今日のコラム・バックナンバー(1997年4月分)


INDUSTRYWEB HOMEへ戻る / 今日のコラムに戻る/ バックナンバーに戻る


1997.4.30

ローカルな話しで申し訳ないけれど、、
私の住む街に新しい博物館ができた。
その名を「プリンス & スカイライン  ミュージアム」という。
ご存知のとおりあの日産スカイライン(プリンススカイライン)や
プリンス製の自動車に絞って展示する自動車専門の博物館だ。
歴代の「スカイライン」各車やレーシングカーR381等のマニアには
こたえられない自動車達が展示されている。

各車に搭載されたエンジンも展示されている。
レーシングカーR382に搭載されたエンジンは素晴らしい。
普通レーシングエンジンの排気管はパイプを曲げて作るのが一般的だが、
ここに展示されているものは計量化のためだろうか、薄い板材を
三次元形状に曲げ溶接によって複雑なパイプ形状を作り上げている。
見るからに職人がやった仕事だとわかるもので見事だと思う。
是非訪れる機会があったら見てみるとよいと思う。

連休中は無休で開館しているのでぜひ皆さんどうぞ!

ちなみに名誉館長はあのスカイラインの生みの親「桜井真一郎」さんです。

「プリンス & スカイライン  ミュージアム」
場所        長野県岡谷市字内山4769−14
            (中央道岡谷インターチェンジから車で10分)
開館期間    10月31日まで
開館時間    午前9時30分〜午後5時
入場料      おとな500円  こども200円
休館日      火曜日(但しゴールデンウィークと8月は無休)
問い合わせは          0266−23−9451   まで






1997.4.29

昨日の続き。
オレンジ色の中央線に乗った。
窓から見える都会の景色は刺激的だ。
みんなそれぞれの産業や生活があるのだなあ、といまさらながらに思いつつ
しばし不慣れな電車の揺れに身をまかす。

ふと見渡すと車内のつり広告が何と多いことか。
あまり美的ではないと思うけれど結構刺激的な字句や絵が目を奪う。

みんな慣れてしまっているのかきょろきょろと見回す人は皆無だが、
でも田舎の我々のような人間にくらべれば目から入ってくる情報量
は桁が違うはずだ。
きっと自動的に「ふるいにかける機能」が都会人にはあるに違いない。


さてそんななかで目の前のドアの戸袋のガラスに貼られた小さな広告シールが
目に入った。
水虫薬の宣伝だった。
見回してみると他のドアの戸袋のガラスにも同じようなシールが貼ってある。
強壮剤の宣伝とか足のにおい消しの宣伝だ。
どこを見てもその部分の宣伝は「足腰」や「体力」に関係した宣伝が多い。

ウーム、、なるほど、満員電車のサラリーマンの目の前の宣伝にはこれほど
良い宣伝場所はない。

水虫薬の宣伝はインターネットでやっても多分だめだろうなあ。
治療法を知りたい人や医者が調べ物をするのにはいいのだろうけれど
水虫薬をインターネットで探す人はそうはいないだろう。
むしろ電車のガラス窓のほうがメーカーにとっては効果的だし、
サラリーマンにとってもわかりやすく役に立つ情報だ。

とるに足らないような小さな広告シールだけれど妙に納得してしまった。







1997.4.28

先日、東京の新宿駅に行った。
久しぶりの新宿駅だったが相変わらずの人込みだった。
数千人の人が目の前にいる、それも何の関係もない、仕事も違えば趣味も違う、
駅にいるのに行く先も皆違う、こんな人達の集合する場ってまず他にない。

こういう人達に向かって何か宣伝をするには拡声器を使ってやるのが良い。
みんなに聞こえる。だけど何人の人が興味をもってくれるかわからない。
数千人の人に漠然と宣伝するというのは効率のすごく悪いと思うし
なんだか、興味があるのかないのかわからない、わけのわからないものに
働きかけるなんて不気味でさえある。

だけどよく考えて見るとどんなに多くの人がいても一人一人は必ず何かの
属性を持っている。
同じ業種かもしれないし、同じ出身地かもしれない。
同じ趣味をもっているかもしれないし同じ年かもしれない。
属性で絞ってみれば誰でも必ずどこかに入るはずだ。
そう考えればどんなに大きな目の前の集合体でも中身が見えてきて「恐くない」
「恐くない」という言い方でおかしかったら
話しかけることが難しいことではないように思えると言ったらいいのかな。
まして自分の趣味なり、年なり、出身地なり、業種なりが同じ人達と
話しをするのだったら苦労はないのだろう。

但し、まさか駅構内の一人一人に趣味とかをきいて回るわけにもいかない。
でもインターネットだったらできる、と思った。
回りくどい話しになったけれど
都会で(?)インターネットがはやる訳はこんなところにあるのかもしれない。
もちろん「拡声器の代わり」に確度の高い道具として企業活動にも使えるのは
言わずもがなだ。
いままでの方法とインターネットとの違いが、特にマーケティングや広告において
だいぶ異なったものになるだろうということは容易に想像できる。

新宿駅のプラットホームに立ってそんなことを考えた。




1997.4.27

昨日の続き
何かの本に書いてあったが、人間は社会を営んでいること自身がすでに
自然に対して「罪深い存在」であるという主張はある意味で当たっている。

しかし時として人間は技術や科学の「力」を過信し、そういう自然に対する
「慎み」や「罪深い存在であること」を忘れてとんでもないことを始めてしまう。
意識するとしないとにかかわらずに始めてしまうからたちが悪い。
原爆もそうだし産業廃棄物や公害、炭酸ガス、水資源の汚染、もそうだ。
いずれは自分自身に対し問題になるとわかっていても始めてしまう。

