…2016年4月、木曽路は第2期日本遺産の認定を受けました。
その特徴を顕著に示すとして注目された「地域のストーリー」は、戦国時代の終わりから。

 江戸幕府の町づくりが進められるに従って建材として使用する木材が必要になり、木曽の森林でも大規模な伐採が行われました。やがて森林資源の枯渇は深刻化し、木曽を所管していた尾張藩では、後世に「木一本、首一つ」とまで恐れられた厳しい森林保護政策を徹底し、森林の保護を開始。
 この制度は森林資源で暮らしを立てていた木曽の領民には大変な経済統制となりました。
 そこで木曽の風土に根差した地場産業が推奨され、木曽馬の飼育や工芸品の普及、宿場町の整備を経て、現在の木曽路の文化が形づくられていきます。

このページでは、上松町に残る日本遺産認定の「木曽の文化」をご紹介していきます。


(1)王滝森林鉄道

 江戸時代から保護されてきた木曽の森林は、明治を迎える頃には再び豊かな環境を取り戻し、木材産業も盛んになっていきました。伐採から運材までの一連の工法は、「木曽式伐木運材法」として確立され、全国に伝播してゆくほどでした。

 しかし文明開化を迎えた明治時代には、水力発電所が建設され、それまで河川の流れを利用してきた運材法が使えなくなってしまいました。その運材手段において、河川に代わり主役となったのが、森林鉄道です。

 木曽地域も、全国有数の森林鉄道の活躍の舞台となり、最盛期の軌道延長距離は東京と新大阪を結べるほどまで延伸しました。木曽森林鉄道の活躍と成長は、そのまま木曽地域の近代化を象徴する姿だったのです。

 大正時代から本格的な活躍を見せた木曽森林鉄道は、第2次世界大戦を経て、内燃機関の機関車に移行。蒸気機関車は役割を終え、後日、そのうちの1台が赤沢自然休養林の森林鉄道記念館に永久保存されることとなりました。

 やがて内燃機関は鉄道からトラックへ。軌道を必要としないトラックは縦横無尽に山林を走り、全国の森林鉄道は徐々に廃線となっていきます。
 そして昭和50年5月、全国最後の森林鉄道が、王滝村〜上松町を結ぶ王滝線で運行されました。運材手段として、また地域住民の交通の足として親しまれた木曽森林鉄道は、この路線を最後に姿を消しました。
 現在、赤沢自然休養林で運行されている森林鉄道は、昭和50年代に施設の保存を目的に復元された軌道です。



 …林業と深くかかわってきた木曽の文化は、森林鉄道の活躍で一気に近代化を果たしました。上松町は木材の集積地として盛況期を過ごし、木曽の林業史に時代を刻んだのです。


(2)寝覚の床

 木曽川は木曽谷の中央を太平洋に向かって流れ、伊勢湾に至ります。山間の厳しい地形を下りますが、その川沿いは昔から人々の生活の場所でした。

 上松町内でも、木曽川沿いの土地で磨製石斧や縄文土器が発掘されることがあり、かつて人々が木曽川の流れとともに暮らしたことが偲ばれます。

 そして、その木曽川沿いでも一番の奇勝と言われたのが「寝覚の床」。花崗岩の岩盤を、木曽川の激流が永年にわたって削ってゆき、現在のような姿になったといわれています。
 特に花崗岩独特の「方丈摂理(規則的に、縦横に割れる性質です)」による切り立った岩の壁は、地質学的な代表例です。白い岩盤に巨岩の迫力が加わり、多くの人々を魅了してきました。

 そんな寝覚の床には、中山道時代も多くの旅人が訪れていました。街道筋の立場宿から臨川寺に向かう参道を下り、境内から眺める木曽川の渓谷には、時には虹がかかることもあります。
 参道の入口には蕎麦屋が並び、食べると長生きできるとして、「寿命そば」と呼ばれる名物となりました。
 そして、木曽川を下ってゆく木材の筏。

 木曽川は、伊勢湾まで木材を運んだ、林業に欠かせない流通経路だったのです。

 木曽節に歌われる「中乗りさん」は、この運材の筏に乗っていた人のことではないか、という説もあります。

 木曽川の下流域から文明開化の波が訪れ、水力発電所が建設されると、運材筏の姿は見られなくなりました。木曽川の水が水路を経由して下流域を潤し、発電所に引き込むための隧道が完成した後は、水量や水位も江戸時代ほどではなくなっています。


…寝覚の床の「寿命そば」は、現在も老舗の越前屋で食べることができます。江戸時代〜明治にかけて人々が歩いた旧中山道には、立場宿の名残や、昔の洪水で流れ着いたと伝えられる桂の巨木があり、散策に憩いを添えてくれます。

 また寝覚の里に伝わる大宮神社の例祭は、7月中旬。地元の氏子たちが奮闘する歌舞伎の上演や獅子狂言、神楽のお練りが楽しめます。


(3)木曽の桟

 「かけはしや 命をからむ 蔦かづら」
 松尾芭蕉が中山道を旅して詠んだ情景は、かつて中山道の旅人を悩ませた、それはそれは危険な桟道だった時代です。

 中山道3大難所の一つに数えられた「木曽の桟」は、およそ90間(160m以上)にわたる岸壁に設えた桟道でした。材質は木材。木材ですから、もちろん燃えます。旅人の松明が落ちて火災となり、落命するものもあったといわれます。

