今日のコラム・バックナンバー(2000年 10 月分)


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掲載は日付順になっています。


2000.10.1

そういうことの上に作られる、色濃く反映される
スポーツであるとか、評価の在り方や価値判断や
儀式であるとか、そういったものは
やはり変化そのものを写し出すのではないかと思うし、
それが当然だとも思う。

あまり好きな言葉ではないが、
「グローバル」という言葉が表しているような
現実が生まれてきているのは事実であって
世界の人々に、例えば特定の国が本来オリジナルのスポーツが
広まっていくことはこれからは
当然なことになっていくだろうし、
これはスポーツに限らずどんなことにも言える。




2000.10.2

そうなれば、オリジナルな競技から
形態が少しづつ変わっていくことも当然あるだろうし
評価の在り方や、
はっきり言えば勝ち負けの判断の基準や仕組みまで
変わっていくこともあると思う。

それは本来、不思議なことでもなんでもなく
まったく日常的に起きるべく起る普通の現象でもあると思う。


、、、そうは言っても、、
オリジナルな成り立ちが重要であることは間違いなく
(、、少なくともその国の人々にとっては、、)
そのオリジナルな部分を守っていく、のであれば
それなりに懸命な努力が必要だろうし、
逆に、その部分をも変えてしまうのであれば
むしろまったく違ったスポーツを
作り広めていくという方法論をとるくらいの覚悟が
必要かもしれない。

どちらにしても懸命な努力は必要になる。





2000.10.3

、、、でなければ一国の歴史や民族の上に成り立っているはずの
オリジナルなスポーツと
そのスポーツを国際的なものにまでしていく時代との
整合性はなかなか取れるものではないと思う。


単純な評価で勝敗が決る、
誰が見ても評価が決る、ようなスポーツというのは
やはりあるのだと思うし
一方で、
高度な判断や評価の基準、
それも、競技そのものと評価との擦り合わせのなかから
競技の在り方といっしょに
評価の基準が定まっていくような競技というものも
存在する。




2000.10.4

柔道や日本古来の武道なんていうのは
そういう「擦り合わせの中から競技の在り方といっしょに
評価や勝敗の基準が定まっていくような競技」の分野に
位置していると思うが、
こういうものは
やはり文化や伝統やその国の持つ価値観や
あるいはその競技と共に育ってきた評価や勝敗の基準そのものが
非常に「高度」でもある。

「勝敗が見えやすいから高度ではない」
「勝敗がわかりにくいから高度」
ということではないが、
やはり評価したり勝負を判断する側も
非常に高度なレベルを要求される競技というものは
あるのだと思う。





2000.10.5

残念ながら今回の柔道の競技に関しては
この評価のレベルが競技そのもののレベルを
評価できるほど高いものではなかったというところに
悲劇がある。

これは前述のように柔道が「国際的な競技」に
育ってきたからこそ起きた悲劇、、、現象だとも言えるのではないか。

競技そのものを「国際的な基準」に変えていくのか、、
、、ある意味ではそれは前述のように
競技そのものの変質を意味する場合もあるが、、、
あるいは世界の中で
競技と評価のレベルをともに高度にしていくような
擦り合わせをしていくべく
イニシアティブを発揮していく努力をするのか、、

とても悩ましいところではある、、
そして、これは、スポーツの話しにかぎらない、。




2000.10.6

「どうあるべきだ」と
言っているだけではなく
むしろ積極的にその部分を解決していくくらいの
姿勢も必要なんだろう。
これはなにもスポーツに限らない。

それにしても
悩ましいということでは
オリンピックで着ていた青い柔道着の色は
なんとかならないものかと個人的には思った。

別に同じ白の柔道着を着ていても
識別し難いとも思えないし
青い柔道着を着ることが
競技そのものの本質を変化させてしまうとは
思わないが、
これが、競技そのものを「国際的な基準」に
変えていく作業であるようにも思えない。



