今日のコラム・バックナンバー(1997年12月分)


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今月のバックナンバーから
掲載は日付順になっています。


1997.12.1

木村先生のおっしゃる「仮想生産システム」も
決してロボットが無人の工場でものを作ったり、実際の工場でものを作らないのに
ものができる、といった「仮想」という言葉から連想する荒唐無稽な
イメージではない。
異なる様々な企業群が共通の問題意識と目標のもとで
ダイナミックにとてつもないスピードで連携しながら製品や技術を進化させていく
そんな感じといったらわかるだろうか。

いって見れば「循環可能なものづくりのシステム」や
「ライフサイクルマネージメント」
「インバースマニュファクチャリング」も
これらの「企業間システム」を作りあげるなかで
できるのではないかという「仮説」だ。

もしかしたら情報技術で結ばれた異業種企業グループや企業のエクストラネット
がこれらの課題を実現することができるインフラになるのではないか。
いままで夢想的にしか考えてみることが多かった「仮想生産システム」の一つの
実際の可能性として考えることができるのではないか。

筆者はこの考え方にとても新しい可能性を感じた。





1997.12.2

地球温暖化防止京都会議が始った。

以前ここでも書いたけれど
アメリカのゴア副大統領は環境問題の解決にも熱心で
「地球の掟」というなかなか優れた本を書いている。
アメリカが情報スーパーハイウェイ構想を具体化するに当たり
政治の世界や産業界でどんな駆け引きや動きがあったのかを
当事者の当時の発言や記録を元に編集した「情報スーパーハイウェイ」
という本の中でもゴア副大統領は産業と環境問題の解決は決して
相容れないものではなく統合しながら解決できるものとして
一昔前の日本の品質管理の手法と企業の関係などをその事例として
参考にしながら発言していた。
これは今にいたっても卓見だと筆者は思う。

残念ながら今回の地球温暖化防止京都会議をはじめとした
一連の国際的な議論の高まりのなかでは
「アメリカの主張」は少し(だいぶ)後退しているものとして感じられる。

世界最大のエネルギー消費国であってなおかつ先端産業の先鋒のアメリカが
なぜ後ろ向きとしか捉えられないような主張をするのか
「ゴア副大統領ファン」としては残念でならない。



1997.12.3

一方でドイツが今回の地球温暖化防止京都会議や一連の議論のなかで
先進的に「実績」を作り上げていることは印象的だ。

地球温暖化ガスの排出規制でも、あるいは自然との調和をめざした
地域、企業、国をあげてのドイツの試みは
以前はとても「情緒的」「感情的」な印象を持たされたのだが
今は大分変わっているのだと認識を大きく変えさせられた。

むしろ昨日書いたように、産業と環境問題の解決を、相容れないものではなく
統合しながら解決できるものとして捉えていることでは
いまではアメリカ以上だ。

最近聞くところではドイツの企業はすでに環境関連での様々な
特許の取得にむけて非常に積極的に動き出しているという。

先日のインバースマニュファクチャリングということでは
すでにドイツは実際に動き出し、むしろそこで得られたノウハウを
21世紀に向けた世界戦略?の一つとして位置づけているのだと思う。

「アメリカはすごい、すごい」といっていたらいつのまにかちゃんと
その次のことを考えて動き出している国はいるのだと思った。

それに比べてどこかの国は、、、





1997.12.4

先日ある工作機械メーカーの工場を見る機会があった。
マシニングセンターやNC旋盤等を作っているところをみることが
できたのだけれども
何台もの組み立て途中の工作機械を見て思ったことがある。

皆、カバーが付かない、組み立て途中で並んでいて
言わば機械そのものが裸の状態で見ることができる。
よくみるとどの機械も構成している部品は皆同じような
ものでできているのがいまさらながらにわかる。
電気屋さんの作った制御装置がモータも含めて結構な場所を
しめているのがまず目につく。
ガイドの部分も同じように市販のリニアガイドで構成されていて
その他の細かい部品もそれぞれの「市販定番部品」でできているのがわかる。
いやもう圧倒的大部分が「市販定番部品」と言ってもいいくらいなのだ。

そのメーカーで独自に作っている部分といったら
それらの「市販定番部品」を「くくりつける」ための鋳物などでできた
フレームというかシャシーというか、、の部分と
メーカーなりに考えたカバー作ってデザインとしているところくらいだ。
これは失礼ながらどこのメーカーも同じような状況だと思う。




