今日のコラム・バックナンバー(1998年 1 月分)


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1998.1.4

皆さん、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
皆さん、どんな正月でしたか。

筆者は今年の正月は「コンピューターにはつながらなかった」。
できるだけ本を読むかテレビをみていた。
今更ながらにテレビの情報量というのはすごい、と思った。

もちろん、娯楽の番組もすごいのだけれど
年末だからだろうけれど各放送局とも力の入った番組が多かった。

まずは年末のテレビ番組の、大前健一氏「カウントダウン2000」
情報革命と21世紀の社会システムの変化をいろんな方向から見通す
なかなかの番組だった。

また、1日のNHKでやっていた番組
未来潮流「機械生命の新世紀・米ロボット最新研究」
と
NHKスペシャル「21世紀に挑む」   立花隆と六人の夢
がなかなか見ごたえがあったように思う。

年末夜中の「朝まで生テレビ」には中小企業のおやじさんたちが
「たぶんえらい人たちなんだろう経済評論家」たちの空虚な議論をよそに
迫力ある話しをして考えさせられた。
登場した識者の中ではテリー伊藤氏の話しが「評論家ぽくなく」ておもしろかった。







1998.1.5

昨日も話ししたのだけれど
年末のテレビ番組の、大前健一氏「カウントダウン2000」では
情報革命と21世紀の社会システムの変化について様々な識者が参加
するなかで面白い議論が聞けた。
特に日本総合研究所の田坂氏が話す内容は大前氏の話しとも絡んで
とても面白いと思った。
なかでも製造業との関連について資材調達や企業間の連携や開発やに
また、ものづくりそのものにコンピューターネットワークが及ぼすであろうこと
についての話しはとても面白いものだった。

田坂氏は今後コンピューターネットワーク時代の企業のキーワードは
・コアコンピタンス
・アライアンス
・オープン
だという。
でもってこれらが
・ボランティア
・オープン

などの今迄の企業文化とは正反対の「インターネット文化」の
なかで展開していくとどうなっていくのかということを
興味深い展望で語っておられた。
内容については両氏の著作に詳しいから読まれることをすすめるが
・コアコンピタンス・アライアンス・オープン
の三点についてはなるほど重要なキーワードだと思う。





1998.1.6

おととい話したように、1日のNHKでやっていた番組
未来潮流「機械生命の新世紀・米ロボット最新研究」と
NHKスペシャル「21世紀に挑む」−−立花隆と六人の夢−−
も興味深い内容だった。
後者では六人の中の一人にロボットの開発に携わる若い学者が
紹介されていておもしろかった
(もちろん他の5人のこともとてもおもしろかったのだけれど)

「ロボット!」が抱える今後の課題というのはとても大きい。
昨年秋のロボット展でもその課題がある意味で鮮明になりつつあると思えたし
本田の二足歩行ロボットが社会や産業界に与えたインパクトの大きさは
知っての通りのあの騒ぎにもなった。
正月前後の新聞や雑誌なんかでもロボットをあつかった記事がとても多い。
それも、「業界の生産額が多い、少ない」、「どこかで新型を出した」、
といった話題ではなくて、もっとロボットの本質について触れたものだ。

このように「ロボット」をめぐる「話題や評論や番組」が最近になって
これほど多くなったのはなぜなんだろうか。
正月だからとか、話題がなくて作った、というような記事や番組とも思えない。




1998.1.7

先日テレビの「カーグラフィックTV」で
話題の車「トヨタプリウス」について特集していた。
ご存知のように「トヨタプリウス」は
世界で始めて市販された「ハイブリッドカー」だ。
電気自動車とガソリン自動車の「良いとこどり」をした
環境問題や省エネ問題に対するトヨタ自動車の解答だ。

開発担当者の話しを聞いていて面白いと思ったことがある。
エンジンブレーキの代わりになるものがもちろんある。
モーターを発電機代わりに使って発電してその発電のために生まれる
回転抵抗をエンジンブレーキの代わりに使おうと考えられている。
これは電気自動車の世界では当然の話しだ。

プリウスではちゃんとオートマチックのレンジの違いによるエンジンブレーキの
効き目の違いも再現できるようになっている。
ところが走行中にエンジンブレーキを強めるためレンジを変えると
「ガクッ」と来る「あの感じ」があまりないそうなのだ。
実際には減速Gは確実にエンジン車に比べて遜色ないほどに
でているのだそうだが「ガクッ」と来る「あの感じ」がないために
減速感が伝わって来ないのだそうだ。
明らかに開発の過程でもそれが問題になったことがわかった。



