今日のコラム・バックナンバー(1997年7月分)


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今月のバックナンバーから
掲載は日付順になっています。


1997.7.1

標準的日本人像を作り上げることがそういう国際化時代の日本人の
アイデンティティーや「よって立つべき日本」をつくりあげたり守ったりする
ことだとおもったらそれは間違いだと思う。

当たり前の話しだが「一般的な日本人という人」というのは日本中どこを
さがしても絶対にいない。
いるのはいろんな家族や企業や社会との接点をもち
いろんなことを悩み考え希望し、、、そういったいろんな属性を持った
人間一人一人なのだ
日本はそういった一人一人の人間の総体として存在している。

誰がえらく、誰がえらくなく、どれが望まれ、どれが望まれない、なのではない。
すべてそれなりなのだ。
そういう混沌そのものを、そのものとして存在することを許さない、許せない社会は
とても住みにくい社会だと思う。

雑多なものがすべて良しといっているわけではない
前提として雑多なものの存在をまずお互いに認めようということだ
不合格の教科書に対し「時期尚早」という言い方もあったようだが
時代の変化と意識の変化はとても早い。「時期尚早」などといっている場合ではない。

今回の問題は単に教科書の問題なのではないと思う。




1997.7.2

あの「ジュラシックパーク」や最近話題になっている「ロストワールド」
で有名な作家  マイケル・クライトン氏が先週NHKの番組で日本の作家
村上龍氏と対談していた。

すべて見られなかったので詳しくはわからない部分があるのだが
雑誌「バート」の2月26日号にも
  「ロストワールド」でマイケルクライトンが予言する人類に危機。
  「インターネットという恐竜が世界を滅ぼす」
という記事があってそれを読み返しながらいろいろ考えた。

映画や小説の主人公等に語らせる基本的な彼の主張はこうだ。

どうなると「絶滅」は起こるのか。
それは「多様性」が失われて「均質化」してしまうとき、生物は絶滅へと
突き進んでいくのだという。
多様性があれば、ある環境の変化に対して、あるものは死に
あるものは生き延びる。・・・・
・・多様であればあるだけ、どんな変化があっても、少なくともその一部
は生き延びることができる。絶滅はしない。

そして彼は「インターネット」こそが人類の多様性を消し去り
均質化に導きそして絶滅に向かって行く「脅威」となっていくのだと考える。

うーん、どう考えたらいいのだろうか。



1997.7.3

たしかに一定の時期にそういう問題はおきてくると思う。
それはインターネットだけでなく「情報」というものが持つ
重大な側面だと思う。

ここのところ「テレビ」や「インターネット」や「写真週刊誌」などで
問題になっていることなんかは「センセーショナルな情報」に翻弄される
「今日の日本国民」の姿がはっきりと見える。
「ホラービデオ」や「刺激的映像」に翻弄された中学生のことや、逆に
インターネットで犯人探しに夢中になる人々
犯人を載せようとする「写真週刊誌」
それをこんどは夢中になって放送する「テレビ番組」
皆リアルな世界からいつのまにか離れて情報の波に翻弄されつづけている。
いったいこの間の日本中、国民あげての右往左往はなんなのだ。
諫早湾の問題もそうだ。
テレビや新聞で起きたあの騒ぎはなんだったのか。

とにもかくにも「情報」というお化けに日本中が翻弄されてしまっている
いつのまにか日本が「均質化」していることは確かに今、あると思う。

特に、独創とアイディアの先端産業であり、自律的に動くことが最大の
素晴らしさだったはずのインターネットの世界で
今、おきていることはなんなのだろう。


インターネットは重要な道具にはなっても決して答えは教えてくれない。

誰かがおぜん立てした「日本の解」に向かって国民総出動でそれに進んでいくのなら
インターネットは「ハメルーンの笛ふき」の笛にもなりかねない。





1997.7.4

マイケル・クライトン氏が言うには最近国立公園などで事故が増えているのだという。
子どもや親が野生動物の「怖さ」を知らず、テレビやメディアでしか
見たことがないため野生動物であることを忘れて近寄り怪我をするのだという。
たしかに、以前書いたけれど現在のバーチャルリアリティーの技術をもってすれば
存在しない動物の存在や存在しない物そのものの触感まで人間は情報として
いずれ受け取ることができる。
昨日書いたようにいってみれば人間がものごとの表層や表面、現象面でしか
捉えられない、そういった傾向にあることも最近では確かに多い。

「インターネットはからっぽの洞窟」という本にも書かれていたが
子ども達がインターネットで物事を調べることが目的になってしまって
なぜそうなったのか、原因はなんなのか、といったことを調べることが
なくなってきた。物事の本質に迫ることをしなくなった。