1997.12.5

もちろんそのメーカー独自のもの、エッセンス、というものはあって
それはどんなに「希薄」であっても必ずあると思うのだけれど
相対的に少なくなってきている、と思う。

決して情緒的感傷的な捉えかたで「昔の機械はよかった」などと
言うつもりはないけれど
少なくとも昔の機械はそのメーカーのエッセンスで満ちていたように思う。

こういったことが一般的になってきているのは
最近のアウトソーシングに代表されるような
外注で製作される範囲が部品だけでなくて開発や設計までもが
行われるようになったこともあるだろうし
それとも関連して部品やコンセプトが標準化していることも関係
しているからだとも思える。

機械の摺動することにかんしては工作機械メーカーではなくて
「リニアガイド」のメーカーが行なうもの、になってきているのだろうし
機械の制御に関しても工作機械メーカーではなくて
「制御関連」のメーカーが行なうもの、になってきているのだろう。

結局最近の工作機械メーカーは「メーカー」ではなくて
工作機械の部品・コンセプトのインテグレーター?とでもいうものになって
きているのだとも思える。(これはちょっと皮肉だけれど)
もしそうなのだとすれば余計、そのインテグレーターとしての
自負に満ちたエッセンスで統合され構成されたものであるべきだとは思う。
もしそうでないならば単なる組み立て屋さんと言われてもしかたないのかも
しれない。




1997.12.6

最近よく言われるようにその企業にとっても強みというか
よって立つべきところというか、
なにやら難しいことばでいえば「コアコンピタンス」
とでもいうのだろうか
そういうものを今後メーカーや企業が持たないと
単なる組み立て屋さんになってしまうことはおおいにあると思う。
それも過去にメーカーとしてブランド意識を持つことで
優位と考えていた企業はなおさらだと思う。

ところで、、逆に考えたら全国の中小企業でも
小さくたってもの作りをやっているんだという気概を持っている企業が
たくさんでてきて自分コアの確立を目指していけば
(すでにそういう企業はたくさんでてきているが)
小さいなりに単なる下請けではなくて
ものづくりのエッセンスで満ちた、小さな、だけど力のある企業が
いっぱいでてくる可能性は今後むちゃくちゃある、と思う。

名の知れた工作機械メーカーや自動車や家電のかっこいい製品のよこで
そのわりにメーカーとしての誇りや満足が得られないとこぼす
メーカーの人間をしりめに
「うちの作った部品を使わないとこれは動かないんだぜ!」
と(小さな声で)胸を張る小さな、だけどすごい!企業が
今後たくさんうまれてくる、そんな時代になると思う。





1997.12.7

今日の某全国新聞のY紙とM紙に
六日から行われている
スピードスケートアジア選手権で
清水選手や宮部選手がカーブで転倒したという記事が
掲載されていた。
両方の記事とも記者の名前入りでこの「転倒」という事件を
例の「スラップスケート」の道具としての可能性と成熟度から
もう一度検証しているのだけれど
記者の見方で全く異なる状況認識を記事にしているのが
「面白い」とおもった。

一方が
「今の状態では表彰台に上がれない」と厳しい顔を見せた選手をみて、
「スラップスケート」にはまだ落とし穴がるのかもしれない、
「本番前の二ヶ月にしていやなムードが漂いはじめている」、
としているのにたいし

もう一方は、選手が
「ぎりぎりまで攻めた結果(転倒したのであって)全力で滑る感触を得た」
と言っていることから「スラップの習熟」がテーマの今は、怪我は痛いが、
(転んでもただでは起きないというようなしたたかな)「心」が無事なら
問題はない、としている。

同じように取材している有名新聞の記者が
これほど観測と状況判断が異なるとはいささか以外だった。

これはなにもスポーツ記事に限らない。
経済や社会に関連した記事も同じようなことは言えると思う。




1997.12.8

今日の毎日新聞には
毎日新聞社・21世紀危機警告委員会と京都新聞社・京都21会議
の主催で11月20日に行われた京都会議開催記念フォーラム
「環境・市民・企業の発展的な共生をめざして」
の内容について詳しく報告がなされている。
各界から著名人が参加してなかなか面白い内容であたらしい。
内容についてはまた機会をみて読んでいただくとして

