今日のコラム・バックナンバー(2007年 3 月分)


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掲載は日付順になっています。


2007.3.1

我が長野県にも
それまで停滞していた県政に新しい県政を持ち込もうと
新しい知事が登場したが
県民や県庁内にも味方があまりつかなかったのだろう
すでにその知事も県政から去ってしまったのだが

よく言われる彼の「あくの強さ」も
むしろあれくらいでないと
シガラミに翻弄されてしまうことになったのだろうと思う。

宮崎では副知事の人選でいろいろ議論も起きているが、
県民を味方につけて
シガラミには巻き込まれないような選択をすれば良い。

「素人」だから県政の運営上で知らないこともあるのは当然だが
早急に味方を探し味方につけて
コンパクトなチームを作るということだろう。
県民の味方があるのだから
それを可能にすることはできるはずだ。



2007.3.2

特に県政の場合は県知事には
人事権があるから人事を変更できる。

ところで
今度の宮崎県の副知事の人事をめぐる騒動だが、

選挙の時に自分と争った相手を
こちら側に引き込むという作戦には
しょうしょう驚いた、が、
ただし、いくら自分が人事権もっているからといって
反対勢力にたった人間にはその裏側に
いろんなシガラミを持つ人間がいると思っていていい。

そんな人事をするのであれば
ほかにも志を同じにして運営にたけた人を選ぶとか
人選はできるはずだと思う。

ものごとを変えていこう、とする際に
そのあるべき姿を描くことは当然だが
それを誰が進めるか、が
とても重要な項目であることは言うまでもない。



2007.3.4

国も地方も俗に政治の玄人ばかりが出てきて
反面、長い時代ろくなことがなかった。
近年はそれがさらに加速しているようにも思える。
汚職や使い込みやら
犯罪にさえなるような重大なことが
頻繁におきている。
冷静になって考えればこれは大変なことだ。

これまであたり前だとかしょうがないことだと
考えられて行なわれていたことを
もう一度疑ってかかってみる必要がある。

これは政治の世界だけの話ではないと思う。
産業界も経済の世界も
同じようにおかしなことがたくさんある。

合理的に行なわれてきたこと、
あたりまえのように行なわれてきたことだと
思いこんでいたら一度根本を疑ってみることだ。



2007.3.5

小泉元首相がいったとかで
急に有名になったのが
以前「アイディアノート」でも書いた
作者渡辺淳一氏が言う「鈍感力」だ。

時の為政者に
あまり回りのとやかくに
いちいち反応せず「鈍感」であることも大事だ、
といったのだとかだが、

為政者が自分の相手である国民の状況に
鈍感であっては困るが
たしかに首相にせよ何にせよ
なにか物事をすすめていく場合に
それに反対する勢力の存在は
あると思って間違いないし
それにたいしていちいち過剰に反応していても
しょうがない。



2007.3.6

進めるべきは進める、として
回りがとやかくいろいろ評論家のようなことを言うことも
鈍感に受け流す技術もときとして
必要ではあろうと思う。

通常の生活においても
いちいちいろいろに精神や神経に
さわる出来事も多い時代だが
そんなものに
「技術的」に鈍感である道具も
あればいいのではないかとは
以前「アイディアノート」で下記のように書いたとおりだ。

電話とかでも
わざと相手の声が小さく聞こえたり
必要によっては
相手の声が不明瞭にしか聞こえない
ような仕組みも
鈍感を助ける仕組みとして必要になるかもしれない。



2007.3.7

実際、本当に電話や電波の調子が悪くて
通話が思うとうりにできない時は
お互いに「やきもき」「いらいら」してしまうことがあるが
この状態を「鈍感力増幅ツール」で
人為的に作り出せばいいわけだ。