たしかに今インターネットを使って物事を調べることはその情報量からいって
それだけで一つの「学問」にもなるだろう。
だが本当に子ども達にとって大切なことは何だろう。
大学の授業もコンピューターを操作することが目的になっていないか。
コンピューターをとりあえず一人一台もてば授業になる、教育になると
考えられていないか。そうでは無いとわかっていつつ、思いつつも
結果としてそうなっていないか。

これは子どもの世界だけのの問題だと思ったら大間違いで
実はしっかりと大人の世界のことなのだ。




1997.7.5

但し、勿論、彼マイケル・クライトン氏は決してインターネットを放棄したり
規制しようといっているのではない。最新技術を破棄しようとしたり
否定しているわけでもない。
筆者もそう思う。
一面的に一方に振れるともう一方にかならず揺り戻す動きが出てくる。
今回の問題の中できっと「インターネット不要論」「マスコミ不要論」が
出てくると思う。それは恐いことだ。

すでに情報とシステムがここまで社会や個人に向かって広がっている以上
これを破棄したり一方的に規制したり、逆にそこから目をそらすことは
現実的な解決ではないのだろう。
冷静に考えてみればテレビやメディアの無い時代はどうだったのか
例えば野生動物だって数十年前は知らない動物がたくさんいたはずだが、
マスコミや出版、最近ではインターネットを通じて
いままで知らなかった動物の存在そのものでさえ認識することが不可能
になったはずだ。

むしろいままで知ることができなかったものや世界や現象や社会や人を
知ることができることのメリットのほうが素晴らしいことだと思う。

結局インターネットやコンピューターを含むあらゆる「情報」との向き合い方が
これからの時代の人間にとってとても重要な問題なのだろうと思う。




1997.7.6

科学の終焉

半月ほど前の新聞にのっていたが
「科学の終焉」という本が欧米を中心に議論を呼んでいるのだそうだ。
著者のジョン・ホーガン氏は今世紀に科学上の基本的な大発見は
もう終わってしまってこれからは「応用科学」に力点を置くべきだとする

ジョン・ホーガン氏は実験で証明出来ないものはすでに形而上学であって物理学
ではない、という。
宇宙でいえば最近の「複数の宇宙の存在」なども証明できないのだから
それは科学ではなくSFか神学だという。

新聞では日本の素粒子物理学者と紙面で「対立、討論」していた。
日本の素粒子物理学者は勿論「理論」はまだ進化中であり
たとえ実現不可能な「実験器具」、例えば銀河系規模!の加速器
がなくとも科学と理論はこれからも進化発展していくという立場をとる。


ちょうど先週日曜日の毎日新聞にのっている「哲学の練習問題」という
連載があって、(以前紹介しましたが)
ここに「科学の法則はなぜ「発見」できたか?」
という文章がかかれている。
これが前述の問題に対してよくわかる視点を提供してくれている。



1997.7.7

「哲学の練習問題」の筆者は言う。
物理学とは、世界が合理的な法則によって貫かれているという(それ自体
としては証明できない)前提のもとに、私たちの経験する様々な事実から法則を
解読し取り出そうとする一種の「ゲーム」なのである。
つまり物理学や科学は客観的世界をそのまま写し取っているのではなく、
私達が経験する事実を整合的に説明するための手段であり、仮説なのである。

但し筆者は「そうした客観的真理を解き明かしている「はず」の自然科学からは
決して人間の生きる意味や価値を導き出すことが出来ない。」のであり
哲学はこうした問いに答えなくてはならないとしている。

続いて今週の「哲学の練習問題」には「歴史の進歩を信じる人は、おめでたいか?」
という文が掲載されている。
ここには歴史の進歩への、曰く「信仰」が必要であり、実はそれは未来に向けての
人間的努力への信頼なのでありこの信頼をつくりだせるかどうかは大切なことだ
と思う。としめくくられている。


・・・難しい話しになってしまった。
結局日本の物理学者も言うのだが、ホーガン氏の本が欧米で論議を呼んでいるのは
「終末思想」の影に対する議論の現われだろうと私も思う。
歴史の進歩への「信仰」を失い、「未来に向けての人間的努力への信頼」を
作り出せなかった時、作り出す努力を怠った時、世界や社会や人と人の関係は
どうなっていくのか。
むしろそれらを必要なものとしながら深く学問や社会や、、を掘り下げていく視点は
今、この国にとってとても重要なことだと思う。





1997.7.8

今日は時事の話題。
火星探査機「マーズパスファインダー」が火星に降り立った。
いままで考えもしなかった新しい着陸方法で火星に降りた。
エアバッグに包まれて火星の表面でピンポン玉のように
はずむ「マーズパスファインダー」はさぞや見物だったろう。
見られるはずもないが、、。