面白いと思ったことが二つ

一つは某製造業(ポンプメーカー)がポンプ製造時の機械加工で多量の
切削湯(油と書いてないのがご愛敬)をかけるのをゼロにしようと開発を
進めたということ。
これによって30万分の1の油量で同じ機能と、切削速度も20%上昇させる
ことができた。CO2は25%減少した。とのこと。
これだけの話しでも興味がもてる。

もう一つはハイブリッドカーにしてもCO2を減少させるポンプにしても
「そういうものを高くても買うという消費者の行動が必要」であって
「リサイクル費用は出す側が払わなければ経済が回らない」と、あるパネリストが
いっていたこと
うーんと、この意見はにわかには賛成できないなあ。




1997.12.9

「そういうものを高くても買うという消費者の行動が必要」
「リサイクル費用は出す側が払わなければ経済が回らない」
というのは本当にそうなのだろうか。

たしかに実際には最終的に消費者に転嫁されることにはなるのだろう。
商品のライフサイクルをすべて見込んだ費用を最終的には消費者が
負担することになるのは、よく考えれば間違いない。当たり前のことだ。

また、すべての商品がエコを考慮した商品であれば問題ないと思うけれど
確かに「今迄の商品」と「エコやリサイクルを意識した商品」が並売されている
状況では実際には価格に差が出てしまうのだから
あえてそこで高い「エコやリサイクルを意識した」商品を買ってもらうような
賢い消費者の行動と意識、いままでの消費行動に対する反省、が
必要になることは間違いない。

でも消費者の意識が低いからとか、高い商品をわざわざ買う消費者はいない、
とか言うつもりもないけれど、実際の話しとしてリサイクル費用が足された
高い商品をわざわざ買う消費者はいないのではないかと思う。
また「だからこそそういう意識を持った消費者の行動が必要」というのは
確かにわかるのではあるけれど、危機意識がもてるように啓蒙すれば
そのようになるのではないかという楽観的な発想は
少なくとも「ものを作って販売する側の人間」がするには、いままで製造業が
環境やエネルギーに対してやってきたことに対する反省のない
いささか「無理」な発想だと思う。
確かに「エコやリサイクルを意識した」商品を開発しているという自負から
消費者にそういうことを期待する気持ちをメーカーや企業が持ちたいという
気分もわからないではないのだけれど、、





1997.12.10

環境問題や省エネ問題を解決するうえで「啓蒙」ということも、あるいは
「賢い消費者の行動と意識」ということも重要なことではある。
それも以前ここで話した「運動」という観点で言えば重要なキーワードだと思う。
だが、「生産活動」から言えば「啓蒙」とかの発想は少々方向違いだと思う。
「リサイクルに費用がかかりますから価格が高くなりますがそれでも買いましょう」
ということはものづくりの立場の人間からは、現状ではまず、言えない。
あくまでそれは生産者としてではなく消費者としての言葉になると思う。


もともと社会的な資産だった資源とかエネルギーを野放図に使ってしまった
メーカーや消費者それぞれにそれぞれに起因した問題があるのであって
それをどちらか一方の責任に転嫁するのは無理というものだ
ここまでねじれてしまった生産、消費、廃棄の悪循環を断ち切るには
双方によほどの覚悟がないと解決出来ないことも心しないといけないとも思う。

それぞれが真摯に、それぞれにできることを考える、模索する、行動する。
そうでなければ環境問題は簡単に
「どこかの会議のような「かけ引き」ありの政治ショー」になってしまう。



1997.12.11

今度の京都会議での先進国と途上国の間で行われた駆け引きと
たぶん将来、「今迄の商品」と「エコやリサイクルを意識した商品」が
並売される時に起こるだろう問題は本質的にはよく似ていると思う。

生産者は消費者に「賢い消費者の行動と意識」を求め
消費者は生産者に「生産と販売のイノベーション」を求める。
先進国はいままでの自らの行いに目をつむり途上国の規制を求め
途上国はそれでは困る、先進国こそ規制すべきだと言う。
よく似ていると思う。

どれもそれぞれにまっとうなことを言っているのは間違いない、
が、もともとスタートからあまりにそれぞれが、よく言えば自律的
悪く言えば自分勝手に生産と消費を進めてきたしわ寄せがここに来て
噴出してきているわけであって、これを、テーブルについた皆が
お互いに要求して満足できるような、市場原理に任せた
解決方法というのは、無理な側面が、、、正直言ってあると思う。

