今日のコラム・バックナンバー(2000年 9 月分)


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掲載は日付順になっています。


2000.9.1

どこかの国では
ITレベルを国家的に引き上げていくことで
国全体の国力や産業競争力に結び付けていくぞ、、、
というような話しが
特に行政サイドから提案されてきていて
まあ、それもあながち
無駄なことでもないだろうと思ってもいるんだけれど

それにしても「国の方向」や「国のビジョン」が
その前に必要なんだろうになあ、、という気持ちはある。

それなしに「IT」だの「超高速情報網」だのと言ったところで
なんとなく危なっかしい話しではある。

アメリカをヨシとするわけではないが
情報スーパーハイウェイ構想だって
アメリカの21世紀構想のなかの一つであったことを考えるのなら
日本も日本の21世紀構想のなかに位置づけられるべきものだろうとは思う。






2000.9.2

まあ、国民全体がすべて同じ方向に向かうシナリオも
危なっかしい話しでもあるのだが
そうではなく、少なくともこれからどんな道があるのか
懸命に議論する状況は必要なのだろうと思う。

マスコミのほうはここにきてようやく、というか
単なる「IT」についてのあの騒ぎから
抜け出して、次の段階に向ってきているような気もする。

当然ながら
「インターネットや情報技術はすごいすごい」、という段階から
インターネットや情報技術を使って
我々を取り巻く社会や産業やが
どう変わっていくのか、
どう利用していくのか、
問題点は何なのか、、
、を深く考え抜いていくことが必要なのだろうと思うのだが
ようやくそういう話しも聞こえてきたような気もして
まあ、これはとても大事なことだろうと思う。




2000.9.3

国のほうも「いけいけどんどん」状態でもあるのだが

一方で民間の識者と一緒に探っていこうとする動きも
あるようだから
これは歓迎すべきことだろう。

ただ、これも願わくば
情報技術と社会や産業や家庭や個人との
様々な関係のなかで
それぞれに
どう変わっていくのか、
どう利用していくのか、
問題点は何なのか、、を、
冷静に予測できる、多面的な見かたができる
人々で構成されていることが重要だろう。





2000.9.4

ところで
情報技術だのインターネットだのと
かまびすしくいわれているんだけれど
本当のところ
一体何が重要なポイントなのか、
いまいちはっきりしてこない。

たしかに情報技術の変化によって
社会や産業や家庭のなかに
なんらかのおおきな可能性が生まれていることは確かなんだろう。

つながることによって
便利になるとか、できることが増えていくとか
場所と時間を超えることができるとか、

、、たしかにそうなんだけれど、
それをいくらならべていても
いずれやってくるだろう
社会全体の変化を透視することはできそうにない。





2000.9.5

逆に言えば
一人一人の人間にとって
そういう事の向こうに
何が起きようとしているのかがいまいちはっきりしない。

そのあたりの「シュミレーション」や「予測」が
必要なのだろうと思う。

考えてみれば
情報技術もインターネットも最近の技術であって
これらが革命的な出来事とされているんだけれども
本当にそれが革命的な出来事だったのかどうか。

そうやって考えると
この騒ぎの出発点はそもそも何だったのか、、、

結論的に言うのなら
「デジタル」にほかならないのだろうと思う。
あるいは「ビット」、といってもいいかもしれない。



2000.9.6

「ビット」、、、
そう言えば、最近ではソニーの出井さんが言っていたし
その前にはたしか、かのネグロポンテ氏が言っていたと思ったが
「アトムからビットへ」の時代になったということなんだろうと思う。

あるいはトランジスターから始った半導体技術そのもの、
といってもいいかもしれない。


たしかにトランジスタがこれまでの
半導体産業の出発点になっていくとは
だれも想像もしていなかっただろうし
その上で行われる強烈なデジタルワールドの発展も
想像もつかなかっただろう。

