今日のコラム・バックナンバー(2001年 6 月分)


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掲載は日付順になっています。


2001.6.1

そういう変化が根底で起きていることを見ずに
情報技術が生産者主導から消費者主導の時代に
変えていると一面的にいうのは
現象の見えている部分に
つじつまをあわせたようなおかしな話しだと思う。

まして
おまけがついてきたり
価格破壊が起きていることを背景にして
「消費者の利益か、生産者の利益か」や
「生産者主導から消費者主導になる」のような
議論はまったくおかしな話しだと思う。




2001.6.2

よくよく考えてみると
今起きつつあることは
つながることはないと信じられていた、
あるいは思ってもみなかった、
ものづくりの両側にいる人々が
情報技術によって
再び、つながろうとしている
歴史的にみても
非常に重要な現象なのだろうと思う。

「もの」「情報」を介在させて
人と人の関係や在り方が変わっていく。

今、起きようといている変化の眼目はそこにある。





2001.6.3

良く聞く「消費者主導」の議論や
コンビニの飲料水についてくるおまけも
実は日本の「ものづくり」のなかの大きな
変化やその予兆として考えるべきなのではないか。

おまけがついてきたり価格が大きく変動したり
あるいはそんななかで
物を作る人と使う人や
広範な人と人の関係の捉えかたに
少なからず混乱が見られるが、
そんな混乱のなかから
本当にこれからおきつつある方向や
あるべき姿を見つけ出す必要があると
コンビニの飲料水に付くおまけをみながら
筆者は思う。



2001.6.4

これまでも何度も書いてきているが、
最近になってフリースジャケットの一件から
中国でものをつくって日本に輸入することが
ごく最近の「メジャーで有効なビジネスモデル」、のように
「扱われる」ことが多くなった。

が、もともとそれに近いことは以前からあったことだ。
目の前に明確になっていなかっただけのことで
実際には以前からあった出来事で、
最近になって「フリース」の一件から
多くの国民の目の前に
「わかりやすく説明され、認知され胸に落ちてしまった」
ように思う。



2001.6.5

「いろんなものが安く手に入るようになったが
  今起きていることはなるほどそういうことなのかあ、、」
と、みんなが知っている。

つまり
「日本でものを作ると高い」
「海外でものを作ると安い」
「だから企業は海外でものを作ろうとしている」
「消費者は安いものを必要としている」
、、という少なくともそれぞれは
それなりにしごくまっとうな議論ではあるが
複雑に絡み合っていてわかりにくかったのに、
これをまとめて「よくわかる図解付き説明」のような形で
見せてくれたのが「フリース」や「セーフガードの一件」、、
だったように思う。



2001.6.6

今では国民の多くが「中国で物を作ると安くできて
日本に持ち込んで販売すれば利益になる」
と言うビジネスモデルを
ごく当然として受けとめてきているように思う。

もちろんはっきりすることが悪いことだとは思わない。
結果的に多くの国民はこれで
「状況を良く知る」こととなったように思う。

ただ残念なのはそれが日本のものづくりや
産業の未来に大きく影響を及ぼしているということが
当事者として捉えられていない、ということだ。

冷静に考えてみれば安くものが手に入ることを
手放しで喜んではいられないはずだと思うのだが、、。



2001.6.7

もともと、はたして安くものが販売されることが
消費者の唯一の要望なのか。

これはちょっと前にも書いたように
消費者主導になっていくことが正しいことだと
喧伝されてくるようになっているが
それはあまりに一面的な議論ではないかと
筆者には思えてしかたがない。

消費者主導や消費者主権が正しい流れで
これからはそうしていかないと
モノヅクリは生き残っていけない時代なのだと、
まことしやかに叫ばれている時勢だから
大手メーカーはともかく
そこに無数につながっている圧倒的大部分の
中小零細企業は更なるコストダウンの要求に四苦八苦だ。




2001.6.8

それがいやなら
海外に出ていくべきだ、という意見があるのも
一つの意見としてわからないではないし
あえてリスクを承知で頑張ってきて
今、海外で大きく展開し日本で喜ばれている
商売の形態を作った企業の努力も
もちろんみとめなければならない。

しかし、多くの中小零細企業の
みんながみんな海外に展開できるわけもない。
そうすると、
そういうところは早いところ撤退したり
社会としては血をながさなけれればならない、
という意見が一方に必ず出てくるのだが
そういう意見に対して
筆者はどうしても納得できない、。



2001.6.9

最近は、
「痛みを伴う構造改革に我慢してもらわなければならない」
という議論も最近はメジャーな意見になりつつある。

いままで永く停滞していた政治や経済の世界から
ようやくちょっと異なる動きが生まれてきたから
そこに期待する気持ちもわかるのだが
しかし多くの中小企業に血を流してしまったり痛みを伴う
ことを要求する「改革」には冗談ではないと思う。