じゃ、どうするか、
もちろんお互いに対する理解と監視も必要だ、
と同時にまずは自分はなにをするか、なにができるのか、という
きわめて、理性的、悟性的な問いかけを自身にすることが必要になる。

結局、自分自身が「宇宙船地球号」の乗員だと意識して、やれることから
やっていくしか道はもうない。



1997.12.12

かたい話題が続いたから少し柔らかい話題を、、

いよいよ忘年会の本番の週末だ。
全国いたるところで「忘年会」が行われているのだろう。

「カラオケ」が飲み屋での「文化」になって久しい、
8トラックのテープで流れる歌謡曲に合わせて
本になった歌詞を歌うのが「初期」のやりかただったように
覚えているが、いまはご存知の通りいろんなやり方が登場して
きていている。
海外でも「カラオケ」が浸透していることはご存知の通りで
いまや「ゲイシャ」「フジヤマ」「カンバン」や「ケイレツ」に
並んで有名なワードである!?。


それにしても「カラオケ」ブームはいっこうに下火になる様子はない。
ブームというのは一時的な様子であるのだから
すでに20年になろうとする「カラオケ」は「ブーム」ではない。
これはすでに「文化」なのだろう。
なぜこれほど「カラオケ」が海外までもふくめて浸透したのか、
考えてみれば面白い現象だと思う。





1997.12.13

ホントに週末や年末になると全国の盛り場からは(いや、もしかしたら
世界中から?)うまくもない素人歌手のはりあげる歌声が聞こえて
くるのだけれど(自分も含めて、、)このパワーはいまのところ衰える気配がない。

なぜこんなに「カラオケ」がはやったのか、考えてみると面白いだろう。
逆に考えてみるとそれまでの盛り場での「のんべえ」の文化は
なんだったのだろう。
今40才以上の人たちはきっとまだ「カラオケ」がなかった時代の
飲み屋の雰囲気も知っているだろうし
もちろん今だって「カラオケ」を置いていない飲み屋もあるから
「カラオケ」なしの雰囲気がどんなものかわかると思う。

基本的には酒を飲む場としての飲み屋では「カラオケ」は必要ない。
が、とりあえず話しも済んで、じゃ、次はなんだろうかといったら
そういった場で「カラオケ」はとても重宝する。
時間つぶすにはもって来いだし相手をほっておいても問題なくて
自己満足にももって来いだし、逆にそのうちにはコミュニケーションを
とる道具にもなってくるし、
最近のカラオケボックスでは酒も飲まずに仲間が歌っている時に
下を向いて歌詞本を読んでいてなにがコミュニケーションだ
という意見もあるだろうけれど、いやあれもしっかりコミュニケーション
の時間である。だって、ひとりで歌いにいく人はいないだろう。





1997.12.14

結局、誰でもがコミュニケーションを簡単に作るには「カラオケ」は
とてもすぐれたツールである、というのが自分なりに達した結論なのだが
これは「カラオケ」というよりも「歌」というものが持つ特性なの
かもしれないとも思う。

あまり、人にとって歌をうたうことの意味を「カラオケ商売」の隆盛の理由に
結び付けることはなじまないような気もするし
むしろもっと論理的?な理由があるようにも思うのだけれど
「カラオケ」がなぜこれほどはやったのかを分析するときには
「歌をうたうこと」そのものの分析をすることがなかったようにも思う。

歌を歌うということ自身の「応用開拓」を「カラオケ」というツール、道具の
開発、高度化にむすびつけながら商売にしていったという点では
これは世界にもなかったなかなかの発想だった、といえるのではないかと思う。
まあ、最初はたぶんそんなことではなかったのだろうけれど、、

歌を歌ってそれ自身を商売にするということはいくらでもあるのだけれど
だれでもが歌いたい、皆に聞かせたい、コミュニケーションしたい、という
考えてみればだれでもが持っている欲求にうまく商売を載せていくことが
できたのだろう。
結構そういう人間が持っている当たり前の欲求で「当たり前過ぎて」
「応用開拓」ができなかったもの、「応用開拓」がはばかられてきたもの
って案外いっぱいあるのではないかと思う。