よく考えて見ると日本の森林等は全く手付かずの自然ではない。
湖沼などもコンクリートで覆ったあとで葦などを植えて「自然に戻した」などという
ところも多い。
一方的に自然を傷つけたり高原の道端のガードレールに造花の花を植えるなどと
いうのは論外でもあるけれど、「慎み」を忘れ、技術や科学の「力」を過信して
自然を意のままに扱おうとしたり「ばか」にしたりすればとんでもない
揺り返しもくるだろう。

技術や科学の「力」や「役目」も認識しながらも、やはりバランス感覚が
最後には重要な要素なのだ。

農業や工業や産業の未来と「ムツゴロウ」の未来をいっしょに解決できるのは
いろいろいっても結局は人間しかいないのだ。




1997.4.26

昨日は環境問題から少し少し寄り道でした。今日は又環境問題について。

およそ人間が猿から進化した時から、あるいは社会というものを構成し始めた
ときから自然という客観的に外部に存在する物に対して人間は受動的ではなく
能動的に「働きかける」「形を変える」行為を始めたのだろうと思う。
自然に組み込まれて受動的に動物が生きていくのと異なり、人間として生きて
いくのはそれだけで外部に対し「傷」をつけながら進化していくことにもなる。
なにも化石燃料や「むつごろう」だけでなく
道路一本つくっただけでも、ゴミを燃やしただけでも厳密には自然を「傷つけて」
いるのだと思う。

だからといって傷つけないようにしなければいけないというのではない。
それでは産業や社会そのものが縮小していくしかないからだ。
社会や産業が「悪」だという議論にもつながってしまう。


環境や自然と人間の社会や産業と「調和」を保つことはできるのだろうか。
我々には出来ると思うし、やらねばならないのだと思う。
それこそ技術や科学の「力」であり「役目」なのだと思う。




1997.4.25

いやー、見ました?
昨晩の深夜のニュース番組でやっていた「アメリカのバイオ技術の現在」
ここ2日のニュースの中ではペルーの一件や脳死の一件にくらべても衝撃的だった。

人工皮膚にはじまって人工臓器や人工体躯?もすでに現実のものとなりつつあるのだ。
人工培養される「手」やねずみの体にくっつく人工の耳あたりをみせられては言葉を
失う。来週は人間の遺伝子と羊の遺伝子の「結果」が紹介されるらしい。

アメリカのこういう先端的研究、(というより商売の一歩手前まですでにいって
いるのだけれど)の底力はすごいとは思うけれどここまで来ているとなると
いささか恐ろしいというか、いやなんともはや、、、、

以前にもこの問題をここで取り上げたけれど、ここまで進めていく原動力が商売の
ためであるのはアメリカでは当然のこととしてうけとられている。
但し、さすがアメリカでもクローンとか遺伝子操作については慎重な姿勢を崩さない。

昨日ここで書いたようにアメリカでは環境問題やエネルギー問題を解決するのは
経済効率によって自律的に出来るはずだしその方法論の構築そのものが次世代の
産業の礎にもなるのだというとても先進的な考え方、方法を進めている。
医療や福祉分野と産業とを結びつける方法論についてもアメリカでも当然進めて
いるのだが、しかしそれらの推進論者でさえこの問題については慎重だ。
なぜ環境問題やエネルギー問題にくらべ医療に対する慎重さの違いが出るのかはよく
考えてみる必要がある。

そうはいってもおよそ危険だからといってお金の元になると見られた技術で
廃棄された技術っていままでなかった。
多分アメリカでもいろいろ紆余曲折がありながらも進んでいくのだろう。




1997.4.24

環境に対してやさしい産業や文明というのはありえるのだろうか。
3月18日のこのコラムにも書いたのだけれどもう一度紹介したい。

−−−−−−−
ゴア副大統領が情報スーパーハイウェイの提唱者であることは有名だが
彼が環境問題について深い洞察と行動力の持ち主であることはあまり知られていない。
・・先日の本の中にゴア副大統領が述べる一節がある。

ビジネス史始まって以来の最大の新しい市場とは
環境を破壊することなく経済成長を促す新しい製品と技術とプロセスの市場です。
・・60、70年代のアメリカの企業の多くは損得勘定を覆さなくては品質向上は
不可能であると考えていました。ところが日本はデミング博士の発案によるアメリカ
生まれの技術革新を取り入れ新しい品質理論を導入し品質、収益、賃金、生産性の同時
改善をやってのけたのです。
環境関連の課題は今、同様の好機をもたらしています。・・環境効率にこれまでにない
注意をむければ私たちの活動が環境に与える影響を軽減し、同時に環境効率や生産性を
向上させることができるでしょう。・・・
           「情報スーパーハイウェイ」(浜野保樹監修  電通・1994年10月)
−−−−−−−−

今回の「諫早湾のムツゴロウ」の一件が もしも「人的な問題」によって行われたと
すれば「環境を破壊することなく経済成長を促す新しい製品と技術とプロセスの市場」
を作りあげることによって解決できたかは疑問だが、少なくとも一般的には環境破壊と
地場産業のせめぎあいという問題については解決の糸口を見つけてくれる。