1998.1.8

むしろ性能では達成されているのにいままでの「感触」から
離れることが出来ないためにあえて昔風にしなくちゃいけないこともあるらしい。

モーターでスタートするこの車の場合、キーをひねってスタートの準備状態に
入ってもエンジンは回っていない。
いままではエンジンは走行に入る前には必ず回っているが当然だったから
この場合、とても違和感がある、で、プリウスは
とりあえずエンジンは回ってますよ、
と主張するために最初の5秒間はエンジンをまわしてしまうのだそうだ。

まだまだガソリン自動車の世界が当然とされている今の社会では
わかっていても体や感情がついていかない、いけない、ことが結構あるのだろう。
走る、移動する、ものを運ぶという本来の目的からすれば
今で言えば「トヨタプリウス」のような「ハイブリッドカー」が
相対的に「良い」に決まっている。
が、「エンジンの音が好き」なのだとか、前述の感覚のずれなどの
そういう部分、はまだ折衷案を作って行かねばならない時期でもある。

でも結局、「馬車」が自動車に駆逐されていったようにいずれ
電気自動車にシフトされていくことは間違いない。
その時には電気自動車なりの「趣味性」みたいなものが
よくしたものでちゃんとでてくるはずだ。
超スムーズ運行用ROMだとか、クラッシックカー(そのころは今の
エンジンカーがそれのはず?)再現用ROMだとか、、、
が販売だってされるかもしれない!?。
電気スポーツカーだってしっかり販売されるだろう。
それはエンジンのスポーツカーの電気自動車版ではないはずで
あくまで電気自動車としての楽しさを追求した
新しいジャンルのスポーツカーであるはずだ。



1998.1.9

これらの問題はなにも自動車の世界だけの話しではなくて
今後いろんな状況ででてくることだろう。
これが可能になったのは間違いなくコンピューターを含む「科学や技術の力」だ

先日の「ロボット」の問題もそうだと思う。

爆発する内燃機関をなんとかなだめすかして実用に供してきたエンジンカー
のように、ただ単にロボットとしてのぎこちない動きに潜在的には満足せずに
利用されてきた(それしかなかったのだから)ロボットが
「科学や技術の力」によってようやく本来の目的にかなったもの
人間や産業や社会が望むことをストレートに表現できるものになっていく
時期がようやく来たということなのだろうと思う。
そう、むしろこれからの時代においては自動車以上に社会や産業に与える影響は
大きいかもしれない。

大体、よくよく考えてみれば、ネットワーク化されて、ハイブリッド化されて
人間とのインターフェイスがよくできていて、自律的にうごくようになった自動車は
移動のための「ロボット」そのものじゃないか。




1998.1.10

これからの時代における「ロボット」が社会や産業に及ぼす影響は大きい。
そしてその「可能性」は見えてきているのだと思う。

結局「ロボット」というと文字どおり「人間のようなロボット」の形を
思い浮かべて夢見物語のようになってしまうのだけれど
社会や産業、生活のなかでいろいろな形の「ロボット」が
望まれ、うまれつつある。
そして現在の「ロボット」を考える議論のうえで
結局その底にあるのは
自立的、自律的、あるいはそうではないにしても
社会や産業や個人がよりよく動くため、動けるための
システム作り、インターフェイス作り、
そのものではないかと思う。
あるいは人間の持つ様々な能力の「増幅装置」への期待と言えばいいのだろうか。
最近になって「ロボット」に注目がいくのはそのあたりに対する期待と予感が
うまれてきているからなのだ思う。



1998.1.11

土曜日のどこの全国紙も「邪馬台国」の畿内説を裏付ける
「三角縁神獣鏡」の大量発見があったことが
報じられていて、さながら新聞紙上での、にわか「邪馬台国」ブームの
ようだった。
テレビでもそれを見に来た見学者が多かったことが報じられていて
一日「邪馬台国」騒ぎだった。
経済の先行きだのの話しばかりでなくてこんな話題もたまには良い。