1997.12.15

昨日のテレビ番組「サンデープロジェクト」を見た人はどのくらい
いるだろうか。
三菱総研の牧野昇相談役が登場して日本の景気や将来をうらなった。
ずいぶんと勇気づけられた人もいるだろう。

牧野氏のおっしゃることを結論的に言えば
「日本には製造業があるから大丈夫!!」ということにもなろうか、

今では優秀なNC工作機械等が日本にはあってそういったものが
日本には他にもあるから日本の未来は安泰だ。
てなことをおっしゃっていた。
「昔はアメリカからシンシナチ!なんて機械が日本にやってきて、、」
なんてくだりはもうひとりテレビに向かって拍手喝采だった。
なにやら半端な政治番組しか最近は耳にも目にも入らなくなって久しいが
シンシナティとか工作機械メーカーの名前やNC工作機械なんて
テレビのなかから聞くとそれこそ小躍りして喜んでしまう!!。

「私は技術者だったから、、わかってるんだ、、」
なんて言われると全国の製造業の人間はさぞかし勇気づけられたと思う。
地味で3Kなんて言われ続けた製造業の「大逆襲」の「のろし」にしたいと思った。



1997.12.16

ツールエンジニア誌(大河出版)の12月号に
「12EMOハイライト・高速加工機とリニアモーター搭載機の競演」
という今年9月にハノーバーで行われた
EMOショー(欧州国際工作機械見本市)の紹介が掲載されている。

やはりリニアモーター方式の超高速MCや
パラレルリンク方式の工作機械の登場が今回はより実際的なものとして
展示されていたと報告がされている。

同時にそういった新しい方式が提案されている一方で
今迄の「ボールネジ方式」+「サーボモーター」のようなコンベンショナル
な方式で高速化がどこまで追求できるかといったところでの
試みもしっかりと追求されている。
また非切削時間の短縮に向けての試みも様々なアイディアが
ためされているようだ。

少し前のこのコラムでも「そのメーカー」のエッセンスに満ちた
工作機械の提案とインテグレーターとしての役割が必要なのではないかと
書かせてもらったが、海外のメーカーもそういった精力的なトライを
盛んに行なっているのだと思う。

NC工作機械が日本から輸出する製品のなかでも高い位置を占めている
という話しも昨日ここで紹介させてもらったけれど
まごまごしていたらそういったものも失いかねない。





1997.12.17

「へーこんな仕事もあるんだ。」

今週の写真週刊誌「フォーカス」を読んで
なるほどと思った。

特集は「華麗なる女仕事師」ということで
女性ならではのいろんな仕事・その頑張っている仕事ぶりを
取材・レポートしている。

まあ、写真週刊誌だからお決まりの「風俗」もレポートには
加えてあるのだけれど、
「へーこんな仕事もあるんだ」と思わずうならせる様な仕事も結構多い。

基本的には二つの種類に分けられると思う。
一つは女性ならではの「感性」や「趣味・興味」に基づいて考えられている仕事
もう一つは今迄だったら男社会でしか考えられなかった仕事
そしてどちらの仕事も女性の個としての能力が最大限発揮されていることが
一番の特徴だと思う。

男性中心の社会構造やシステムがこんな結果を残したというつもりもないけれど
最近の社会や産業に覆いかかる閉塞感を尻目に
どちらの仕事にしても女性の奮闘ぶりが印象に残る。

会社やシステムによりかかることによってしか「能力発揮」が出来なかったような
いままでの「仕組み」は明らかに時代遅れにもなっていくように思えるのだ。



1997.12.18

いつからだったのだろう。
新聞の全国紙の一面に政府広報の欄があって
環境庁の署名入りで
「今日からあなたもアイドリング・ストップ」
   −12月は大気汚染防止推進月間です。−
と書かれていることに気がついた。
「月間」と書かれているからたぶん今月に入って何回か
載ったのだろうけれど、今日初めて気が付いた。

以前にも書いたがアイドリング・ストップというものも「運動」と
しての観点が重要だと思うから
決して「月間」という言い方が間違っているとも思わないけれど、、

なんか違うんじゃないかと思った。

あげあしをとるつもりもないけれど
「はやりすたり」でアイドリング・ストップもあるわけではないだろうし
いったい今月が終わったらどうなるんだろう。




1997.12.19

テレビのコマーシャルで使い捨てカイロの最近のものがあって
思わずナルホドとおもった。

普通これを貼ったら暖かいぞ、という主張をするために
全体は暖色の暖かなイメージで作られている。
モデルにも暖かそうな着物を着せて
見ているこちらにも思わず暖かな感覚が伝わるようなものになっている。

