢が増えただけでも
左党にとっては良いことじゃないか。

消費者や市場の要求にそった様々な製品、商品が今後も生まれてくることは
とても重要なことだと思う。
それはお酒に限っての話ではもちろん、ない。

規制緩和も進んでいるのだろうから?
ここらでもういちど自分たち製造業の世界で
「こんなものがあったらいいのじゃないか」とか、
よくよく考えてみるのもいいのだろうと思う。
そういうものって案外まだまだたくさんあるように思う。



1998.7.10

自分たちの町や住んでいるところにも
そういうアイディアってたくさんあるのじゃないかと思う。
確かに商品としていろいろものを作るということは
販売とかのことを考えたら大変なことではあるのだろうけれど

自分の身近なところで普段つかっているものや
欲しいものを自分たちで作ってつかってみる、販売してみる
ということももっとあっていいのじゃないかと思う。

どこかで作ったものを買ってきて消費するということが
あたりまえになってしまって、まったく疑問を持たずに
そういうことが生活のなかのシステムみたいになって
しまっているように思うのだけれど
よくよく考えてみれば
自分たちで作って消費する、販売するということが
もっとあっていい。

そういうあたりまえだと思っていること自身を
自分たちで打ち破っていく、いわば
自分自身の規制緩和をしていくことが今重要なことでは
ないかとも思う。



1998.7.11

そんなことをしたら社会にまわっていくべきお金や資源が
回らなくなるのだから
既成のシステムを覆すようなことはしないほうが良いと言う意見も
あるかもしれないが
むしろそういう自分たちの言ってみれば「自己規制」に
いつまでもとらわれていることのほうが長期的に
みたら国や社会や産業の活力を失わせていることになるのじゃないか。
そんなふうにも思う。

よくよく考えてみると社会や産業の隅々でそういうことが
いま問題になりつつある。
今後はそういう既得権と新しい仕組みとの間でせめぎあいもあるだろう。
だがそういう部分でむしろ民間のなかからそういう問題にたいして
積極的に機会として捉え、解決していくべきだとも思う。


国の規制緩和も重要なことだ、

しかし、同時に自分たちの頭のなかの規制と既成の緩和や撤廃を
進めていかなくてはなんにもならない。

あえて言えば規制緩和をして垣根がなくなっても
その垣根を乗り越えていくのはあくまで自分たちの力なのだと思う。




1998.7.12

今日は参議院の選挙だ。

投票率のことで連日のようにテレビや新聞で
「投票しましょう」と呼びかけが行われているが
ことは単なる「投票率」の問題なのだと思ったら大間違いだと思う。
確かに投票という行為や選挙ということ自身は重要であることは間違いない。
我々の先人が血を流してまで勝ち取ってきた大事な表現方法なのだ。
軽んじていてはならない。

ただ、国や社会と個人の関係を選挙とか投票とかいう行為でしか
表せないと考える傾向があるとしたらそれもおおいに問題がある。
いや、今のマスコミの評論ではそういう傾向があるようにも思う。

自分たちの国を自分たちでどうしていくのかという表現方法には
もちろん選挙や投票という事もある、ストレートに政治の力で変えて
いくというのは有効な手段だ、
同時にそれ以外にも社会や国に対する自分の意志や国造りの表現の
方法はいくつもあるのだと思う。

自分の仕事を通じてもあるだろうし、
あるいは社会貢献やボランティアやその他にもいろんな方法があるのだと思う。
そういう方法を含めてひとにはそれぞれ表現方法がいくらでもある、、、、
自分で考えれば、、、ということにももっと意識すべきだと思う。
それだって大事なことだ。
そういう社会と個人の関係をもっと日ごろから考えていないと
いざ選挙だ投票だといってもそりゃ、ひとごとになってしまうじゃないか。

、、というわけで筆者にもせっかく国に対するストレートな表現方法を
与えられているのだから投票に行く。
みなさん、投票に行きましょう。




1998.7.13

この前近くの貸しビデオ屋さんにいって見つけた映画に
「アロー」という映画があった。

カナダの航空機会社でイギリスのアブロ社の子会社「アブロカナダ社」が
1950年代に開発した「CF−105アロー」という超音速戦闘機をめぐる
実話を映画化したものだ。

