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 数あるピンク・フロイドのインタビューで私が最も好きなのは、1972年の日本でのものだ。多くのインタビューは、自ら曲の解説をしたものやマスメディア不信を露骨にしたものなど様々だが、ことに初期のもので一貫しているのはたっぷりな皮肉。だが、この日本でのインタビューにはそれは微塵も感じられない。そこにいるのは、自分らの音楽を客観視できる真摯なミュージシャンである。グローバルな視点で自分らの音楽のアイデンティティをはっきりと語れ、その反面、何かのカテゴリーに属することが可能性を摘み取ってしまうことを知っている、そして自分らが何をして、それが世の中でどんな効力があるのかを知っているミュージシャンである。

  • このインタビューを、私の何のコメントも添えずに当ホームページに全文掲載しようと出版社に転載許可の申請をしたが、あっけなく断わられた。そこで部分的な引用――主体は筆者の文章に――という方法で紹介する。
  • この回答者は「PF」となっていて、特定の人物は不明。インタビューを傍観した方の話では4人が同席していたとのことで、回答は一人ではないようだ。だから「PF」としたのかも知れない。日本公演の際に彼らはいくつかのインタビューを残しているが、完全に相手をコバカにしたものもあって、日本はフロイドに嫌われたという話を聞く。だがこんなにも誠実に応対したことを後世に伝えたい。「Int■」と「PF●」の表記は原文に倣った。

 時は1972年3月、前年8月来日から7カ月後の二度目の来日公演のスケジュールを終え、帰国直前のインタビューであり、これを語らせた日本のインタビュアーの存在も貴重ではないか。


Int■ 今、あなたたちの音楽をジャンルに分けるとすると、やはり単にポップ・ミュージックとよんでいいのだろうか。
PF● 「ポップ・ミュージック」という定義は好きじゃないですね。充分に意味を伝えることが出来ませんから。勿論、L.S.D.や薬によって幸福感に浸り、そのレベルで充実した気分で音楽を表現するという意味の定義づけなら別ですが。だから自分達がいわゆるポップスであると言われるのはイヤだし、大体ポップスではない。当然、金儲けの為ということもあるだろうけど、これだけは云えると思う。それは「ポップ・ミュージック」を定義するに一番もっともな考え方は、ポピュラーなものは全部ポップスであるということで、その点からすれば、我々はポップ・ミュージックと云える。なぜなら、我々はポピュラーだと云えますからね。
(『ライト・ミュージック』(ヤマハ音楽振興会発行/1972年5月号より/以下同)


 たいがいのロッカーは、いやピンク・フロイドとて相手が無理解そうな記者であれば、「ぽっぷ・みゅうじっく……けっ! お子さまランチのことかい!?」と答えておしまいになるところだが、フロイドはその定義をバカ正直なまでに理論的にとらえ、そしてある意味では否定するがある意味では肯定すると曖昧に表現している。大切なのは、そんなカテゴリーは外部の者がするのであって、ミュージシャン=表現者にとっては創造性に反するということだ。
 インターネット界隈で熱心に語られるのは、「プログレッシブ」という定義である(私の意見は下記 「カテゴリー考」に載せた)。この回答の“ポップ・ミュージック”を“プログレッシブ・ロック”と置き換えてもいいのだが、下記の「とても危険な云い方だと思う」という姿勢に彼らのスタンスが凝縮されている。フロイドは「ポップス」の定義をさらに続け、話をより建設的な方向に導く。

PF● あなたの云う様なかたちでポップスという言葉を用いるのは、とても危険な云い方だと思う。それは誰ひとりとしてその意味がわかっていないし、我々がしようとすることが偉大な変化を及ぼすのだという考え方をしたいですネ。だから、世界中の大勢の人々が考えている大きな問題を、我々の行なっていることの中から生み出したいと思うし、皆が直面している題材について触れてみたい。そう考えているんです。自分で、もはやコントロール出来ない程周囲が渾沌とした状態にあり、そういう神秘的範疇に居るのが現代人であると思うんです。無へ向かっての競争みたいなものかな。