本気になって相手の言葉を聞き取ろうとしても
不明瞭で聞き取ることができなければ
こちらのことばも内容も上手く伝えられない。

神経の敏感さをこれで補助することはできるはずだし

例えば断りにくい話も
そんな状況のなかであれば断ることも
そのタイミングをある程度ならば得ることができると思える。

で、考えてみれば
人間は社会や環境と密接につながっているわけで
そのつながりの部分があまりに敏感すぎて
様々に問題となる部分が出てくるのだと思える。



2007.3.8

こちらがいくら鈍感であったり
過剰に敏感でないようにすることを
目指しても
回りの社会や環境がどんどんボルテージを
上げて迫ってくれば
これではいつまでたってもいたちごっこだ。

実際、今の社会を考えてみれば
あまりに社会や環境の側がボルテージをあげて
ひとりひとりに過剰に迫ってくるような状況が
多すぎる。

テレビやニュースの音量や画像の刺激ひとつとっても
新聞や雑誌の広告ひとつとっても
あまりに過剰であると思う。

子供たちの「引きこもり」とか
社会人の「うつ」とかでも
そんな状況が反映しているのではないかとも思える。

だからこその「鈍感力」、なのだろう。



2007.3.9

で、前述のように鈍感力を高める道具、というのも
あると思うわけだけれど

人間と環境という関係では
物理的に鈍感を助ける道具は
考えてみれば
手袋だとか耳栓とか衣料品とかもふくめて
結構あるものだと気が付く。

寒さ暑さに鈍感になるための衣料品でもあるわけだ。

衣料品を何枚着込むか、脱ぐかどうかは
鈍感であることの調整であると言ってもいい。

かといって
あまりに衣料品を着込みすぎて
鈍感過ぎては生活できない。
それは社会との関係でもそうだ。



2007.3.11

何事も適度であるということが大事なのだろうが
気候温度にしても社会システムにしても
どんどんレベルやボルテージが
変化し、基本的には強くなっていく
ということに問題がある。

相対的に人間の側、回りとの接点は
今後も敏感になり「薄く」「脆い」ものに
なっていく。

鈍感力、などという言葉が
流行り始めること自身、そういう世の中の
状況を示している、と言ってもいいのかもしれない。



2007.3.12

ものづくりの世界がもともと
人間にとって
すみやすい状況や環境を整えていくための
ものであると
考えることができるのなら
鈍感とまではいわずとも
人間と環境や社会との関係や
鈍感と敏感の間の調整をするための「道具」は
今後とても重要になっていくのだと思えてくる。

いやむしろ人工物・生産物の多くを
今後はそんな視点から捉えることも
重要ではないかとさえ思えてくるのだ。



2007.3.13

お菓子メーカーが
賞味期限の表記に不備があったとかで
そんなニュースがここのところ新聞テレビで
毎日のように報道されていた。

暮らしや生活や健康の安全に直結する食品の世界で
期限などの表記に不備があることは
ゆるされることではないのは
もちろんであるが
それにしてもそれを報道しているマスコミの
報道量のほうもすざまじい。

ちょっと前にも
テレビ番組の内容に
でっちあげがあったとかで
そっちのほうの報道も
過熱気味に行なわれていたのは
記憶に新しい。



2007.3.14

なんども書くが国民にとっては
とても重要なニュースを報道することは
マスコミの使命であることは間違いないし
必要であることも間違いない。

でもちょうど反面教師みたいなもので
前述のテレビ番組のデータでっちあげなどは
その国民や社会にむけて
電波で情報を伝える側の
マスコミ自身のほうに
問題を抱えている、という
なんとも皮肉な状況でもある。

テレビ番組の内容によっては
日本中のスーパーマーケットにある
納豆が店頭から売り切れて
姿を消した、などということも
あっという間におきると同時に
その番組自身にうそがあったりする時代なのだ。



2007.3.15

オイルショックの時に
トイレットペーパーの争奪戦が
スーパーマーケットの店頭でおきたことは
50歳以上の人なら記憶に残っていると思うが、
あれもすさまじかった。

しかしごく短時間のうちに
社会に影響をあたえ、逆にその収束も
早く起きる、という点では
インターネットはもちろん
マスコミや情報のネットワークの
威力というか、は、いまさらながらに
あなどってはならないし
軽視もできないと思う。