圧倒的大部分の日本の中小企業は
真面目にこつこつと日本のものづくりを支え、
苦労しながら日本を支えてきたでなないか。
今さら
「痛みを伴う、血を流す、のを我慢してもらう」
もないだろう。




2001.6.10

「痛みを伴う構造改革に我慢する」のであれば
日本を支えてきた圧倒的大部分の中小企業や
ものづくりを真面目に支えてきた中小企業に
「落ち度」があったとする場合だ。
でもどう考えても何の落ち度もない。

付加価値の高い仕事を考えて作る必要がある、とか
生産性をあげる必要がある、とか、
で、そういうことをやって来なかった産業自身がいかんのだ、、、
、、そんなことを言う人達も最近は多くいるが

別に惰眠をむさぼっていたわけではないのだぞ、と言いたい。




2001.6.11

たしかに生産性の悪い産業だってあるし
そういう産業でも今後生産性を高めていかなくては
ならないことも間違いないし
これからもっと違った新たな産業を興していく必要が
あることも間違いない。

でも懸命にやってこなかった産業、というか
国民にもたれかかって生きてきた、というか
悪いことをやってきた企業、というか
そんな企業や事業と、

真面目に真摯にものづくり、広い意味では
製造業や農業や例えば医療や福祉などの事業を通じて
国民のために奮闘してきた企業や事業とを

生産性が悪い、とか、古い産業、とかいう括りかたで
「痛みを覚悟してもらう対象」として
一緒にして扱うことはもちろん間違いだろう。




2001.6.12

日本そのものをあらゆる方向から
木目細かく社会や人々を支えてきた
真面目な中小企業や事業者を
時代に遅れているとか、知恵を出していないとか、
国際競争力についていけない状況になってきた
ということで結果的に切り捨てようとするのは
大きな間違いだと思う。

「痛みを覚悟してもらう」とか
「グローバル化についていかなくてはならない」
とかいうような一見カッコ良く聞こえる言葉は
だがけしてテレビ映画みたいには
簡単かっこう良い結果を生み出さない。
国民生活や社会、産業は全体として
相当に苦しく厳しい状況に追い込まれていくと思う。




2001.6.13

圧倒的大部分の国民はそれがわかってくれば
そんな構造改革には納得しないはずだ。
「各論になれば反対意見も出てくるだろう」というのは
たしかにその通り。

100歩下がって圧倒的大部分の
中小企業やものづくりの事業に
「痛み」に相当する「落ち度」があるとするなら
「時代の変化を切り開いていくべく知恵を出さなかったこと」
ではなく
ちょっと過激に言えば「一見優秀な人達」にうまく乗せられて
そういう人達が「うまくやっていく」のに
必要としていた、例えば「票田」や「既得権益」と引き換えに
自ら考え動くことをちょっと怠っていたことだけだ。



2001.6.14

いずれたしかに「どこかで痛みを伴うことを覚悟する」
、、というよりは
国民ひとり一人が国と自分との関係を
捉え直し作り上げていかなければならない時代になる、とは思う。
そういう「未来への責任」は
これまでも負ってこなければならなかったし
これからも負っていかなくてはならない。
それは構造改革云々、の話しではなく
社会の一員として個々の人間が果たしていかなくてはならない
使命なのだと思う。

しかし、ともかくも日本全体が支えあって豊かになり
進んできたなかで
その中での自分の役割を自覚したかどうかは別として
中小企業やものづくりの現場を支える人々が
国や社会を支える一部としての役割を果たしてきたこと自身は
誉められこそすれ何の落ち度はないと思う。



2001.6.15

その前にまず「痛みを伴う構造改革に我慢する」
のであればそれは圧倒的大部分の国民ではなく
「うまくやっていたのだろうが
いつのまにかこんなふうにしてしまった人達」
に反省をしてもらう。
退場してもらうべきはしてもらう。
構造改革をするならまずそういう人達から率先して行ってもらう。
、、そこからはじめなくてはならないと思う。

以前からそういう部分が「なあなあ」になっていて
いまだに実質的に手がつけられていないではないか。




2001.6.16

問題を起しここまで日本を追い込んでしまった
張本人達が公的資金で助けられて
なぜ中小企業はいじめられなきゃいけないのか、
そういう声が出てくるのは当然といえば当然だ。

そんな人達も国民の責務を果たしていたというかもしれないが
日本の進路を決定し、責任ある立場にたち
それなりの権限も持っていた人達には
それなりの責任と説明をしてもらう
あるいはその機会も持ってもらわなければならないと思う。