最初にトランジスタが発明され
それが半導体の集積回路になり
とりあえずは「計算機」や「電卓」になっていった。
しかしだれもこの時には
今の情報化社会やインターネットの発達を
予想しなかった。




2000.9.7

だが、よくよく考えてみれば、すでにこの時に
今の時代を迎えることは予想できたのだろうと思う。

情報をデジタル化したりビットとして扱うことと
集積回路がどんどん高密度なものになっていくことが
それぞれお互いを刺激し並行しながら起きていけば
これはどんなことになっていくのか、、、。

つまりは「簡単な計算」から「高度な計算」ができるように
なってきたということだ。
「高度な計算」とは「判断」とか「処理能力」にほかならない。

アナログ機器からデジタル機器への変化と発達は
結局、高度な「判断」とか「処理能力」を集積回路に入れてしまう。
はじめは計算機から始まり
いずれ単なる計算にとどまらず
すべてのものを「計算」し
機能からソフトへ、ノウハウへ、コンテンツへ

そして「ビット」になった情報は簡単にネットワークへ、、。
いま起きようとしていることはそういうことだと思う。




2000.9.8

アナログからデジタルへ、
そしてそれを強烈な勢いで加速していく
半導体やデジタル機器の発達、、
デジタル情報の世界的なやり取りを可能にする
電子ネットワークの発達、、、

ここでは「計算」はおろか、
「コンテンツ」や
最終的には社会や人々のもつ「文脈」までも
世界の上に「一元的」に、そして「双方向」に流れるようになる。


そしてデジタルという「一元的」な情報は
様々な情報と情報の束ねかたと結びつきを
可能にするということでもある。



2000.9.9

「デジタル化された情報」が
人や組織に帰属する限界から放たれ、
新たな束ねかたの可能性と結びつく先の可能性を生み出している、、

しかし、これですべて説明できてしまうと思ったら
ことはそう簡単なものではない。

現実の社会や産業は
地面の上で動いていたり
人と人のつながりのなかで動いたり生まれたりもしている
現実がある。

いまの社会や産業の様々に言われる混沌とした状況を
情報社会化との関連から簡単に説明しようとしても
そうは簡単ではないことは
そういう極めて複雑な状況があるところから来ていると思う。

つまりデジタル化が推し進める可能性と
現実とのせめぎあい、そのものが今の混乱を生んでいると思える。





2000.9.10

しかし、残念ながら
デジタル化が可能にする将来のランドスケープが
一面的に、盛んに、議論されたり
取上げられるわりには
現状の社会や産業の「到達点」をふりかえる作業が
まだまだ行われていないように思える。

特に「「日本」の産業や社会の到達点」
日本の産業や社会はどうだったのか、
何が問題で何が優れているのか、
今後は何を伸ばし、何を残し、何を変えるべきなのか、、、
、、をふりかえる作業は
今後絶対に必要なものだろうと思う。
これなしに、情報技術の可能性ばかりを議論していても
本当の日本の可能性や方向性や注意すべき問題点は
見えてはこない。



2000.9.11

それでも最近は様々な分野で、
少しづつではあるけれど
情報技術革命、、という可能性を
一方の視点に置きながら
いままでの日本の到達点を振り返ろうとする
地道な動きも、生まれてきているようにも思う。

ややもすると
情報技術革命そのものの否定や、過少評価に
繋がる可能性もあるし

下手をすると
到達点をふりかえる作業そのものさえ
到達点の「全面否定」になってしまう事も
ありえるけれど

そういうことにならないようにするにも
しっかりとした価値観と視点を持つことが重要なのだろう。
、、ということになるとやっぱり「日本のビジョン」を
持つことがいま、一番重要なのじゃないか、



2000.9.12

ところで

先週の日経新聞におもしろい話しが書かれていた。

インターネット上で最近注目を浴びている
「ネットオークション」では
いままで経済学の先生に言わせれば
「一物一価」
つまりネット上で流通するものは
一つの価格に収斂していくといわれていたのだけれど、
最近は一つの商品であっても
様々な価格が付く、ということが起きているんだという。
つまり「一物多価」