最近見た使い捨てカイロはその薄さがアピールのポイントで
それを貼ったおねーちゃんを夏かと思う様な薄着、ミニスカートで
冬の町中を歩かせる。
厚着しなくてもおしゃれに薄着で町中を歩けるよ、ということらしい。
寒くなければ厚着をする必要だってない。
できれば薄着で通したいというニーズもあるのかもしれない。

おしゃれして薄着でも目立たず寒くなく町を歩ける、という新しい、
言ってみれば「文化」の提案といったら言い過ぎかもしれないけれど
確かになるほどと思った。




1997.12.20

つい最近なにかで読んでそうかもしれないなあと思ったことがある。
普通、商品を開発していくにはまず「マーケティング」ありきが当然だろう。
でも少なくともこれからの時代には「マーケティング」で
商品企画があたるかどうかはわからない、むしろ
その企画の発案者の思い入れで進めた方が良い結果が生まれる、
というような内容だった。

ちょうど今日テレビでやっていたのだけれど
トム・ハンクス主演の「ビック」という映画があった。
主人公の子供が何かの偶然で体だけ大人になってしまう。
玩具会社に就職して子供の感性で商品企画を提案したところ
これが大当たりで出世する、というような内容だったと思う。

もちろん「マーケティング」のことをよくわかっている人からは
そんなものじゃない!と言われるだろうし
確かに「映画」ではあるし、、、

商品を考えた「ヒーロー」を商品宣伝にうまくつなげてしまうという
言わば逆の現象も最近はあるようだけれど、、、

最近当たった巷の「商品」が本当に「マーケティング」によって
当たったのか、個人の思い入れで当たったのか、興味のあるところではある。



1997.12.21

たびたびここでも紹介するのだけれど
日経で出しているM、ハマー・J、チャンピー著「リエンジニアリング革命」
という本のなかで、ずいぶん前の話しではあるが
国内の家電メーカーが開発し世界中の若者のスタンダードになった商品の
開発からの経過が紹介されているのだけれどこれがなかなか興味深い。

要するにそのメーカーではそのいままでになかった商品を
マーケティングによらずあくまで担当者の思い入れで
進めたのだという。

まだ市場にも出ていない、ユーザーもみたことのないような、
使ったこともないような商品のマーケティングをやっても
信頼にたるマーケティングはできないだろう、
と考えてあえてやらなかったということだった。

1997.9.6のこのコラムでも書いたけれど
一つの「時代をかくす」ような新しい技術や新しい商品、そういったものは
技術が予期しなかった新しい使用方法や価値、問題そのものや
問題の立てかたまでも認識させ、変えていく、ということだと思う。

そういったものを作っていく能力はいままでのような
「方法論」に寄らないということも確かにあるのだろうと思う。




1997.12.22

誰でも、というわけではないけれど
大体の、特に男性が
小さいころから好きなものといえば
自動車、バイク、などの「乗りもの」
それ以外といえば
カメラ、時計、なんかが思い当たる。
それとオーディオなんかもそうだ。
さすがに銃器というわけにもいかないが
趣味として持っているひともいるし
エアガンがはやっているのはご存知のとおり。

乗り物の場合は本物が好き、という以外にも
模型をつくったり、集めたりするのが好きという人も多い。

小さいころからだけではもちろんなくて大人になっても
離れられずにいる人は、思っている以上に回りに多い。

こういう「物」に関係して知識欲や収集欲にかられるのは
なぜか「男性」が多いのだけれど
(もちろん女性が宝石やバックが好きというのも収集欲なのだろうけれど)
基本的には「メカもの」が多いのはなぜなんだろうか。
また、もともと「知りたいもの」「欲しいもの」「収集したいもの」って
人にとってどのように決まるのだろう。



1997.12.23

大体そういったものって直接、生活の役には立たないものが多い。
これは女性が宝石やバックが好きということも同じなのだけれど、、

集めたいものや、集めたいほど好きなもの、欲しいものって
なぜか役に立つものはあまりない。

逆に考えたら生活に関連した「無くては生活出来ないもの」というのは
集める対象にはならない。
「無くては生活出来ないもの」はお金があってもなくても買うしかないけれど
そういうものはなぜか集める対象にはならない。