 この後半の数行である、私が70年代に心うたれたのは。これがポピュラー音楽界とされる内の人間の口から出る言葉だろうか。日本のミュージシャンらよ、ここで愕然しないかい? ピンク・フロイドは、その表現が世界の難問と根底ではリンクしていることを意識しているのだ。愛だの平和だのと歌うことがラジカルな現実とは無縁の“現実”にフロイドは立つ。
 この発言で留意したいのは、これは『おせっかい』リリースから『狂気』制作途上の過渡期だということ。「世界の課題の根源」と「誰もが直面する具体的題材」とは「エコーズ」以前と『狂気』以降の違いを要約していないだろうか。コントロールできない未来の人間の狂気を予感していると言っていないだろうか。
 皆が直面している題材について触れてみたい――例えば“時間”について。時間をコントロールしようと時計を発明した人類は、時間に束縛されている己さえコントロールできない……というように。

Int■ つまり云い換えると、通俗的な方向には進みたくないということですね。
PF● えェ、ただ──たとえば、トランジスタラジオの組立てとかいうような単調で、すぐ飽きるような仕事から生きがいをみつけようとか、牛がミルクを出す様に、自分で常に何かを行なおう、作り出そうとする時に理にかなったことが出来ると思うんです。通俗的とは違いますから。ただ自分達がしている事はそれよりもっとデッカイ事だと考えたい。ラジオを作ることと、我々の行なうことに耳をかたむけることの両方は同時に出来ない。片方しか出来ないんです。コンサートに行って編みものをしようとは思わないでしょう。コンサートに行けば、そこから自分の最大限を得るよう精神を集中させる訳ですヨ。
Int■ 結局、人々を幸せにし、霊を落ち着かせるという意味ですね。でも、あなたは霊を活発にさせる為に人間の真の存在について人々にわかってもらうことに、より大きな興味を持ってるんじゃないですか。つまり逆の意味で。
PF● だから、映画とか音楽を聴きに行くとすれば、心に強く感じる何かを見たり聴いたりすることが出来る訳で、それによって(A)深く考えさせられ、(B)同時にそこから逃げ出し、自分で何かをしたくなるということです。何かを創り出したくなる。ある曲がその人にとって素晴しければ、以前より数倍その人を生き生きとさせるのです。それが私の云う音楽であり、映画だって同じですヨ。はっきりとした感情の反応が引き出されるということで、より大きく、よりオープンな心にすることが出来る。それが霊を活発にし、呼び起こすことになると思う。


 こういう自覚をリスナーに期待したが、その作品が売れるのとは反対にその逆効果を招くことになる。はたしてピンク・フロイドを聴いて深く考えさせられ、人生とリンクしているリスナーがいるだろうか。すると今度は“壁”というコンセプトが閃く。迷路は迷路を生むという真実。あたかも人類の歩みのごとくだ。
 誤解されると困るが、なにも彼らは整合感あるピンク・フロイド理論を期待しているのではない。どんなファンのリアクションを望むのだろうか。ここに二つの例を挙げよう。

 僕はドラッグ患者やアル中患者や児童虐待者の診療所で働く男と知り合いである。行きつけのパブで僕は彼に会い、彼は“静かな自暴自棄にしがみつく”というフレーズのある「タイム」の曲を聞いていた。そこに彼自身が感じたことに関わりがあったので、大いに彼を感動させた。もし僕が彼らのように漠然と撹乱してできるだけ素直に僕の感情表現したとしたら、それが僕にできる精一杯のところだ、ということを僕に悟らせた……今や僕は“芸術”にあまり興味を持っていない……そして、音楽が僕の感情表現を助ける限りにおいてのみ、僕はそれに関与する。
(ロジャー・ウォーターズ/『Street Life』1976年No.7 Vol.1/訳:今井壮之助)

 ウォーターズが批判に対して反論する際によく使う話がある。八百屋で、身なりの良い四〇代の婦人が『ファイナル・カット』を聴いて泣き出してしまったと話しかけてきた。彼女は、それが「今までに聴いた中でもっとも感動したレコードだった。彼女の父も第二次世界大戦で死んでしまった、と説明した。僕は三ポンドのじゃがいもを抱えて車に戻り、家に帰り、『これで十分だ』と思った」という話である。
(ニコラス・シャッフナー著『ピンク・フロイド [神秘]』宝島社発行より)