さてその影に隠れてしまったようだが土曜日の読売新聞の社説を読んで
これは製造業にとっては「邪馬台国」以上?に興味深い内容で面白い内容だった。
「技術立国めざし基盤整備急げ」という内容なのだけれど
日刊工業新聞か日経産業新聞でも読んでいるのではないかと錯覚するほどだ。

特に前半部分では最近とても「話題」になっている「3DCAD」に触れている。

「3DCAD」の「普及」が今後の「ものづくり」に与える影響は
またいずれ話題にしたいと思うから、ここでは触れないけれど
これを話題にした読売新聞の社説の視野の広さはたいしたものだと思う。

まあ、本来マスコミにはそんな、社会や産業全体に対する視野の広さを
求めたいのだけれど「政権存続、景気が左右」などという
政治のための経済なのか経済のための政治なのか、、
視点のずれた本末転倒な記事を書くマスコミが多い。
こんな複雑怪奇な時代だからこそその中に現れくる小さくて大きな
変化や現象を捉えることのできる眼力がマスコミには必要だと思う。





1998.1.12

先週に引き続いて今日も長野県を始め中部地方と東京方面で
大雪がふった。
これで長野オリンピックの雪は心配いらなくなったので
ほっと胸をなでおろした人も多いのだろう。

長野県内の雪の量はここ数年に比べても多い。
年末年始に雪が降らなかった恨みをはらすかのような降りかただった。
おかげ?で長野オリンピックの雰囲気もこの一ヶ月でいっきに盛り上がるだろう。

さてそれにしても、、、聖火のトーチがなぜか消えてしまうということが
えらく問題になっている。こんなことでも話題に事欠かないのは
有り難いやら悔しいやら、、だろうけれど、、。

ところで、正直言って聖火をオリンピックに「必ず必要なもの」とするのに
「違和感」があるのは筆者だけだろうか。
たいした量ではないのだろうけれど10日もぶっ続けで盛大に火をともすのは
なにかしっくり来ない。
もちろん志の現われとして聖火をともす気持ちもわかるのだが。
いっそのこと、風力や太陽発電でエネルギーを保存したりして
聖火やトーチを「ともす」アイディアなんてどうだろうか。




1998.1.13

オリンピックの話題、
今日も聖火のトーチが消えてしまったのだという。
これで8回目とかで、
なにやら「消えること」の報道が毎日の日課になってしまいそう。
正しい使い方が徹底していなかったのではないか、とかで
メーカーの人間を配置したりしていたがどうもそうでもないらしい。

明日にはメーカーと担当者が「会見」をひらくのだそうだ。
いよいよ「犯人探し」がはじまりそうな勢いである。

しかしあえて外野の立場で言わせてもらえば
「消えてしまう」ことがそんなに大騒ぎすることだろうか。
予備のトーチもあるし、「種火」もちゃんと用意してあるのだし、
うろたえずに再点火して支障なければそれでいいではないか。

むしろ、あわてただろう何人かの聖火ランナーが
今はとても切ない思いをしているだろうに。

どうも聖火は神聖視されていて「消えるべきものではない」という
気分が支配的なのだろう。
でも、
そうはいっても完全ということもないのだし、世の中なにがあるのかわからない。
思いもかけなかったことが起こると過剰に反応するのは
最近の日本のなかでよくある現象だと思う。

オリンピックの聖火トーチが消えるくらいそんなに気にするようなことではない。



1998.1.14

先週の日曜日の報道特集は今迄のテレビとデジタルテレビの
今後の行方を特集していた。

今迄のテレビ文化とデジタルテレビ文化の争いがはじまりつつある。
文化と言っておかしければ商売のやり方やノウハウが全く変わっていくと
言っていいのだろう。

デジタルテレビになれば今までのテレビでできなかった様々なことが
できるようになる。インタラクティブな使い方もできる。
コンピューターのソフトだって流れてくる。

番組では「今迄のテレビ」と「デジタルテレビ、あるいはコンピューター」の
争いと言っていたけれど
これは間違い、というか、、、「コンピューター付きのテレビ」になることは
まず間違いのないところだと思う。