環境と産業の関係について「真摯に」、「待ったなし」に考えねばならない時代に
なっていることだけは間違いない。




1997.4.23

 九州農政局は 4月14日午前11時半、長崎県の諫早湾干拓事業で建設中の潮受け堤防
(全長7km)の開口部(1.2km)を閉め切った。これによって海水が通わなくなった湾
奥は約70日で淡水化し、世界的に貴重とされる3000haの干潟は、ムツゴロウなどの生
物とともに消滅する。
                                             毎日新聞 4月14日夕刊

上記の話しとは少し異なるかもしれないけれど、一般的に環境破壊と地場産業の
せめぎあいというのはどこでもよくある話しだ。
皆の財産である「自然」を子々孫々のために残そうというのも当然わかる。
一方、今回のことがそうであるかはわからないが、一般的に「地場の産業のためには
ある程度の自然破壊もやむをえない、」という意見に対しても「それではいけない」
と言うことは簡単だが産業の疲弊からの生き残りのためだと言われると有力な返答が
出来ないのも事実だろう。
実際、文明や産業はある程度「自然」への働きかけによって進んでいくことも
認めなくてはいけないのだろうし、、


ムツゴロウは消滅するのではなくて正しくは人間によって「殺される」のだが
これがもし愛らしいムツゴロウではなく生態系に正しく組み込まれている
生物ではあっても憎たらしく危ない動物だったらどうなんだろう。
もちろん自然破壊に対する批判の意見はでるだろうがあまり感情的な意見は
出ないかもしれない。
感情的な議論やあまりに情緒的な議論というのは避けたいとは思う。


逆に「トキ」が絶滅するときにあれほど国民的に議論が盛り上がったのに、
「珊瑚礁」が全滅する危機が言われた時にあれほど注目されたのに、
「ムツゴロウ」が「人工的に絶滅する」今回はあまりなされないのがなぜなのかも
もうここではこれ以上言わないでおこう。


・・でもいままで日本のどこでも産業の活性化のためにといって結果的に自然を
壊してその地元にとって「よい話し」になったためしがなかったということと、
産業人にとっても自らも含めた生態系を傷つけながら産業や文明を成立させる
ということがいかにおろかなことか、何年後かに痛いほどそれを思い知らされる
ことになってもその時はもう遅いのだということだけは肝にめいじておきたい。

・・いったい我々はいままでなにを学んできたのだろう。




1997.4.22

環境問題とかエネルギー問題ということでは
最近電気自動車やハイブリッド電気自動車が結構注目されている。
我々もとてもこのあたりは興味があって
自分達でも秋田県で行われる省エネ電気自動車レース
「ワールドエコノムーブ」に毎年参加している。
一人乗りの小さな「電気自動車」を作って
皆同じバッテリーをつんで二時間でどのくらい走れるか競う競技だ。
いままでの記録はバイク用の小さなバッテリー4個で65キロあまりを
走ったのが最高だ。(残念ながら我々ではないが、、)

ふと、町中の渋滞にまきこまれて思う。
自分の車も含めて大部分の車は一人しか乗っていない。
これだけの台数の車×重量がガソリンを使いながら移動する。
人間の重量のおよそ20倍の重量が単に「一人の移動」のために使われる。
そもそも普通、移動の目的は人の移動であって車の移動ではないのに、、。
かといってすべて移動を公共の交通手段にしようというのも無理だろう。
玄関から玄関まで移動出来る自動車という交通手段の優位性をいまさら
捨てろと言っても現実的ではない。

最近は国際的にも「超省エネカー」の実現に向けて各メーカーが動き出している。
3リッターのガソリンで100キロ走ることが当面の課題のようで、
近い内にはそれに近い車も続々と市場に登場するようだ。

そんな車に乗れば少しは渋滞中の「うしろめたさ」も緩和されるような
気もしないではない。




1997.4.21

昨日の続き。
原子力の問題もそうだと思う。
仲間と話すなかで原子力発電の将来性と是非については意見がわかれることが多い。
これほど明確に意見が別れるのも珍しい。
仲間が製造業に携わっている人間が多いためかもしれないが
技術と人間や社会の関係についてそれぞれいつも真面目?に考えているせいなの
だろうかとも思う。本当に皆、真面目に考えているのだ。

で、原子力発電の是非についてはいろいろ意見もあるし
ナイーブな問題だからここでは意見は控えるけれど
すくなくともそれも含めてエネルギー問題や環境問題を一人一人が
問題意識として深く考えることはとても大事なことだ。

しかし新聞記事やテレビ番組に関して言えば環境問題やエネルギー問題や産業への
視点に立った、深く問題を捉えた記事があまりに少ない。

単にテクニックや方法の問題ではなく、もっと長期的な日本の根本的な課題、
少なくともいずれ解決しなくてはいけない問題として議論を進める必要がある
だろうし、又それを喚起するための役割をマスコミはもっているのだろうと思う。

目の先の問題や感情的な問題やシステムの問題やいろいろなことは
もちろん きちんと対処していかねばならない。
でもそれと同時にこれからの日本のエネルギーの問題や環境問題を皆で
長期的な視野に立って議論を進めていくことも決して無駄なことではないはずだ。
特に環境やエネルギーと産業との関わりや技術と人との関係については産業界の人が
もっと積極的な議論に参加することが必要だと思う。




