今日のコラム・バックナンバー(2003年 1 月分)


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掲載は日付順になっています。


2003.1.6

あけましておめでとうございます。

為政者のトップの人は
年末年始のデパートに並んでいる
人々を見て「どこが不況なのか」と
言っていたらしい。

のっけから申しわけない話しだけれど
そんな危機感のない状況認識だから
いつまでたっても
景気の改善する気配がない。

だれがどう見ても今の日本は
デフレと不況のまっただなかだ。

ただ、一人一人の消費者や生活者の
生活のあり方や過ごし方は
いままでになく多様にはなってきている。

消費を控える分野もある一方で消費を増やすものもある。
「人によって」ではなく
一人の消費の中味が、である。




2003.1.7

デパートの初売りで
女性が早朝から戸口に並んで
福袋などの買い物をする風景は
いまや珍しいものではない。

ドアが開く瞬間から怒涛のごとくに
福袋の売り場に殺到する姿は
これはカッコウ良い光景だとは思わないし
「豊か」だとも思わないが、
だがしかし、けして貧しい光景だとも思わない。

彼らは友達同志で必要なものを交換したり
インターネットを使っていらないものを
売ってしまったり、
一方で、例えば高級ブランドの商品を買って歩くくらい
なかなか賢い行動をしているのだ。



2003.1.8

「不況にもかかわらず福袋完売」などと書くような
新聞記事と同じ意味で短絡的に
日本は「貧しくない」とか「豊かだ」というのではない。

不況ではあるし豊かであるとも思わないが、
だがけして貧しいわけではない。

あえて言えば「わがままな消費」とでもいうものに
なっているのかもしれないとも思う。

「わがままな消費」という言葉は
誰も言って来なかったと思うけれど
案外これからの消費というか
ものの使い方を表す言葉ではないかと筆者は思う。



2003.1.9

「わがままな消費」は「浪費」とは違う。

無駄な消費や浪費ではまずいが、
消費者一人ひとりの
思った通り、のぞむ通り、のわがままであっても
無駄ではなく有効に作られ
無駄ではなく有効に消費されるような
生産と消費の形態であれば
それはむしろ望ましいことだと思う。

考えてみれば
今の消費者の消費は
作るほうで使うほうがどんなものを必要としているかも
わからないままに作ったものを
お店やインターネットやテレビ画面にならべて
どれを選ぶかの選択しか与えられていない。
これはけして「わがままな消費」とは言えない、と思う。




2003.1.10

むしろオネエチャンたちが
一方で高級ブランドを探しまわり
いらないものはインターネットオークションに出したり
リサイクルショップや質屋あたりに持ち込んで
換金したり
ものによっては安価な衣料品を買い込んだり、
このほうがむしろわがままな消費であるとも思う。

でもできれば
もっと「わがまま」になるべきだと思う。

それなりにわがままではあるけれど
まだまだ作られた消費のなかで
くるくる回っているだけのようにも思う。




2003.1.11

日本のものづくろはこの「わがままなものづくり」を
可能にするだけの能力をじつはもっている。

少量多品種のものづくりや
オーダーメードでのものづくりや
あるいはものだけに限らず
そこにきめ細かなサービスや技術をつなげていったり、、、

町に行けばどんなものでも買えるし
インターネットやテレビを使って欲しいものはいくらでも買えるし
運送も整っていてすぐにでも配送はしてくれるし。

こんなことができる国なんてそうはない。

そして
このわがままな消費は日本だけが望んでいるのではない
いずれは世界中がわがままな消費を目指し始めるだろう。

そこに日本のものづくりとその能力が生かせる部分がある。




2003.1.12

非連続の時代、という言葉が最近流行っている。

どうやら最初の一言は
ソニーの出井社長が出した「非連続の時代」という
本から来ているようだ。

ソニーの出井社長は以前も「収穫逓増の法則」ということばを
はやらせたことがあった。
ほかにも結構そんなことがあったと記憶している。




2003.1.13

「収穫逓減の法則」や「収穫逓増の法則」という言葉自身は
出井社長の専売特許ではなく
情報技術が発達してきたなかでどこかの学者が言い始めて
普通に言われるようになった言葉だが

出井社長が言ったから結構みんなが認知したように思う。

こんどの「非連続の時代」は
オリジナルは誰が言ったのかはわからない、
もしかしたら出井社長自身かもしれないが、

まあ、それにしても結構時代の気分にあっているし
本も売れているようだし、
テレビなんかでも出井さんが言って何度も繰り返されるから
いよいよみんなが「非連続の時代」を使い始めた。




2003.1.14

最近テレビを見ていたら出井さんは
「クオリア」という新しい言葉もいい始めた。
北海道の海に住む妖精のような小さな生き物「クリオネ」に
にていなくもないが、これもまたきっと流行るのだろう。

識者も出井さんの言葉の感覚を誉めていたっけ。

それはともかく
個人的にはIBMのガースナー氏が書いた「巨像も踊る」という
本の名前が流行ったほうが
文化的な感じがして良いと思ってもいるんだけれど、、、。

「巨像も踊る」に関してある識者が書評に書いたコメント、、、
「ビジョンより行動」てな話しが
ちょっと気になっていて、
いずれそれについてはここで書こうと思うけれど
まあ、それもともかく、、。