一番の変化はどこにあるのか。
もちろんハードを供給したり、回線を供給したりする「商売」はとても大きい。
だがそれ以上に大きいのは「コンテンツ」の供給業者だ。
インタラクティブな使い方やデジタルならではの使い方は
いままでやったことがないのだから
既存のテレビ番組を作っていた業界がそのまま生き残れるというものでもない。
むしろこれは今後「私が始めます」と言って始めた人のものだ。
ただし、多チャンネル化されていくから、何でもかんでもできる
コンテンツ供給会社というわけでもなさそうだ。
細かく仕事の種類も事業内容も分散されてもいくのだろう。
これはやはり始めた人のみ構築できるものだ。
いまだったら誰でもそれに参加できると思って間違いないと思う。




1998.1.15

いやーよくふりましたね。
中部地方は一月に入ってから今迄にないような雪降りだ。
もの心ついてから初めてみるほどの量だ。

おかげで今日は雪かきで体力使ってしまって疲れ切ってしまった。
近くで車がスリップして道に立ち往生はするわ
ガレージは雪の重みで下がってくるわで
近所中大騒ぎ

日頃の運動不足もたたって息はきれるし
腰は痛いし。

というわけで今日はここまで。





1998.1.16

今日は昨日が休日だったから雪かきができなかった企業が
今日になって雪かきをやっていて
半日、町中、そこら中、が雪かき作業におわれていた。

雪かきの筋肉痛をこらえて町に出かけてみれば
いたるところで大雪の爪痕が残っていて
近年まれに見る大雪だったことがわかる。

ちょっとした川の土手や橋の上には軽トラックが並んでいる。
なにごとかと思って見ればみな雪を載せて来て
そこで川に流しているのだった。
そう言えばまちの中には雪をつんだトラックの行き来が多い。

道も狭くなってしまってすれ違いに困るありさまだし
国道も、そこにつながる幹線道路も終日渋滞してしまって
仕事にならない。

昔、小松左京氏の「首都消失」という小説があったけれど
言ってみればそんな感じなのだろう。
まあ、雪はいずれ解けるけれど、、。
阪神の震災からも3年たった。地震は雪とは異なるが、、。
予想しないトラブルというものはあるのだ。
日頃の準備や心構えが重要であるのはいうまでもない。



1998.1.17

阪神大震災から三年たった。
が、まだ人々の生活や産業は元に戻ったというわけではない。

さくら総合研究所によれば、
震災前の1994年の生産活動水準を100とした回復度では
1997年前期が96まで回復したということだ。
製造業では大手が100、中小が97。
小売業、観光、など個人向けサービス業では80台と
規模別、産業別で格差が生じているらしい。

製造業に絞って見ると、
食料品やゴム(確か運動靴の生産などで有名だ)等生活関連型工業が
電気機械、鉄鋼、化学等装置型素材工業に比べて回復が遅れているのだという。

誤解を恐れずに言えば数字から判断すれば、小売業、観光、など
個人向けサービス業にくらべ、製造業に関しては比較的順調に
回復しているのではないかと思える。

実際は仮設住宅に依然として4万人もの人々が暮らしていたり
その生活もたいへんな状態にある。
国内景気の先行きの不透明感からもこの先阪神の復興も一直線
というわけでもないだろう。

しかし若者のあいだでは復興に向けた新しい試みなども始っていると聞く。
今の日本の閉塞状況と阪神の震災が同じようなものだとは思わないが
少なくともそれぞれに復活に向けていろいろなところから動きはじめている
ことは確かだろう。
今後はそんな経験をお互いに交流していくことも重要だと思う。




1998.1.18

16日の読売新聞の「論点」にに国民金融公庫総合研究所長で
早稲田大学社会科学部教授の浦田秀次郎氏が
「創業が活性経済生む」という論文がよせられていた。

ベンチャー企業などの創業が日本の経済の復活の手がかりになるという
論は様々なところで書かれているのでいまさらだろうと思ってもいたし、
正直いって最近の「ベンチャー企業が活性化のための決め手」のような
議論はあまりに一面的で理解できなかった。

しかし氏の論点はなかなか面白い。
アメリカの創業の実態から学べるものがそのまま日本にあてはまるとは思わないが、
数字を並べて見ると説得力はある。

アメリカでは企業数が中小企業を中心に83年から93年までの10年間で
1520万から2160万に42%増加したのだという。
雇用者数もこれにより2180万人増えたのだという。