映画では当時決して世界のトップとは言えないカナダの航空機産業のなかから
世界と肩をならべることができる戦闘機を作りあげようと
夢と希望に燃える技術者たちの奮闘ぶりが画面に現れていて
とても興味深く、また飛行機好きな人にとっても見ごたえがある映画に
なってもいる。

手に入れた「CF−105アロー」に関する本によれば
この「CF−105アロー」という機体は当時としても非常に先進的な構想と
それを支える技術によって当時でみても世界のトップレベルの性能を誇る
ものであったのだそうだ。

たしかにスペックをみれば現在でも通用するといえるほど
非常に先端的で、またバランスの優れた機体のようだ。


ただしこの優秀な戦闘機はその優れた性能にもかかわらず
実際の生産には結びつくことなくテスト用の機体が数機生産されただけで
計画は破棄された。




1998.7.14

その映画の中でもそうなった経緯がほぼ忠実に映画化されている。

5機のテスト機によって世界にみてもトップクラスの性能が確認された
アブロカナダ社製「CF−105アロー」の生産計画は
1959年2月にカナダの政権をにぎった保守党のデューフェンベーカー首相
によって突如、計画のキャンセルを言い渡されてしまう。
製作中だった試作機も含めすべての機体がスクラップにされてしまう。

このようになった根底には今後の戦争の形態がミサイルによる戦争に変化し
有人戦闘機は時代遅れになるという認識があったのだという。
アローの試作一号機がロールアウトしたその日に世界初の人工衛星スプートニクが
うちあげられ、今後はICBMなどのミサイルによる戦争になっていくという
予想が当時の認識だったようなのだ。
また長距離爆撃機の驚異も地対空ミサイルによって対処できるという認識もあって
、、そんなこんなで結果的にアロー計画はキャンセルされてしまった。

キャンセルの結果、地対空ミサイル「ボマーク」をアメリカから購入したのだが
しかしそのミサイルも所定の性能がでないということでまた再び
戦闘機を揃えることになる、だがその時には自前の戦闘機はすでに存在
しないのだから戦闘機そのものもアメリカから購入することになってしまう。

もちろんその時にはカナダの航空機産業は壊滅的な状況になっていて
すでに自前の戦闘機をいまさら開発できるような状況にもない。

結果的にカナダはアメリカに乗せられたような恰好で自分たちの持っていた
優れた技術や製品を自らごみ箱に捨てただけでなく、そのかわりの商品まで
アメリカから購入せざるをえなくなってしまう。

映画では当時のアメリカとカナダの間のやり取りを皮肉を交えながら再現していた。

これは単なる飛行機の選定問題なのではない、もちろん戦争のシステムについての
見通しが甘かったなどという話なのでもない。
道具をうまく売ることができたアメリカのやり方も「なかなか」だけれど
それにいとも簡単に「やられてしまった」当時のカナダの為政者も
なんとまあ、わけのないことよ、というわけだ。

こんなことはきっとカナダだけの問題じゃないのだろうな、と思いながらみていた。
なんか今の日本を見ていても同じような気もする。




1998.7.15

15日の読売新聞の経済欄を読んでいて
日刊工業新聞か日経産業新聞でも読んでいるんだろうかと
一瞬思った記事がある。

「電子メールきっかけに大型受注」という記事で
大手素材メーカーがホームページを作っておいたら
そこにエジプトの企業からメールが届いて
それを読んだホームページ担当者が営業担当部署にまわして
めでたくも大型の受注に結びついた、というような記事だった。

このインダストリーウェブを見ていただいている人の多くは
インターネットが製造業のものづくりや資材の調達に
今後おおきな変化をもたらすものだろうという予想を持って
おいでだろうと思う。

筆者のところにも日本中から諏訪バーチャル工業団地の試み等に
対して「受注の成功例」なんかの問い合わせがしょっちゅうくる。
しかし、まだまだ正直いってインターネットの製造業での利用の可能性は
まだまだその緒についたばかりだと思っている。
もちろん成功例なんかもすこしづつ増える状況にもある、
が、本当に利用の試みが加速するのはむしろこれからだろう。

