今日のコラム・バックナンバー(2001年 1 月分)


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掲載は日付順になっています。


2001.1.5

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

さて、
年末から年始にかけての株価の乱高下で
今のところ大騒ぎが続いている。

いよいよアメリカが誇った「ニューエコノミー」も
終焉に向っているのじゃないか、という話しも
聞こえてきた。

経済の繁栄がこのまま続くのか
「ニューエコノミー」が続くのか、、
これはもうちょっと継続して見ていかないことには
正確なところはわからない。





2001.1.6

アメリカの底力はこんなものじ計れないほど
分厚いからまだいろいろ手は打てるので
やり方によってはこれからまた持ち上がってくるだろう、、
とか、
それにたいして日本はもう一歩も下がれないところまで
来てしまっているので
選択の幅は狭い、、というような話しも多い。

たしかにアメリカのこの間に創ってきたものの
厚みや価値は途方もないものではあるだろうし
世界のあらゆる意味での「先頭」を走っていることも
確かなんだろうけれど
一方で、なにかきっかけがあって
その脆さが露呈した時は結構舵を取るのは難しいのだろうと
思えてくる。




2001.1.7

ところで、年末年始と、
普通なら情報技術やネットワークの本やらを
読んでいることが多いのだが
今年の年末年始は思うところがあって
「生物学」の関連の本を読んでいた。

人間が進化していった流れを書いた本や
「共生」について書かれた本を読んでみた。

「共生」については前にも書いたが
昨年から今年、これから、において
「流行る言葉」だと思っているが
わりと、本屋でも「共生」について
書かれた本が多いことに気がついた。

「共生」や「共進化」という言葉が最近言われるなかで
複雑系についても最近盛んにいろんなところで
語られるようになり本もたくさん出版されている。





2001.1.8

なかなか難しい話しが多く
筆者のような貧困な頭では理解できないなかで
面白かったのは
東大名誉教授の埴原和郎氏が昨年10月に出された
「人類の進化−試練と陶汰の道のり−」
−未来へつなぐ500万年の歴史−     講談社刊
だった。

よく言われているように人類の歴史は
500万年前のアフリカの地殻変動によって
食物が乏しくなった猿が
樹上生活に見切りをつけ
大地の降り立ったところから始ったとされる。
「人類の進化−試練と陶汰の道のり−」は
そこから現在の人間までの進化の道のりを
わかりやすく説明していて非常に面白い。




2001.1.9

猿が樹上での生活から地上に降り立ち
直立歩行しはじめたことや
それによって手が自由になったことや
ものが掴めるようになったことや
火を使い始めたことや
道具を使ったり言葉を生み出したことや
文化や文明を作り出していったことが
人間が人間として進化していく上で
どういう役割を持ったのか
昔から学校の勉強でも習ったはずなのだが
最近の研究成果も出すなかで
とても刺激になる話しにもなっている。

筆者の乏しい頭のなかでは正確に理解できているとも
思えないが、
特に自分なりに理解した話しは二つある。





2001.1.10

一つは、、、
本当に
「競争」に勝った力の強いものが生き残る、、のだろうか
と思えることだ。

一番よくある、誤解としては
食物連鎖の頂点に立つ生物は生き残れるのだという誤解だが
まあ、そんなのは無視しても
とりあえず力の強いものが生き残る、という言葉は
当然なこととして理解されているように思うが、はたしてそうなのか。

経済のなかでも、いわば資本主義のなかでの勝ち残り競争、、
経済戦争の真っ只中にいる我々は
「競争に勝てないもの」が陶汰されていく、、
という単純な理解が我々のなかにあるように思うが、
はたして本当にそうなのか、、。




2001.1.11

「大競争時代」といわれるような時代や仕組みに
世の中が変ろうとしている時に
そこで行われる競争に勝てないものは
「陶汰」されていく現象は当然であり、
しかたのないことだ、、、
、、と言われ理解されているような状況があるのだが、、