そして興味深いのは雇用拡大ということではハイテク企業というよりもむしろ
飲食業や個人向けサービス業など、従来型の業種に属する企業が主役なのだという。

氏は続けてアメリカの創業の活発な理由を3つあげている。

まず、30〜40才代の働き盛りの起業家予備軍が増加していること
それには女性の労働参加率の高まりも大きな要因であることがあげられている。
30〜40才代の働き盛りは80年から95年までの間に51%も増えており、
女性にいたっては58.9%も増えているのだという。

第2の要因は「ビジネスチャンスの拡大」であるそうだ。
特にここでは「アウトソーシング」の展開がその理由としてあげられている。

第3の要因は官民による創業サポート体制が整っていることだという。

氏は最後にハイテク企業に関心がかたよりがちになる現状から
従来型の業種に属するごく普通の企業の創業の意義も改めて認識する必要が
あることを強調している。





1998.1.19

最近の「ベンチャー企業が産業活性化のための決め手」論は
アメリカのシリコンバレーの産業復興の「経験」を
日本にも生かそうというものだと思う。
確かにシリコンバレーの産業復興のモデルにも
日本のそれに生かせる部分もあるのだろう。
が、そのまま日本の歴史や産業の仕組みに
当てはめることができるものだとも正直言って思えない。

よく言われるように、今の日本の産業や社会の状況を
10数年程前のアメリカを襲っていた状況が
そのまま遅れて今の日本に現れてきていると考えていいのだろうか。

もちろん今の日本の状況は以前のような単なる経済の循環ではなく、かつて
経験したことのないような状況であることは意見の一致するところではあると思う。
がしかし、またいずれ右肩あがりの経済がやってくると考えている人も多い。
少し以前よりインターバルが長いが、いずれアメリカが経験してきたように
復活する日がくる、そう考えている。
でもって、各地の自治体などでアメリカに学ぼうと「シリコンバレー見学会」が
そこらじゅうで積極的に行われているのは有名な話しだ。

しかし本当にそうなんだろうか。



1998.1.20

アメリカを含め他の地域に学ぶのは良い、きっと参考になることはあるだろう。
例えばアメリカのチャタヌーガ市の試みなどは参考になる。
(これは依然NHKでやったことがあるから見た人もいるだろう)
もしかして「阪神大震災」からの復興も経験になるかもしれない。

が、なによりも最初にしなくちゃならないのはまず自分達の頭で考えることだと思う。
考えることはいろいろある。
自分達の社会や産業の歴史を含め、今の日本がどういう歴史を持ちどういう経験を
経て今にいたっているのか。
日本人の感性や価値観は実際のところどう変化しているのか、
逆にいままではどうだったのか。
そして自分も含む地域や日本の産業がどういう状態や力を持っているのか。
世界を含め産業の構造がいつ、どういう方向に、どうやって変化していくのか、

その気になれば今の状況のなかから学ぶことはたくさんあるはずだ。
必要があればアメリカでもアジアでも行けば良い。
それが日本を知ることであるのならば。

今必要なのはシリコンバレーを見にいくことでもなければ
政治に対して文句を言っていることでもないと思う。
まずは今の状況を「あるがまま」に「シビア」に見つめることだと思う。
状況をしっかりと見つめ考える、きっとそのなかから自分達の目指す方向も
見えてくるのではないかと思う。





1998.1.21

昨日のテレビでやっていた。
アメリカのどこかの評論では
日本の首相が1929年の世界恐慌の状況を作り出した当時の大統領と
やっていることがよく似ていると言われているんだそうだ。

しかしまあ、アメリカの評論が実際にあったことをならべて
「ああだこうだ」というのまでは許せる気もするが、
それを日本のテレビが
「アメリカではこんなことを言われているんですよ、本当にそうですねえ。」
とばかりに報道するマスコミの「無神経さ」には少々憤慨した。

一見、日本の政治や経済政策にたいし批判的なスタンスをとって中立的な立場に
いるようにも見えるし、なるほどとも思わせるのだけれど
実際の経済の中にいて日夜懸命に模索している立場からすれば
「アメリカではこんな意見もある」といいながら横で
はやしたてているような「安直な番組」の作り方はどういうものなんだろうか。
一見中小企業の味方のようなスタンスに聞こえないこともないし
一瞬衝撃的な内容の語り口だから、オッと思わせるのだけれど
結局アメリカの評論を使った「評論家」の御囃子でしかないと思う。