1997.4.20

女子高校生の援助交際等の問題に関してここのところ新聞等の
社説等で取り上げられることが多い
昨日の新聞などは大手新聞が社説でこぞって
東京都の青少年健全育成条例の改正について書いていた。

罰則規定の見直しに対する意見や大人の方にに買春をする側がいるからそこを
正さないといけないという意見等についての社説や記事が多い。
それもたしかにそうだ。

しかし、援助交際や買春を興味本位で取り上げる記事やテレビ番組等は
論外として、真面目な記事や番組でもそういう今日的な問題について
根本的に問い直したものは少ない。
援助交際や買春等の現象の底にある現代社会の問題点を深く掘り下げた
読み応えのあるものが少ない。

子どもがいたずらをしているのをみて他人が注意したらその子の親が
「おばさんに怒られるからやめましょうね」といって
子どもをたしなめるという話しはよく聞く。
原子力にしても援助交際にしても行政のすすめかたはそれに近い。
行政はその立場上問題の本質になかなか手が入らないということも
あるだろう。(もちろん根本に迫る方法を実行するべきではあるが。)

だがマスコミはもっと「ことの本質」にせまっていいはずだと思う。
識者の意見と評論だけでそれに迫れるとも思えない。
表層に現れるいろんな現象を積み重ねてその中から深く本質に迫る行為
そういうものを僕らはマスコミに期待している。

そうでなければ、例えば経済企画庁や日銀の経済概況の発表に対し単なる
言葉の羅列で「経済の状況」を判断、評論されてはたまらない。
大部分の中小企業にとってのニュースソースは仲間からの情報と
日々のテレビや新聞からの情報に頼るしかないからだ。





1997.4.19

又、クイズです。

山手線のレールは右と左(外と内)ではどのくらい長さが違うでしょうか。
線路幅が1メーターとして考えてください。

えー、多分ですが6.28メーターのはずです。
あってるのかな?(違っていたら教えてね)

変な話しだけれど(いつも変!!)
外側のレールのほうが長いのだから車輪も外側の方が減りが早いはずだ。
どのくらい減りが違うのだろうとまじめに考えていたら声あり。
一周何十キロもの長さの内の6メータなのだから
その差が出るより何十キロもの長さを毎日何周もしたことによる
減りのほうが圧倒的に大きいから実質は差はないぞ。
・・・納得。

それにしてもあの車輪、鉄と鉄が触れ合っているのだし
潤滑油を付けるわけでもないのだから相当減ると思うけれど
どうなんだろうか。

それと車のタイヤのゴムもあれだけの量が作られて消費されるのに
減ったゴムはどこへいくのだろう。





1997.4.18

タイガー・ウッズ
すごいプレーヤーがでてきたものだ。
これほどセンセーショナルな登場の仕方は最近なかった。
以前から名前は知られていたようだし
将来性では注目されていたようだが
ゴルフをやらない、知らない人でもここまでアピールされれば皆が気づく。

彼の注目を浴びる要素はたくさんある。
白人ではないということもあるし
ともかく飛ばすということ、うまい、見せる、
等あげればきりがない。
これほど魅せる要素をまとめて持っている人も珍しい。

もう一つ言えば彼が「スタンフォード大学」の出身であることや
スターになる前からあの「ナイキ」がスポンサーになっていたということが
面白い。

「スタンフォード大学」や「ナイキ」なんて、まんまベンチャー企業のキーワード
じゃないか!

なんかゴルフ界のベンチャーみたいで新時代の到来を体現出来る、夢が見られる、
そんな気がして久方ぶりに興奮してテレビを見ていた。




1997.4.17

たまには気分を変えてクイズでも・・

眼の前にケーキがある
ケーキというと問題があるからジュースでもいい。
異なった形のコップが3つある。
びんに入ったジュースをコップにそれぞれにそそいで
三人の人間がみんな量的に満足する分けかたはないのだろうか。

二人だったら
一人が気のすむまで二等分する。
もう一人がどっちか自分の納得するほうを手にとれば二人とも
問題なく満足出来る、自分のほうが少ないと思うことはない。

三人だったらどうだろう。
三人とも納得する分けかたってあるのかなあ。

いろいろ仲間と話したがわからない。
だれかアイディアだしてください。
待ってます。




1997.4.16

昨日の件と似たような話しで猿岩石の件がある。
「途中で飛行機に乗っていた。」とマスコミにたたかれたけれど
結局は若者達から認められた。

バラエティー番組なのだから「編集」としてみとめられるべきだというのが
作ったテレビ局側の主張だった。
たしかに当初はそうだったが話しが大きくなってきてドキュメンタリーの
ようになってしまった。
当初の認識からははずれてしまったわけでそれが問題の引き金にも
結局はなってしまった。

たしかに「編集」をしたという事実はあるが番組のスタートはバラエティー番組なの
だからあまり神経質になる必要もないと思う。(これには意見がありそう)
編集者もあまり大きな問題にならずにすんで胸をなでおろしているにちがいない。

むしろおかしかったのはこれらのことを問題として「叩こう」とした他のマスコミ
の対応だった。
猿岩石の二人にたいし「報告違反」があったとして叩こうとしたのだろうけれど
思ったより「反猿岩石キャンペーン」はもりあがらなかった。
ドキュメンタリー番組のような内容に対し「報告違反」があれば重大な問題として
社会的非難があがるだろうと思ったのだろうけどこれは見事にはずれたようだ。