2003.1.15

識者やマスコミが
「はやり言葉」をすぐ引用する、というのも考えものだと思うけれど

まあ、その前に「非連続の時代」という言葉の意味を
よく考えてみる必要があるだろう。

出井社長は、企業も国も個人も「連続的な変化」ではなく
いよいよ「非連続的な変化」をしなくてはいけない、と言っている。

これは哲学でいえば
「量的な変化が蓄積していくと質的な変化がやがて起きてくる」という
話しとしてみればよくわかる。

まんまそういうことを言っているのだろうが
そういうまわりくどい言い方ぞせず「非連続の時代」と
一言でいったことが
なんともソニーの出井社長らしいといえばいえる。




2003.1.16

ところで
12日の朝のテレビ番組に
出井社長が出ていてベンチャー企業の社長や
ベンチャー企業をインキュベーションしている
ネオテニーの伊藤社長なんかと話しをしていた。
これがなかなかおもしろかった。

日本は問題は山積しているけれど
なかなか変わる様子がない。
今の社会がいよいよ煮詰まってきて
変化しなくちゃいけない時期になっているのか
まだ、そこまで行ってないのか、一体どうなんだろう、、
という話しだったのだけれど

一言で言えば、本当に「非連続の時代」になりつつあるのか、
という問題意識に対して
たしかに「非連続の変化が必要な時代」と思えるが、
しかし危機感と行動はまだ始っていない。
という結論であったと思う。




2003.1.17

ここで日本の国も企業も人も「非連続の変化」を
自ら行えば、行うことができれば
時代に生き残れるだろうし、
そうしなければ明日はないだろう、というわけだ。

実のところ、筆者もいろんなところへ行って
話しをする機会とか会議に出席する機会も多いのだが
はたして本当に日本の国や企業や人は煮詰まってきているのか
量的な変化から質的な変化を
起そうとする時期になってきているのか、
非連続な変化を目指す位置にきたのか、、
と自問自答する時がある。



2003.1.18

ちょっとまえのコラムにも書いたのだが

たしかに町にいけば
高価な商品が売れているように見えるし
(実際は高価というよりはわがままな消費と賢い消費を
  選択しているのだろうと思うのだが)

問題意識や危機感は一部を除いて
まだあまりないようにも見える。
少なくとも為政者や官僚たちに能天気な有り様を見ていると
変化を望まないか、あっても連続的な変化や
量的積み上げのみを行うことを
行おうとしたり望んでいるようにも思う。



2003.1.19

いつのまにかなんとなくその存在が
当たり前になってしまったようでもあるが
「抵抗勢力」と言われている人達というのは
すなわち、そういう人達を指す。

変化をしないか、あるいは連続的な変化であれば
既得権は脅かされないのだが
非連続の変化になると
いままでの権益が手に入らなくなる、といういうことで
影に日向に反対したり抵抗しているわけだ。

間違えてはいけないのは
抵抗勢力はけして為政者や官僚の中だけではなく
産業や社会全体のなかにも根強くはびこっていることで、
こういう人達も日本の非連続的な変化を
押しとどめようとしている。





2003.1.20

前述の番組にでていた識者の多くは
いよいよそんな状況は変えていかなくちゃいけない、、、
変わりつつある寸前まで来ているように思える、、、
、、と言っていたし

まあ、それは間違いないことではあるのだが
実はそういう議論を始めると
必ずでてくる話しがある。

国民一人一人の心持ちが大事、というフレーズだ。
これは日本人は好きな言葉だ。

きっと構造改革や日本の改革が進んでいき、
矛盾も深まっていけば一方で
いままで改革に反対していた人達も
きっとそんなことをいい始めるに違いない。





2003.1.21

しかし、ことはそんなに単純な話しではない。

国民一人一人の心持ちが大事とか
市民一人一人の志とか、もたしかに重要ではある。

実際、問題が深刻になり、矛盾が深まって行けばいくほど
前向きな気持ちを持った人々が生まれて
時代を牽引し始めることも
歴史をみればありえるのだと思える。

でも正直言って
組織改革や意識改革、と言われて始めるような行動やプログラムが
様々な企業や組織で行われているようだけれど
筆者はあまりそんなのは信じない。

少なくとも意識改革や組織改革を
自己目的化した仕組みがあるとは思えない。





2003.1.22

そんな意識改革や組織改革をおこす
特効薬や即効性のある薬や仕組みがあるとは思えない。

義務教育で数学や科学を勉強するのでもあるまいし。

本来、「組織」や「企業」は
目的やビジョンの実現のために
個人ではなく「組織」で行うことによって実現させていこうと
集まったのが組織であり企業であってはずだ。

今の日本は目的やビジョンやあるいはドメインを失って
迷走している組織や企業が多いから
そんななかで意識改革や組織改革と言っても
何のための誰のための意識改革や組織改革なのか
わからないところがそもそもおかしな話しなのだが、、

