今日のコラム・バックナンバー(2004年 9 月分)


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2004.9.1

と同時に
中国のようにスポーツなどをしなくとも
どこかの外資系企業にでも入って
スポーツなんかせずともお金儲けにまい進する
という方向に来ているのとも勿論違う。

ひとことで言えば
楽しんでスポーツを行う。
自分のためにスポーツを行う。
という方向に向かっているようでもある。

もともとスポーツそのものはそんなものだと思うのだが
そんな当たり前のスポーツの姿から
共産国の国策オリンピック選手や
企業のお抱えオリンピック選手のような
スポーツと人間の関係に
じょじょにゆがんできたのも事実ではあるだろう。




2004.9.2

前述の評論家が言っていたように
スポーツに限らず
一般的な社会全体のなかで
ごく近い状況が
今のわかもののなかには
起きているのではないかと思える。

で、それはしごくまっとうな話しだと思うし、
正常な方向ではないかと思える。

国のためにとか人のためにも
大事なことであることは間違いないが、

それと自分の喜びや
進んでいこうとする方向を
むしろ相反しない、どちらも可能とするような
しなやかさとでもいえばいいか。

個人主義という言葉で語られてきた様相でも
あるのかもしれないが
なにか言葉で語る以上に
実際の状況が雄弁に語り始めているようにも思う。



2004.9.3

そんな骨の太さや柔軟性を
今回のオリンピックの若者たちの
奮闘ぶりからは感じる。

で、何度も書くが
これはきっとオリンピックに限らない。

自分のために自分の能力を発揮して
楽しむ、それはきっとこの国に
産業や社会にも影響を及ぼすに違いない。

一歩まちがえば昔ながらに批判される
わがままとか自己満足とか
自己中心とかになることもわからないではないが、

いや、もしかしてこの状況は
また日本ならではの高度な感性と社会の関係が
芽生えていく方向に向かっているのかとも思えてくるのだが。

まあ、そんなに固くならずとも
今回のオリンピックの奮闘ぶりは
単純に楽しんでおくことにしよう。



2004.9.4

しばらくオリンピックにうなされていたので
ここでしばらく
ものづくりについていろいろ考えた。
モノと人の関係について考えた。

どんなにそれが大量に生産されたものであっても
自分の目の前にあって
それを自分が使うときには
それは
自分とそのもの一個の
「一対一」の関係である。

それとまったく同じものが
たとえ数万、存在していても
それは自分がそのものを使って得られる価値とは
まったく関係がない。



2004.9.5

それそのものが自分だけのために
作られた一個しかないものであれば
なおさらだ。
他には存在していないのだから
比べようもない。

医療福祉などで重要になる
自分の体にフィットするという製品は
そういう意味では
他にいくら存在していても
自分が持っているものの価値に変動はない。




2004.9.6

誰が持っていようと
自分にとって価値があるもので
なおかつ
多くの人に汎用性があるもの
多くの人が必要とするものであれば
一般的には大量生産に向いた製品ということになるだろう。

逆に
オーダーの医療福祉機器のような
じぶんだけのために作られて
ほかに同じものがありえないものは
大量生産品ではないが
結構せつじつな需要が必要とする
ものとして市場は少なからず存在している。




2004.9.7

しかし、一方で
そうではない製品も少なからず存在する。

自分とそのものとの関係は
あくまで一対一であることに意味があるが

それと同じものが
それ以外に数万個とか
あるいはたとえ数個でもあると
その存在が自分とそのものと一対一の関係に
なんらかの関係を及ぼす、
そういうものってたしかに存在している。