彼らがここまできたのは売り出したテクニックももちろんあるだろう。
が、やっぱり一番は彼らがやったことの事実に対し若者やおじさんが共感を
もって迎えたということだと思う。

マスコミ側のいろんな思惑をよそに彼らのやったことが、そのこと自身が
共感を生み出した。そんな気がしてとても痛快だった。


二人だけで人びとと出会いながら地球を旅するなんて
すごくロマンティックだし夢がある。
自分でやろうと思ってみてもそう簡単にできることではない。
自分でやってみたい夢、やってみたかった夢、ちょっと出来そうにない夢
それをあの二人にたくしていっしょに旅した若者やおじさんもいたはずだ。
そのような価値を望んでみていた若者も多かったと思う。
かく言う僕もそうだった。




1997.4.15

この前、新聞にでていた。
あるテレビ番組で「鉄を食べる物体」というものを生物のような扱いで
取り上げたためそれを考えた教師がテレビ局に抗議したというものだ。

実際はバラエティー番組だしそれ自身も理科の教材に使われている
「砂鉄入りスライム」らしいから知っている人は知っていただろう。
たしかにあまり「深刻に」考える人もいないかもしれない。

マジックのような、魔術のような、超能力のような現象を扱う番組が
一時とても多かった。宇宙人の存在やUFOの存在を扱う番組も多い。
自分自身は楽しんでみたりしているがそれでもあまりテレビで目の前で見せられると
そんなこともあるんじゃないかなあ、と思う時もある。

今回のことに対する意見はまだ自分としてもわからないが、
でも、その先生が危惧する「不思議な現象の裏に理論があるのが科学、
オカルト的に感じさせる扱いに怒りを覚える。」
という意見も考えなくてはならないとても重要な問題だと思う。

たしかに「鉄を食べる生物」も「超能力」も「宇宙人」も存在するかもしれない。
むやみに「科学万能主義」に立って、逆に認識できていないことを
「ないこと」だとすることも無謀だと思う。
もしかしてそういうことがいずれは証明や発見出来ることもあるかもしれないのだし。

でも逆にわからないからといって「オカルト的」になってしまうのももっと問題だ。
わからないといってそれを未知のもののせいにして「なぜなのか、何なのか」を
知ろうとせずにいたらそこには科学や社会やシステムの発達はないだろうと思う。




1997.4.14

人のやらないことをやるという一点で進めることはおかしいことなんだろうか
「どう考えてもいままでの仕組みが一番<枯れている>はずで
              独創的なことにとらわれる必要はない、組み合せを考えた方が良い。」
という意見もあると思う。
確かに問題を解決する方法を考えた結論として「これこれこういう方法がある」
というアイディアが出るのが、出すのが普通だと思う。
じゃあ、「意地でも人と違うことを考える」という前提でものを考えるのは
邪道なのだろうか。
昨日のバイクの話しだって「この機能を改善したいからこうすればいい」
という方法もある、が
なにか全然違ったことと結び合わせて「とんでもないアイディア」「とても実現
不可能なアイディア」「人から見たら多分意味のないアイディア」を
考えることは意味ないことなんだろうか。

東北大学の総長だった西沢潤一氏が光通信の基礎研究を進めていたとき
国内でそれを評価する人は誰もいなかったという。
今となればこれが偉大な研究であったことはだれも疑う余地がない。
氏が独創性のあることを研究しようとしていたかはわからない。
でも少なくともとても独創的であったことは間違いない。

改善のなかから結果的に独創的なものが生まれる可能性もある。
それも大事にしよう。
同時に、なにがなんでも人と違うことをやる、考える、という
独創的な人を育てる文化が日本にも欲しいと思う。




1997.4.13

昨日の続き

夢の実現に向けて動き始めたにもかかわらず
しかし志なかばにして病に倒れたジョン・ブリッテンの無念さは察するにあまりある。

だがバイクメーカー「ブリッテン」はそれ以降のバイクレースにおいても大企業の
レース用バイクに伍して いや、それ以上に優秀な成績をのこしつつ戦っている。
企業としてもこれから様々な可能性を求めていくに違いない。

それにしてもほぼすべての部品を手作りして一台のバイクを作り上げたという
パワーは素晴らしい。
ものづくりに携わる人ならそれがいかに大変な作業の連続であるかおわかり
いただけると思う。
きっと我々には想像できないようないろんな問題もあったろう。


「地域の問題」や「状況の困難」をあげて「出来ない理由」を評論家のように
説明することは簡単だが、夢を実現するために持てる力を発揮し仲間とともに進めて
いくことはとても大変なことだ、、、しかし、始めなければ始まらない。

日本にも独創的なアイディアをもとに夢の実現に向けて動き始めている企業や
若者たちが明らかに出現しはじめている。
私達も自らそういう志を持ちながらも、微力ではあるがそういった企業や若者達の
夢の実現の一助になればと思う。