そうはいっても一般の新聞にもインターネット受注が記事として
書かれるような時代になってきたことはとても感慨深いものがある。
しばし、「読売新聞」という活字と前述の記事を相互に見比べながら
時代の確実な変化を感じていた。


願わくば、一日でも早くすべての物作りの現場に携わる人々にとって
インターネットがすばらしい道具になっていけば、、
インダストリーウェブはたとえ歩みは遅くとも
製造業のインターネットの利用の創造、ひいては製造業の復権にむけて
奮闘していこうと思う。




1998.7.16

以前ここでも紹介させてもらったことがあるが
筆者のすむ町に自動車の博物館がある。

普通いろんなメーカーや車種をまたいで展示している博物館が
あたりまえのなかでその博物館は単一車種に絞った展示構成という
珍しい車種構成の博物館で国産の某有名ブランドの自動車のみが
展示してある。

最近はいろんなイベントも併催するようになったから
結構若い人をはじめとして
全国からその車のファンが集まってくるようになったようだ。

そんな博物館をめぐる話題が地元の新聞に紹介されていた。
なんでもそこで開かれた「ガレージセール」で鉛筆による自動車の
絵を展示販売した人がいて、それが好評になって博物館のなかの
販売ブースに常設で販売するようになったのだそうだ。
で、これが半年で400枚あまりも販売できたのだという。
ガレージセールから始った試みとしてはなかなかのものだ。

こういう、言わば、始まりは素人はだしかもしれないが
立派に「商売」として成り立つことが案外身近にはあるのだと思う。




1998.7.17

このまえここで書いた地ビールの生産だって
「規制緩和が進んできたのだからできた」
と思ったら大間違いで
いままで大手企業が作っているのが当然だと思っていたところに
疑問をもったところから始まったのだと思う。

おなじことを何度も書くようで申し訳ないが
そういうところに素直に疑問を持って
自分の欲しいものを作ってみる、
もしかしたらみんなが欲しいかもしれないのだから売ってみる、
ないからといってすぐ「買えばいい」という発想を止めて
「自分で作ってみる」という発想がもっとあっていいのだと思う。
地ビールだって、鉛筆画だってそういう
素直な発想があったればこそものになったのだと思う。
たしかに規制は壁かもしれないが
それによって製品化できないとか難しいとかは
よっぽどのことでもない限り直接的な問題ではない。
むしろそういう発想が浮かばない自分たち自身の発想の貧困さを
問うべきだろうと思う。

確かにビールを作るというのはお金もかかる、
だけど案外お金をかけずにできることも多いはずだ。




1998.7.18

でもって、そういった発想をするとき
大事なことってあるのだと思う。
特にお金をかけずにこういった「ものづくり」を
始めるには大事だと思うことがある。

それは地元の「地域の資源」をつかってみるということだ。
どんな地域にも必ずその地域特有の歴史的なあるいは
特有の資源というものをもっているのだと思う。

しかし案外地元の人たちに限って自分たちのもつ資源に
気がついていないことがあるように思う。

自分たちのもつ資源、資産、
これにはいろんな側面がある。
人的な資源もあれば
物作りの技術もあれば
その地域のロケーションもあれば
歴史もあれば、、、、
いろんなものの複合だ。

そういういろんないろんな「地域の持つ資源」全体に
敏感に気がつく必要があると思う。




1998.7.19

地域のものづくりの新しい発想に必要なものを
あえてもう一つ、あげるとすると
その地域全体の町づくりや産業づくりの方向の認識を
みんなで作り、練り上げていくということではないか、と思う。

どんなことでもいいからみんなで
「新しいものづくり」と
「産業や町づくりの方向」を
結び合わせる議論と試みをする言わば「文化の苗床」があれば
一人ひとりのものづくりへの発想とチャレンジはとても
やりやすくなるしきっと簡単に動きだすことができる。