「わざわざ遠出して探し回る時間と手間が省けるから、
店で買うより二千円高くてもネット経由で買った」という
人々が増えてきているというわけだ。




2000.9.13

ネットがない時代なら
「探す手間をかけて五千円で買う」か
「手間を惜しんで買わない」か
、、しか選択肢がなかったのが
「手間を惜しんで七千円で買う」
という選択肢がでてきた、というのだ。

実際は「手間を惜しんで買わない」というのは
「手間をかける時間がないので買えない」
という言い方もあるんだろうが、
まあ、たしかに
いろんな選択肢が出てきたという言い方は正しいと思える。
ただ、これもネットが登場したからというよりは
いままでにもこういうサービスはいくつもあって
様々な「情報化」や例えば小口輸送の発達によって
こういう選択肢が
「いくつものなかから選べるようになってきた」のが現代だ。

それに伴って「価格の選択肢」も
様々に選べるようにもなったということなんだろう。



2000.9.14

だから「オークション」や「ネットワーク」は
一つの価格に収斂させてしまうという考え方は
たしかに的を得ていないかもしれない。

ただし、
実際には「一つの価格」、、それも
最低に近い価格に収斂していく「もの」も
一方にある。

どこで買っても、手にいれても
同じものであったり
差異が見られないもので
それを競争で売ることを目指せば
どうしても最後は「価格の差異」になる。

逆に、売り手がなんらかの形で「強ければ」
オークションのように価格は上がっていく、、、



2000.9.15

やはり需要と供給から生まれる価格の変動の仕組みは
あると思うし
一方に売り手がたくさんいれば価格は下がっていくのは
避けられない。

じゃあ、一方で「価格の選択肢」が増えてきたということは
どういうことなんだろう。

ここには非常に重要なことが含まれていると思う。

「同じものである」のにもかかわらず
いろんな価格で取引きされている、、、。

、、本当にそうか、、

「一物多価」といわれている状況が生まれているというが
本当にそうか、、

問題は「一物」という言葉にある。



2000.9.16

「もの」は現代のような「大量生産の時代」にあっては
「同じもの」がたくさん存在している、と誰もが思う。
「一物」という言い方はたしかにその通りだとみんな思っている。

しかし、実際はそうではない。

「一物」と思っているが
「同じ形をした設計上では同じもの」であって
実際は世の中に「同じもの」というのは存在しない。

ある一つの「もの」からすれば
もう一つの同じようなものは「自分のコピー」であって
自分と同じものではない。




2000.9.17

一見、ことば遊びのようだがこれは重要なことだと思う。

設計から色から材質から機能から価格まで全部一緒だったら
「同じもの」じゃないか、というかもしれないが、
ところが「同じもの」というのはそれ自身の一つしかありえない。


北海道の家庭にあるテレビと沖縄の家庭にあるテレビは
まったく同じメーカーの同じ製品だとしても
同じものでない。

「写る番組が異なるから」、、
あるいはそうと言ってもいいかもしれない。

「沖縄に住んでいる人にとっては
沖縄のお店にあるテレビと
北海道のお店にあるテレビでは価値は異なる。」
こういう言い方でも良いかもしれない。




2000.9.18

メーカーの倉庫に積まれた同じ製品名のテレビも
たしかに使い方や形は「同じようなもの」であるかもしれないが
これがどこにあるか誰が使うかによっては
まったく異なるものであることになる。