それにしても5億キロの旅を終えて火星にたどり着いたのに
それをリアルにあたかも目の前にあるように見て、操作するなんて
いまさらながらにすごい科学の力だ。
電波だって届くのに10分ほどかかるらしいがその分先読みして
操作するらしい。先行して操作するのにはどんなノウハウがあるんだろうか
それと思ったのが、地球からはバクテリアとか細菌とかは持ち込まれない
のだろうか。
そのうち人類が持ち込んだ生命体が火星で繁殖することはないんだろうか。
これも是非知りたい。
そして何よりも知りたいのは火星での生命の存在の証明だ。


火星に行ったからといって正直すぐになんかの役に立つ訳じゃない。
でも人間はそれがあるかぎり「みたい」「知りたい」「学びたい」という
欲望は押さえることができないのだなあ、と改めて思う。

夏の暑い盛りに知的探検ができるここ一ヶ月は新聞テレビから目が離せない。




1997.7.9

暑い、ビールがうまい。
ビールの店頭での「更新」期間を短くしようとメーカーが
考えて実施したら「おかみ」から待ったがかかったという話しが
一月ほど前の新聞にのっていた。
ビールの賞味期限をさだめているにもかかわらずそういうことをすると
過剰な競争を引き起こすからだという。

勿論消費者とすればできるだけ新しいビールを飲みたいのは
当たり前で一般的なビールの賞味期限を記載されたものより
実質的に新しいものを選ぶのは当然だろう。
たしかによほど魅力がないと新鮮さに差がでるような
既存の流通システムや製造システムをもつメーカーのほうが優位だろう。


こんど長野県下で始めて発売になる「地ビール」は
普通の地元専用ビールではなく、全国販売を考えた「地ビール」なのだという。
いってみれば寡占状態にあるビール業界に本当の意味でもう一つメーカーが
現れたということだ。
こういった中小メーカーのほうが魅力的なものをつくる可能性もある。
いやむしろその可能性のほうがこれからは高い。

いろんな製造システムや搬送、流通システムもコンピューターの発達や
等々、で中小でも「ビールの賞味期限」を最短にできる可能性もある。
いやもしかしてすでにいままでの「賞味期限」などというものは過去の話し
であるやもしれぬのだ。(このあたりは聞いて見ないといけないけれど、、)

どちらにしろこうして考えると民間は一生懸命ものを作っていて、サービスも考えて
懸命に競争している。基本は消費者の望むサービスであり商品だ。

たしかに過剰なサービスによる寡占化という問題もあるだろう。
でも「おかみ」からかかった「待った」は、全く実際の状況を反映していない
ような気がするけれどどうだろうか。

方向がちょいとちがうんではないかい。



1997.7.10

全国的に今年は猛暑のようだ。アイスクリームもうまい。

最近はプラスティックの「しゃもじ」があるようだけれど
やはりいまだ木製のしゃもじが多い。

よくよく見て思った。
プラスティックのしゃもじはアイスクリームをすくいあげても
滑ってしまうから真ん中がへこんでいる。でも逆に食べにくい。
しゃもじの「アール」が唇にあっていないからだ。
あの妙にまとわりつくようなプラスティックの感触も
いまではあたり前なのかのしれないけれど
よく吟味してみると決してものを食べる食器としては
優れている訳ではない。

木製のしゃもじは「たいら」なのに表面がざらついているから
滑らない、「たいら」だから食べやすい。
考えてみたら「楊枝」も「割り箸」も木製だ。
使いやすいという点では昔使った「鉛筆」も懐かしい。
木にはなんとなく使いやすく、なじみやすい感触がある。
抗菌プラスティックよりなじみやすい木製のほうが
本当の意味で人間向きではないかとも思った。




1997.7.11

もののけ姫がいよいよ公開で
ここのところ作者で監督の宮崎駿氏がテレビにでずっぱりだ。

5月のコラムにもかいたけれど
氏の意見や作品における主張はどれも真摯で真面目なものだ。
5月に書いたのは新聞上に
「作品は映画館で見て欲しい。ビデオを50回見てくれたなんていうのは
              うれしくない。  そんなのはBGMになっているだけですよ。」
という意見を書かれていたことなのだけれど
これは要するに
「むやみにだらだらと流れるだけの情報は光を発しない」
「情報というものは発する方も受け取る方もそれなりの覚悟があるべきで、
そうしてこそそれなりの「情報」として存在できるのではないか。」
と筆者は理解した。

でもやはりそれには反対意見もあった。
ともかく多くの人にビデオを通じて見てもらうことはいいことなのだから
ビデオで見てくれてもうれしくないという言い方はないんじゃないかという意見だ。
それもその通りで良く考えねばと思う、けれど
基本的な宮崎氏の主張は筆者は別のところにあると思っている。

情報やコンテンツの発信者としての氏の主張は(作品以外のところでも)
よくよく深く読み取る努力をしないといけないしその価値があると思う。
きっとここしばらくは氏がテレビに出てくると思うので、
そういう情報発信者としての受け取る人やその他の回りの人々や、、
に対する向き合い方、考え方を学ぶ?ことにも良い機会だと思う。