逆に言えば一人ひとりの様々なチャレンジが
その町のものづくりや町や産業の方向を作っていく力にも
なっていくのだとも言えると思う。

今はそういう「小さな個人の小さな動き」を
まちづくりの未来に重ね合わせる様々な努力を
するべき時だと思う。



1998.7.20

さてさて、そんな町づくりやそれと結びついたものづくりが
今後は日本中で行われるようになるだろうと筆者は考えている。

個人が様々に考え、作る、「もの」や「町」や「産業」は
いろんな表情をその町に与えるに違いないだろうと思う。

これからの町が持つ「表情」は決してひとつにとどまらないだろうと思う。

個人が考えたり作ることができる様々な「もの」や「事」が
たとえ小さくてもそれがその町のいくつかの表情のなかのひとつを
表現するものにもなっていくのだろうと思う。

個人がもつ自己表現の息吹や希望や欲望の実現は
情報化時代を迎えてますます容易にもなってきているのではないか。
ことばをかえれば「自分たちで自分たちの町を作る」ことは
充分、簡単に、容易に、なってきているのだとも思う。

今、そんな時代になりつつあることに自分たちの認識が
遅れていかないように、、する必要もある。本当に。




1998.7.21

最近、新聞で盛んにとりあげられている
「強壮剤」の記事については知っている人も多いと思う。

つい最近はその使用法の問題があったということなのだろうか
人命にかかわる事故もあったということが記事にもなっている。

まあ、ここまではこのコラムで扱うことはない話題なのだけれど
日曜日の新聞に
そういう様々な「海外の医薬品」の情報がインターネットを通じて
国内にはいり個人輸入代行業を通して国内にもたらされる、
これがそういった事故やあるいは青少年の「合法ドラッグ」などにも
結果的に結びついてきているという記事があって少々気になった。

確かに「ポルノ」の問題も含めて
こういった「現象」がインターネットや情報技術の発達によって
また、それが既存の輸送手段なんかの発達や利便性の発達によって
出てくることは時代の流れだ。
新しい「問題」として確かに「検証」していくことは必要なことだと思う。
この問題の底には薬事法のことや薬と国民の健康をめぐることなど
考えなくてはならないことがたくさんあると思う。

それらについてはここでは書かないけれど
が、これがなぜか、インターネットそのものの否定的な論調になっていく
とするといささかここでも考えなければならないことだと思った。




1998.7.22

新聞には識者の意見として
「インターネットの情報は偏っている」という認識が日本では薄い、
と書かれていた。

果たして「インターネットの情報は偏っている」のだろうか。
筆者はそうは思わない。

確かにインターネットの上にある情報は「玉石混合」だ、
だが偏っているとは思わない。
一方から見て「正しい」と思われる情報も「正しくない」と思われる情報も
両方含めて存在している。
言わば世界に対する認識をありていにそのまま表現しているのであって
それは「偏っている」ということではないのだと思う。

怪しげな薬を認める意見も認めない意見もインターネットの上には存在できる。
人はインターネットの上でどちらの意見にも耳を傾けることができる。

これは世界に対する認識の総体であるインターネットの上の情報を
人間がどう知り、認識し、使うのかという人間の側の問題なのだと思う。




1998.7.23

テレビのニュースで流れていたから知っている人も多いだろう。
名刺カード型の世界最小「オーディオ」というものが現れた。
CDとかMOとか媒体を使うのではなくて
半導体そのものに音の情報をそのままいれるのだそうで
揺れとかショックに影響されないというメリットもあるのだとか。
音質はCDなみで
実際オーディオ機器に接続すれば良質な音楽が聞けるようだ。
半導体の容量も最近はとても大きいから30分弱の音楽が
その機器のなかに入っている半導体が埋め込まれた
マッチくらいの小さなカードに入ってしまうのだという。
もちろんそのカードも入れ替えもできるのだが
何といっても半導体に直接書き込むから
30分の音楽も数秒で「ファイル転送?」できるらしい。
駅や町角のコンビニなんかで
情報端末から直接情報を流し込むなんてこともできるらしい。
それができるのならほかにもいろいろ利用の可能性は生まれて
くるだろう。




1998.7.24

この前見ることができたのだけれど
最近のデジタルカメラに使われたスマーメディアと呼ばれる
極少の記憶媒体の登場もすごいと思うし、音の情報を直接
記録するボイスレコーダーと呼ばれるようなものも最近は
たくさん出てきた。中にはそのままコンピューターの中に
ファイル転送できるようなボイスレコーダーも登場している。