マスコミはそんなものだ、なんて言ってほしくない。
今の時代のマスコミの責任は大きい。
日本や世界の人々がやっていること、その正確な状況を
「正しく」報道する責任があると思う。

アメリカにはそういう意見がある、それは事実なのだろう。
だけど中小企業や庶民の味方のような語り口で
「状況がよく似ているらしいですよ」だとか、
そうそう軽々しく言わないでもらいたい。
同じ事言うにしてももっと表現の仕方が他にもあるだろう。
確かに今の経済政策が状況にあっていないという批判もあるが、
それを批判するマスコミのほうも「軸足」がしっかりとしていないと
単なる「パパラッチ」みたいなものになってしまう。





1998.1.22

イギリスの高級乗用車メーカーのロールスロイスが
他のメーカーから買収の話しがもちかけられているというのは
以前ここでも書いた。
BMWやフォルクスワーゲンやフィアットが買収に乗り出している
ということなのだけど、
これにロールスロイスのオーナーを中心とする個人愛好家グループが
イギリス製のロールスロイスを守れとばかりに
この買収に名乗り出たのだそうだ。

そのメーカーが買収される話しに対して
自分達でその国にとどめて置くように働きかける、
それも単なる「経済性」なんかの話しではなくて
その国の「文化(まさしくロールスロイスはイギリスの文化なのだろう)」
を守ることとして買収を阻止する。

日本にこういった「運動や文化」がはたしてあるんだろうか。
考えさせられた。



1998.1.23

筆者が最近よく行くところと言えば
「お土産もの屋さん」と「文房具屋さん」
これがなかなか面白いのだ。

「お土産もの屋さん」も「文房具屋さん」も、
単に、なにかお土産になるものはないだろうか、とか
鉛筆を買いにいこうとだけ考えていると
「感動」を覚えることはまずないのだが、
その気で行ってみれば
いろんな人の知恵やアイディアが詰まったところだとわかる。
ものによっては本当に「感動」を覚えるものさえあるのだ。

もちろんお土産や文房具にも単なる「モノ」として作られていて
残念ながら琴線にふれてこないものも多いのだが、
なかには作ったり考えたりした人の情熱とかやる気がもろでてきていて
よくもまあこんなこと考えたものだというものや、
あるいは「どうやって販売しようか」と、必死で考えたんだろうことが、
わかるようなものも結構あって
そんなものがたくさんあるこれらの場所は
自分のアイディアや想像力を刺激するには格好の場所だ。

本屋にも毎日のように行く筆者ではあるが、
実際に「もの」としてこねくりまわしたり、手にふれることができることでは
「グッズ雑誌」を読むより、はるかに刺激になる。

で、あらためて、町の中にある様々な「もの」の集合場所を
その気で見直すと、ものづくりに従事する人間にとっても
「刺激のある場所」というのはいたるところにあるのだ。



1998.1.24

今日もそんな刺激がある場所を捜していろんなところに行ってきた。
昨日の「お土産もの屋さん」と「文房具屋さん」に続いて
今日行って面白いと思ったところは
スポーツ用品店とおもちゃ屋さんだ。

実は筆者は3年前までは冬になれば必ず週末はスキーにいくほどの
スキーフリークだったのだけれど
最近は道具も見に行かずにいた。
で、久しぶりに見たスキー用品の最前線はとても刺激的だった。

スキー用品店で最近はやりのものは何といっても
例の「カービングスキー」なのだろう。
どうもスノーボードに続く新しいアイテムとして仕掛けようという
雰囲気がありありで、別にそれ自身はそれでも構わないのだけれど
せっかくスキーとは違うコンセプトにもなるのだから
もう少しひねったらどうかと思う。

スノーボードも確かに若者の中に浸透してきたことはすごいが
まだまだ道具で見ても文化として見ても仕掛けたり考えたりする要素は
たくさんあると思う。

以前「卵を落としても割れない高分子素材」みたいなものが開発された。
靴やその他の道具に組み込まれて販売されたが、
これが靴の中敷きとしてつくられていて製品になっているものがあった。
アメリカ製のものでスポーツの用途に合わせていろいろな種類がある。
中敷きに特化してそれだけを作っている会社なんだろう、すごくおもしろ
そうな商品だった。