 フロイド本の著者、クリフ・ジョーンズは『Echoes, the story behind every Pink Floyd Song』のまえがきを依頼したロジャー・ウォーターズに「こんな本に書かれたくない」と拒否されている。データを収集したフロイド本が毎年跡をたたないが、ウォーターズが望むのは上のような素朴な感情の共有である。街で彼と出会っても決してサインを求めるな、まして小脇のブートレグは彼の目に触れさせてはならないぞ。

Int■ 何かを創り出したい感情にかられた時が、裸の霊、精神を見い出す時であるという言葉がありますネ。まさにその時に大きなものを創り出せるのでしょう。映画を見てる時とか、インスピレーションが閃いた時とか。
PF● そうです。素晴しい映画を見て閃くとか、非常に議論の的になる点だと思えますね、そういうことは。人間というのは創造的活動によって初めて満たされるんだと強く感じるんです。何をやっていようがそうです。ある種の宗教的立場から考えると、創造的活動、行動はエネルギーの浪費だという意見もあります。インドの宗教的観点からすれば、そういう黙想的な考え方は内的であり、エネルギーが荒廃するというのです。時間の浪費でもあると云われています。ボクは信じませんが、人間の一面であることは確かでしょう。全ての社会について語る訳にはいきませんが、ボクの知る限りではどの社会も、人々に自由を与えて自己表現を許すなどという事はせず、創造性を踏みにじろうとしてる様子です。


 まるで子供をさとすように、これ以上わかりやすく説明できないほど丁寧に答えているのが印象的である。インタビューはマルクスや中国やビートルズ、そして建築と音楽などに話題が続くが、引用はここまでとする。民族間の価値観の相違にも及ぶ、かくもグローバルな視点で人間の心を観察し、普遍的な“痛み”を音に表現しているのだ。人間の狂的な精神を模索するアーティストとは思えない、まるで思想家のような明晰さがある。ここに奇妙な音楽、ピンク・フロイドの創造の源泉を垣間見る思いだ。
 そして、このインタビューの直前まで“I've been mad for fucking years...”というセリフで始まる50分の未知の曲を東京、大阪、京都、札幌でプレイし、ことにロジャー・ウォーターズはその後、一度も日本を訪れることはなかった[*]
(* このページは1999年に記述した。)


カテゴリー考
言葉“プログレッシブ”をネタにたわいない話

 『ピンク・フロイド 幻燈の中の迷宮』に目を通された方はお気づきだと思うが、この書には“プログレッシブ・ロック”という言葉はほとんど使われていない(今井+高橋がともに使わないのは偶然の結果)。なぜならば、それはピンク・フロイドの作品が陳列されている箇所を探すための便宜上の言葉に過ぎないからだ。また“プログレッシブ=進歩的”という形容詞の場合は、進歩的でない(あるいは保守的な)ロックと比較した上の形容に過ぎないのである。したがって、ピンク・フロイドのみを語る場において、それを使う必然性はまったくないことになろう。
 さて、さまざまなフロイドのファンの語る中に、言葉“プログレッシブ”はもはや必須ですらある。だが、私はここで二つの警告を表わしたい。
 「僕らの音楽がプログレッシブだとは思わない」──これは70年代初期のデヴィッド・ギルモアの言葉である。これを換言すれば「我々の音楽はそれほど進歩的だとは思ってない」という謙遜にも取れる。しかし他のプログレッシブ・ロックといわれているバンドがそのジャンル内のバンドと交流があるのに比べて、フロイドはほとんどないのだ。もっとも当人らに否定されたんでは、結論は出ているはずなのにね。
 二つ目の点。カテゴリーに属することの危険性。最も危険なのは、あるジャンルの流行に便乗(レコード会社の戦略も含む)すると、流行の衰退に足を引っぱられるということ。あるいはある形容や範疇のボキャブラリーを受け入れると、それが死語となると同時に、それ自身も時代に捨てられるのである。だから己に自信があり賢い者は初めから居場所を特定させない。
 たとえば、80年代初期にはロック雑誌で「プログレッシブ・ロックに未来はあるのか?」という特集が組まれ、フロイドが槍玉に挙がった。我々はプログレにあらずとしたバンドにとってはえらい迷惑な話ではないか。
 そう、世界で初めてピンク・フロイドをトランスパーソナル・ミュージックと提唱したのは他でもない私である。ここにも危険性があるが、しかしそれを認めること自体に個々の人間のかなり険しい理解を必要とすることを計算に入れていた。