2000.10.7

目くじらをたてるほどの話しではないのかも
しれないが
日本人にとっては国技のような位置にある柔道は
(もちろん国技ではないが)
伝統とか歴史とか日本の文化に非常に
密接に関係している競技だ。
文化や価値観にまで関係していることもある。

青い柔道着を使用することになった時
やはりそれを問題として取上げた状況もあると
何年か前に聞いたことがあるが

こんどのオリンピックでの問題も踏まえて
国際化やあるいは「グローバル化」と
国の文化や伝統や価値観や文化との
擦り合わせは今後、あるいは、、、そろそろ、、
一度振り返って考えてみる必要もあるかもしれない。



2000.10.8

これに近い話しでは
(いや、まったく違う話しなのだが)
相撲の土俵に女の人をあげる、あげない、という
件がある。

この前も問題になった。
たしか女性の大阪府知事が
土俵にあがるとか上がらないとかでもめたと思う。

もう30年も前のウーマンリブのような話しで
思わず笑ってしまう。
どうもこのあたりがいつも混同されていて
なんでこんな話しが出てくるのか理解に苦しむ。

その後、なんかの「審議委員」に選ばれた
女性作家か誰かが
「私は女性が土俵に上がるのは間違いだと思う」と言って
前述の話しに対抗したという話しもあった。



2000.10.9

男女同権の時代だから
土俵に女性をあげないのはけしからん、という言い方が
あるようだが、
これは
男女同権はあくまで社会のなかの制度や権利の話しであって
男女が「同質」になっていったり
「同じもの」になっていくわけではないのだと思う。
(まあ、最近は「同じ」になりつつある人も多い)
まして、男女同権が伝統や文化や価値観まで
変えていくというものでもないだろう。



2000.10.10

いや、長期的にみれば
伝統や文化や価値観が変わっていく可能性はあるのだと思うが、
それは「権利」が変えていくのではなく
社会や環境や歴史などの
そういった、もっと深い部分や基底にあるものとの
長期的な変化との関係が少しづつ擦り合わせし
互いが変化していくなかで変わっていくものではないかと思う。
(権利が深いところにないと言っているわけではない)

土俵に女性をあげるあげないの話しと
男女同権の話しは
同じ土俵にのる話しではないのだと思う。




2000.10.11

権利は勝ち取ったものであって
与えられたものであったり
自然にもたらされたものではない、、という言葉もある。
たしかにそれは社会や環境や歴史の中の変化や変遷から
時代とともに権利を意識し明文化しようと努力してきたなかで
勝ち取ってきたものだと言える。

だが、振りかざすものでもない。
自身を生み出した社会や環境を
自身を傷つけないために変えていくのは
人間にとって権利でもあるはずだが、
しかし、
同じように生み出された他のもの、、
、、伝統や文化や価値観を
すぐさま権利が変えられると考えるのは
たぶん奢りだろう。




2000.10.12

社会や環境や歴史などの「基底」にあるものではなく
「権利」が伝統や文化や価値観を変えていくことができる
と考えるのは最近の「混乱」だが
今そういう混乱はいたるところで見られる。

個人の権利の乱用、などとは言いたくないが、
個人の権利と社会や価値観とがどういう関係なのかが
はっきり言えなくなってしまっている最近の状況、がある。

人を傷つけたり、あるいは最近よくマスコミなどに出てくる
女性が自分自身の尊厳を傷つけていくような行為にたいしても
個人の自由や権利だからといわれて
その問いかけを明確に
解くことができないような最近の状況には
なにか大きな勘違いがあるように思えてならない。





2000.10.13

電車に乗り合わせたお姉さんと、
おばさんとその子供がいて
子供が傍若無人な振る舞いをする。
お姉さんが子供に注意するとそのおばさんは
子供に「お姉さんに怒られるから止めましょうね」と
「注意」する。