1997.4.12

いささか古い話しで恐縮だけれど。

ニュージーランドのクライストチャーチという比較的小さな町に
「ブリッテン」 という町工場のような規模のバイクメーカーがある。

ジョン・ブリッテンという青年が今から10年ほど前から仲間と数人で「趣味」で
手作りのバイクを作り始めたという話しはもう8年ほど前か、うわさには聞いていた。

2年ほど前にバイク雑誌に大きくとりあげられていて、まだ10人ほどではあるけれど
町工場のような形でメーカーとしてレース用のバイクを作っていることがわかった。
そのバイクはエンジンも車体もカウルもホイールも、タイヤを除くほぼすべてが
「ブリッテン」製で、構造も非常に独創的なものだ。
エンジン等は個人や町工場で独力でできるものではないと言われていたが、
工業国ではないと言われる国の小さな町で10人ほどでそんな独創的なすごいバイクを
作りあげたことに驚き、夢を形にしていく青年の姿が見えてきてとてもうれしかった。

そのジョン・ブリッテン氏がおととしの9月に癌で亡くなったと知ったのは
インターネットからだった。




1997.4.11

昨日の新聞の記事に日米中の高校生の意識調査の結果がのっていた。
「少ない友人との深いつきあいを強く望む」割合がアメリカ57.9%
中国26.8%に対し日本は20.4%だったそうだ。
又、親しい友人との付き合い方でもあまり親密な付き合いを日本の高校生は
望んでいない。
「先生への反抗」「親への反抗」「学校のずる休み」
などを「本人の自由でよい」か「してはならない」か聞いたところ
驚くほどの差で日本の高校生が「本人の自由でよい」と答えている。
「性を売り物にすること」などは日本では25.3%が「本人の自由」
と答えている。

調査した研究所の人は「ポケベルに象徴されるような人間関係の薄さが見て取れる」
としている。
又、教育評論家の人は大人社会の教育力が大きく問われる重大な問題だと思う、
としている。

正直いってこれを読んだ時、このコラムに「日本人が積極性に欠け、インタラクティブ
じゃない原因はこんなところにあったんではないか」云々と書こうと思った。
が、もう一度よくよく読んでことの重大性に暗澹たる気持ちになった。
これは日本人の性格を分析するどころの話しではない。個人主義という話しでも
くくれるものでもない。
国や社会や社会の基礎である家族の存続がこれでは危ない。

なんとか気持ちが明るくなるような分析をこの中に望みたいのだけれど、、、、、、




1997.4.10

少し前に書いたバーチャルな経験を本当の感覚に置き換える技術の話しの続き。
新聞にのっていたけれど本当にアメリカのベンチャーが開発したそうだ。
なんでも、指サックみたいなものに指をいれると画像に現れるいろんな
「もの」に本当に触れているような感触が得られるんだそうで
世界中の大手企業から問い合わせ殺到だそうだ。
他のなんかの記事によればこれも以前書いた「神経」への直接的な
働きかけによる感覚の延長も実際の技術になってきているらしい。

「やっぱりアメリカからでてきたかあ」、といういつもの意見はおくとして、、、

これは本当に
「仮想が現実をのみこむ中で論理から身体感覚への
                             パラダイムシフトが起きた」ことなんだろうか?
確かに今はコンピューターのインターフェイスが文字から画像や音へそして仮想現実へ
シフトしていく過程であることは間違いない。
そういう部分への応用も進むに違いないと思う。
コンピューターの技術や未来を過小評価するものではないし
情緒的、感情的に嫌がるつもりもない。うまく使えば素晴らしいことだと思う。

でもその「パラダイムシフト」は人間性復活や皮膚感覚の復権に向かっているなかでの
ものとは僕には到底思えない。

「やっぱりやってみなくちゃわからない」が「やらなくてもわかる」時代になる
とは思うが、「本当にそれはあったのか」「本当にやったのか」とは異なる。
だれが何と言おうと「あったものはあった」のであり「やったことはやった」はずだ。
だから正しくは「やらなくてもわかったつもりになれる」なんだろう。


・・・いずれにしても画面にカッターナイフが写っているときは
                                           指を突っ込むのはやめましょう。




1997.4.9

いよいよ暖かくなってきた。
春本番だ。
何かスポーツでもしたいという気にもなる。
昔はサッカーが大好きだった。
そのころは暇があればボールをけっていたけれど
最近はたまにテレビをみるだけだ。

サッカーをテレビでみる時はボールのところをみているだけでは醍醐味
が伝わらないと思っている。
そのまわりのプレーヤーがどういう動きをしているか、どう動こうとしているか。
ボールとの関係はどうなっていくのかを追っているととてもおもしろい。
それがよくわかるかどうかはカメラマンの技量にももちろんよるのだけれど
(地方のローカルな試合を地元のテレビ局やCATV局が取した番組は
   正直、サッカー試合のたのしさは伝わらないことが多いと思う)

個人技を見るという楽しみももちろんあるけれど
そういう見方でサッカーをみるとまた違った楽しみが見えてくる。





1997.4.8

我々は元々自動車とか船とか飛行機とかがむちゃくちゃ好きで
それで「電気自動車を作ってまちづくりしよう。」てやってるんだけれど、、

毎年思うことがある。
フランスで行われる「ルマン24時間」自動車レースや何年かにいっぺん行われる
アメリカズカップというヨットレースがあるのだけれど
これがなかなか手強くて日本のメーカーとか資本が参戦してもなかなか勝てない。
何年か前にマツダがルマンで優勝したのが今のところ唯一くらいだ。

なんで勝てないんだろう。
日本は、車作ったり、船作ったりしてお金にすることは世界一うまいはずなんだけれど
なぜか勝てない。

こういうレースについてなんかに書いてあった。
  外国のすごいやつを一人つれてきてなんにも出来ないグループと組ませても
  うまくいかない。みんなが塩っけの多いメンバーでそれぞれが今なにをするのか
  しなければいけないのかわかってないとだめだ。