自由への闘い
 カテゴリーに属することの危険性を、どうもフロイドは意識していたように思える。デビュー当時はレコード会社からお仕着せのイメージ、ファッション、ジャンルを与えられたが、彼らの意思でそれらをコントロールできるようになってからは、周りのその先入観と拘束との闘いのようにも見えたものだ。音楽ジャーナリズムがカテゴリーに定めようとしても、当のフロイドはそんな風潮をあざ笑うかのように、決まって前作を裏切る新作を提示してみせた──当時、傍からはそう見えたものだった。だが、この観察はどうも正しかったようだ。

 戦略上、僕らが次になすべきいちばんよいことは、何か風変わりな、誰も理解できないイカしたものだったものだ。
(デヴィッド・ギルモア/メーリングリストより引用/出典不明/今井訳)


 これは『狂気』に関するインタビューの中のものだが、“戦略上”というのがニクい。だがそれが商売上の戦略なのか、対ジャーナリズムへの戦略なのか、音楽上の前衛性のためのものか不明ではあるが、そうしたアルバムごとに度肝を抜かれたようなものは彼らの意図的な作戦だったのだ。重要な点は、そうした冒険は命取りを免れないということで、狙いが裏目に出れば人気は陥落するだろうにもかかわらず、彼らは挑発的だった(現在のピンク・フロイドにはこの戦略は感じられないが、リアルタイムのファンなら痛感していたと思う)。
 具体的には「スペース・ロック」とか「サイケデリック・ミュージック」というものなのだが。そんな言葉以外で把握できるものならしてみろ、という挑発にまんまと乗ったのがこの私である(笑)。

 いったい君がどこに話を持っていきたがっているか分かってるよ。ピンク・フロイドがスペースロックだって言いたいのだろう。それが全くくだらないことだとよく分かっているよね。SFに関係した2、3の曲がある。評論家は僕らの音楽について決めかねるので、いつだってこの陳腐なネタに飛びついてくる。確かに「神秘」はSFと関係ある曲だ。「天の支配」も、そして少しこじつけりゃ「マシーン」だって……それがどうしたというんだい? それら全部、十把一絡げにスペースロックに分類されてしまうんだ。実際は何が言われているか見たり、それ以上にどんなものにも目を向ける評論家の義務を回避してしまうんだ。
(ロジャー・ウォーターズ/『Street Life』1976年No.7 Vol.1/訳:今井壮之助)


 ときどき引用される言葉がある。

 君も時々は違う人間になりたいと思わないかい。人間じゃなくていい。たとえば鳥とかに。でも鳥になるのは不可能だ。だから鳥になったような錯覚を起こさせて、一時的に現実逃避を図る――それをドラッグじゃなくて音楽でやるのがサイケデリック・ミュージックなのさ。
(ロジャー・ウォーターズ/出典不明)


 ここで彼はピンク・フロイドがサイケデリック・ミュージックだとは言ってはいない。サイケデリック・ミュージックの定義を問われたら、上のようにただこう応えるに違いない。1966年、当時のマネージャーのアンドリュー・キングはこう言う。

 僕たちは自分をサイケデリックとは呼んでいない。だけどそう呼ばれても否定はしないし、肯定もしない。それは宣伝文句が欲しいやつのやることだ。
(アンドリュー・キング/マイルス編『Pink Floyd.』CBS・ソニー出版より)


 そう、表現に困って何かに依存したいライターが使う言葉だ。上記に挙げた二つの例の診療所で働く男と八百屋で出会った婦人は、そんなカテゴリーの用語でピンク・フロイドと対面していない。レイチェルさんは世界に我々の著書をこうアピールしてくれた。

 今井と高橋はピンク・フロイドをロックバンドとして論ずるのではなく、文学を書き、芸術を創造し、そして我々の魂と対話する人々として論ずる本を書く最初の人である。
(レイチェル・フナリ/訳:今井)