たとえばコストに関係している場合もある。

自分だけが持っている場合には○○円だが
ほかに存在していると
その価格は△△円になるとか、
そういうことはたしかにある。



2004.9.8

しかしそうではなく
「他に存在していることそのもの」が
微妙にこちらの関係を変えることはあるのだと思う。

たとえば「お宝」といわれるものとか
美術品とかアンティークなどはそういうもので
希少性が価値を持っている場合が多い。

希少性が失われると
一対一の関係まで変わってしまう。
つまり所有する価値が失われてしまったり
変化してしまう。

自分とそのものとの関係は
本来一対一で完結しているはずなのに
他に同じようなものが
存在しているかどうかによって
自分とそのものの関係以外の外力が
そこには現れてくる。
考えてみればちょっと不思議な感じではある。




2004.9.9

また、
誰もが必要としていくら数量を生産しようとも
その必要とする価値が失われていかないもの、
あるいは数量が大量に生産されても
価値が変動しないものを考え出して
作り出すこと、生産すること、というのは
望ましいことなのだろうし、
もっと言えば
それが消耗することによってのみ
価値が失われていくようなものであれば
ビジネスとしての生産物としては
のぞましいことなのだろうが

でも、そういうものは
市場規模が大きいことはが当たり前だから
大手企業なんかが参入してきてやってしまうから
残念ながらなかなか小さな企業が商売に
結びつけるわけにはいかない分野なのだ。



2004.9.10

オーダーメイドの医療福祉機器などは
他に同じようなものは存在しないし
たとえあったとしても
あるいはいくら作っても
そのものを真ん中にした
つくり手と使い手のビジネスには関係がない。

一個一個が完結したビジネスであり
カスタマイズや単品製品を
オーダーで作ること自身が
技術的コスト的にうまくいきさえすれば
商売としては
比較的安定しているのではないかと思う。



2004.9.11

こういうビジネスは
市場全部をまとめて計算すれば
驚くほど大きな市場ではあるのだろうけれど
なかなか大手企業が参入したという話は聞かない。

大手企業は
そいうはいっても同じものを
大量に作って大量に販売することで
利益をあげることを目指すし
面倒な多品種少量生産などできれば
やりたくはないはずだ。

もっとも技術的に少量多品種生産をうまくこなすやり方が
実現できれば大手も参入する可能性はあるし
ネットワーク技術によって
それもすこしづつ可能になってはいくだろう。



2004.9.12

一方、
消費者にむけてオーダーに近い生産を行う
ような医療福祉用品ではなく
アンティークのような
あるいは少量しか市場にでいないような
希少性のあることが大事な価値で
あるものや製品はどうなんだろうか。

よく言われるように
ドイツの職人・マイスターなど
職人が作るハモノとか製品などは
一定の生産量しか市場に供給しないと言われている。
少量しか生産できない、ということもあるのだろうが
どちらかといえばできないのではなく
作らない、というほうが当たっているかもしれない。



2004.9.13

絵画やアート作品なども結果的には
少量やあるいは一品しかできないのだが
どちらかといえば一品しか作れない、できない、と
少し意味合いは異なる。

どちらにしても
結果的には市場に希少性に対する評価が出てきて
あまり流通していない高品質な製品、ということで
確実な需要と高い付加価値と収益を
実現しているのであって

あまり生産量と供給量が多くなって
希少性が失われてしまえば
いくら高品質であろうと
市場は歓迎しなくなるだろう。



2004.9.14

絵画やアンティークのように
少量であることや
作り手のほうで希少性を演出できるものは
医療福祉機器などのように
いくら一個づくりであっても
その気になればいくらでも作れる
、、ただし市場は実は小さいもの、とは異なり
逆に市場が欲しがっているからといって
無制限の生産ができるわけではないし
もし生産ができてもしてはいけない。

技術的に同じようなコピーものが
大量生産品でできたとしても
どこかに個々に異なる希少性を
意地でもつくりださなければならない。

リトグラフなどに通し番号が打たれているのも
そんなわけではある。



2004.9.15

難解な言い回しになってしまうが、
結果的にはまったく同じ「もの」でも
いいのかもしれない。

いやむしろ現代においては
大量生産品のほうが
品質的に安定している場合も多いから
製品を構成する部品レベルは
大量生産品であるモジュール部品や
技術を使うのが当然になる。