よく言われるように今の世の中、生活に必要なものは
お金さえあればどこでも買えるし簡単に手に入る。

かといって収集対象になるようなものが手に入らないのか、手に入りづらいのかと
いうと、実際にはそうでもない。
まあたしかに「収集」が進んでくるととんでもないことを目的にするようにも
なるから手に入りづらくなることもあるけれど、、

、、「手に入りづらい」ものが収集の対象になるのかというと
どうもそうでもなさそうだ。

人が欲しくなったり集めたくなったりするものに共通する文法はなにか、
案外簡単に答えがありそうで結構難しい問題なのかもしれない。





1997.12.24

ちょいと前の話しになってしまったけれど、、
岐阜県知事が「東京という「たこつぼ」」云々という発言をして
問題になった。

実際にはその時の発言の前後を含めてよく理解しないと
活字になったものだけを見て発言の要旨を理解しようとしても
どうもよくわからない。
県知事自身が「、、、という意味ではない」とか
東京都議会が「鵜飼い」云々という発言とか
水かけ論を始めてしまったらもうなにがなんだかわからない。

たぶん大部分の人もセンセーショナルな雰囲気に気を取られて
本当のところはどんな意味なのか理解できないのではないかと思う。

ただこの問題で一つだけはっきりしたものもあるのではないかと思う。
東京と地方の間に
「現実として、利益なり文化なりの較差が存在していて
   そこにはある意味での不公平感もあるのだということ」だ。
そして、これはあながち「問題のあること」なのではなくて
そういう話題が出てくるくらい自分のクニに対する「マイ田舎意識」が
あることは大切なことなんだと思う。
それぞれの田舎の人が「自分の原点の田舎」という意識を持つことは
産業の育成や町を作るという行動に向けた出発点なのだと思う。
「俺はこんな町は嫌いだ」と若者が言っているような町だったら
その町には未来はない。
そういう意味では田舎はその田舎の若者にとっての居心地の良い
「タコツボ」でなくちゃならないのだろうと思う。




1997.12.25

もちろん場所にとらわれずに将来の産業像を捉えることも重要な
ことであることもふまえた上でだが、
「自分の田舎発!」という意識を常に持つのはその地域の産業にとって
とても重要なことだと思う。

中小企業にとってはその地域の産業の歴史や資源とは切っても切れない関係にある。
過去から現在を経て未来に向けた夢や希望においても
そこからは離れられない関係にある。

そういうことの冷静な認識をせずに
一律に、やみくもに全国で同じような産業像を構築しようとしたりするのは
いくらインターネット時代とはいえ夢物語でしかないと思う。
東京と岐阜では産業政策が異なっていて当たり前だし
我々には我々の歴史と実績がありそこから生まれる産業は
だれにも真似が出来ない世界に誇れるものだと胸をはって言えることが
重要なのだと思う。

地方と地方、地方と東京、それぞれがそれぞれに違っていて当然だし
「較差」もあっていいのだと思う。「不公平感」もあって当然だ。
同じようになろうとするのではなくて
その上であえて違った、多様な「まちづくりの競争」を繰り広げる。
、、なまじ「田舎も東京なみに」なんて言うよりよっぽど健全だと思う。
違っていていいじゃないか。




1997.12.26

さっきテレビでやっていた。
今年、はやったもの。
例えば女子高生の間で最近はやっている「使い捨てカメラ(レンズ付きフィルム)」
セピア色に印画紙に焼き付けられるものがはやっているのだそうだ。

解説の人が言っていた。
「もの」ではなくて「こと」を作ることが必要になっていて
「使い捨てカメラ」もカメラではなくて「コミュニケーションの道具」になって
いるのだと。

なるほどそう言えば最近の「はやりモノ」は皆「情報」とか「状況」とかと
いっしょに考えられるものが多い。
製品単独で存在するものは、なかなか「はやらない」し、
どうしても単独で存在する製品は「物語性」を添付しているように思う。


いつもこの「今日のコラム」では「ものづくり」といっているけれど
これからは「ことづくり」という概念も重要になっていくのかとも思う。




1997.12.27

読売新聞に「経済危機・悲観論を超えて・インタビュー」という特集
が掲載されている。

今日までのところは
  モンデール前駐日米大使、
  牧野昇三菱総研相談役、
  ジャネット・ハンター、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス博士
  北城格太郎日本IBM社長、
が日本の経済の状況と今後についてそれぞれ持論を書かれている。