2007.3.16

これほど社会に影響を短時間に与える
マスコミの力や
インターネットや情報ネットワークは
逆にいえば
うまく利用さえすれば
これほど役にたつものもそうはない、と
これもいまさらながらに思う。

そういえばテレビの報道番組で
イランが民主主義国家なのかを
現地にレポーターが足を踏み入れて
レポートする番組が最近あった。

新聞や雑誌は自由であるが
発行禁止にしようと思えばできるようだし
テレビラジオは国に支配されているから
一応、日本よりは規制は強いという話ではあったが
そんなレポートを街中で市民といっしょに
井戸端会議のように受け答えできるほど
イランは民主的にみえたのは意外なほどだった。



2007.3.18

テレビラジオが国家によって統制されているというのは
前述のように国内社会に対する影響の大きさと速さを考えれば
良いか悪いかは別として
為政者として行なうことは当然と言えるかもしれない。

日本だって、テレビラジオは認可制になっているのだから
実は有形無形で規制はされているのだし、
テレビ番組のコマーシャルなどスポンサーの意向によって
番組にいろいろな力が働くというのはあたりまえで
それが本当に「民主的」な状況なのかというと
どうやらそうでもない、ということはいえるのかもしれない。

それにしても
日本でもなかなか進まない女性の社会進出が
イランでこれほど起きるとは
イランにおける女性の社会進出には驚いた。



2007.3.19

イランでは
街角のインタビューに
人垣ができて
井戸端会議が即効で起きる状況や
みな熱心にそういう状況に意見を言う状況をみれば
日本に比べたらむしろイランのほうが
民主的であるような気もする。

社会や回りの状況に
自分には関係ないとするような風潮の日本、
気力のない子供たち
にくらべ
将来に対する夢をかたり
目を輝かす子供たちや若者のいるイランのほうが
はるかに未来に可能性を感じさせる国ではないのか。

日本が民主主義の国であることを日本の誰もが
疑わないが、実際にそうなのか。
百歩譲って民主主義の国だとしても
民主主義の国であろうとする努力と
志を持ち合わせているかはどうやら怪しい。



2007.3.20

車のレースが好きな人なら知っている人も多いだろうし

別にレースでなくても
ホンダの車に興味をもっているひとなら
知ってもいるかもしれないし

最近の新聞やインターネットのバナー広告で目に
触れている人も多いとは思うし

今週のF1第1戦のオーストラリアグランプリを
見た人なら知っている人も多いだろうと思うのが
あのホンダの今期のF1レーシングカーの
驚くような車体デザインだ。

これまであたりまえのように
派手なスポンサー広告が車体全体に書かれた
F1レーシングカーのボディーだが
今年のホンダF1はまったく異なるデザインだ。

派手なスポンサー広告がまったくない。

それに代わって車体にかかれているのは
まるでグーグルマップから持ってきたような
地球の絵、
青い海、緑の大地、なのだ。
これを車体全体に描いているのだ。



2007.3.22

ロゴマークで書かれているのは
F1興行として描かねばならない
ホンダ自身のロゴマークと
今年から
すべてのF1レーシングチームに供給されることになった
つまり今年からF1に使われるタイヤは
一社オンリーになったということ・・
そのメーカーである我等がブリジストンの
二つのマークのみだ。

あとはリアのウイングにかかれている
「MYEARTHDREAM.COM」のURL
「私の地球の夢」というサイトにいくURLが
かかれているだけだ。
http://www.myearthdream.com/

これまでのF1のレーシングカーに見慣れた目からは
一目で異質なものとわかるカラーリングだ。

これをもって今年のホンダF1は
これまで40年ほどにわたって行なわれてきた
F1ビジネスに異なった波を起こそうとしている。



2007.3.23

実は戦前戦後しばらくのF1の世界は
そのチームが存在する国を代表して戦う、
いわばナショナルチーム同士の戦いのようなものだった。

ドイツはシルバー、イタリアはレッド、
イギリスはグリーン、そして日本は白地に赤、
がその国を代表するナショナルカラーであったのだ。

ところが1960年代後半になって
車体にスポンサーのコマーシャルを描き
スポンサーから広告料を取り
車体の開発費や運営費を稼ぎ出す、という
「ビジネスモデル」が登場した。
これを考えたのは
かのイギリスの名門「ロータス」の創始者
コーリン・チャプマン氏である。



