今日のコラム・バックナンバー(2003年 11 月分)


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2003.11.1

でも、
すくなくとも
以前書いたように
常に時代の先を読みながら
新たな課題をみつけ解決し
仕組みや道具を創っていくダイナミズムは
見習うべきことだろうと思う。

で、そんなダイナミズムは
やはり放っておいても生まれてくるわけではなく
そんなものを生み出す熱量というか、が
最低限その地域のなかに必要なのだろうと思う。

そのエネルギーを生み出す元や基礎になるのが
「地域のなかの協働やそこから生まれる一体感」
だろうと思うのだ。




2003.11.2

「地域のなかの協働やそこから生まれる一体感」を
生み出すためにも仕組みが必要で、
結局
「仕組み」が先か「志」が先か、という議論にもなっていくのだが

これだけは言えるのではないかと思うのは
アメリカ、特にシリコンバレーは
そんな「志」が
もともとあったのか育ってきたのかはべつにして
すくなくとも今はある、ことだろう。

じゃ一方で
日本にはそれがないから日本にクラスターやシリコンバレーを
作りあげていくことは「無理」だ、とは思わない。




2003.11.3

仕組みが先か、志が先かはわからない。
たぶんどっちが先かではなく
それぞれが必要でそれぞれに影響しあいながら
進んでいくことになるのだろうと思うのだが

日本だって
ちゃんと仕組みや志が生まれるプログラムを
創っていけばできることだろうと思う。

と、こう考えると
最後はプログラム、というか
仕組みと志をうまくつなげていけるような
意図やシナリオが
かけるかどうかが重要になるのだろう。




2003.11.4

だいぶ古い話しだが
戦前の
シリコンバレーには
どうやら
「フレデリック ターマン」という
スタンフォード大学の副学長を務めた
シナリオライターがいたらしい。

シナリオライターと言うとなんだか
表面的な言い方に聞こえてしまうが、

まあ、言ってみれば
地域産業全体の活性化への道筋・プログラムを
書き上げプロデュースする立場というか
仕掛け人、ということだ。

ターマンはシリコンバレーの生みの親、ということらしい。




2003.11.5

日本では優秀なお役人がそれを行うべきだと
みんなが考えているようだが
アメリカでは
大学の先生が中心的存在を担ってきたらしい。

日本でも
産学連携という言葉が盛んに言われているが
日本の大学の先生がそんな役割を果たせるかどうかは
難しいところだが

でも楽観的に言えば
そんな先生やあるいはそれに代わる人が
今後日本の各地域から生まれないこともないはずだ。

ただしそんな人が生まれてくるかどうかは
むしろ最後に偶然というか、何かのきっかけというか、
そんなものにかかっているのかもしれない。




2003.11.6

なんとかそんな地域の「活性化総合プロデューサー」が
いろんな立場の人の中から
大量にでてくることを期待したい。

ところで
大学といえば
全国でも大学誘致が行われているところは多いだろう。

筆者の地元でも
数年前からある大学の誘致が行われている。

しかし、
大学の誘致という状況が結果として「成功」したとしても
少子化から大学の経営が難しいという以外に
大学の誘致が良い結果に結びつくかどうかは
はなはだ疑問ではないかと筆者は思っている。




2003.11.7

いや、地域を支え未来の産業や地域を作るために
人材を教育したり
輩出したり、育てたり、
その地域の未来が必要とする人々を
育てていく教育や人材を生み出す作業や
将来に向けた
その地域の産業の核やテーマを生み出し育てていくことは
決定的に必要なことはたしかなことで
それは否定しないのだが、