おっと、そう言えば印刷されたバーコードを
ペンシル型のバーコードリーダーでこすると
音や音楽情報が引き出せるというのもあったっけ。


こういったものは何といってもデジタル情報だから
保存も加工も転送も、そして使い方そのものも
いままで考えられなかったような応用も生まれて来る。

今のところは音の情報が多いようにおもうけれど
デジタルカメラの延長上で動画や
映像と音とミックスしたような使い方や、、そんなものが
今後は増えてくるのだろう。






1998.7.25

記憶媒体もそうなんだけれど
デジタル情報化していくと同じように
小型化していくということも
考えてみたらすごく大きな影響がある。
、、というか現在生まれているような家電、情報機器は
すべて「小型化」される方向にあると言える。

それは当然、当たりまえのことなのだけれど
だけどすべてのものが小型化していくのかというと
そうでもない。

テレビは薄くなってはいくけれど
テレビの画面は大型化していくし
車の大きさは小型化していくけれど
車室の大きさはむしろ大きくなっていく。


よく考えてみれば
そういう基準の大きさはあくまで人間の大きさが基本で
あることに気が付く。




1998.7.26

テレビの画面や車の車室の大きさや
あるいはコンピューターのキーボードの大きさは
人間の大きさがとんでもなく変化しない限りは
そうそう大きさにたいする要求は変わらない。

人間とのインターフェイスである部分は
基本的には変わらないということだ。
無闇に大きくなっていくこともなければ
小さくなっていくこともない。
しかしそれ以外のインターフェイスである部分は
どんどん小さくなっていくということなのだろう。

これはきっと車やコンピューターやテレビ、だけじゃなくて
たぶんすべてのものに必要になってくることだ。




1998.7.27

最近いろんなところで名前を聞く「ムーディーズ」
正確には「ムーディーズ・インベスターズ・サービス」と言うらしい。

アメリカの大手格付け機関、ということらしいが
どんな機関なのか、よく分からない。

そんな「ムーディーズ」が日本の国債の格付けを引き下げの方向で
検討しているんだとか、したんだとか、、、

まあ、日本そのものの格付けを引き下げるということなのだろう。
簡単に言えば国際間での日本の信用をひきさげますよ、ということだ。

しかし、、なぜ政府のお役人やえらい人たちはそんなこと言われて
黙っているんだろう、不思議でならない。
「ムーディーズ」そのものを逆に「格付けする」くらいは
言ってもいる?ようだけれど、なぜもっと
「日本国民を馬鹿にしてくれるな」と、怒らないのだろう。

筆者は「ムーディーズ」そのものに対する感想よりも
そんな「日本国民に失礼なこと」を言わせてしまう日本のえらい人に
むしろ「おい、いいかげんにしてくれよ」と言いたくなる。


亡くなった司馬遼太郎氏の「明治という国家」という本をご存知だろうか。

その中に「明治国家は貧の極から出発しました」という
文章から始る一節がある。



1998.7.28

亡くなった司馬遼太郎氏の「明治という国家」という本がある。
その中に「明治国家は貧の極から出発しました」という文章から始る一節がある。


明治国家は貧の極から出発しました。旧幕府が背負った外債もむろんひきつぎました。
あらたに明治国家は借金もしました。それらを、貧乏を質に置いても、げんに明治、
大正、昭和の国民は、世界じゅうの貧乏神をこの日本列島によびあつめて共に
くらしているほどに貧乏をしましたが、外国から借りた金はすべて返しました。
「国家の信用」
というのが、大事だったのです。

(中略)

十九世紀の半ばすぎという時代において、古ぼけた文明の中から出て近代国家を
造ろうとしたのは、日本だけだったのです。そのことのけわしさを
のべたかったのです。
いったん返すべきものを返さなければ植民地にされてしまうのです。
でなくても、国家の信用というものがなくなります。
国家というのも商売ですから、信用をなくしてしまえば、取引ができなくなるのです。
信用がいかに大事かということは、江戸期の人達も、その充実した国内の商品経済
社会での経験で、百も知っていたのです。

           「明治という国家」  司馬遼太郎著  日本放送出版協会




1998.7.29

「明治、大正、昭和の国民は、世界じゅうの貧乏神をこの日本列島によびあつめて共に
くらしているほどに貧乏をしましたが、外国から借りた金はすべて返しました。」
、、というはずなのに
なぜ今、日本の信用は下がりつつあるといわれなくてはならないのだろう。