 そしてフリダシに戻ると、こうなる。

PF● あなたの云う様なかたちでポップスという言葉を用いるのは、とても危険な云い方だと思う。それは誰ひとりとしてその意味がわかっていないし、我々がしようとすることが偉大な変化を及ぼすのだという考え方をしたいですネ。だから、世界中の大勢の人々が考えている大きな問題を、我々の行なっていることの中から生み出したいと思うし、皆が直面している題材について触れてみたい。そう考えているんです。自分で、もはやコントロール出来ない程周囲が渾沌とした状態にあり、そういう神秘的範疇に居るのが現代人であると思うんです。無へ向かっての競争みたいなものかな。
(『ライト・ミュージック』(ヤマハ音楽振興会発行/1972年5月号より)


 我が国でピンク・フロイドを最初に“プログレッシブ・ロック”と唱えたのは、70年代初期の当時フロイドの宣伝ディレクターだった東芝EMIの石坂敬一氏である。フロイドを従来のロックとは同じカテゴリーで語れないという彼の判断と処置は正しかった、と今でも思う。だが、例によってちょっとした誤解が思わぬ先入観を生むもので、フロイド自身が“プログレッシブ・ロック”という旗を掲げたと信じている方も多いと聞く。
 70年代、ローカル新聞のラジオ面で「最初にプログレッシブ・ロックという言葉を持ち込んだのはピンク・フロイドである」(これは引用文でなく私の記憶である。以下同)という記事に出くわした。私はそれがミスだと知りながらも、からかったハガキを出した──「私はピンク・フロイドの文献をかなり収集していますが、これは初耳です。ぜひ出典をお教えください。これは私の生涯に関わる事柄なので、ぜひご返答ください」。すると返答が届き、ミスを認めた謝罪の最後にはこうあった──「……なお、原稿を書いたS氏がくれぐれもよろしくとおっしゃっていました」と。S氏とは我が国のロック評論家としてナンバーワンのあの人である。猿も木から落ちる。

インターネットはカテゴリー地獄?
 カテゴリーを超えている方には煩わしい文章におつき合いいただき、申し訳ない。ただ、インターネットを眺めてみて、ここは“カテゴリー地獄”だと感じたのだ。ロックファンがカテゴリーにこだわるという意味だけでなく、コンピュータそのものがカテゴリー思考で成り立っているのだ。ニフティのフォーラムが階層式になっているように。電話帳のような便宜さという肯定面と、可能性が狭められるという否定面があるのではないか。無意識にカテゴリー人間になっているように見える。
 ウェブサイト「Artemis Sampler <http://www.sh.rim.or.jp/~artemis/>」へアクセスすると、膨大なテキストと膨大なリンク集をたった一人で築き上げているのに圧倒されるが、彼(彼女)は自分の興味を綴っていくと、あれだけのカテゴリーに拡大されてしまうのだ。酒鬼薔薇と美空ひばりと神道と臓器移植が一点で重なるものがどこのフォーラムに特定にされようか。
 上に「何かのカテゴリーに属することがミュージシャン=表現者の創造性と可能性を摘み取ってしまう」と書いたが、それは同時に聴き手の意識をも限定されることなのだ。つまり、特定のカテゴリーで囲ってしまうと、その“村”の中でしか何かを発見できないということ。全く別の要素を見逃したり排除してしまうだろう。

従来のピンク・フロイド評論におけるあらゆる先入観を容赦なく押し潰し、粉々にしてその上に塩をまいた快著『ピンク・フロイド 幻燈の中の迷宮』
(「Tessier Ashpool」<http://member.nifty.ne.jp/tessier/>より)


 なぜ覆せたかというと、従来の“カテゴリー外”からピンク・フロイドを見ているためであり、そして著者二人は従来のカテゴリー外にフロイドの本質(それが何かは別として)があることを提案するものである。例えば、今井は様々な神秘学や宗教の奥義にあると同じ子宮への意識をフロイドに見い出すのであり、例えば、高橋氏は評論家がウォーターズを語るに必須の単語=「父親」を一度たりとて使っていない。
 ロック村が狭い世界なのか、あるいは、本当は広いのに住民が狭くしているのか。後者だと私は思う。



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