九州に在庫のあったテレビが誰かに買われてしまえば
北海道にテレビが在庫としていくらあっても
九州にはすでに買えるテレビはないのだ。

じゃ、高くなってもいいから北海道から取り寄せてもらえばいい。
、、そういうことだ。

「同じようなもの」ではあっても
「同じもの」は二つと存在しない。

そこには程度の差こそあれ必ず「違い」がある。




2000.9.19

「量産品」はまったく同じもの、
と思っているようなものでさえ
同じ物理的な環境に二つと存在しない以上
(それが隣合わせで陳列されていたとしても)
「同じようなもの」ではあっても
「同じもの」ではない。

つまり「新品」「量産品」であっても「どこかが異なっている」はずだ。

まして「新品」「量産品」ではない場合は
この「違い」はもっと大きくなる。
「中古品」でも「どこにあるか」でも「誰が使ったか」でも
大きく異なってくる。

当然、価格も異なってくる。




2000.9.20

たしかに需要と供給の関係で価格が左右されるという基本はある。

一つしかないものでも誰も必要としなければ
価格は上がっていくわけではない。
「同じようなもの」がたくさんあっても
必要とする人がたくさんいれば価格はきっと上昇する。

たぶん
一番価格が上がるのは
一つしかなくてみんなが欲しいというもので、
一番価格が下がるのは
同じようなものが一杯あってみんなが欲しがらないものだろう。
最近の「家電製品」や「普通のパソコン」なんかは
「一杯あってみんなが欲しがらない」定型的な製品だろう。


ただ、よく見れば「同じもの」は一つしかないはずで
あるのは「同じようなもの」なはずだ。
そこには必ず大なり小なりの「差異」がある。

あるいは「差異」は意図的に作ることもできる。





2000.9.21

重要なのはその差異をどうやって作るか、、だろう。

保管して、置いてある、場所が異なる、とか
いうのは最も基本的な差異だ。
それだけで「差異」は作ることができる。

さっきの新聞の例で言えば
地元の店にいくか
わざわざ遠くの店までいくか
探して遠くで安く買うか
探さないで近間で高くても買うか

こういうのは最も基本的な「差異」の作り方だ。

で、そうやって考えてみれば
量産品といわれる「同じようなもの」でさえ
いろんな「差異」を持たせることはアイディア次第で
どうとでもなるということになる。

同じだと自分で思いこんでいるだけで
人からみたら違う価値がそこにはある場合がある。





2000.9.22

本のようなものであっても
遠くにあれば立ち読みして買うわけにはいかない
地元の本屋で立ち読みをしてもらって
気にいって買ってもらう、、なんて
「いままで通りのやり方」は
これからむしろ重要なやり方になると思えるが
これは、「同じようなもの」である本でさえ
ある場所によっては「同じではない」、ということになる。

隣町の本屋の本と
自分の町の本屋の「同じ本」は
同じような本ではあっても
同じではないのである。




2000.9.23

製造業で、ものをつくっている場合であれば
なおさら、こういうことは言えると思う。

技術の違いや知識の違い、などというのは
違っていて当たり前だし
その技術を持った企業や個人が
どこにいるのかでも大きく差異が出てくる。

「図面を見て要求された交差や
  指示で作るから同じものしかできない、、」
という考え方があるかもしれない。

たしかに量産や規格品の場合は
「同じもの」ではなく
一定の「同じようなもの」でいいわけだから
(そのための「交差」、という考えかただから」
そういうものは、差異が薄くなれば
価格が調整される、、、ということになる。




2000.9.24

でも、それでもなお、
「ほかと違うことを持ち、アピールできる」ことは
これから最重要なことなのだろうと思う。

「お客さん」の前に同じものをならべて、
「これとこれは同じものではない、、
  同じようなものなのだ」
などと哲学的な話しをするよりは

遥かに簡単に?自分と人の違いを表現できる
「製造業」「ものづくり」は
自分と人の違いを徹底的に考え、作り出し
表現しようとする限りにおいては
インターネットに関係なく
自分の価値を高めてくれるだろうし
やらない限りは低めていってしまう。