2007.3.25

それまでは
シルバーや赤や緑のもっぱら単色の
カラーに彩られたF1マシンだったのだが
1960年代終わりに登場したロータスのマシンは
派手なスポンサーの広告を身にまとって
レースに登場し周囲を驚かせた。

以降、ロータス以外のコンストラクターも
続々とその「ビジネスモデル」を採用し
派手なスポンサーの広告を身にまといはじめた。

スポンサーは
さすがにF1だけあって
オイルメーカーだとか車の部品メーカーだとかが
多いのだが
一番大きな広告面積をとったのは
なんとタバコのメーカーだった。

これは今にいたるまで
F1レースにおける基本的なビジネスモデルになっている。



2007.3.26

さすがにタバコマネーについては
タバコそのものが
社会的に否定されつつあるから
近年のF1レースに登場するレーシングカーにも
タバコの銘柄が消されて登場するようになっている。

と同時に
ちょっと以前にここに書いたことがあったが
F1をめぐるビジネスモデルには
通常の「実業」とは異なる経済が動いている、というのは
その世界においては有名な話であるらしい。

要は世界には存在するアングラマネーや
バクチ経済が裏では動いていて
そこにうまれる利益をうまく取り込んで
F1は成り立っているというのだ。



2007.3.27

そんな経済行動というかバクチ経済には
とんと疎い日本人は
例えば1990年頃に世界を席巻した
ジャパンマネーを使って
F1の世界に参入したのだが
バブルの崩壊とともに頓挫した。

そんな世界の上で動くバクチ経済にも
ある程度日本も参入していく必要や
切り抜けていくノウハウを
身につける必要もありはしないか、というのが
以前ここに書いた話ではあった。

この認識はいまでも変わらない。

懸命にものづくりで稼いだ金や豊かさを
バクチ経済でかすりとられたり
うまくやられてしまう、ことが
実際に頻繁に起きているからだ。



2007.3.28

バクチ経済と決別し
まじめにものづくりの経済で日本は
生きていくべきだ、という
まじめな識者の意見も当然理解できるし
筆者も実のところその意見に軸足を置きたいと
思ってはいるのだが

しかし、それを飲み込む勢いの
バクチ経済であるのだから
そのなかでうまく立ち回る方法を
ある程度は身に付けないといかんのではないかとは思うのだ。

これまでのF1レースの世界なんかは
まさにそのバクチ経済の
あだ花のような世界なのだろうと思うのだが・・・



2007.3.29

しかし今回ホンダがF1の世界に持ち込もうとしたのは
そんなこれまでのF1の世界やビジネスモデルとは
異なるモデルであるのだろう。

ある意味では
環境問題を正面から取り上げて
そこに同意するメーカーや個人を
糾合していくというのだから
世界中にものづくりの最前線である
「自動車産業」の代表ともいうべきホンダだからこそ
できるビジネスモデルではある。

これを
小さな、(実際に動かすお金は大きいのだろうが、、)
中小F1コンストラクターが
行なおうとしてもたぶんそうはいかない。



2007.3.30

ましてこんなモデルは最初に始めたところが
主導権を握るだろうから
ほかが追従することはあまり考えられない。

ただし、成績が良く、
媒体のうえに登場することが
頻繁に起きるような中小F1コンストラクターが
突如登場して自らを新たな広告媒体とする方法を
確立することもないではない。

これまでのような「普通の広告モデル」ではなく
環境問題に続くような世界的な課題や問題と
うまくつなげたモデルが登場すれば
「新たなF1のビジネスモデル」が確立することも
あながち不可能ではない。

それが何であるかは
ちょっとまだ想像もつかないが。

いずれにしても
とても興味深いビジネスモデルを
ホンダは考えた、ということは
いえると思う。


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