1997.7.12

のりもの好きな筆者は今日初めて「スカイスポーツ」という雑誌を
買ってきて興味深く読んでいた。

最近の「規制緩和」の現われなのか、結構面白いスカイスポーツという
ものが近年はたくさん登場している。

スカイスポーツだけでなくても水の上のスポーツも最近はいろいろある。
本屋で立ち読みしても「カヌー」だの「ジェットスキー」だの
多分マイナーで趣味として持つ人もそんなには多くないと思うし、
ましてスカイスポーツなどは自分の回りでやっている人間なんかは
そうはいないのだけれど、、。

これらのスポーツに共通することは「道具」が非常に高等ということだ。
靴やウエアを購入すればできるというものでもない。
それなりの「道具」と「費用」が必要になる。
これは一時の「スキー」以上だ。

当然それらを作る「道具製作業者」も「それなりなもの」になる。
工場が大きいとか企業規模が大きいとかではなくて
はっきり書けば「機械装置製造業」の出番に近い。

「スカイスポーツ」や「カヌー」だの「ジェットスキー」だのは
まんま「航空機産業」や「造船業」そのままじゃないか!

規模は確かにまだ大きくないけれど
このあたりには確かにそれなりに製造業が活躍する場があるように思う。




1997.7.13

早速「ロストワールド」を見てきた。あの「ジュラシックパーク」の続編だ。
当然のことだが4年前の「ジュラシックパーク」に比べても明らかに
「バーチャルリアリティー」技術は高度になっている。

近年のコンピューター技術のことを知らない人が見たらどうやってあんな
ぬいぐるみを作ったのか不思議がるだろう。
まして「映画」ではなく「ニュース」としての内容だったら
本当だと思うだろう。それほどすごい。

ああいった「映画」や「バーチャルリアリティー」技術とは関係のない
「普通の映画」でもとてもエキサイティングだったりロマンティックな映画をみると
(もともと普段のことを映画にしてもあまり売れる映画にもならないんだろうけれど)
「架空の世界」に自分をおいて「楽しむ」ということが簡単であるということが
良く分かる。
映画館で楽しむだけでなく、やくざ映画をやっていた映画館から出てきて
「肩で風をきって歩く」のも良く分かるし、
アメリカのビジネスを映画にしたものなんかは自分の商売に重ねて見たりもする。
きっとだれでもそういう気分にはなるのではないかと思う。
そして普通しばらくすれば現実の世界との違いに当たり前だけれど
気が付いて「映画は映画、現実は現実」だと言うことに納得するのだ。

しかし原作者のマイケル・クライトンが言っているように
最近様々なところで問題になる「現実と仮想の境がわからなくなる」
ということは状況によってはたしかにありえると思う。
「楽しむ」どころか、その中に身を置いてしまうことがありえる。





1997.7.14

昨日の続き
それは一方的に「バーチャルリアリティー」技術のせいばかりでは
ないのだろうと思う。
例えば小説を読んでみることだって立派に仮想空間に自分の身をおくことも可能だ。
フィクションということわりがあってもしっかり楽しんでいるのだし、
ましてノンフィクションのなれば現実の世界の不可思議の中に
自分を置いている自分が誰にでもあるのではないか。

確かに「文字で読む」情報と「視覚」を通じて入って来る情報とは
与える力や影響は異なることもたしかだろう。
そういう点では情報技術の発達やメディアの質?の変化によって
それに対する人間の側の情報に対する「耐性」や「理解力」等も
変化していかないといけないと思う。。
最近良く使われる「情報リテラシー」も本来そういうことなのだろうと思う。

我々、情報を受け取る側の情報に対する「耐性」や「理解力」は
どうやったら高めたり今の情報技術にあったものにすることができるのだろうか。




1997.7.15

昨日の続き
この問題は子どもたちの教育ということとも関連して重要なことだ。
「ナイフ」が危ないからといって使わせないというのと同じで
道具としてや社会との接点とか考えれば「使わないようにする」というのは
全く解決にならない。
少なくとも「見せない」「読ませない」ことでことは済むというのではないと思う。
但し確かに子どもたちに最初からそういう「危ない道具」を
使わせるというのは問題でもあるだろう。
練習もせずにいきなり公道に自動車に乗って出かけることは危険だ、
少なくとも最低限の「練習」は必要だろう。

これからは子どもの頃からの情報に対する本当の意味での読み書きの力を付ける
教育が必要になると思う。
現在の学校における「情報教育」などというコンピューターや
インターネットの表面的なお勉強ではなくて
もっと本来の意味で人と情報のつながりや社会におけるコミュニケーションの
位置づけなどからきちっと学習をはじめるべきだと思う。



1997.7.16

続き、、
「情報を作る」側にも勿論そういったものが必要になる。
というよりも情報を「作る」側も一面では情報を受け取る側であって、
「情報を作る側」も当たり前のように情報にしっかりと組み込まれているからだ。