ただ単に「大学産業」を作る、誘致する、位の考え方では
失敗することは目に見えている。

学生が住むことによって
アパートができるとか
商店街に金が落ちるとかそんな目的を持ったような
誘致ではうまくはいかないだろう。




2003.11.8

また、近くの町の大学と学部や内容で
バッティングしない・重ならないようにと
学部や教育内容を考えるようでは本末転倒で、

本来、すべてではないにしろ
大学の研究内容や特色のいくつかは
その町や地域の将来像や産業のシナリオのなかに
位置づけられているべきもののはずだ。

バッティングしない・重ならないように、ではなく
将来にむけて
何が、どんな人材がその地域なり周辺地域なりで
必要とするのかを考えぬくことが必要になるだろう。



2003.11.9

少なくとも
いままで大学が存在していなかった地方に
これからつくろうとしているのなら
その町の「これから」に深く相互に依存せざるを得ないだろう。

で、筆者の住む街のように
製造業などの産業に依拠している町では
工学と経営を融合したような学問を
学ぶことができる学校も必要になるだろうと思う。

最近ではMOT(技術経営)とかいう
マネジメント手法教育というか仕組みづくりも
話題にのぼるようになってきた。



2003.11.10

また、それだけではなく
もっと現場寄りの技術や技能の勉強ができたり
人も育てる場所も必要だ。

また、
地元産業の未来の種を
自前で創出するくらいのことは
目指すべきだろう。

個々の楽器のプレーヤーだけではなく
指揮者や作曲家も必要だし
イベント全体の仕掛けをプログラムできる人も必要だ。

そう考えれば
大学や研究機関などの機能はやはり必要で
本当に必要な大学や教育、技術開発機関が
存在することを目指すべきではある。



2003.11.11

必要であれば
無いものを「外からもってくる」ことも必要にもなるだろうが
それは地域がこれから必要なところへジャンプしていくために
必要なものを配置するためのもので

なにかがなくなってしまったかわりを
「誘致」で埋め合わせをしようというのとは
本質的に異なる。

もともと「誘致」という言葉には
大学誘致にしろ企業誘致にしろ
そんな埋め合わせのような意味合いが強く感じられる。

必要なのは「誘致」などではなく
学校や企業や様々な機能も含めた
地域産業のシナリオと
それに必要なものを的確に生み出したり配置していく
地道な作業なのだと思う。



2003.11.12

久しぶりにデザイン関係の雑誌を
読み返している。

時代が新しければ新しいほど
優れたデザイン論が登場する、というわけでは
ないらしく

むしろ以前からの社会や産業やに向けた
問題意識に優れたデザイナー、そういう人こそ
本当の意味でのデザイナーというべきだろう、と思うのだが、
そんなデザイナーが以前書いたちょっとした文なんかに
なかなか心を打たれる文脈が見えて

逆にいえば時代や技術が進歩したり
社会が複雑だったり「進化」しているわりに
デザインやデザイナーが進化しないでいるのは
一体どういうわけなのだろうと思わずにいられない。




2003.11.13

昔の、かのバウハウスが
「デザインは機能を形にしたもの、なったもの」
という意味合いのことを言っていたと思うし
今でも多くのデザイナーや
デザインする企業は同じような意味のことを言っていると思う。

これは多分間違いじゃない、と思うし
これからも重要な考え方だと思う。
デザイン論ともいうべきものは
昔から視座の低い、重心の安定した議論が行われてきていて
これからも基本的にはそのままじゃないかと思う。

あえていえば機能を人という「主体」と
環境や社会という大きな意味での「まわり」との関係を
どう関係づけるか、がデザインの需要性だと思うし
それは当然「見た目」とか「外装」とか
「狭義の機能」だけでもないことはたしかだと思う。




2003.11.14

ところが残念ながら
現代の「プロダクト」には
「見た目」とか「外装」とか「狭義の機能」には
たけているが
けして「人」と「環境」との関係をきちっとみつめて
どう関係づけていこうかと考えて創っているようには
見えないものが多い。

こう言うとカチンと来る人も多いだろうが
少なくとも消費することだけを想定して
一方的にものを作っただけで
それが作られる時のことや
役目を終わった時のことを
考えていないものがあまりに多いことは
誰でも納得することではないだろうか。



2003.11.15

ものを作る時に生まれる産業廃棄物の多さや
製品が役目を終わった時に
生産物が「ゴミ」になってしまうことの多さや

そんなことを考えてみるだけで
いかに「狭義の機能」は高度になっていても
残念ながら
「もの」が「人」と社会や環境などの「まわり」との関係まで
考えて作られていない事が多かったことは明らかだ。