 またこの地は、昔から落石が相次ぐ地形でした。運悪く落石に巻き込まれれば、これまた命はありません。この区間を通過する時には、尋常ならない緊張感が伴ったことでしょう。

 落石の危険性は現代まで続く悩みで、ついに国道19号線は旧中山道から木曽川対岸のバイパス化に成功。国道19号線は21世紀にして、ようやく落石の難所から移動することができました。

 翻って、かつての危険な桟道が丈夫な石垣に整備されたのは、1600年代の半ば。大雨が降ると足止めが続く東海道のバイパス、という役割も担い、中山道の大改修が行われました。尾張藩は桟の構造を石垣とし、頑強で火事にも強い街道が出来上がりました。
 この整備により、木曽の桟は安心して通過できる場所になったのです。松尾芭蕉が当地を旅したのは、その後のことでした。

 多くの旅人がこの地を通り、江戸と京都を行き交いました。江戸時代末期には、公家から将軍家に嫁いだ皇女和宮が、江戸幕府終焉の頃には、浪士組(後の新選組)が中山道を通過していきました。

 明治時代に入ると、石垣の隙間も木道から石積みで埋められました。江戸時代の工事の間に、やや雑な(失礼)明治時代の工事の跡を見ることができます。

 昭和の高度成長期に入ると、国道19号線も車両が通行する舗装路として整備が始まります。当然、徒歩で行き交った道では幅が足りず、また急峻な岩山は削れないため、道路は木曽川の方へ張り出す形に。ほとんどの区間でコンクリートが使用され、中山道の石垣の名残が消えてしまう中、一部の石垣がそのまま保存されることになりました。

 かくして旧中山道の跡は、国道19号線の路面の下に。
 幸いにして風雨の影響からは保存されましたが、誰も中山道があったという痕跡に気付かないまま、国道を通過する日々が長く続くこととなりました。地元の住民でさえ、近くに建設された赤い橋を「木曽の桟」だと思っていることがあります。

 そして年号は平成へ。相変わらず険しい地形は落石の危険性をはらんでおり、またもや大きな岩が国道へ。早朝だったため怪我人はありませんでしたが、ついに木曽の桟一帯を、国道のルートから外すプランが動き始めます。約15年を経て、国道は落石の恐れのないトンネルへとバイパス化され、旧中山道は往時を偲ばせる静けさを取り戻しました。


 …江戸時代の文化を運んだ中山道のうち、非常に危険な地形を克服していった人々の、知恵と努力の記録が「木曽の桟」の歴史です。
 現在、この地は新緑や紅葉が美しく、木曽川沿いには桟温泉旅館が佇む、静かな風景が楽しめます。


(4)赤沢自然休養林

 良質な針葉樹をはじめとする森林資源の枯渇と、そこから始まる厳しい森林保護、そして木曽地域に普及していった地場産業。木曽路のストーリーの原点が、木曽ひのきの天然林です。

 かつては「皆伐(かいばつ)」とまで言われるほど刈り尽くされた木曽ひのきは、江戸時代の人々の忍耐の上に芽吹き、奇跡的な歴史を経て保護されてきました。
 現代の我々は、この美しい森林から、稀有な森林資源と新鮮な水や空気、さらに健康に結びつく恩恵を受け取ることができます。

 1600年代に入り、戦国時代から天下泰平の時代に移行すると、城下町や城はどんどん大きくなり、木曽の森林は建築材として伐採されていきます。
 ところが、際限なく木々を奪われた地形が増え続け、簡単には回復しない森林資源の大切さを痛感することとなりました。

 木曽地域は山村代官の管轄でしたが、尾張藩は山林の管理を幕府直轄で行うこととしました。その保護制度は1665年、留山・巣山制度から始まります。
 保護制度は入山の禁止から、さらに禁伐制度へ移行。ヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ、コウヤマキの5種類は、後世に「木曽五木」に数えられます。これら伐採を禁じられた木々は停止木(ちょうじぼく)と呼ばれ、伐採したことを咎められると極刑に処せられるという、前例のない厳しさで護られることになったのです。

 これらの記録は文献に残され、木曽の森林の始まりを示します。厳しい保護制度は80年間ほど続き、この間に実生で成長した木々が、天然林を形成。江戸時代末期には、伊勢神宮の御用材も木曽の森に求められるようになりました。

 やがて時代は江戸から明治へ。木曽の森林は帝室林野局の管理となり、当時の皇室の財産に。そして伊勢神宮の御用材を産出する神宮備林に指定されました。もちろん、まだ伐採が許される場所ではありません。
 そして第2次世界大戦が終わり、管理が国へ移行され、国有林となりました。最初の保護政策から実に300年が経過し、それは見事な木曽ひのき天然林が育っていたのです。

 戦後の高度成長期に入ると、再び復興のために森林が伐られていきます。木曽地域も縦横無尽に森林鉄道が敷設され、多くの木々が伐採されていきました。林野の保安林や保護制度によって、この伐採時期からも護られたのが、現在の赤沢自然休養林の姿です。


 …尾張藩の厳しい森林保護政策は、自由な林業を奪われた木曽の住民に地場産業の普及を促しました。現在、それらの地場産品は工芸品として伝承されています。
 江戸時代の人々は、遠い将来の美しい天然林を見通していたのでしょうか。その見識と努力、忍耐には畏敬の念を覚えます。
 赤沢の天然林は、自然から離れすぎた現代人に、森林浴の爽やかさを教えてくれます。そして森林浴の効果が医学的に実証されるようになったのは、つい最近のことです。