しかし、一面的な理解であることを覚悟でいうならば

いままでの人類の進化の過程を見ると
環境や時代の変化に適応し順応したものが
生き残っていくのであって
けしてパワーゲームに勝ち残れる、競争に勝てる
「力」があるものが結果的に残れる、、わけでもなさそうだ。





2001.1.12

いままでの「枠組み」のなかでの競争に勝てたのだから
時代が変わっても生き残れる、というわけでもない。

例えば恐竜や
進化の袋小路にはまり込んだ進化途中の
人類(というより原人)は
時代や環境の変化に自分自身がついていけないほど
特殊化?してしまい
過酷な環境の変化についていけず
「陶汰」されることになっていった。

優れた形態や力を得たものが必ず生き残れるのかというと
結果的にはどんづまりの進化の袋小路を進んでいく
速度を早めたに過ぎない可能性もある。




2001.1.13

「均一化」はいずれ陶汰されていくことになるが
均一化のなかに生まれる「分岐」や「特殊化」の路も
生き残るものと消えていくものを生み出す岐路になる。


現在のような「資本主義の大競争時代」においては
競争に勝ち残れないものは「陶汰」されていくのだ、、
という理解がある。
競争に勝てない零細企業や力のない小規模な経営、は
いずれ陶汰されていく、、というような話しが聞かれることさえある。

しかし、どうやらそうではなく
すばやく環境の変化に適応し順応したものが生き残っていくのであって
いくら大きく「力」があっても
環境に素早く対応し自分自身を変えていけないような
生物や企業が「陶汰」されていく、ということになりそうだ。





2001.1.14

もともと
生物学上の言葉ならいざ知らず
経済やものづくりをかたる上で
「陶汰」という言葉が語られることは
個人的には好きじゃない。

小さな経営や企業や
ものづくりに真面目に取り組んできた製造業者が
ただ小さかったり力がなかったり「競争力」がない、と
いわれるだけで「陶汰」されるなんていう議論は
あまりに表層的だ。




2001.1.15

むしろ競争力がなくても
時代の変化をかぎとって
「自分自身を変えていける力」を持っている
企業や生物のほうが
生き残っていけるはずだ。

それができない企業や生物であれば
小さくても大きくても、いくら「パワー」があっても
「陶汰」されることをたぶん止めることはできない。

たぶん「自分自身を変えていける力」を持っていることこそ
「進化」ということなんだろう。

あるいは「競争」という言葉の意味も
力と力の闘いや、弱肉強食、というような意味あいよりは
「素早く環境の変化を認識し自分自身を変えていける力」
としての「競争」として捉える必要があると思う。



2001.1.16

「力」としての「競争力」ではなく
「進化し、変わっていける力」としての「競争力」
という考え方が必要なんじゃないだろうか、、。

問題は大きいか小さいか、力があるかないか、ではなく
「自分自身を変えていける力」があるかどうか、
「進化」できるかどうか、なんだと思う。

だから、例えば識者の人達も
簡単に一面的に
「陶汰」なんて言葉は使わないようにしたほうがいいし
「これからの時代は小さな企業は生きていけない、、」
なんてことも言わないほうがいい。

ところで
正月のテレビの深夜番組で
識者の集まった討論会があって
そのなかにある識者が
公共事業は非常に非効率であって
大手企業で稼いだお金を使ってしまうような仕組みに
日本はなっているんだ、という話しをした場面があった。




2001.1.17

ここでも大きな勘違いがあるように思えた。
たしかに最近話題になるように
公共事業でも非常に非効率であったり
意味のない事業であったりしているにもかからわず
国家のお金を闇雲に投入している部分はある。
しかし一方で、そうではない部分もある。
効率はあげるにこしたことはないが
例え効率が悪くともやっていかなくてはならない事業も
きっとあるだろう。

逆に、大手企業であっても
(たとえそれがものづくりをやっている企業であっても)
国民、国家の懸命になって稼ぎ出してきたお金を
浪費し使い果たしてしまうような企業もある。