確かにむちゃをしてきた一部の企業も日本の中の企業なのだから
それも含めて日本の現状をまとめて見た結論として「日本の信用引き下げ」と
言われればそれもいたしかたないことないことなのかもしれないが、、、
しかし国民のひとり一人が懸命にものを作り、国を作り、信用を築いてきたはずなのに
今になって信用が格下げになると言われて黙っていられようか。
むちゃをしてきた一部の企業ならともかく
日本全体が信用格下げと言われたら普通なら国民が怒って当然だろうと思う。

苦労に苦労を重ねて国家の主権と信用を築き上げてきた先人たちを思うとき
我々はこのまま「日本国家の信用は引き下げ」と言われていていいのだろうかと思う。

ただ、この悔しさを誰にむければいいのだろうか。
今回のことに限らず「日本国家の信用は引き下げ」というような国外の評論が
出てきたらそれに対して悔しく思うのは日本国民なら、まあ、当然とは思うけれど
ことはそれだけじゃないと思うのだ。

こういうことになってしまったこと自身はとても悔しいことだけれど
そういうことにしてしまった「私たちの国の問題点」が
なんら私たちの中で本質的に語られていないこと自身が
本当の意味で問題だと思うし何より本当に悔しいことなのだと思う。



1998.7.30

今週の日曜日の日経新聞の「経営の視点」に
「明日の産業政策が必要」「経済再生、起業家が担う」という
内容の文章が書かれていた。
なかなか興味深い内容なのでここでも簡単に紹介させてもらいたいと思う。

マイケル・ミルケン氏という
「80年代にアメリカでジャンクボンドの帝王として大旋風を起こした人」
が、ロスアンジェルスで行われた討論会で
パネリストが例によって「日本は”遅すぎる”」と批判したことに対し
「よその国への批判はいい加減にやめよう」と発言を封じたのだという。

一国の経済構造を変えようとするなら時間がかかるのは当然だ。
今、繁栄を謳歌する米国だって、その前には長くて暗い停滞期があったではないか、
とミルケン氏は言った。


80年代、アメリカの経済が停滞期にあり、
社会全体に悲観や不安が広がったとき、アメリカの産業界は、
強力なリーダーシップのもとでの巨大企業の変貌 と 振興企業の台頭
、という二つの原動力によってその再生が始った。

アメリカでは83年から89年までに2000万人
90年代にはいりさらに1000万人に新規雇用を生み出した。
レーガン大統領の税制改革と新しい資金供給システムの爆発的成長が
これらの信じられないような
「巨大企業の変貌」 と 「振興企業の台頭」をもたらした。
経済の再生は政治家だけの仕事ではなく、本来起業家が担うものなのだ。
                                                              (続く)



1998.7.31
(続き)
改めて日本に目を向けると
国際競争力を失った「昨日の産業」の救済と「今日の産業」のための
政策はあっても「明日の産業」政策がない。
規制緩和といっても国内の既存プレーヤーの利害調整に終始し
新しい企業の出番がない。

アメリカの通信市場で今、次々と振興企業が登場し
巨大企業を脅かしている。
だが日本では新鮮さを感じないいつもの登場人物が
ぶつかっているの過ぎない。

政治に本気で改革を迫るなら、企業の側にも改革で今は影も形もない企業に
自らが駆逐されるかもしれない、という覚悟がいる。
それなしで、新しい官民協調や新社会資本をうたっても、セメントや
鉄に注がれていた税金がパソコンや電話線に回るだけだ。

                      7月26日  日本経済新聞「経営の視点」


、、そうだ、今はもしかしたら新しい時代の幕開けにむけて
我々自身で準備を進めているところなのかもしれない。
後になってみたらこの時代はそういう「時代の要請とメッセージ」を我々に送っていた
のかもしれない、と気が付くことにもなるかもしれない。

だから決して、「外野や部外」に言われていちいち四苦八苦するのではなく
「日本の明日のビジョン」を作る努力をすべきなのだろうと思う。
今、焦らず、迅速に、、



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