そんな話しをよく聞く。
しかしこれは
お姉さんに怒られるから止めるべき、ではなく
また、例えば法律や条例で決っているから
やってはいけない、のでもない。

「公的な場所でみんなに迷惑(どんなことが迷惑なのかは
ここでは考えないが)をかけるから止めるべき」なのであって

こういう話しも最近いたるところでぶつかる。
個人と社会との関係を正しく関連づけてみることが
できない、しない、そんな状況がある。





2000.10.14

女子高生が「援助なんとか」とか自分たちの尊厳を
なくしてしまうような行動なんかにたいして
社会的に問題視された場合、

当然のように
だれにも迷惑をかけていないじゃん。
みつからなければ良いじゃん。
つかまらなければ良いじゃん。
みんなやってるじゃん。
みたいな反論があって

ところがそういう状況にたいし
社会や大人も明確に反論できる状況や頭を持ち合わせていない。




2000.10.15

「法律上ではやってはいけないことになっているから」、という反論では
つかまらなければ良い、みつからなければ良い、
みんなやってるし迷惑をかけているわけじゃない、、、
という「解決方法」に容易になってしまう。

昨日今日の新聞に出てきたような
若いプロスポーツマンが
無免許や駐車違反を隠すために身代わりを立てた、
なんていうのも
それに類する話しだ。

社会と個人の位置決めをするための
座標軸が狂ってきているんじゃないか、そんな気がする。

ここのところちょっと「こむずかしい」話しが続くが、
こういう最近の
社会と個人の座標軸が狂ってきている状況が
なぜこうも簡単に起きてしまうのか、、
この部分をよくよく考える必要があると思う。

で、そこには「ものづくり」も含めた
社会や環境への人の関わりかたの希薄さ、不確かさ、が
関係しているんじゃないかと筆者は思う。



2000.10.16

最近、競争と協創あるいは競争と共生ということがよく言われる。

協創とか共生とか言う言葉は
わりと最近の言葉であるんだけれど

競争ということばはこれはもちろん昔からある。

だから日常のなかで「競争」をそんなに不思議な言葉だとは
思わないし、むしろ普通の現象であると思っている。

「これこれの分野で一番を目指す、、」
なんてことばは
毎日の産業系の新聞で
ベンチャー企業なんかが盛んに言っていて
紙面に踊っている言葉だし
なんだかそんなことばが
かっこ良いように見えてもいる。




2000.10.17

一方で
この前新聞に出て居たらしいが
小学校だか中学校の秋の運動会が
競争することはよろしくないということから
「お楽しみ会」というイベントに変ったのだという。

子供たちを競技などで順位付けすることが
いじめやいじけにつながっていく可能性があって
それは問題だということで
順位付けをする「かけっこ」なんかをなくした
ということらしい。

それを扱う朝の「新聞を題材にしてコメントをする番組」では
「競争することをあえて避ける学校の姿勢にも
問題はありはしないか、、」
「競争もあっていいはずだ、、」
というコメントが多かった。




2000.10.18

たしかに運動会からお楽しみ会に
変化したことの「ことの本質」は
あまり深く考えられたとも思えないし
これはこれでちょっとかんがえないといかんだろうなあ、
と思いつつ

しかし、一方の
テレビの番組の識者のコメントも
「競争することをあえて避ける学校の姿勢にも
問題はありはしないか、、」
「競争もあっていいはずだ、、」
くらいの議論ではあまりに表面的な議論に終わってはしないか。
これはもっと深い部分で考えてみる必要があると思う。





2000.10.19

個々の個性や可能性や多様性を
見つけたり伸ばしたりする仕組みがない状況のなかで
あるいは「評価」の基準がなかったり
少なかったり、一面的だったりするなかで

偏差値やカケッコでその子供や大人の
評価が全人各的なものとして
定められてしまうならば
これは問題ありとしないか。

あるいはそういうものが一番じゃなくても
人や社会のためにこれこれこういうことを目指す、
そのために勉強したり苦労もする、、
、、という姿勢そのものが評価されなければ