情報を作る側だから情報に対し「耐性」や「理解力」があって当たり前だと
思ったら大きな間違いだと思う。
むしろ人によっては「飯を食っている」ということと、「影響力」が大きいと
いうことを考えれば「耐性」や「理解力」をしっかり持っているかどうかは
とても重要なことだ。

ところが最近の情報を作る側の「耐性」や「理解力」は確実に、相対的に低下して
いると思う。

情報を作る側というのはマスコミのことだけをさしているのではない。
良く言われるように今情報技術に発達により
情報の発信者と情報の受け取り側に大きな違いがなくなってきている。
そう言う筆者だってそうだ。

それをするなというのではない。
問題は情報技術によって「耐性」や「理解力」がなくてもいとも簡単に
人と人が「つながってしまう」ということだと思う。





1997.7.17

最近のコンピューターに関する話題で
モバイルコンピューティングだのネットワークコンピュータだの
ネットPCだのと新しいコンピューターの規格やで
ここのところの新聞記事が活発だ。

メインフレームや巨大なコンピューターが幅を聞かせていた時代から
「分散型」の時代になったのだとはよく言われている。
一方で、それに対し例の500ドルコンピューターなんかは
中央集権コンピューターに回帰するのだから
分散時代に反するという言い方も最近あるようでもある。

うん、なるほどそれもそうだな、と思ったりもしていると
そのうちにまた、自律分散だの最近では分散オブジェクトだのと
良く分からない言葉も登場するに及んで頭の中は良く分からん
「言葉の行進曲」で素人としてはもうパニック状態だ。

これはコンピューター業界(ハードもソフトも含めて)全体に言えることだと思うが、
もうちょっと素人にもわかりやすい説明ってないんだろうか、と思う。




1997.7.18

以前にも話したことでもあるけれど
コンピューターの取り扱い説明書に書かれている内容も
難解なものが多くて閉口する。
単語の内容についてもわからないし説明の流れについても
判断に迷うようなものが多い。

筆者はお恥ずかしながらいまだに「プロパティー」なるものの
意味がわからない。
又「コンピューターを切る準備ができました。」とコンピューターが
答えてきてもじゃ次はどうしましょうか。とコンピューターに聞く訳にも
いかない。だからなんなのよ、と言いたくもなる。
「コンピューターを切る準備ができました。」から次はこうしてください。とか
この中から選んでくださいとかこたえてくるのが本当だと思う。

これはコンピュータのインターフェイスを使いやすいものにしよう
とかいうこと以前の問題だ。
こういう発想がもっと使う人よりのものに変わっていかないと
本当に町工場のおやじさんたちやおばさんたちが使えるコンピューターや
システムというものになっていかないのではないかと思う。




1997.7.19

この前買って読んだ「スカイスポーツ」という雑誌が
面白くてその後もいろいろなアウトドアスポーツの雑誌も読んでみている。
個人的に気に入っているのが「カヌー」に関する雑誌だ。

大体カヌーが自然のなかでやるスポーツだから
雑誌にも当然自然の写真が写っていて
「道具」と「道具を使うシュチュエーション」が両方みることができて
とても好ましい気がしている。

勿論「ジェットスキー」や「スカイスポーツ」に関する雑誌も面白いけれど
限られたところでやるスポーツだから興味の対象がものになってしまう。
「カヌー雑誌」は自然そのものとも関わりが多くて読んでいて飽きない。

案外自分の住んでいる近くにもカヌーでいける水遊びができそうな
ところがありそうだ。
そんなところを水の上から通行すればきっと普段見たことのない視界が
ひらけるのだろう。

暑い夏のせいか妙に水遊びが恋しい今日このごろではある。




1997.7.20

という訳で今日は仲間と「簡易キャンプ」に行ってきた。
筆者にとっては10数年ぶりの「キャンプ」である。

とはいっても急に思い立ってのアウトドア志向だから
慣れている仲間のおぜん立てに乗っかって
泊まらずに朝から夕方までの雰囲気楽しみキャンプなのだ。

現場にいってみておどろいた。
よく整備された「キャンプ場」は家族連れのにわかキャンパーで
すし詰め状態だ。

勿論高い山で本格キャンプというのもいまでも盛んなのだろうけれど
にわかキャンプもこんなに盛んなものとは知らなかった。

どうもパターンとしては
家族用ワンボックスカーに乗って行き、郊外のスポーツ用品店で
購入した道具を出しキャンプを張るということらしい。
家族で焼き肉を食べたあとは昼ねで子供たちは
近くの子供用の公園のようなところで遊べるようになっている。

郊外スポーツ用品店ではスキーの道具を扱うシーズンが終わった後
テニスとキャンプ用品を販売しているところが多いが
ああいう需要が多いのだとは正直今回初めて知った。




1997.7.21

で、その「キャンプ用品」なのだけれど
これがニッチ商品というかアイディア商品の固まりみたいなもので
考えてみると日頃の日常生活そのものを山や川に持ち込むわけだから
普通に使える生活用品であることと、携行しやすいということが必要だから
おーなるほどと思えるような仕組みであるものが多い。

