今日のコラム・バックナンバー(2002年 3 月分)


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掲載は日付順になっています。


2002.3.1

言い訳じみた「価値観が違う」、とか「他国はよく見ていない」とか
そういうレベルの話ではなく
もっと真面目に国の豊かさや評価について
考えてみる必要があると思う。

例えば国債のランクづけや評価のなかには
国の様々な豊かさや多様な価値観を持っている事までも
反映されるのだろうかと考えてもみる。

国債の評価、国の借金の証文の信頼性は
国の競争力や豊かさを主な背景としていはずだけれど
実際は国の持つ豊かさにはいろんな側面があって
例えば金鉱山や石油が地下資源として
ある日ふって沸いたように生まれてくれば
(地下資源を含んだ有益な領土の面積が
ある日領土として生まれるなんてのはその最たるものだろう)
それだけでその国の評価はきっと上がる。




2002.3.2

あるいは
国際的な市場において競争力をあげるなんらかの
巨大な技術革新やプロジェクトが生まれるだけでも
その国の評価は上がるだろう。

まあ、資源を含む領土がそうそう簡単に
増えるという可能性はそうそう考えられないし
競争力をあげ社会とその未来にインパクトと変化を与える
なんらかの巨大な技術革新やプロジェクトも
もともとそういうものがどんどん
生まれて来難い「日本型システム」だと思われているから
評価が下がってきてもしまったのだが、、。

でもよくよく見ると、さすがに
この国は100年以上にわたって
産業や社会全体のインフラ・社会資本の蓄積については
高度なものを持っているのではないかとも思えてくる。





2002.3.3

国際的な評価としても
もっとこういう部分への評価が
されるべきではないかと思うほど
日本における社会資本の蓄積は
比較的厚いのではないかと思う。

例えば「教育」だって
日本は識字率が国際的に見ても高い国だし
とりあえず「問題はあっても」
教育のレベルは高い。

「問題はあっても」、というのは
みんな画一的な教育をしていて
創造的なももを生み出すための
個性的な教育がされていない、ということや
社会の成員としての教育というか
社会と人との関係が教育としてなされていない、ということや
あるいは
そもそも若い人や国民全体が勉強しなくなった、、
ということなんだけれど、、、




2002.3.4

まあ、とりあえず
あまねく広く教育がなされている、、という点では
日本全体の「レベル」は高い

ほかにも
道路だって鉄道だって、港や空港の整備だって
確かに狭く脆弱な国土のうえに築いていくのだから
堅固なものを作るには難儀なこともあるけれど
よくもまあ、これだけのものを創ってきたものだとは思う。

先日、あるテレビ番組で京都と琵琶湖を結ぶ
「琵琶湖疎水」を明治時代の尊敬すべき
先輩たちが苦労のすえ創りあげてきた
苦労と状況を取上げていたのを見た。

レポーターが
「インフラ・社会資本」というのは後世の人々にとって
生活に密着し重要な価値を提供しながらも
その存在に改めては気付かないような
そういうものなのだろう、と言っていたが
本当にそうだと思えた。

こういう厚みのある社会資本の整備や
構築や蓄積は一日にしてできたものではない。




2002.3.5

ま、これもよく考えてみると
教育やインフラや社会制度の多くは
明治から我々の大先輩が汗と努力と自らの
犠牲を持って創りあげてきたものだ。
地下資源があったとしても先天的にあったもので
ここ最近生まれてきたものではない。
もしあったとしてもあくまで「見つけただけ」なのだから
あまり威張れたものでもないとも思う。

そう考えてみると
ウーン、
この半世紀に日本が生み出してきたものは
明治時代に先輩たちが
苦労して築き上げてきたものの延長上で
行われているものが多いようにも思えても来て
ちょっと気が重くなってくるのだが、、、