よく当然のように言われることが多い
「結果がすべてだ」、というような評価の軸も
あながち否定するわけじゃないが
それだけでは国や社会はなりたたない。




2000.10.20

看護婦さんの献身的な看護や
介護や福祉の仕事や
町のちいさなお店屋さんが
地域に仕事やものやサービスなどを
供給することを通じて
その町や社会にどれだけの貢献がされているのか

看護婦さんや町のちいさなお店屋さんに限らない、
そういう社会と個々の関係というのは多様に多彩にあって
意識するとしないとにかかわらず
なんらかの形で個人や企業や、は社会や地域に
関わって存在し、有用な価値を作りだしているはずだ。




2000.10.21

そういう部分に目が向けられ
キチンと評価されていく仕組みをつくっていかないと、、
評価する仕組みや目をもっていないと、、
いずれこれは困った問題になる。

いや、もうすでにそういう問題は
社会や産業や家庭や様々なところで起きていて
「競争」に勝った企業や個人が
全面的に「勝者」として評価される一方
「競争」、、というよりは
「評価しきれない評価」に破れたり目が向けられない
企業や個人、あるいは競争という評価では計りきれない
仕事やなんらかの関係に携わっている人々を
社会全体が評価しきれない。

そういう部分にはお金や人や支援や、などの
資源が向かいづらい。





2000.10.22

今の学校や会社や社会のなかにそういう評価の仕組みや軸がない、、
、、とするのは簡単だがこれからもずっとそれでは困る。

それは意識的に構築していかなければならない問題だろう。
まあ、もともと国自身が明確な
ビジョンやドメインがない、コンテキストや文脈がない
どこかの国ではあるから、仕組みや軸を作りあげていくのも
少々しんどい話しではあるのだが、、。

ともかくも、、、
それらの問題にたいして
真正面から向き合わず
お楽しみ会にすれば問題解決するという学校も
おかしいのじゃないかと思えるが
競争も重要だ、という話しも
これだけでそうだとするのもおかしい。

問題はもっと深いところにある、と思う。





2000.10.23

「チェンジ」
たぶん今年後半の「隠れ/はやりことば」は
これではないかと思う。

最近の新車のテレビコマーシャルで使われているのだが
いくつかのメーカーで相次いで使われているから
「チェンジ」ということばに遭遇する機会も多い。

たぶんこれからいろんなところでも
使われてくるような気がするのだが

この「チェンジ」ということば
考えてみると
ちょっと昔にさんざん耳にした言葉だ。





2000.10.24

そう、「チェンジ」ということばは
前々回のアメリカの大統領選挙で
当時のクリントン大統領候補が当選した時に
キーワードというかアピールしていた言葉だった。

当時はまだまだアメリカも長期にわたる不況から
脱却できずにいたのだが
そんな時期の大統領選挙に登場した
クリントン氏がアピールした言葉が
「チェンジ」だった。

いまでも当時のアメリカ大統領選挙の報道番組で
クリントン候補が
「チェインジ!」「チェインジ!」
と繰り返していたのを思い出す。
結構「言葉」としては覚えやすく
耳に残りやすい言葉だったと思う。




2000.10.25

まあ、今のアメリカが「チェンジ」に相当することの
結果なのかどうかは
いずれ歴史家が証明することだろうが

少なくとも、
国や企業や社会全体の情報化や
インターネット、コンピューターネットワークの普及
あるいは、
プロパテント政策や環境問題、製造業に対する取り組みや
NPOなどの登場をみれば
アメリカの国家戦略として「チェンジ」というキーワードは
有効に効いたようだし
経済的な成果としても結果は出した、ということだろう。

経済の復興を謳歌する今のアメリカだから
こんどのアメリカ大統領選挙では
「チェンジ」ならぬ、たぶんは「継続」なんだろう。




2000.10.26

一方、翻って
太平洋のこちら側のこの国だ。

、まあ、どういうことか
テレビコマーシャルで「チェンジ」という言葉を
盛んに流してくれているのだから
今後いろんなところで使われだしてもおかしくない。

我々のような下々のものもそれを耳にして
これを機会にアメリカのように「チェンジ」していくことを
切望していくことになるかもしれない。
たぶんこの国の為政者も本気かポーズかは別として
「チェンジ」と言いはじめるのもきっとそう遠くはないだろう。