テント一つとっても昔の軍隊式みたいな重装備のものではなくて
アッというまに組み立てられるものが当たり前だ。

コンロだって昔みたいにプロパンの小さいものをわざわざ持ちこまなくても
携帯のボンベ式のものが主流でとても簡単で軽い。

ただ生活そのものを延長するにはまだまだあの世界にはアイディアが
必要なものがあると思えた。
特に思ったのがゴミ処理とか片づけだ。
ゴミはたくさん出る。なまじ冷蔵庫がないから生ゴミが出てしまう。
片づけも大変だ。一杯飲んだあとで飲み疲れしているから
結構しんどい。まあ、これは好きでやっていることだから文句もいえないが、、

こういう部分の問題でも当然なことに日々の生活と全く同様なのだった。



1997.7.22

以前にも書いたけれど最近、発明や特許に関するテレビ番組が多い
昨日もそんな番組があって面白く見た。

食品加工の分野でイカの加工機械、例えばイカリングを作ったり
いかそうめんを作ったり、いかの表面に「すじ」を入れたりする
機械を使ったおじさんが登場した。
結構それで特許をとったのだそうで「イカ御殿」をも作ったのだそうだ。
もともとその土地が海辺にありイカが取れ、イカの食料品加工が盛んな
土地がらでそういう「イカ加工機械」の要望が多かったのだという。

考えてみるとそこには大きな教訓があると思う。
正直テレビで見ていてその特許は「なんだ、そんなことか」「そんなことだったら
自分でも考えられる」と思わせるものだ。(おじさんごめんね)
でも実際誰がなんと言おうと特許なのだ。
多分この特許をとった時には町のイカ加工業者から相談を持ち掛けられて
発明好きのおじさんが趣味半分で始めたのだろうと思う。
こういうおじさんは自分等の回りにもよくいる。

ここで決定的なのは
地元に「偶然」そういう要望というかチャンスがあったということと、
自分でとりあえずいろいろ言わずに作り始めたということだと思う。


1997.7.23

続き
イカ加工機械を作れる機械加工屋さんは日本全国にいるだろう。
だが山の中で機械製作に従事している人にはイカ加工機械の要望は届かないし
気がつかない、もともとそういう場に接近する物理的可能性がない。
が、「うちは回りが山ばかりでイカ加工機械なんて巡り合えない、
           おじさんには偶然そういう巡り合わせがきたのだろう。」
と考えたらそこにはチャンスはないのだろう。
確かに「イカ加工機械」に巡り合うのは偶然性もあるが
逆にそういった「地場に関係した要望」や「ものづくりの種」は全国
に存在しているからだ。

自分にとっての「イカ加工機械」はなんなのか、そしてそれがわかったら
とりあえず自分で作ってみる。作れなかったら人に頼む、仲間と始める。
これは要するに積極性の問題だと思う。

偉そうなことを言える立場ではないが(ほんとごめんなさい)
でも特許とか発明とかじゃなくてもこれと同じことがいえると思う。
地域に新しい産業を作るということでもその地域が持つ特質というのは
必ずあると思う。
時間が作り上げてきた特質もあれば地域性が作った特質もある。
地域性やロケーションがつくったものは世界のどこにも同じ物はありえない。
時間によって練り上げられたものは一朝一夕には真似出来ない。

そういうものは国からお金を一億円もらったって作れるものではない。
よその地域で作ろうとしても不可能なことの方が多いだろう。
その地域にとっての「イカ加工機械」を大事にしなくちゃいけないと思う。
もう一度自分の町の「イカ加工機械」を捜してみよう。




1997.7.24

続き
自分の町の「イカ加工機械」もあれば勿論自分の業界の
「イカ加工機械」もあっていい。

工作機械や金属機械加工業や精密機械加工、部品加工等で
日頃不便と思いつつもそれが当たり前になっているものって
あるんじゃないかと思う。

案外自分だけで考案していてすでに自分で利用している技術や
道具もよくよく振り返ってみるとあったりするのではないか。

すっかり「枯れて」しまっていると思われる業界に
新しいものが生まれる可能性はある。

すっかり「枯れて」いるのだからとイノベーションから遠ざかって
いたら他の部分から、例えば材質や半導体の発達から
「枯れて」いたもののなかの根本的なものが変わる可能性はあるのだと思う。

筆者はコンピューターの発達、半導体の集積化、高度化、そして
コンピューターネットワークの発達が「鍵」だと思う。
NC工作機械にしたって昔からあまり変わっていないじゃないか。
でもなかには国産でも特殊な超精密工作機械を作る「ベンチャー企業」も
現れてきている
ここらでなんか「おっ!!」と言わせるようなものができてきていい。