、、しかしケシテなにもなかったわけではない、
よく見て探せば近代の日本のなかで
作りだされ生み出されてきた様々な価値や豊かさは
ほかにもたくさんあるのだろう。



2002.3.6

残念ながらそれがちゃんと
国民のなかで見えなかったり
評価されていないだけなのかもしれない。

もともと、日本はいままでやってきたことを
ちゃんと評価したり
意味を見出して確認してきたんだろうか。

政治家が「他国は日本を良く見ていない」のは
けしからん、とか批判していたが
一番日本のことを知らない、知ろうとしていないのは
日本人なのかもしれない。

もっと日本が築いてきたものを探してみることが
必要なのじゃないか。

自信喪失な状態にある日本から脱する道は
まずはそんなところからなのかもしれない。





2002.3.7

この間、盛んに言われている
構造改革も不良債権処理も
よくよく考えてみれば
借金の付け回しをどうするか、という議論である。
あるいは
借金という「ババ」をだれに「ババ抜き」させるかという
議論である。

借金そのものがう散霧消するわけではないし
それをやったから景気がよくなるということではない。

小泉さんだって
「構造改革なくして景気の浮揚はない」、と言っているくらいで
構造改革は景気がよくなるための条件であって
構造改革そのものが景気がよくなることと
同義語だとは言っていない。

「景気の上昇なくして構造改革なし」という意見もあるが
結局「構造改革も景気浮揚も一緒にやっていかなければならない」
というのが本当のところだろう、
もちろんそのために残された道は狭い。





2002.3.8

誰かが
資本主義社会は
人との差別化を徹底的に目指すことでその差の部分で
利益を生む仕組みなんだ、と言っていたが
これは本当にその通りだと思う。

で、例えば最近、20世紀の生産システムも問題点を
上げたときにその矢面にあげられる
「大量生産」の生産物なんかも
みんな同じものをいっぱい作って
個々のお客に差別化したサービスを
供給できなくなったしまったからいけないのだと
なんとなく思わされているような状況ではある。




2002.3.9

でもよく見ると
大量生産されているものも
みんな同じものとして
消費者に渡っているわけではない。

一番の違いは
例えばお客さんが住んでいるところ
その場所場所に従い
流通の仕組みを通じて
ちゃんと渡されていくようになっていること自身だ。

沖縄にある製品と北海道にある製品は
同じではあるが異なっている。
沖縄に配送され沖縄のお客さんに渡されることと
北海道に配送され北海道のお客さんに渡されることで
その商品は異なった価値をお客さんに生んだ、
ということだと思う。




2002.3.10

言い方を変えれば
たしかに大量生産の商品でも
型番は同じで
まったく同じ機能や色や形の商品であっても
世の中には同じものは二つない、、、、ということだ。

例え、まったく同じ分子原子からできたコピーや
同じ遺伝子からできたクローンであっても
その世界に、二つある、ということであれば
それは違った価値を示しているのだろうと思う。

なんだか禅問答のようになってしまったが

つまり同じ価値を持つものは世の中に
一つとしてない、し、
それを知ってその違いをどんどん広げていけば
いままでの大量生産のものづくりのやり方だって
あながち否定はできない。




2002.3.11

いや、むしろそこに
もっともっと「違い」を作り出すやり方を
製造業やいろんな産業と一緒になって
構築したり探していけば
まだまだやるべきことはあるのだと思う。

で、そこに生まれる価値とか価格っていうのは
たぶん「標準価格」なんてものはなくて当然で、
そこに生まれたいろんな価値が
作った人や、そこに新たな価値を付加した人や
あるいは必要とした側との
「動的な関係」のなかで
決っていくのではないかと思えてくる。
最近の状況で一番それに近いと思うのは
ネットオークションサイトの現象だ。



2002.3.12

あの中で行われていることは
ごくごく自然な形のマーケットだと思う。

売る側は主には中古品を売ろうとしているから
当然同じものは一つとしてない。
たまに新品があっても
同じものであれば価格を違えるか
人にはない付加価値をつけて売ろうとする。
でも結局、魅力がなければ売れないし
魅力が価格相当かそれ以下であれば
たくさんの買い手がついて価格は上昇する。