であればなおさら
希少性を表現できる作法は
技術ではない、すくなくとも
技術そのものではない、ことになる。

企業のもつ歴史とか人間とかも
実は最終的にできたものや生産物には
直接的には関係がない。
人や技術によってできるものは変わるのは当然だけれど
できてしまったものはそれ以下でも以上でもない。



2004.9.16

と考えてくると
案外、希少性とは難しいものだな、と思えてくる。

逆に言えば
希少性は演出できる、ということもあるように思う。

もっと簡単に言えば「市場の必要とするほど作らない」
ということでもある。

でも、これは結構難しいことで
同じようなものを作っている他社が
どんどん売り始めれば
自分も市場を占めたいがために
できるだけ生産を増やすことにどうしても
向かいがちだ。



2004.9.17

そうしないためにも
他社との違いや希少性を演出しつつ
市場の誘惑に負けずに
作れる分量、というよりは
希少性を保てる分量しか
意地でもつくらない、ということに
徹底する必要があるのだろう。

現代のものづくりではそれを行うことは
なかなか大変なことではあるのは
理解しつつ
中小企業などは
そんなやり方を目指すのも
一つかなと思う。



2004.9.18

ヨーロッパの時計や金属製品などには
そんなやり方が多いと思う。

オーダーの医療福祉機器に代表されるような
市場と供給が対面するようなものづくりから生まれる
製品もこれから目指すべき分野だと思うし
それは
ネットワークによる個と個の結びつきと
一個づくりの技術が可能にしていくと思う。

一方、演出によって
数は作らずとも
それなりの価値を創出できるビジネスも
その気になればできるのではないかと思える。



2004.9.19

で、この場合、
演出によって可能になるのが魅力で
技術そのものや少量生産の技術には
あまり依拠しないところがやりやすいと思える。

当然、演出に応えるだけの技術力とか
あるいは差別化するとか
表現力は大事になるだろうが、、。

ま、問題はそんな演出ができる人材や
能力が中小企業の側にいるかどうかだが、
これが結構難しい。

が、いろいろ悩んでいないで
地域や地方にある
すでに希少性を持たせることができるような
可能性を持つものをみつけてくるだけでも
良いかと思う。



2004.9.20

いつもの話で恐縮だが、
中国とかアジアの国力や産業の力、伸び、成長力は
ここに書くまでもなくすごい。

同時にその成長するアジアの
「規模」がまた驚くほど大きいこともすごい。

で、この大きさが大きいことが
中国アジアの成長の時間を
ゆっくりとしたものだと見ることや
まだまだ時間がかかる、という議論もあるのだが
果たしてそうか、とも思う。



2004.9.21

先日中小企業の社長と話をする機会があった。

創業したのは昭和30年代で
御年はもう70歳代だから
戦後の産業の変遷を
まのあたりにしてきたことにもなるのだが
もともとその人に限らず
今70歳代の人は
戦前の日本から戦中戦後の社会や産業の変化を
ほぼすべてみたことになる。

で、なるほどなあ、と思ってきいたのが
30年代のモータリゼーションの発展の話だ。



2004.9.22

その人は昭和35年に免許を取ったとのことだったが
その時代には地方では自家用車を保有している人は
皆無に近く、
逆に仕事の関係でクルマを持っていても
免許を持っていないとか
飲酒運転などもあまり問題視されない時代だった、
とのこと、

そして、なにより
今のように自家用車が自分で持てる時代に
なるとは予想だにしていなかった、という。



2004.9.23

飲酒運転にくだりについては
いつの時代でも感心しないとしても
ともかく
なるほど、いまからたった40年ほど前には
自動車を個人が持つこと自身が
夢のようなことだった、というのだ。

海外の話でも中国の話でもない、
日本の40年前の話なのだ。

40年という月日が
大昔なのか最近のことと思うのかは
いろいろ意見はあるだろうが
でももうちょっとすれば年齢が
半世紀に手が届かんとする
筆者としては
まだそんなに昔の話ではない。