あれ?こんなのむしろ日本人向けじゃなかったんかいな。

続・電子立国で製鉄会社のシステムのことをやっていた。
ソフトのように、だれか天才が一人いてみんながそれに奉仕する仕組みじゃなくて
みんなで一つのことをずるずるといつのまにかやってしまう。
それが日本的な、いままでのシステムであり、これはやはり「強み」だと、、

じゃあ、アメリカズカップやルマン24時間なんかは一番むいているのではないか。
なんで勝てないのだろう。

ところで「ものづくりっけ」もやはり日本の強みだ。
日本の中小企業のおやじやせがれ達は「ものづくりっけ」が染み付いている。
これは利用しないといけないと思う。





1997.4.7

先日NHKで「アメリカで一番住みやすい街」という番組をやっていた。
チャタヌガ市という町のことだが
環境問題や住宅問題産業とかいろいろな問題を総合的に捉えて
積極的に解決策と行動を示し
文字どおり「アメリカで一番住みやすい街」をめざしている
姿がとても印象的だった。
環境問題にその町はとても敏感で「うるさい」にもかかわらず
全国から大手企業が誘致に応じているのにはおどろいた。

アメリカというとシリコンバレーとかが注目を浴びがちだが
ジョージア州のアトランタ(ここはスポーツ産業を総合的に
そだてているようでオリンピックもその関係があったのだった!!)
とか、チャタヌガ市のような動きとかいっぱいあるんだ。

どこの町もその町の歴史やポテンシャルをよく見て
多様な「活性化」の方法を考えている。

なぜか日本の「まちづくり」というとシリコンバレーがいいらしくて
全国から視察団が行っているらしい。
なんだかボタンの掛け違いのところもあるような気もするけれど、、、


私は個人的にはチャタヌガ市の交通手段として
電気バス!!!!を使おうと考え、何とそれを
市内企業自ら作り始めたという話しがとてもよかった。




1997.4.6

靴下の話しです。(日曜日位変な話しでもいいですよねえ)
まったく変な話しで恐縮だけれど ふと思った。
靴下にしろ下着にしろ身に付けるほうが裏で外側が文字どおり
表なんだろうけれど、、
どうせ靴下や下着の表側はワイシャツや上着の裏側と向かいあっていて
人に見せるわけでもなければ(なかには見せる人もいるだろうけど、、)
それが価値のあることとも思えない。
むしろ人間の体と触れ合う裏側のほうが大事なはずで
「自分を大事にする」のだったら
縫い目とかデザインは「裏側」が主体でもいいはずだ。
上着には裏地が付いているし中にはとんでもない裏地や裏側のものもあるようだけれど
靴下や下着はあまりそういうことって考えられていない。

そうはいってもいままで表だった方を裏側にして逆に裏側の縫い目とかが
表にでているのも考えものではあるし、実際にそういうのを
身に付けろと言われても出来ないけれど。

だからもっと両方に考慮した下着や靴下があっていいと思った。

「だから俺はシャツを裏と表を逆に着ている」という人がいたら
自分の価値観を持つとして表彰したい位だ。(いたら連絡ください、笑)

それにしても「縫い目は裏側」という着るものの作り方を考えたのは
いつからだったのだろう。




1997.4.5

昨日の「木枯らし紋次郎」だが
勧善懲悪のパターンであることは同じなのだろうけど、
「水戸黄門」様とはだいぶ異なっていた。

「水戸黄門」は水戸黄門という偉い人が先にとりあえず居て最後はご存知の印篭を
皆にみせて一件落着なんだけれど
「木枯らし紋次郎」は最初から「力の背景」なんか最初からない。
印篭はないし助けてくれる人もそうはいない。
「七人の侍」あたりもそうだけれど
だいたいニヒリストのヒーローなんて時代劇にはいなかった。
最後は「やるか、やられるか」しか解決の方法はない。

アメリカの西部劇でも出てくるのは「木枯らし紋次郎」みたいなヒーローだ。
「水戸黄門」みたいなヒーローは見たことがない。

こじつけみたいだけれど、結構このあたりは
日本とアメリカの文化の違いをあらわしていると思う。産業もそうだ。

アメリカには西部劇のヒーローみたいなベンチャーがいっぱい出てくる。
(かのジムクラーク氏も自らのことを幌馬車隊と呼んでいた。)
日本にも「木枯らし紋次郎」みたいなベンチャーが出てくるといいと思う。

あまりニヒリストでもこまるけれど、、、




1997.4.4

どーこかでー、だーれかがー、、

木枯らし紋次郎というテレビ映画があった。
やくざの紋次郎が長楊枝をくわえて全国を一人旅する。
群馬の貧しい寒村の生まれで「間引き」からかろうじて生き延びたという過去から
「ニヒル」な性分とクールな容貌に生まれつき
「あっしにはかかわりのねえことで、、」
といいながら人と関わりを持たないように旅する。

だけど望まないながらも
いつのまのか地元の善良な農民と「悪代官」のトラブルにまきこまれ
「あっしにはかかわりのねえことで、、」といいつつ結果的に「悪代官」や悪者と
対決せざるを得なくなる。
なんとか征伐を終えて村人に感謝されながらも最後まで「あっしにはかかわりのねえ
ことで、、」といいながら長楊枝を鳴らしながら去って行く。