これが非常に広範囲ななか、
多くの人々のなか、で
素早く行われる。

こんな言葉なんてないだろうが
「中古経済」ともいうべきものが現れて
ある意味では新品ではあっても魅力のないものなんて
買う気にすらならない。
「新品でなければだめ」という時代でもなくなった。



2002.3.13

ところで昨年、高知の桂浜に
旅行にいった時、
砂浜に落ちている石をいっぱい探してきた。

砂浜に裸足で歩いていて
なんだか健康になったような気がしたので
足踏み健康機を
その地の名物の砂浜の石を使って作れば
いいというような話は以前ここで書いたことがあったと思うが、

単なる「路傍の石」そのものだって
十分に価値を作り出すことができる
と思う。

さすがに
じぶんちのまわりに落ちている石を
ならべておいても買ってくれる人はまずいないだろうが
奇麗な石を磨いたりなんらかの付加価値をつければ
それはそれで商品にはなるだろう。
実際に「単なるきれない石」として流通しているものだってある。




2002.3.14

あるいは、例えば、
桂浜で拾ってきた石というだけで
それだけで
商品としての役目に耐える石になる可能性はある。

裏側に「坂本竜馬」と書いておくだけで
付加価値もつくはずだ。

こんなものこそ
いくらでうれるのか、とかの標準というものなんてない。

お客さんが欲しい、という価格は千差万別で、
只でもいらない、という人もいるだろうし
色やつやや形や桂浜産であることも含めて
一万円でも買う、という人も
なかにはいるかもしれない。

こういう場合、間違えてはいけない、と思うのは
その石を探してきたりした時の苦労や費用は
その石を必要としている人にとっては
一切関係ない、ということだ。
これって重要なことじゃないかと思う。





2002.3.15

その「もの」を製造したりカタチにしたり
お客さんに届けたりするのに
費用が一万円かかったから
少なくとも費用分として
その石の価格に一万円を乗せないといけない、
、、と考えるのは売る側の論理であって
それを欲しい人がそれを
一万円の価格に見合った価値と考えるか
ただという価格に見合った価値であると考えるか
、、は一切関係がない。

結構、このあたりの話は
日本のものづくりは間違っている?
あるいは誤解している?んじゃないか、と思う。





2002.3.16

もっと言えば、
ものを見てそれを欲しいか欲しくないか、と考えるのは
価格とは一切関係がない。

価格を見て
欲しいか欲しくないかを決めているなんてことは
通常、ないはずだ。
価格を見て考えるのは「買えるか買えないか」、であって
高いから欲しくなくなった、のではなく
高いから買えない、ということだ、と思う。

フェラーリだって、ヨーロッパの高級別荘だって、
はては月ロケットやスペースシャトルだって
欲しいものは欲しいし、欲しくないものは欲しくない。

いくらスペースシャトルが車と同じ価格になっても
いらない人にとってはなんの価値もない。





2002.3.17

旅行にいって偶然拾ってきた石を見せられて
100万円で買うという人が現れても
おかしくないし

石を売るためにわざわざ拾いに行って
一個あたり100円の経費がかかったから
200円で売ろうと考えてもうれない場合もある。

もっと安くすれば売れるだろうと考えて
やり方を工夫して100円で売ることを考えても
売れない場合もある。

じぶんちのまわりに落ちていたただの石を
ただの石として売ろうとしてもなおさら売れない。





2002.3.18

てなことを考えていたら
やはり日経新聞の15日の大磯小磯という欄に
「笛猫」氏が「デフレ問題と価格戦略」
、というコラムを書いていた。

    とかく企業は「顧客はひたすら低価格を求めている」
    「競合に打ち勝つためには価格でかたなければならない」と
    思いがちである。
    しかし、実際に顧客が求めているのは
    顧客価値の最大化であり、一律の低価格ではないはずだ。
     −−−
    要は企業は顧客をもっと知り、求めている価値や価格に対する
    感度を正確に理解することだ。
     −−−
まったくもって、そういうことだ、と思う。

安くしなければ売れないから、と
下請け等に単価の引き下げを要求する一方で
お客に喜ばれていない、お客にとって必要でない、ものを作って
売れない売れない、と言っているのではどこかおかしい。