1998.1.25

他にも面白いアイディアや仕組みの物がいろいろあるし
もっと考えたら良いだろうにと思うものはたくさんある。

おもちゃ屋さんなんかは子供たちのお付き合いで
クリスマスの時期に行くくらいが関の山で
大人が自分からめったにいくこともないだろうが
これがアイディアの宝庫みたいなところなのだといまさらながらに思う。

例えば「だるま落とし」「けんだま」「お手玉」なんかは
古くからあるおもちゃの代表格だし、いまさらこれをつくる人もいないだろう。
しかし今日見てなるほどと思ったものは最近のキャラクターをうまく合わせたもので
思わず買ってみたいと思うようなものだった。
もちろんおもちゃとしてもいいのだけれど
質感が高いから部屋のインテリアになってもおかしくないのだ。

子供たちに胡散臭い目でみられながら
その中に混じって目を光らせながらおもちゃをみている
自分にいささかあきれながらも
でもこういうところにも少なくとも「地場の産業から商品化」を考えたい人」は
来てみるのもいいんじゃないかとおもった。

そういう意味で町中にものづくりを刺激するものはあるのだと思う。
確かに東南アジアなんかに仕事が流れていくというのも事実だけれど
自分の町にもこれからのものづくりに使えるアイディアなんかが
ころがっているのであってそれをなんとか自分達のものづくりに生かす方法を
考える必要があると思う。




1998.1.26

これはなにもおもちゃとかの話しだけでなくて
その町特有のものづくりに対する要求というのもあると思う。
その町のなかでサイクルできる仕組みもできるのだと思う。

何もその町でできるものがすべてその町からそとに向けて
作られたものである必要はないわけであって、
その町で必要としているものをその町の産業が作って供給
することだってできるはずだ。

いやそんなことは考えられないという意見ももちろん
あるし、実際我々が日頃必要とするいろんな製品や商品は
今は圧倒的大部分が大きな企業で作られていることも
もちろんだ。

だけどよく見ればその町で作ってもよさそうなものっていろいろある。
それがなにかわからないという意見もあると思うけれど
それこそおもちゃ屋や文房具屋に行って刺激を受けたらいいと思う。
これからの時代にはそういう
「その町固有の資源とその町のものづくりに対する要求を
    重ね合せることがどれだけできるか、どれだけアイディアを
     豊富にひねり出せるか」の競争なのだと思う。



1998.1.27

最近、新聞の「雑誌広告」の欄を見ていると
「大失業時代の到来」だの「失業時代に備える」だの「自己防衛」だのと
昨年から始った大手や中小を問わない様々な企業の倒産や
信じられないような金融関連企業の破綻から
当然のようにそういった企業に働く人々の
将来の夢や希望が「壊されて行く」現状を
衝撃的にレポートした記事が掲載された雑誌の広告が目に飛び込んでくる。

新聞記事そのものも一時は毎日のように
例の大手証券会社に働く人々が
いかに将来の夢や希望が崩れていってしまったかを
インタビューなどセンセーショナルなレポートで掲載していた。

確かにそういったことはあるのだろう。
これらの状況のなかで本当にかつて経験したことのないような
個人の経験も生じてきてしまったのだ。
いくら時代の変化といえこんな大きな変化があるとは
だれも予想だにしなかっただろう。

さて、だがしかし、あえて誤解を恐れずに言えば
そんな新聞記事や新聞広告も裏側からもう一度読み直すことも
時代の流れを見通すには必要なことだと思う。

例えば一万人にも及ぶ例の証券会社から新たな職業を捜す人に対し
新聞記事では「故郷に帰る」だとかの選択肢を
あたかも「夢やぶれた人たち」みたいな書き方をしている記事が多い。
だが確かにそういう事実はあってもそれが「夢が敗れた」ことには
ならないだろう。

きっといまから一年もすれば実家や故郷に帰って新たな仕事についたり
あるいは自分で仕事を始める人もたくさんでてくるだろう。

そのうちには東京の仕事ぶりを実家や故郷の仕事に持ち込んで
新しい仕事に結び付けて成功する「田舎のヒーロー」だってでてくるに違いない。



1998.1.28

ちょうど今日のNHKでも証券会社の再就職について
レポートが放送されていた、、、。

、、、、1998.1.18のコラムにも書いたけれど
あえて「ドライ」に書くことを許してもらうならば
アメリカでベンチャー企業が増えたり、それも決して
ハイテック企業だけでなくてニッチマーケットをねらった企業も
含めた企業が増えたのは
「30〜40才代の働き盛りの起業家予備軍が増加していること」
もおおいに関係していると筆者も思う。