先日も
使っていたパソコンのディスプレーが突然壊れた。
壊れることはあってもしかたない。
でもそうなった時にこのディスプレーは
どうなるのか、どうしたら良いのか。



2003.11.16

あるいは
「アイディアノート」にも書いたのだが
例えばパーソナルオーディオプレーヤーなどは
外装のデザインや見た目や狭義の機能は
優れている、というか飽和状態に近い。

でもそれを装着しているわかもの(だけではないだろうが)と
その人を含めた「まわりの社会」とのデザインは
残念ながらされているとは言い難い。

機能だって使っている人の操作性や性能を考えている
(もうそれも飽和状態だと思うのだが)だけで
まわりのことを考えて創っているとも思えない。

売れるためのデザインであれば
たしかに「見た目」や「外装」や「狭義の機能」だけを
考えていれば良いのかもしれないが

はたしてそれだけで良いのか。



2003.11.17

企業の考え方や企業のブランドや
企業のアイデンティティーが
形や製品になったものが
デザインそのものであるのだろうし
それも間違いないのだが
だとすれば

「御客さん」と「環境や社会」の関係を
どうデザインするのかを
考えるのはデザイナーの責任だけではなく
企業そのものの責任でもあると言っていい。

そう考えれば
最近のデザインとデザイナーに見える
進化の止まって見えるような状況や
少なくとも社会や環境との関連性の低さは
デザイナーの問題というよりは
やはり企業と社会との関係がデザインできていないことが最大の
問題なのかもしれない。



2003.11.18

コーポレートデザインということばもあって
まさにその部分を指すはずなのだが
多くの日本企業には
もともとそれができていないことが最大の問題なのだ。

最近、CSR(企業の社会的責任)という言葉が
盛んに言われるようになってきた。

「コーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティー」と
いう言葉を短くしたものだという。

ここ数年、内外で起きた企業の不祥事や
欧米で成長しているという社会的責任投資
(SRI と言うらしい)の高まりが
CSR(企業の社会的責任)への関心を
高めているという。



2003.11.19

CSRとしての取り組みは、
まさに
「企業と社会が持続的に発展するための取り組み」
として行われているもので
範囲も多岐に渡っていて
例えば社会貢献活動や、
従業員に対する育児や介護への配慮、
男女間の雇用均等、障害者雇用、環境
などへの取り組みがある。

「それ自体にはまとまった定義があるわけではなく
各機関や団体、企業で様々に捉えている、、」というのだが、
(日刊工業新聞)
でもCSRが
「企業と社会が持続的に発展するための取り組み」として上記の
ような範囲を想定していると聞いてちょっと違和感を持った。



2003.11.20

もともと考えてみれば
その企業が社会に提供する
サービスや技術や製品や事業そのものが
「企業と社会が持続的に発展するための取り組み」
として行われているはずであって

本来の事業以外での社会貢献が重要視されるより以前に
「本業」での社会貢献が重要視されてしかるべきなのだと思う。

CSR(企業の社会的責任)などという言葉が
一人歩きしている状況のほうが
違和感を感じさえするわけだ。



2003.11.21

企業が
「企業と社会が持続的に発展するための取り組み」
として社会貢献活動とか
多岐に渡る活動に力を入れていくこと自身を
否定するわけではないし

たとえば
地域の活性化の活動に対する
寄付行為・ドネーションなどの行為が
CSRの範疇に入るのかどうかはわからないが
「企業と社会が持続的に発展するための取り組み」として
行われているとすればけして否定すべきことではなく
良いことだとは思うのだが、



2003.11.22

しかし
最近の多くの企業や団体や機関の
「本来の事業」を通じての
社会や環境との関係やあり方・つながりかたに対するメッセージが
真正面から伝わって来ないようなことのほうが
もともとおかしなことだったのではないか。

いつもこのコラムで書くのだが
昔の日本には
ソニーや松下やホンダのように
社会に向かって自分たちはどう存在するのか
何を社会や国や人々に提供するのか
役にたとうとしているのかを
考え抜いてきた時代があった。