2002.3.19

というわけで
誤解を恐れずに言えば、
ものを作るのに
いくらかかったかとか、苦労したか、というのは
これからの時代、社会にとっては
おおきな問題ではないのかもしれないと思えてきた。

そうでなければ
これだけものが安くなったり
下請け企業のところに
安く部品を供給しろといわれて
懸命になって部品を安く供給して
結果、作った商品が売れなくなって
あげくの「たたき売り」では
説明がつかない。




2002.3.20

それと一緒にしたら怒られるだろうが
あげくのはてが
例えば、桂浜産の石だとうそを言って
じぶんちのまわりの石を売ろうとするような
企業とも呼べないようなことを
平気でやる企業も登場する時代にもなってしまった。

最近になってそういうことを平気でやるような
会社もたくさんでてきたのは、なんといおうか、
もはや世紀末的現象ではある。

ここではとりあえず、
偽物を平気で売るような商売を責めているのではない。
(もちろん強く糾弾されるべきことだが)

価値を生みだすことなしに
安くすれば良いとか、偽ものを売れば良いとか
そんな方向に向かっていることはおかしいのではないか、





2002.3.21

あるいは逆に、

価値が生み出されるのではなく
物をカタチにするのに苦労したからといって
それだけでは認めてくれるわけでもない、
ということでもある。

あえて言えば
安くしなければ売れない、
苦労しているのだから売れないのはおかしい、
、、なんていうのは
ものづくりをやっていると思っている我々の
言い訳に過ぎないのじゃないか。

あげくのはてには
売れない「つけ」が自分たち自身、つまり国民に
デフレというかたちで回ってくる。





2002.3.22

もっとお客さんの必要としている多様な希望に
どれだけ答えられるか、
社会に向かって多様な価値や豊かさを
生み出しているのかどうか、が重要であって
そこに一面的な安さや苦労があったかどうかは
主要な問題ではない。

そういう意味で日本のものづくりは今
ものづくりという意味を履き違えてしまっているのじゃないか、
とも思う。

誤解を恐れずにいえば
いま必要なのは「ものづくり」ではないのだと思う。

消費者が必要とする多様な価値観に
即応した「価値の実現」そのものなのではないか。

その多様な価値を実現できる人や企業や事業にのみ
人々はお金を払ってでもその価値を
買おうと思うのだろう。





2002.3.23

以前も書いた。
「ものづくり」という言葉の呪縛から
そろそろ日本の「製造業」は
抜け出さなければならないのではないか。

あえて言えばものの製造業ではなく
価値の製造業、あるいは価値の創造業が
必要なのではないか。

売れない、作れない、なんてのは
多様化に応えることができない人達の
言い訳に過ぎない。





2002.3.24

最初に書いたように
本来、「違い」を表現するやり方というのは
いろいろあるのだと思う。

同じようなものであっても
北海道に持っていくか沖縄に持っていくかで
そのものが持つ価値が異なるし、

どんな情報を付加していくかによっても
そのものに含まれる価値は異なる。

本来日本には
様々な文化や表現方法もあるし
付加することができる情報だって
あるのだと思う。

まだ使われていない価値や資産も
日本にはある。

骨董品や伝統文化財のことを言っているのではない。

それをもう一度引き出してきて
組み合わせたり使ってみる必要もある。

そういうものに目をむけることが
いま一度大切なことなんじゃないだろうか。





2002.3.25

土曜日のテレビ東京を見ていたら
田原総一郎氏や経済企画庁長官の竹中平蔵氏
が出てきた「経済プロジェクト」という番組があった。

いつもと変わらない顔触れだったし
不良債権処理などこれまたいつもと同じ話だったので
みようとも思わなかったのだが
最後のほうで製造業について触れていたので
そこだけ見ることにした。