例えば最近では省庁が編成を行ったが
名前を変えたり、場所を変えたり、細分化したり
しただけの話しではないか。





2003.1.23

最近はそんな話しが多すぎる。

本質を見ようとせず
表面的な問題を解決したように見せて、
そして、それは実は本当の解決になっていないのだが、
表面的な体裁だけで問題とその奥にある
本紙的な矛盾や問題を糊塗しようとする

今、日本の抵抗勢力が行っていることは
まさに
表面的な体裁だけで問題とその奥にある
本質的な矛盾や問題を糊塗しようとする
ことでもある。

ま、日本の一番の親分も
公約が守れていないことを開き直るくらいで
いかに本質をめぐっての議論ではなく
表面や当面を糊塗する方法が
この国ではまかり通っているのか、、




2003.1.24

毎日新聞に「経済観測」というコラムがあって
何人かの執筆者がかわるがわる書いている。

「三連星」氏というコラムニストがいて
この人がなかなか辛辣な言葉や
急所をついたようなことを
いつも書くのでおもしろいのだが

先日は「ゼロ戦闘の悲劇」という内容で書いていて
これがなかなかおもしろい。



2003.1.25

ちょっと内容の、特に前半をまとめて書く。

  ゼロ戦は1940年当時、世界最強の性能をもっていた。
  山本五十六が開戦を決意したのも
  このゼロ戦が完成したからだとも言われる。
  だが、ゼロ戦は敗戦のシンボルでもある。
  ゼロ戦は空戦ではなく最後は特攻機として使われた。
  相手国の戦闘機は何度も改変を繰り返していたが、
  日本は工業力の貧しさを表すがごとく
  基本設計は4年間そのままであった。

、、なるほど、
たしかに日本だって言われているほど
オリジナリティーのある発想ができないわけではない。



2003.1.26

ある意味で、天才ともいう人や
この場合でいう天才的な設計者なんかも
歴史とかその国や組織の限界に関係なく
非連続的に突飛でもないものを
考えつく人もいないわけではないだろう。

日本は創造的なことができない、とか
独創的なことができない、とか
いろんなところでやや自嘲ぎみに言うが
そんなことはない、と思う。

前にも書いたことがあるが
世界で最初に「飛行機」を考えたり
模型ではあったが「飛行機」を作ったのも
日本から、である。
(このあたりの話しはまたいずれ)



2003.1.27

だが、毎日新聞「経済観測」のコラムニスト
「三連星」氏が指摘しているように
せっかくのオリジナリティーを
更に花開かせることが日本はできない。

ゼロ戦の設計を進化させ戦闘力を
向上させていくことができなかったように。

ゼロ戦で言えば
「当時」の工業力の限界、といえばいえるのだし、
例えば
この数十年の日本の自動車産業や家電産業の
改変の素早さとそれによる競争力の向上は
けして「オリジナリティーを花開かせること」ができない
わけではない、とも思える。




2003.1.28

戦後の「工業力」の向上は
戦時とは異なり急速に強い競争力を日本に持たせた、、
はずだった。

しかし、戦後の工業力の向上があっても
現実には現下の日本の製造業の状態は
こんな「悲惨」な状態だ。

ゼロ戦にしても
戦後の日本の製造業にしても
工業力があったかないか、高いか低いか、の話しでは
終わらない。
「オリジナリティーを花開かせることができない」のは
根本にもっとどこかに問題があるように思えてくる。

いったい何が問題なのだろう。




2003.1.29

「オリジナリティーを花開かせることができない」理由は
工業力が減退してしまったから、、、

いや、そうじゃないと思う。
「工業力が減退してしまった」というのは結果であって
理由にはならない。

さらに言うなら
ゼロ戦の開発が系統的に行われなかったのは
工業生産の力のなさだ、というが
実はゼロ戦につぐ次期主力戦闘機の開発も
行っていた。

ひとことで言えば
やはりそこには戦略ビジョンがなかったからだ、と思う。



2003.1.30

毎日新聞「経済観測」のコラムニスト
「三連星」氏は
そのコラムのあとに続けてこんなふうに書いている。

   高級な兵器は練度の高い乗員ではじめて生かされる。
   米軍が極端に乗員救出に力を入れたのは、
   ヒューマニズムより養成に時間がかかるからだ。
   日本はミッドウェーの4空母喪失、ガダルカナルの消耗戦で
   ほとんどのベテランを失い、その補充に
   予備学生の促成栽培をあてた。ソフト軽視。

なるほど、そのとおりである。



2003.1.31

であればまさしくソフト軽視というよりは
「戦略性の欠如」ではないか。

せっかく戦闘力と機動性に優れたゼロ戦が発想されても
継続して開発を行い戦闘力を増していくことができない。

練度の高い乗員を必要とすることは
あたり前のはずなのに
大切な乗員を特攻などという悲惨な行為で失っていく。

戦略がなく行き当たりばったりで
目の先のことでしか判断できない。

結局今の日本の産業政策でも同じことが起きているではないか。



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