2001.6.17

きちっと、過去の過ちや問題を直視し、
反省をし、次につなげる、、
、、、あたり前のことだと思うのだが
現状ではそんなことさえできていない。

それがあってはじめて
社会全体や産業やそこにいる多くの人々も
納得して次の段階に進めるというものではないのか。

今の状況ではその最低限の責任やその説明さえ
なされず
ただ闇雲に「痛みを覚悟してもらう」ことだけが
はやりのように、なかば脅されているような感じで
繰り返されているようにさえ感じる。



2001.6.18

実はこういう議論というのは数年まえの
財政危機がここまで進展していなかった時に
すでにあちこちで行われていたことを思いだす。
きちっと責任の追及を行い
責任を取るべき人には責任を取ってもらい
退場していただく企業や人には退場していただく、
それも必要だろうという議論だった。

だが、結果的に責任の追及は行われず
いつのまにかウヤムヤになってしまった。
国民は当然怒ったのだが
だがそんな問題のある金融機関や組織などに
反省のないまま公的資金が投入されることにも
当然ながら納得もしなかったから
それが逆に思いきった不良債権の処理を
遅らせてしまうことにもなったのだと思う。



2001.6.19

もともと不良債権処理も国のお金、
いや、税金を使って行うのだから
国民が納得しなければ行えないこともたしかのだが
責任の追及をしっかり行って、
国民に納得してもらいつつ、なおかつ
公的資金、というか税金を使ってでも
将来にむかって不良債権をきちっと処理するなど、
しなくてはならないことをちゃんとやり遂げることができる
そういうリーダーシップが必要だったのだと思う。

するべきことをきちんと見通し
処理していく、、そういうリーダーシップが
必要だったのだと思う。
しかし結果的にはそれは出来なかった。
あげく、今のようなもっと深刻な状況にまで
問題は深化している。




2001.6.20

だから筆者は痛みを伴う構造改革は反対だ。
これ以上国民の大部分は痛みに耐えられるとは思えないし
それを行えばもっと景気が悪くなるとしか思えない。
一時的な痛みに終わらない可能性さえあると思う。

経済学者は構造改革をしなければ国家の財政はもう限界、
という人が多く「思い切って痛みを伴う構造改革」と
いう人が多いが、経済の実体は深刻な状況に陥っている。

生ぬるいことをやっていては社会・経済の根本から
改革はできない、という人がいるが
そんなのは明治維新の時や歴史上に革命が起きたときに
「血を流さなくては革命は成就しない」という
他人事のように過激な話しをする歴史学者と同じことだと思う。




2001.6.21

歴史は歴史教科書のなかで合理的に行われていくのではなく
実体の生活のなかで起きている。

進化も改革も重要だ。
しかし何のためのそれなのか、、。
進化や改革や歴史教科書のための生活ではなく
生活があっての経済政策や「歴史の教科書の中味」なのだ
という視点を忘れてはならないと思う。

痛みをともなわなければ改革は無理なのか。
いや、痛みを伴わない構造改革が無理だとは思わない。
今はそのタイミングではないということだ。
いずれみんなが力を取り戻した時に
しっかりと「構造改革」を行えば良い。

その時点で、どうせ骨抜きの改革になってしまう、と
言われてもいいではないか。




2001.6.22

やはりここに来て痛みを伴う改革路線なのか、それとも否か、
が盛んに議論されてくるようになった。

マスコミなどでも
一時の痛みを伴う改革路線が必要ではないか、という議論に
同調する雰囲気もすこしづつ変わってきているように思える。

新聞そのものの論調ももちろんなのだが
識者のなかでもいよいよ論調が二つに別れてきているようだ。

20日の読売新聞の「文化」という欄では
大阪大学の猪木武徳教授が
経済政策と経済学は異なっているものであり
予測と現実の間に差が生まれる可能性もあるのだということに
注意しなければならないだろうと
今回の「痛みを伴う改革路線」に警鐘を鳴らしている。




2001.6.23

「いわゆる狭義の経済理論は、合理的に行動する個人を
前提として成立している。」

「ところが経済学と経済政策は異なる。
もちろん両者は無関係ではないが、
経済学だけから政策上のひとつの処方箋が
書けるというような単純な対応関係にはない。
現実の人間の経済行動が余りに数多くの要因に
支配されているからだけではない。
人間は完全には合理的ではなく、
愚かでその心は移ろいやすく、また様々な
権力関係の中で行動するわけであるから、
経済現象として観察できることと
経済学が予測する結論との間に
必ず差が生まれる。
したがって経済政策を論ずる上で、
経済学の知識は不可欠ではあっても、
決してそれで十分というわけにはいかないのである。