1997.7.25

昨日夜の「ニュース23」見ました?
2ヶ月ほど前に工業系新聞に取り上げられていたから知っている人も
いると思うけれど
本田技研の開発した「二足歩行ロボット」が作家立花隆氏によって
紹介された。

実際にビデオの中で「歩いた」「階段も登る」「台車も押す」
「体を押せばちゃんとバランスをとる」
いままでの二足歩行のロボットと異なり文字どおり跳ぶように歩く!
いやー、感激だった。

立花氏は「進んでいる要素技術をインテグレートするプラットフォームが
これだ」と言っていた。
確かに例えば農作業ロボットなんかにしていけば面白い
農作業用マニュピレータの開発などを今後進めて行けばそれは可能だ。
リンゴのもぎ取り作業や茶摘みロボットなんかができればこれは面白い。
茶畑の間にそんなロボットがいくつも歩いていたらこれは愉快だ。

いままで誰もやろうとしなかったし無理だと言われていた二足歩行を
やりとげたホンダに拍手。

やはり昨日話した「コンピューターの発達、半導体の集積化、高度化、」
そして「モーターとかバッテリーとかアクチュエーターの発達、高度化」
が時代というバックアップとともに可能にした快挙だと思う。
と同時に出来ないと言われていたものに果敢に挑戦したホンダの
企業文化もすごい。

テレビを見たあと壁にかかっているカレンダーの標語が目についた。
「やれなかったのか、やらなかったのか、どっちかな、」



1997.7.26

「やれなかったのか、やらなかったのか、どっちかな、」

・・というわけで「やれない」と思っていたことが
いつのまにか「やれる」ようになっていることはあるのだと思う。
本田技研の「二足歩行」ロボットも「やる気さえあればできた」のではなくて
現代の技術の発展があってこそできたのだと思う。

ただ「やる気さえあればできた」というのは後でこそ言えることであって
時代を良く見て「やる気を出した」からこそそういうチャンスというか
先駆けることができたのだと思う。
「やらなくて」いろいろ言うんじゃなくて
「やってみて」こそ初めていろいろ言える、学べるのだと思う


知り合いの製造業に携わる若者はテレビを見て
「思わず本田技研ではたらいてみたいと考えた」と言っていた。
それほど簡単なものではないだろうが、でもその気持ちはよくわかる。
ロボットの肩に書かれたホンダのロゴが眩しい。
「やはりホンダの企業文化はえらい!!」と思う筆者ではあった。

立花氏ではないが是非ロボットの名は「ソーイチロウ」と名づけられたい。
そんなことしたらロボットが怒って「スパナ」を投げつけるかもしれないが。



1997.7.27

昨日の補足
「ロボットが怒って「スパナ」を投げつける」という話しは
知らない人も多いと思うから補足すると
あの本田宗一郎氏は現役時代には自らスパナを握り
自動車やオートバイの開発に熱中したのだという。
気にいらないところがあればいっしょに作業していた仲間や
部下のところへ「スパナ」がとんだ、というのは有名な話しなのだ。

今は確かホンダの博物館に展示されているはずだけれど
本田氏は戦後まもなく飛行機のエンジンを搭載して作った「カーチス号」という
レーシングカーを作った。
当時なんて全く豊富な車の部品やレース用市販パーツなんてあるわけないから
重要パーツなんかは自分でつくったんんだという。

さすがエンジンはカーチスという飛行機から転用して搭載したらしいのだけれど
デファレンシャルギアの例えばクラウンギアなんかは
むくの材料を旋盤とフライス盤で大まかに削り、何とあとは
光明丹であたりを取りながら「やすり」で成形したんだという。
焼き入れ技術なんかろくにいいものがなくてレースに出るたびに
ギアが減って苦労したなんてことをなにかで読んで
感激屋の筆者はものすごく感激してしまった。



1997.7.28

なにか「もの」や製品を作りたいと思った時
大手の企業が作らない、作れないのだから、商品化しないのだから
素人や門外漢には手が出せないとはなから思い込んでいることが多い。
たしかに複雑な部品の集合体としての商品や製品は
なかなかおいそれと手を出せないこともたしかだ。
どうしても必要ということになってじゃあ部品を購入しようとしてもその部品が
市販されていないとあきらめてしまうことも多い。

そんな部品の段階から少しずつで作り上げて行くということは
何度も書くけれど「大変なこと」だ。
お金もなければ時間だってそうある訳じゃない。
中小企業の人間がそういうことをしていくって並大抵のことではない。
でもそういう活力が、やる気が、そしてそういう中から生まれる
サービスや製品やアイディアが日本のもの作りの活力を生むことも事実だろう。

特に中小企業でものづくりに携わる人にはそういうことを考えている
人も多い。(いや別に大手企業の人が考えていないというわけじゃないです)
筆者の回りにもたくさんそういう人はいる。
なんとかこういうことがもっと「仕組み」としてできるようにならないか。
生まれてきたいろんなアイディアを実現に向けて加速させる
仕組み作りがなんとか出来ないものか。