それが本来の自分の事業の
成長とも重なってきたのだと思う。



2003.11.23

いわば自社の製品や技術やサービスを
社会に提供することで
社会が豊かになることを
社会や人々から託されて
その評価として
その企業が成長を遂げてくることができたのだろう。

CSR(企業の社会的責任)という言葉があるなら
もともとの自社の事業そのものが
「企業の社会的責任」や
あるいは
「企業の社会的使命」なのだろうと思う。




2003.11.24

まあ、もともと
CSR(企業の社会的責任)などという言葉が
騒がれること自身は

「内外で起きた企業の不祥事」というか、
特にアメリカあたりでここのところ騒がれる

企業の株価や利益を最優先して
社会的な責任や使命を忘れてしまったような行動が
急激に増えてきているような現状に対して
当然の反応というか揺り戻しでもあったのだろうと思う。



2003.11.25

製品のデザインの話しから
企業の社会的責任についてまで話しが
及んでしまったが、

話しを戻せば

それほど
企業と社会の関係が複雑になり、
なおかつそれぞれ互いに影響を及ぼすことになっている
時代だ、ということなのだ。

製品のデザイン一つをとってみても
企業と社会や環境との「関係」を
考えずにはいられない時代、ということでもある。

恐らくは
これから企業とその事業が
社会に受け入れられていくためには
その観点なしにはいられない。



2003.11.26

先日、読売新聞の「一筆”経”上」というコラムで
新酒から学ぶ経済学という文章がのっていたのだが
それがなるほどなあ、と思うような内容だった。

内容は先日解禁された
「ボジョレーヌーボー」の
ことなのだ。

近年、日本では
ボジョレーヌーボーブームとでもいうようなものがある。

筆者もここのところ外の飲み会に出席すると
必ずといって良いほど
ボジョレーヌーボーが出てきて飲む機会に恵まれた。

酒は嫌いではないから当然喜んで飲むことになるのだが、、。



2003.11.27

酒の好きなわりには
お酒全般の味はもちろん
ワインの味なども
もともと違いのわかるような
レベルの筆者ではないが、

まあ、たしかに通常のワインに比べれば
軽いというかさわやかというか、そんな感じが
ボジョレーヌーボーにはあると思える。

そんな飲みごこちがうけたのかどうかはわからないが、
すくなくともここ数年、ボジョレーヌーボーは
日本ではブームのようである。



2003.11.28

実際、ほぼ毎年のように前年比で売り上げが伸びているらしい。

しかし、これほど日本で売り上げている裏では
新聞いわく、
「ビジネスのお手本になるような販売上の知恵と工夫が見える」
というのだ。それは一体何なのか。

もともとボジョレー地区の土壌や気候は
ガメイ種のぶどうの育成に適しているのだというが
このガメイ種のぶどうというのは
逆に長期の熟成にはむいていないので
高級ワインにはなり難いのだという。



2003.11.29

普通なら高級ワインにはむいていないぶどうしか取れない、と
いうことになれば
高級ワインを作れるぶどうを栽培する試みに向かうか
「高級ワイン」を作ることをあきらめるか、ということに
なるのだろうが

しかし、ボジョレーでは早熟でさわやかという特徴を
前面に打ち出し「特別な新酒」として売り出すことを
考えた、というのだ。

これはただたんに「高級ワイン」をあきらめることに向かう
のとはちょっと異なる。

「短所を長所に変える市場戦略」、と新聞には書かれているが、
まさにその通りだと思う。



2003.11.30

ボジョレーは「高級ワイン」ではない「特別な新酒」を
生み出す方向に向かったのだ。

まさにいままでのワインの世界では考えててもいなかった
新しい価値観や市場を作る方向に向ったのだ。

市場の創出の努力も上手かった。

誰が仕組んだのかは知らないが
解禁日を設定したり
世界一斉に売り出したりと
うまくアピールすることに成功したのだと誰もが認めるところだ。

短時間に世界中に配送することができるようにしたことも
それを加速させた。


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