4月から消費税が5%、高速料金も値上がりした。
いろんなところで値上がりしただの、税金が上がっただの、
それが日本や地元のためになっているのなら、、、
本当にそうだったら誰も文句は言わない。
でもどうもいろいろニュースをみていればそうじゃないような気がする。

現代の悪代官が新聞やテレビによく出てくる。
「木枯らし紋次郎」の題材には事欠かない。

「あっしにはかかわりのねえことで、、」といいつつ
回りの状況に関係なく「ものづくり」ができるとも思えない。



1997.4.3

ソフト、ソフトといってもソフトの部分とコンテンツの部分にしっかり
別れてきている。コンテンツそのものが重要になってきたとも言える。

いままで最終的に「ソフト」を欲しいと望んでいる人は
作るのは難しいからとコンピューターに詳しい人、会社に頼んでいた。
製作会社のほうでは当人が本当に欲しい訳じゃないしコンピューターも
開発する道具もいままではそんなにりっぱなもんじゃないから
ソフトとしては完成してもコンテンツとしては中途半端なものが多かったと思う。
逆に言えば売れるソフトってコンテンツとしてよく出来ているというか
マーケティングがとくできているというか、要は 作った人がよく「わかっていた」
「自分でもほしかった、やってみたかった」ということなのだろうと思う。

こういうことがどんどん進んでいったらどうなるのだろうか。
やっぱり自分で作ったほうがいいものが出来るということになるだろう。
あるいは自分たちで利用するために作ったものを同じような人や企業に
販売するようになるし、もっとすすめばそういう技能にたけた
「コンテンツのプロ」がどんどん登場するようになる。
情報技術処理技術者ではなくマルチメディア、コンテンツクリエーターだ。
人や自分が本当に欲しいものを形にできる能力を持つクリエーターだ。
テレビでそういうカタカナ職業をはでに扱うからブームのように感じる
むきもあるが今後の日本のものづくりの大事な部分になっていくと思う。

そういう人はもちろん最低限のコンピューターの知識も大切だろう。
それ無しには形にならないから、、。
でも、もっと重要なのは現実の社会や生活のなかから
感性豊かにいろんなことを感じたり思ったりアイディアを創造することだ。
こればかりは授業や成績や勤務態度?では決まらない。
一番は現場で、目の前でそれを見て、感じ、考え、行動していることだ
「やってみたこと」が一番感性を刺激する

今はゲームソフトの世界でそういう傾向が多いように思うけれど
いずれもっと他の業界でもその傾向が進行するに違いない。




1997.4.2

<ゲームソフトについて>
少し一面的な言い方かもしれないけれど、、、
コンピュータープログラマーがゲームソフトを作っているように
つい考えてしまいがちだけれど
これは発想の豊かな若者の作るもので
だんじて ”コンピュータープログラマー”の仕事ではない。
コンピューターなんて知らなくていいから
面白い遊びかたを考えられる若者の仕事だ。

昔、同級生なんかにもいましたね。
成績はわるいけれど遊びとか なにかやらせると面白いこと考えるやつ
ろくに道具もないし小遣いもそうあるわけじゃないから
ラジコンとか高価なおもちゃも買える訳じゃないし
でも落ちている棒きれや石ころや廃屋を想像力豊かに何かに置き換えて
遊びかたを作り出すやつ

ああいう雰囲気だと思う。
そんなやつがいて自分たちもそれで遊びたいから皆で作っちゃう。これは面白い。

昔はそんなやつもいっぱいいたのにいつのまにか見あたらない。
最近は「この指とまれ」とやっても忙しさやめんどくささに追われてあつまらない。
おとなになるにしたがって、分別くささは身につけたけれど
好奇心と想像力はどこかへ捨ててきてしまった。

でも最近のゲームソフト業界の賑やかさを考えれば
いま又、好奇心と想像力に富む若者がすこしづつふえてきているということか。

他のソフトや産業にも同じように
「おもしろいからやっちゃおう」がいっぱいでてきたらこれも面白い。

じゃあ、コンテンツは誰がつくるのか、は又 明日。





1997.4.1

<この前書いた独創性について>
ゲームアプリケーションは日本が独創的と書いたけれど
やはり「もと」はアメリカだった。
最初にビジネスにしようといろいろ考えたのはアメリカの起業家だった。

いま、日本はそれを発展させて独自に作ったゲーム機の上で
様々なソフトをつくっている。でもこれもこのままでいくと
いずれまたパソコンの上でやることになりそうだというのはこの前書いた通り。
どうも基本のシステムはアメリカがとても強そうだけれど
せっかくゲームソフトみたいなものがあるのだからこれは大事にしたほうがいい。

やっぱり 人と違うことやるのが誉められる国と、違うと怒られる国では
だいぶこの先違うのかなあ、とまた思っている。

「違うことをやる」のが誉められる国の若者は競って違うことをやろうとする。
世界で認められるようなものがどんどんできればその国は豊かになるに違いない。
もちろん皆が認めてもらえる訳じゃない。でもそんな若者がどんどん
あとからあとから出てくる。そういう国はすごい。

「違うことをやる」ことを認める文化、「多様性」を認める文化、
日本もそういう文化を持つ国に今からでもなれるんだろうか。




INDUSTRYWEB HOMEへ戻る / 今日のコラムに戻る/ バックナンバーに戻る