大阪大学 猪木武徳教授  20日読売新聞「文化」



2001.6.24

続き、、
「経済政策が政策である以上、国民の日常生活に
直接影響をもたらすことは必至であり、「意図と結果が
違っていた」ということでは済まされない。
だからこそ小泉政権の経済政策の妥当性を考える場合、
その内容に立ち入って具体的に検討する必要がある。」

大阪大学 猪木武徳教授  20日読売新聞「文化」


大阪大学の猪木武徳教授は
「この点に関して外国でも
小泉内閣が需要の低迷を重視せずに
構造改革に取り組むことに対して
疑問と不安の入り交じった反応がある」とし
英「ファイナンシャルタイムズ」での
海外の識者の討論を紹介している。



2001.6.25

海外の識者は
小泉改革は水野忠邦の「天保の改革」を想起させると
言っているのだという。

「規制緩和と競争促進を目的とした株仲間の解散令は、
予想とは反対に物価昂騰と失業の増大を招いた。」
「小泉政権の経済政策は、現実の需要不足から目を
そらし、供給側の改革ばかりに執心する点で
近視眼的に過ぎるのではないか、という指摘には
同感を禁じ得ない。」



2001.6.26

猪木武徳教授は最後に
「もちろん、経済学と政策の関係が
一筋縄ではないからといって、
改革を控えるべきだということにはならない。」
「要は総需要が不足している時に、
さらにその減退を招くような
供給側の改革を性急に行うべきではない
いうことに尽きる。」

と結んでいる。
これはその通りだと筆者は思う。
改革は行わなければならないし
特権や利権や既得権益に群がっているような
仕組みはやめなければならないし
無駄な出費や公共事業は止めるべきだし
不良債権も解消しなくてはならないだろう。
ただ今の状況で、今の時期で、本当にいいのか、
先にやるべきことはないのか、
やっておくべきことはないのか、ということだろう。



2001.6.27

日曜日の朝の報道番組では
「痛みを伴う構造改革」について
様々な識者がテレビに登場し議論をしていた。

竹中さんが出てきた時は
さすがに今回の施策は供給側が強くなるための政策であり
需要側が弱いことは危惧している。と言っていた。

それを乗り越えていくには
いままでのような安易に公共事業にたよったりする姿勢ではなく
新しいことを考えていく知恵が必要なのだ、とも言っていた。
これはまったくその通りだと思う。
ある意味では、そういう認識を持っていたことに安心もした。
その知恵こそが今重要なのだと思う。
その知恵が出ないかぎり、出さないかぎりは
「痛みを伴わない構造改革」はもちろん
それが「痛みを伴う構造改革」であっても難しい。




2001.6.28

テレビでどこかの識者が
「この10年の未曾有の大不況は一言で言えば
バブル経済以降に地価が下がってしまったことが一番の要因」
と言ってもいたがたしかにこれもその通りで
少なくとも一時から40%も地価が
目減りしたことによって不良債権が生まれてしまったが、
それだけの金額が今、この経済の状況下で
2年や3年できれいにできるかといえば
これはかなり無理がある数字だと思う。

まして「ものをつくっても売れない」
「財布の紐がしっかりと閉っている」
「産業の将来がどうなっていくか見えない」
「自分の将来、家庭の未来、会社の未来が見えない」
この時代に、痛みを伴うだの、低成長だのの政策では
非常に不安な状況が生まれてくると思う。




2001.6.29

そういう状況においこまれなければ
新たな社会や産業は生まれて来ない、と
だれかが言っていたが
これは評論家の言う勝手な話しでしかない。

某自動車メーカーが
資産の売却や働く人々のリストラで黒字に戻したことは
(実際に車がどんどん売れ始めたわけではないのだが、、)
やはり思い切った改革を進めたからだ。
だから日本全体も思い切った改革を
進めるべきだということを言う識者もいる。

これもそういう企業が出てきても
ほかの企業や産業や国が支える仕組みが
あればこそできた相談であるし
国家が企業と同じようなことができるというのは
無理がある話しだし楽観的に過ぎる話しだと思う。




2001.6.30

誤解がないように書いておくが
「改革が必要でない」とは思わない。

あくまで、
いままでとんでもなく非合理であったり
既得権で守られていたりするような
分野や企業などは退場してもらわねばならない。
責任を取ってもらう企業やひとには
ちゃんと責任を取ってもらうなり
退場してもらわなければならない。

同時に社会のある部分に痛みが集中しないように
政策を作り上げるべきだろうし
そういった上で思い切った政策も取るべきときは取る、
という姿勢が必要だろうと思う。



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