そういう意味では
インターネットはその変化と結果を出すスピードを
加速していくに過ぎない。





2000.9.25

当然ながら人や社会が必要としない技術やものは
そのまえに、(いや、その後か?)
需要と供給の仕組みのなかから、
、あるいはネットワークの中から
放りだされてしまうことになる。


結局、人々の生活の在り方と
人々が考える価値のありかたや作られかたと
その結びつきの在り方が
これほどまでに多様になろうとしているのが現在でも
あるんだろう。
いまある様々な混乱はそんな状況をしめしているんだとも思える。

いずれにしてもいままでのような単純な判断で物事を
見るような状況ではなくなってきたことは確かなようだ。

軸足をどこに持つのか、それが問われるのは間違いない。





2000.9.26

オリンピックもいよいよ後半に入って
そろそろメダルの総数の行方をめぐって
テレビやマスコミも数当てゲームをはじめているようだ。

スポーツは好きでも
あまり最近の商業主義にかたまったような
オリンピックは興味のほか、ではあったんだけれど
やはり日本人が頑張っている話しを聞けば
思わずテレビのスイッチを入れてしまう。

特に新聞なんかではなんども話しに出ているが
マラソンの高橋選手の奮闘はとても感動的だった。
あの笑顔はすばらしいと本当に思った。

高橋選手のことを小出監督が例えてこういったという。
asahi.comのインターネット新聞のオリンピック特集のなかに
載っていた記事だ。

「生活のために走る有森裕子。
人に負けたくないから走った鈴木博美。
でも好きだから走るのが高橋」と小出コーチ。 

好きなことを懸命にやって生まれた笑顔なんだろう。
とても晴れやかだった。

もしかしてものづくりの世界でも、同じこと言えるかな、



2000.9.27

それにしても
オリンピックの種目が毎回増えていくことは
いろいろ考えさせられる。

別に反対するわけでもないのだが、
それぞれの国の「国技」のような競技を
それこそ端からオリンピック種目に取上げていくような
状況にもみて取れる。

その国からしてみれば
「国技」のような競技がオリンピックの種目になることで
一躍世界的な評価を与えられるのだから
うれしいことではあるのだが、

なったらなったで、
純粋にその国の文化に裏打ちされた競技から
まったく別の競技になっていく、といえば良いか、、、
そんなダブルスタンダードな状況も生まれてきていて

こんどの柔道のミスジャッジのような問題も
生まれてきてしまうんじゃないかと思った。




2000.9.28

正直な感想を言えば
このオリンピックをめぐって
様々に報道されたことを反復してみて

少なくとも特に特定の国の国技のような競技が
オリンピック競技になった場合

、、それが商業主義だとか
スポーツの変質だとか、
そんなことはわからないにしろ、、

競技の質や成り立ちが変わってしまうことが
ありうるのだと思った。

どんな国の国技や特定の競技にしろ
やはりそこにはその国の歴史や文化や考え方が
色濃く、反映している。

そこに「グローバル」な評価の仕組みを
持ち込んだ場合、それはまったく別の競技となってしまう。




2000.9.29

単に柔道着の色や競技の時間や、ジャッジのポイント、、
だけでない、
もっと色濃くある、その国の文化、みたいなものまで
評価を、基準を、単一のものとしようとすることで
その競技はそれまでその国の
歴史や人々の間で
育てられ、作られた「競技」とは、
ある意味ではまったく別のものになっていってしまう、、、
そんなことが
言えるのではないかと思えた。


ただし、「変えるべきではない」、
と言っているのではない。



2000.9.30

例えば信仰であるとか教義であるとか
人間関係であるとか
伝統の上に作られたとはいえ
日々の生活や社会と
強いつながりのなかで
日々変わっていくものとか
そういう静的なものではなく動的に
現在進行形で変わっていくものはある。

社会や、人と人のつながりや、あるいは
産業のなかに生まれてきたような
様々な人間の関係は日々刻々と変わっていく。



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