面白いと思ったのは皆さん全員が「日本の製造業は強い」と
いまさらながらにいっていることだ。
確かに「独創性」なんかについては欧米諸国 に比べて
日本には残念ながら弱いところがあるのかもしれないが
「製造業が強い国際競争力を持っている」というところは
産業界について深い洞察力を持つ人たちのことばだけに
間違いないことだろうし、実際にそうだと思う。

経済の昏迷を切り開くのもきっと製造業の底力なのだろうと思うし
21世紀を切り開くのもきっと製造業の底力なのだろうと思う。




1997.12.28

昨日紹介した
読売新聞「経済危機・悲観論を超えて・インタビュー」という特集の今日の
識者は国際日本文化センター所長で京都大学名誉教授の河合隼雄氏だ。

「ものづくり」や「製造業」については触れていない、むしろ
いままでの識者に比べて少々異なる見方というか観点であるのが興味深い。

「目に見える成長から、目に見えない成熟を目指す社会へ」

「集団で目標にワーっと向かえば済む時代ではない。
   いろんなことが個人の判断、一人一人に創造性にかかってくる時代が一気に
  到来したと言える。ここでみんな、思い切って吹っ切れてくれんかな、と思う。」

「この年末は対前年比の評価をやめて、「今年は何ができたか、来年は何ができるか」
  皆が真剣に考えたらいいと思う。」

昨晩のテレビ番組の「ザ・スクープ」の特集を見た人もいると思う。
戦後の日本型システムが一気に否定されて社会のいたるところでいろいろな形で
ひずみが噴出しはじめている。これを乗り切って21世紀に日本が生き残って
いくためには抜本的な構造の変化を「自ら」作り出さねばならない時代になった。

社会全体の富の源泉が「ものづくり」にあることは間違いないことのように思う。
一方で、それをも含んで、社会や産業やものづくりと、自分も含む「個」との関係を
冷静に考えねばならない時代にもなってきている。
間違いなく、自分自身と、社会や産業や、、、との関わりを
「自分自身の頭で考えて動く」時代なのだと思う。




1997.12.29

いよいよ今年もあとわずか。
仕事納めも済んで家事のやり残しや掃除をしている人がいれば
仕事最後の追い込みでまだまだ年を越せないという人や会社もあるだろう。
ご苦労様。
先生も走り始めちゃう12月だからいよいよ持って忙しい。
なんとか今年の仕事は今年中に、と思ってもなかなか終わらない。
ほんとに、まったく、日頃何やっていたのかと思う年末でもある。
まあ、仕事納めが出来なくても出来なくても大晦日は平等にくるのだろうけれど、、


自分にとって来年はどんな一年になるのだろう、とか
自分の目標に向かって少しづつでも歩みを進めることができるのだろうか、とか
きっと日本中の多くの人がこの年末に考えていると思う。
そんなことを日頃以上に、真正面から、考えざるをえないような
思ってもいないようなことが続出した1997年だった。
社会や経済や個人にとっても、いままでのよって立つべき価値観が
ぐらつき始めた、少なくともそういった時代の到来を予感させる
1997年だったように思う。



1997.12.30

さて、ホントに来年はどんな年になるのだろう。
社会や経済や産業や製造業や、そしてなにより自分たちにとって
どんな年になるのだろう。

筆者は、来年が個人が社会や経済やに占める位置や、自分自身を
再発見する「考動」が活発になる「元年」になるのではないかと思っている。
「ものづくり」においてもそうだ。
個人や中小企業が「ものづくり」に自分の位置を再確認する時代が始ると思う。
「自分発見元年」そう呼んでいいのかもしれないと思う。


さて、インダストリーウェブと今日のコラムの読者の皆さん、
日頃ご愛読いただきありがとうございます。
1997年の「今日のコラム」は今日までです。
来年も笑われながら、ご意見をいただきながら、そして共感もいただきながら
地道にインダストリーウェブと今日のコラムを続けていこうと考えています。
ご声援ありがとうございました。
新年の今日のコラムは正月4日からを予定してます。
それでは皆さん、よい年をお迎えください。


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