まあ、これもいつもと同じような内容なので
たいして真剣に聞く話じゃないと思いながら
聞いていたのだが

いくつかおもしろい話が出てきたので
そこだけはメモにとった。

なんでも田原氏の知り合いの社長(有名な企業の社長だった)が
アメリカから帰ってきて
日本で仕事を始めたときに
夜の宴会の多さに驚いたのだという。




2002.3.26

その社長は
なぜ日本ではこんなに宴会が多いのか、を
考えたのだという。

で、そういうことか、と合点がいったのは
他社と同じものしか作れない企業、
他社と同じことしかできない企業、
他社と違ったものを作りだしたり主張できないような企業は
宴会攻勢でしか「仕事」を取れない、、、
、、ということなのだろう、と言っていた。

たしかにそういうことだろうと思う。

どこの商売でもよくある話だ。
人と同じ商品や商売やサービスしかできないから
むちゃな値引き競争をしようとしたり
本来の商売と違った部分で競争しようとする。

もちろん宴会をやることが
その企業にとっての事業そのものであるとは
誰も考えてはいないはずだ。




2002.3.27

しかし、今の日本の多くの企業は
宴会のパフォーマンスくらいでしか
他の製品や企業との違いを
表すことができない、ということなのだ。

今更、とはいえ、
そんな部分で日本と海外の企業の違いや
作り出すものに対するスタンスの違いが
現れていると聞き、ちょっと切ない気持ちになった。


番組ではほかにもおもしろいと思うことがあった。

大量生産大量消費の時代ではない、
少なくとも日本ではその生産様式や消費はもう時代遅れであり、
新しい様式を考えていかなければならない、
という話はこれは最近どこでもよく聞く話だ。

そう言えば元経済企画庁長官の堺屋太一氏は
規格大量生産の時代ではない、とよく言っている、、。



2002.3.28

それ自身は間違いのない方向だろうと思う。

そうした方向がそれなりに見えるからだろうが、
この番組に限らず最近の多くのこういった番組、
日本の製造業のこれから、を占おうとしている番組では

これからは大量生産大量消費の方向ではない、
、ということを表現するために
高度な技術や手作りで一品製作をしているような
工場を取り上げることが多い。

前述の番組でもそんな工場を取上げていて
「これがこれからの行き方だ」、
みたいなまとめ方をしていたが

しかし、どうもこの番組を含め、
これからは「高度な手作り技術」が必要だ、と、
ひとことでまとめてしまうことが多い。

でもそんな一言で描ききったような言い方で
事足りるのだろうかとちょっと心配になった。



2002.3.29

たしかに人や他社と異なるためには
「高度な技術」も必要なのだが
けしてそれだけではないはずだ。

実際、すべての企業や事業が
高度化を目指していけるわけではない。

筆者は以前から「規格大量生産」と「高度化」と
そして「多様化」を合わせた3つの道が
基本的には
これからの日本の製造業、の道ではないか、と言ってきた。
ただし「規格大量生産」は今後相対的に
日本の産業のなかで占める位置、は低くなっていかざるを得ない。




2002.3.30

いままでは
「規格大量生産」と「高度化」の二つが
日本を支えてきた。

これは誰もが冷静になって日本のやってきたことを
振り返ってみればわかると思う。

ちなみにこの二つの要素・方向は
互いに強く関連していて
まったく別の産業、というわけではない。

「規格大量生産」が「高度化」を支え、
「高度化」が「規格大量生産」を支えていく関係にある。

それはさておき、、



2002.3.31

このうち大量生産の現場は
海外にシフトされていくことは止められない。
今後ますます進行していく、と思う。

アジアでは高度なものはできないから
いずれ日本にもどってくる、なんていう一時の話は
まったくもって御笑いだったことは
今はもうはっきりしたと思う。
アジアや中国の生産管理や品質管理のレベルは
日本以上に高度化していくだろう。

日本の中小企業が
アジアに雄飛し、戦うべきだ、という話もあるが
日本の中小企業で
現地で戦える企業は残念ながらそう多くはないし
もともと地域のなかで社会の成員となり
生活を組み立ててきた日本の中小企業が
地元の社会や状況を離れて海外に雄飛できるという話は
仮想としての話はできても
そうそう簡単に現実化できるものではない。



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