2001.1.18

時代や環境の変化にあわない、進化しない、
自分を変えていくことができないような
そんな企業や生物はたしかに「陶汰」されていくだろう。

だけど、
大企業だから陶汰されない、
公共事業や小さな企業だから陶汰される、、
なんてのは一面的な話しだろうと思う。


何度も言って申し訳ないが、
問題は生物にしろ企業にしろ
「自分自身を変えていける力があるかどうか」
「進化できるかどうか」
にあるのだと思う。





2001.1.19

そう言えば、昨年、何度かテレビに登場した経営学者の
PFドラッカー氏がその著書で
これからの企業に必要なものは
正しい時代認識と自らのビジョン・使命感を持ち、
自分自身のコアを認識しているかどうか
ということだと言っている。。
あくまでコアであって力ではないところが重要だと思う。

そして、「変えないこと」はこれからの企業にとって悪であり、
変えることによって企業は生き残っていけるのだ
、、というようなことを言っている。

まさにそういうことなのだろうと思う。



2001.1.20

大きい、あるいは小さい企業にしろ
国にしろ自治体にしろ
正しい時代認識と自らのビジョン・使命感を持ち、
コアを認識している組織が
はたしてこの国にどれだけあるんだろうか。

「人類の進化−試練と陶汰の道のり−」
−未来へつなぐ500万年の歴史−     講談社刊

を読んで印象に残ったことのもう一つは
やはり「ものづくり」が人間の進化の上で果たした役割は
とても大きいのだろうということだ。





2001.1.21

「ものづくり」と簡単に言ってしまうことを
避けるならば
人間を取り巻く環境や社会にたいして
人間自身が自分との関わりを認知して
よりよく生きられるように
「働きかけて行く行為そのもの」
という言い方でいいだろうか。

当然、猿と異なり人間は、人間自身が作り出した
環境の変化や社会の変化、文化や文明、そのものに
自身が影響を受け、お互いの相互の連関を作りながら
生きていく。



2001.1.22

時としてそれは
取りかえしのつかないほどの
環境への過度の働きかけをしてしまうのだが

そういう意図的な関係にしろ自然な関係にしろ
完全で恒常的なサイクルを持った生態系というのは
誤解を恐れずに言えば、「ない」のだろうと思える。

変化の速度に早い遅いはあっても、
進化は一方向であって
例え一時の退化はあっても
また人間が再び猿に戻ることもなければ
単細胞生物にもどっていくこともない。
生命は多様性を求めて多様な進化を遂げていく。



2001.1.23

人間は地上に降り立った時から
人間としての進化をせずにはいられない。

ただ、人間もそろそろ新たな分岐点にいるのかも
しれないと思うことはある。

進化のツリーから言えば
何万年か前の
ネアンデルタールとホモサピエンスの
二つの人類への分離と同じことが
おきつつあるのかもしれないと思う。

すでにホモサピエンスは
新たな進化の入り口に立っているのかもしれない。



2001.1.24

ホモサピエンスが
「知恵ある人」という意味であるならば
「ネットワークする人」という意味で
ホモネットワークシスとか
「電脳空間に住む人」という意味で
ホモサイバーシスとか
そんな言葉もこれからはあるかもしれない、とも思う。

冗談ではなく
「ホモネットワークシス」や「ホモサイバーシス」なんて
本当に生まれてきそうな人類ではある。

はたして本当にそうなるんだろうか。
結構、「新人類の発生」という話題で
冗談半分としては喜ばれそうな話しではあるし
ネットワーク時代は新たな産業革命、、の話し以上に
考えてみればおもしろそうな話題ではある。




2001.1.25

ただ、
「ホモネットワークシス?!」や「ホモサイバーシス?!」が
新たな人類進化の方向で
「ホモサピエンス」が滅びていく方向だとは
どうも思えない。

筆者はむしろこの情報化時代や情報「革命」を
自然や環境に対する人類の文化や文明や働きかけかたや
方法論の進化として捉え
これまでの人類の進化の延長線上にあると見ると、