1997.7.29

アイディアを実現に向けて加速させる「仕組み」作りがなんとかできないだろうか。
異業種交流会というのもそんなことができるものの仕組みの一つだと思うけれど
全国に同じようなことを考えている異業種交流会が多いわりには
実現できているという話しはあまり聞かない。(うちはやっていると言う
ところがあったらごめんなさいね)
「商品開発研究会」みたいなグループもたくさんあるけれど
「開発」がなかなか進まないという話しも多い。
結構そのあたりで悩んでいるところもあると思う。

だけど皆でやるという大変さにいじれて個人でやったほうが良いと
始めてもやはり大変な部分が他の部分で又出てくることも事実なのだ。

ここまで書いてきて思った。
やはり基本は個人の情熱なのではないか。
情熱を揺り動かすものは人によっていろいろだろう。うさんくささや正義感や
使命感や、、、
で、そういった個人個人から構成されるグループでそれぞれが自分の持ち場を
確実にこなす意識、が必要だ。その意識を集中していくのもやはり情熱なのだろう
多分、即席で特効薬のような「仕組み」なんてない。

デファレンシャルギアを光明丹であたりを取りながら「やすり」で成形する
ようなことはたしかにたいへんだ。
が基本的にはそれをやるくらいの「無茶」な情熱はやはり最低限必要だと思う。



1997.7.30

世界のホンダがでたところで
工業調査会の雑誌「機械と工具」今月号が
「ころがり軸受け発展のエピソード」という連載記事に
「世界を目指すホンダの挑戦」という文をのせていて面白い。

ホンダが四輪二輪自動車業界に地歩を固め始めたときに他のメーカーと全く異なる
アプローチをしたのがクランクシャフトに転がり軸受けを採用したのと
エンジンの冷却に当たり前のように使われていた「水冷」ではなく「空冷」を
採用した、この二点だったように思う。

記事はこの中の「ころがり軸受け」のことにふれ
いろいろ実用上は問題があり異論のあった「ころがり軸受け」の採用、実用化に
当時本田宗一郎氏が「やってみなくては分からない」という方針で
実際に確認し見事に成功をおさめた、ことなどがのっている。

是非ご一読ください。

ついでといってはなんだけれど
同号には「ラピッドプロトタイピング」「積層造形技術」の最新の技術トレンド
についてものっている。これも興味深い。

ホンダの話しにもどるけれど
いよいよホンダによるカーレース「フォミュラ1」への復帰がほんものになりつつ
あるようだ。ホンダの挑戦はつづく。



1997.7.31

テレビの話題が続いて恐縮だけれど
昨晩の「ニュースステーション」の
「キヨおばあちゃんの湯沸かしポット」という特集を
見た人はおいでだろうか。

これがとてもおもしろかった。

東京のある下町では独居老人が地域15000人中の350人をしめるんだそうだ。
キヨおばあちゃんも二十八年あまりを一人で住んでいる。
ひとりでなんでもできるし、そうしないと弱くなっちゃうからできるだけ何でも
自分ひとりでできるようにしてるんだ。
でもやっぱり一人で生活していると世間から離れているという孤独感と不安はある。

さてそこで登場したのが
地域医療に奮闘するお医者さん、彼は老人がお茶を飲むということに目をつけた。
(老人じゃなくても誰でも飲むけれど、、)
で、お湯のポットメーカーに相談を持ち掛けて
ネットワークお湯ポット?なるものを作って独居老人に無料で配った。
このお湯ポット、電話に接続されていてお湯を注ぐたびに地域の集計センター
(そんなにすごいものじゃなくてボランティアのおばさんがパソコンを
  覗いている地域のセンター)のパソコンの集計される。
集計センターでは定期的に集計して長時間お湯を使わなかったり間隔が
長くなったりすると異常ありと判断して独居老人の近くのヘルパーさんに
連絡を取り見に行ってもらう、ざっと言うとこんなシステムになっている。
そのお医者さん、ちゃんと地域ごとに独居老人をあつめ講習会を行なっている。
公の「形だけ」「お仕着せ」の「老人福祉」なんかを嘲笑うかのように
自分達で自分達の「ネットワーク」を作りはじめている。


さて、キヨおばあちゃんのところにも最初の15台の内の一台がやってきた。
「お湯を注ぐたびにちゃんと連絡がいっているんだ、とわかり心強いねえ」
キヨおばあちゃんはネットワークのなんたるかをちゃんと心得ている。

今後は炊飯器にも応用していくのだそうだ。
なんだかインターネットだ,コンピューターネットワークだ
と大騒ぎしているのを横目にしっかりとこうした地についた試みが
進みつつあることに筆者はなぜかとても安堵したのだった。


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