2004.9.24

ましてクルマの所有がほぼ当たり前になった
二十年ほど前にさかのぼり

そこからさらに20年さかのぼった時代には
まだ個人が自家用車が持てる時代に
なるとはとうてい思わなかった、というのだ。

クルマに限らず、
家電製品や家の所有率や
あるいは旅行の距離や
家庭の固定電話の所有率や

そんなものを冷静になって思いだしてみれば
社会に広まったのはそんなに古い話ではない。



2004.9.25

1985年のプラザ合意に端を発した
円高不況から
一時はバブル時期がありつつも
今にいたる基本的には20年にわたって
長期の需要の縮小時期が続いてきたことを
考えると

1960年代から1985年ころまでの
たかだか20〜30年ほどの間に
日本の経済成長とそれにともなう
「経済的豊かさ」は
ある程度広がってしまった、とみえなくもない。



2004.9.26

と、まあ、日本の豊かさの広がりと
時の流れを
感覚的ではあるけれど捉えてみると

中国の経済成長がこの10年ほど前から
始まったことを考えれば
中国がある程度の経済的物質的豊かさを
手にいれるのは
そう遠くはないだろうと思っていて
良いのではないか。

中国の国土が想像もできないほど広大であるから
中国全体が豊かになるのは時間がかかる、ということは
あるにしても
それだって今の日本の地域間格差や
東京一極集中を考えれば
その国全体の成長のなかに
たぶん地域間の格差や一極集中の弊害は
吸収されてしまうだろう。



2004.9.27

そういえば
いっとき、日本のお金、ジャパンマネーが
世界中を席巻したときがあった。
今からもう15年ほど前のバブルの時代だ。
当時はアメリカのニューヨークの有名なビルを買ったとか
日本の地価で世界中の地面が買えるとか
いろんな話があった。

当時はお金が闊歩し、同時に
世界中に日本製のクルマや家電製品があふれ
めがねをかけた日本人が世界中を闊歩する。
ビジネスマンも観光客も、、。

いま、それに近い話は
中国アジアの人々や産業界から起きている。



2004.9.28

東京ディズニーランドや日光など有名観光地には
中国やアジアの人々が訪れ
秋葉原には中国アジアの人々が訪れ
高価な買い物をしていく。

中国マネーが日本の技術者を
中国企業の技術指導に引き込み
あるいは日本の中小企業や
はては大手の企業を買収する。

日本のように経済の成長が止まった国は
誰かが儲けると誰かが損をする構造
いわゆるゼロサムゲームと呼ばれる構造、
ができてしまうが
国全体が成長している限りは
それぞれに儲ける程度の差はあるにしても
基本的にはみんなが儲けることができる。



2004.9.29

そんな国が成長していく限りにおいては
個人も企業も借金はこわくない。
返せる可能性が見えるのなら
投資でもなんでも、どんな借金でもできる。

ともかくも中国アジア、特に中国は
経済も産業も個人の所得も
右肩あがりの成長をつづけている。

一方、目を転じれば
いまだに日本の大手企業を中心にした
中国アジアへの生産拠点の移動は
行われていて暫時国内での生産行為は減っていく。

これらのことをケシカランとか
問題ありと簡単に断ずることはできない。

いつか来た道、というか
結局、日本が昔通ってきた道を
中国アジアも通ってきているということではある。



2004.9.30

日本も中国も
たぶん時間の流れかたもそう大きくは変わらず
むしろ大きいわりには
わりと思っているよりも中国の成長は早いように思える。

こんな状況のなかで日本はどんな道が選択できるのだろうか。

先の中小企業の社長は
個人が自家用車を持てるような時代が来るなんて
思ってもみなかった、といっていた。

今、我々は
自家用車が持てたり
好きなことができることを
不思議なことだとか
思ってもみないことなどと思ったりはしない。

中国の人々はいま
きっとその道にいたる真っ只中にいることだろう。


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