むしろ今起きていることは
進化の袋小路に人類が入りこもうとしているのじゃないかとさえ
思えてくる。
「ホモネットワークシス」や「ホモサイバーシス」は
けして進化ではなく「どんづまり」への道をたどりはじめているのかも
しれないとも思う。




2001.1.26

何年か前に、ジュラシックパークというあの有名な映画の
原作を書いた作家のマイケル・クライトン氏が
インターネットによって人類は均質化に向っていく状況にあり
それは人類の滅びる方向でもあるのかもしれない、という
意見を雑誌に書いていたことがあった。

筆者はこの雑誌に書かれた文章を読んだとき、
たしかに人類が均質化に向っていく状況も
ありえないことではないし、
インターネットがそれを助長していくものであるのなら
インターネットは人類にとっての
「滅びの笛」にもなりかねない、とも思った。




2001.1.27

しかし、同時に、その道のなかから
人類は多様な道を探し出すだろうし
人類の生を開花させ生きていく道を
探し出すだろうとも思った。
この意見はいまでも変わらない。

均質になろうとしている生物や人類のなかに
多様になろうとする生物や人類も生まれる。



2001.1.28

「ホモネットワークシス」や「ホモサイバーシス」がどちらで
「ホモサピエンス」がどちらにあたるのかはわからない。
、が均質になろうとしているのはたぶん前者だろう。
たぶん「ホモサピエンス」が
ちゃんと生き残るための多様な進化の方向を
見つけ出すだろうと思う。

ところでそういう人類の分岐だが
   この人は「ホモネットワークシス」や「ホモサイバーシス」、
   この人は「ホモサピエンス」、
、、、だと色分けがされるわけではないのかもしれない。

一人の人間のなかに、自分自身のなかに、
どれほどの「ホモネットワークシス」や「ホモサイバーシス」と
「ホモサピエンス」が混在するのか、、
案外、これが重要な点かもしれない。

自分自身のなかにどれくらいの割合でそれが混在しているか、



2001.1.29

   ネットワークがなくちゃ生きていけない、
   電脳空間でなくちゃ生きていけない、
  「ホモサピエンス」たりえたものなんかすべていらない、
なんていう「ホモネットワークシス」や「ホモサイバーシス」
の生き方は、さすがに人間として到底成り立たない、というのは
最近のアメリカで行われた実験でもはっきりしたようだが、
(一年間部屋に閉じこもってネットだけで生活しようとする実験が
最近アメリカであった。 結構きつかったらしい。。)

たしかに
利用しないではいられないそういうネットワークや
電脳空間に住むことによって
得られる利便性や可能性を享受しながら、
一方でリアルな世界のつながりや重みや苦悩を
個々の世界のなかで真正面から受け止めることを
どれほどこれからの人間、あるいは若者、が
できるのか、やっていけるのか、



2001.1.30

これからは電子の仮想空間の利便性を享受しながらも
簡単に空虚な電子の仮想空間に逃避することもできる。
一方で実際には現実から逃げ出すこともできない。
そんな時代になっていくのだろう。
リアルな現実に(仮想の現実も含めて)
真正面から対峙する姿勢が問われる時代になるだろうと思う。

今のところ、現実と正面から向き合っていこうという姿勢は
どんどん希薄になっていくように思える。

そういう、人間が「ヒト」としてなり得た、重要な部分をなくさずに
きちんと進化していけるのかどうか、、
、、たしかに重大な転機に来ているかもしれないと思う。



2001.1.31

雪かきでいためた腰をかばいながら
今年のような大雪はもう結構だ、と
思ってもみるのだが

雪かきが一段落したり
痛みが薄れていくにしたがって
雪に隠れた町を冷静にみる余裕も出てきた。

町のそこここに積まれた大きな雪のピラミッドを
見ていたり
遠方の山々が雪で真っ白になっているのを
見ていると
あれほどこまりものだと思っていた雪景色も
冬らしい景色として余裕を持って見る自分がいる。
なぜかワクワクするような気にもなってくる。


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