まあもっともその前に「チェンジ」していく「内容」そのものを
だれかが示さないといかんのだろうが
まだ、そういう風でもないことが寂しい。



2000.10.27

どこかの国の「IT政策」が盛んにとりだたされているが
残念ながら
その前提としてあるはずの
国全体のビジョンや21世紀の姿が
語られているわけでもなく
単なる政策の一部としてあるに過ぎない。

様々な識者も「IT政策」を有効だの無効だのと言っているが
本当に変えていかなくてはならないのはなんなのか、、
そういう議論に乗せていこうとする人は
残念ながらまったくというほどいない。



2000.10.28

車の方の「チェンジ」はたしかにすばらしい。
最近の日本企業の車を開発する能力や
車そのものの魅力は素晴らしいと思う。
、、すべてではないにしろ、、、
少なくとも「チェンジ」をキーワードにしている
今回の車の「フルモデルチェンジ」はすばらしい。

企業のドメインやビジョンがはっきりしていて
社内やお客さんに向って明確になっていて
、、そんな企業の作る「チェンジ」した車は
やはり納得するものや伝わるものをもっている。

でもどこかの国の「チェンジ」はまだ始らないし
やっていることはどうも「マイナーチェンジ」どころか
それ以下の「見た目のチェンジ」どまりだ。
何に向って、何を「チェンジ」していくのか、
そういう道が示されない限りは本当の
「チェンジ」は始まりそうにない。



2000.10.29

政治的な課題をここで書こうとは思わないが、
この二日ばかり騒ぎになっていて
いろいろ考えたことがある。
例の長野県知事の初登庁の時に起きた「事件」のことだ。

ただし、ここではあの一件について
いろいろ議論されているようなその中味についてまで
書くつもりはない。

あの事件とは新県知事が初登庁し
500人あまりの職員を前に訓示をしたのだが
その後の部課長の会議において
県知事の「しなやか」という言葉や特定発言にたいして
クレームがついた。
またその後に県知事の名刺を受け取った職員が
県知事の職名を書いた部分を折るという事件も起きて
全国放送で取上げられた、一連のあの件だ。





2000.10.30

あの県知事初登庁の状況や部局長会議の状況は、当日の夕方から
テレビニュースの全国放送で何度も取上げられたのだが
「名刺の一件」は「言葉」で語られたのみのニュースが多く、
「画像」で名刺を折る状況を流したのは
筆者の知る限りではある民放の夜のニュース番組くらいだった。

民放の夜のニュース番組で「名刺の一件」を偶然見た筆者は
これは大騒ぎになるだろうなあ、、と思っていたのだが
その後のニュース番組では
初登庁の状況や部局長会議の状況が主に流れ
「名刺の一件」の簡単な説明やコメントは
「言葉」でレポートされているだけで
少々拍子抜けするほどだった。
翌日の朝の、新聞を題材にするコメント番組でも
やはりちょっとしたコメントで終わっていた。





2000.10.31

なかには「名刺の一件」や部課長会議でのやり取りにたいして
「信州人らしい状況」だとか
「新知事は名刺では味噌をつけた」というくらいの
コメントで終わる新聞関連の識者もいて
「大騒ぎになるほどの話し」だと思った筆者のほうが
むしろ過剰反応だったのか、、と思ったりしたのだが、、

しかし、、、やはり、次の日は長野県や日本中から
県庁に「名刺の一件」や部局長会議でのやり取りにたいして
「単なる新知事いじめじゃないか」といったクレームの電話が
なりっぱなしだった、という話しが
新聞などのニュースで取上げられて
それが大騒ぎになった、というのは
新聞やテレビのニュースの通りだ。
特に「名刺の一件」に関しては相当のクレームが
県庁に届いたという件はこの間のあの状況である。


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