信州大好き さとうふみこのこの人訪問

月刊 長野県レビュー 8  p22

阪神大震災後、神戸で展覧会を開催したところ、こういう時こそ、きれいな物を着なくちゃと、思いの外よく売れたときは、とても嬉しくかえって勇気づけられました。

梅雨明けの日差しがまぶしく北アルプスを照らしている。池田町から眺めるアルプスの嶺々は、ことのほか美しい。

松本から長野へ向かう国道19号線をしばらく走ると明科だ。明科の駅を手前に左へ曲がれば池田町へ入るのだが、曲がらず直進する。明科の駅の近くで、万代久子さんの作品展が開催されているのだ。

小さなお店だが、選りすぐられた作家たちの陶器が並ぶ。その一角に万代さんの作品がさりげなく置かれている。マフラーを手にとって見ていると、ある女性が入ってきた。「万代さんの作品は、すばらしいわね。また来たわ」「作品を見ていると、なぜかしら涙が出たわ。何としても一生懸命やってるものね」

店主らしい婦人とお客さんの会話だ。あらためて作品を見ると、なるほどていねいに織られ、絵柄もあかぬけている。テーブルセンター、額絵など絵画的な作品が多い。

そんな素敵な作品を作り続ける万代さんにあいたくて明科のギャラリーから池田町へ向かった。

池田町のハーブセンターを過ぎて池田工業高校から右に曲がると、万代さんのお宅があった。ご主人の服部守正さんの家具工房と並んでの自宅兼アトリエ。やはりそこからも、アルプスが展望できる。

「この家に引っ越してきて6年になります。その前は梓川村に11年、松本に3年いたんですよ」

眺めもそこに住んでいる人たちも一級だという万代さん。

小さい頃から画家になりたく、上京したのは高校卒業後。

「親には迷惑をかけてはならないと、アルバイトをしながら絵画教室に通いました。三多摩の方の魚市場に行ったのですが、大変だったけれども楽しいでしたね。今思えば・・・」

夫の守正さんとは東京で出会った。魚市場で働いたあと、午后は黙々と絵を描き続けていたのだが、ひょんなことから文化人の集まりに出かけた。そこに守正さんがいたのだった。「そこは、野心を持っている人が多かったですね。ナマイキな人もいっぱいいましたよ。そういう人が出世するのかなあって、見ていました。」

ところが、守正さんはチャランポランをやっていましたと笑う万代さん。やがて結婚、神戸へ。守正さんは港の荷役として働いた。

「夫にすれば、きつい労働だったと思いますね。まじめに働き、やがてはもの書きになりたい夢を持っていました」

ある日のこと、夫婦で大阪の高島屋へ『全国伝統家具店』を見に行く機会があった。北海道家具や九州の家具など各地の名品が並んでいた。「中でも松本民芸家具が素晴らしく、夫はそこへ弟子入りしたいと言いだしたんです」

確かに荷役の仕事は、いつまでもできるものではなかった。守正さんは「松本の池田三四郎さんのところへ弟子入りしよう」と決心。二人で松本を訪れ、池田さんに出会った。「なかなか許可が出ないところだったのですが、夫婦で松本に来たのだったらすぐにやめないだろうと言ってくださって、夫は松本民芸家具を教えてもらえるようになりました」

一方、万代さんは織物をやりたかった。だが、すでに子供が二人、子連れではなかなかやらせてくれるところがなかった。

「念ずれば、通じるってほんとうですね。夫は民芸家具に勤め、自分は普通の主婦をやっていたのですが、とても不思議な出会いから、話は展開していったのです」と、目を輝かせる。

松本から実家の明石市へ帰る途中の電車の中で子供に絵本を読み聞かせているときだった。隣の席の婦人が話しかけてきた。とても品のいい方だった。絵本の中の話からはじまり、生活近辺のことなど話しているうちに織物をやりたいことを話した。すると、その婦人は、

「真剣に考えているのだったら、親戚を紹介しましょう」と言ってくれたのだった。そこは会津屋という織物屋さんで、早速万代さんは訪ねて仕事をさせてもらうことになった。

最初は見よう見まね。仕事の終わったあと、残り糸やくず糸でテーブルセンターなど、いろんな織り方で作ることを覚えた。

「この時間が、とてもよい勉強になったんですよ。平織で柄を入れたり自分自身の創作にもつながりましたね」

会津屋さんを紹介してくれた婦人は、名古屋のある大学の教授夫人で二十年近くたった今も交流が続いているという。

やがて織元を離れ、独立することになった。3年間で織りだけではなく草木染めも勉強。オリジナルのものを作りたいと思うようになった。独立したといっても、すぐ仕事があるわけではなかった。来る日も来る日も染めと織りに明け暮れた。

「特に草木染は、決まった色が出ないんです。予想外の色ばかり。それだけに面白いと言えば面白いのですが」

 そして夫も池田三四郎さんのところから独立するという。住居も松本から梓川村へ移し、二人で創作活動をすることになった。

夫も独立したからといって仕事がすぐくるわけではなかった。まず、夫の仕事が順調でなければと、パンフレットを作り、名古屋や大阪の建築会社をまわった。

「そのパンフレットがある建築家の目にとまって、長崎や京都のホテルやお店に採用されることになって、主人はもちろん私も嬉しかったですよ。ご縁て、ほんとに有り難いもの」

徐々にではあるが、夫の名も知られるところとなった。万代さんも夫を助けながら、そして子供を育てながら自分の仕事をすすめていった。着尺や帯などの注文も来るようになり、生活も安定するところとなった。

だが、信州での生活に少し耐えられなくなっていた。どこか信州の人の考え方、生き方についていけない思いが強くなっていた。

「たとえば、昨日言っていたことと今日言うことが違っていたり。そんなことがしょっちゅうあるとどうしていいかわからなくて・・・・」

そんな思いがしているところへ、穂高町の版画亭の渡辺さんが「池田町にいい所があるよ」と紹介してくれたのが、今、住んでいる所。

「眺めも、近くに住んでいる人たちもみんな素晴らしくて、神戸に移住しようと思ったけれどもしなくてよかったと、しみじみ思っています」

考えてみれば、信州だからではなく個人個人の問題であったかもしれない。

友人が、夫と二人で個展をやってみてはどうかという話を持ってきてくれたときは驚いた。

「家具と織物でしょ。どうかなと思ったのだけど、やってみると好評で、夫にも私にも仕事が来るようになりました」

信州に来て20年余、確かにつらいこともあった。だが今ではすっかり夫婦で信州人になりきっている。子供二人も自活をはじめている。

これからは、お金に執着しないで好きな仕事だけ、納得のいく仕事だけができれば最高に幸せと笑う万代さん。

「着物や帯などの作品は高価なものですが、自分の生活は質素です。ですから高価なものだけが作品とは思いませんし、多くの人に親しんでもらえる小品も作って行きたいです」

アルプスにかかる夕日が、今迄になく輝いてみえた。

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