そして「アウトソーシング」の展開による「ビジネスチャンスの拡大」は
田舎に帰った東京出身の企業戦士?にもまた新たな「ビジネスチャンス」
をもたらすに違いないと思う。
それはもしかしたら「新しい時代の日本の活力」にもなるかも
しれないのだと思う。

「そんな簡単な問題じゃない」という意見もあるだろうが、あえて
そういう時代がおとずれつつあることは「ドライ」ではあっても
認識する必要があると思う。

新聞記者もテレビ局もせっかくそういう人たちと知り合えたのだから
いずれ一年後にそういった人々がどうしているのか
「大失業時代の到来」だの「失業時代に備える」だのと書いてばかりいないで
レポートして欲しい。
きっとその時には「田舎のヒーロー」は登場してきているのだろうから、、、





1998.1.29

考えてみたら、企業というものはそのなかにすでに
小さな企業を生み出す種子を内包しているのかもしれない。そう思える。

かってなことを言ってしまえば
ベンチャー企業を作ろうだの
ベンチャーキャピタルが必要だのという議論をしなくとも
あるいはニッチマーケットを目指す小さな企業が必要だ、などと
議論をしなくとも、
小さな企業はほっておいてもできてくる。
少なくとも小さな企業は結果的にたくさんできてくる。

3DCADの登場や
アウトソーシングの展開や、
現代のものづくりにおける従事者の「疎外感」や
生産性の低減や
企業のなかに必然的に生まれるスペシャリストや、
、、、は
いずれたくさんの「小さな企業」を生み出す「土壌」を
育んでいるといってもいいのではないか。

自分の地元の産業界の変遷の歴史をよく見直してみると良いと思う。
よくみれば比較的大きな企業が大きな変化に遭遇したときに
そのあとから小さな新しい企業がたくさん登場するのは
むしろ珍しいことではないのだ。




1998.1.30

研究開発型のベンチャー企業と言われるものや
盛んに言われる「期待されるベンチャー企業像」
というものと
これから生まれてくるのであろう「小さな企業」や
「ニッチマーケットをになう企業」を
あるいは「いままでの時代にもあった企業」などを
区別することが必要だと思う。

どうもこのあたりが今の日本では混同されているように思う。

で、いままでの時代にあった業種、業界や企業からまた新たに企業が
生まれてきたりする場合、
それはベンチャー企業と呼ばれるわけではないし
単なる過去の産業の遺物のようにも扱われているのだけれど、
本当にそうなんだろうか。

たしかに先端的な技術があるわけでもないし
どっちかといえばやはりいままでの企業の延長上なのだけれど
そしてそのもともとの業界も「寂しい状況」ではあるのだけれど
それでも結構それなりにニッチなマーケットというかニーズをねらって
いたりして「夢と希望と野望と未来」はあるのだ。

ベンチャーだのということももちろん重要なのだろうけれど
もっといままでの産業の中における変化にも目を向けてその可能性も
探ることこそ活力を取り戻す近道でもあるのではないか、そう思う。





1998.1.31

こんなことを書いたら怒る人もいるだろうけれど
今の日本でベンチャー企業が必要だという論が
前提でされているのは当然といえば当然なのだろう。

でも今の日本に本当に必要なのは
もちろんベンチャー企業を否定するわけではないけれど
もっと将来の日本の産業や社会をどうするかという
根本的な議論だと思う。

未来の日本の社会や産業像を持たないままに、今の日本のベンチャー企業待望論は
走っているように思えてならない。

日本の社会や産業の未来像を持つことが必要なのだろうか。
これは誰もが「当然」と応えるだろう。
自然にまかせて無政府的に国ができるとはだれも思わない。

けれどそのわりにはそういった議論がなされないのはなぜなんだろうか。
そしてそのかわり「ベンチャー企業は必要だ」みたいな議論だけは
先に走っていく。
「国づくりや産業像」を考えずに「企業」もなにもないではないか。

今、アジアやアフリカで始っている
くにづくりにむけた様々な試みからむしろ学ぶべきことが
あるのではないだろうかと最近思う。
特に「教育」が国を作る上での重要性についてはむしろ
日本が学ぶ必要があるとも思う。






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