[ss-column] コラム 8
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プロローグ

 ちまたで見かけるフロイド・バッシングとして、「『吹けよ風、呼べよ嵐』のステージで資本家のブタが登場するのは根拠ない。ふざけるな!」というようなものがある。はたして「吹けよ風、呼べよ嵐」のブタは根拠レスか? 本当に『アニマルズ』は「ブタ=資本家」か? 否、否、否! まずはこの世間の常識をくつがえそうではないか。

 また、『ピンク・フロイド 幻燈の中の迷宮』の中で今井壮之助は、『アニマルズ』において「ピッグ」だけは「戯画化のための遊びであまり意味がない」(85ページ)などと軽視した発言をしているが、これを取り消したいと思う(「ピッグ」をフロイド自ら“富で太った説教家”として自嘲的に描いたと解釈したとき、倫理的拘束の象徴としてとても重要なものに思えた。また1987年のウォーターズのソロライブで『アニマルズ』からは「ピッグ」のみを取り上げていたことも理由である)。また43ページでも思わず「ブタ=資本家」という前提で書いてしまったが、軽率だったと反省している。

■本テキストは著作『ピンク・フロイド 幻燈の中の迷宮』とはあまり関わりはない。共著作における今井の記述は全編「エコーズ」論であり、そこに『アニマルズ』の文字があってもそれは「エコーズ」越しに見たものであった。ここに正攻『アニマルズ』論を試みよう。

 新『アニマルズ』考の目次 
ピンク・フロイドとブタの関係──ブタは資本家にあらず
フロイト的『アニマルズ』考──アンチ・アカデミズム作品にあえてアカデミック考察
ぼくの あたまのなかの もうひとりの ぼく──もしくは『ザ・ウォール』の“ピンク”
『アニマルズ』考 おわりに


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[ピンク・フロイドとブタの関係]
ブタは資本家にあらず

 ピンク・フロイドがブタと関連したのは、言わずとしれた『アニマルズ』の「ピッグ/Pigs (Three Different Ones)」だが、合わせて次の6つが挙げられるだろう。

  1. 「若者の鼓動」
  2. 「翼を持った豚」
  3. 「ピッグ(3種類のタイプ)」
  4. 「吹けよ風、呼べよ嵐」(ライブ・パフォーマンスのみ)
  5. 「イン・ザ・フレッシュ」(ライブ・パフォーマンスのみ)
  6. 『アニマルズ』のジャケット

 そして、どこで誰が誤解したか、「ブタ=資本家」という図式がすっかり定着してしまった。私自身も著書ではそれを認めた上で書いていたことを後悔している。そう、まずはその常識化さえされた「ブタ=資本家」図式を否定するつもりだ。

*

 豚が太った金持ちをイメージしたのだろうが、これが欧米になると「pig=警官、ポリ公」なのである。「若者の鼓動」の原題「Heart Beat, Pig Meat」は「心臓のビート、豚のミート」という駄洒落だが、映画『砂丘』が若者と警官の抗争から始まるからだろう。「ピッグ」は原題「Pigs (Three Different Ones)」が示すように、資本家は3タイプの一つにすぎないのであって、3タイプの共通点は“権力”(何がしかの権力的支配層)であろう。
 ニコラス・シャッフナーは「豚は、道徳家で、独りよがりな専制君主タイプ、だが究極的には感傷家である」(『ピンク・フロイド[神秘]』宝島社)と書いているが、正解だろう(しかしベルリンのライブ『ザ・ウォール』にまで出没する巨大なブタは、やや意味が転化しつつあるが)。ちなみに洋書の翻訳本3冊他をチェックしてみたが「ブタ=資本家」説は皆無であったから、これは日本だけの解釈だろうか。海外のファンの認識として、リンクもしている友人のウェブサイトから引用しよう。「pigs (political and social 'powers that be'), dogs (businessmen), and sheep (the average person who just allows pigs and dogs to run the world)──豚(政治的・社会的な“当局")、犬(実業家)、そして羊(豚と犬が世の中を駆けるのを許す普通の人)」(「breathe」ビギナーのためのアルバムガイドから/Dave Ward文)。
 いずれ、「ブタ=資本家」は上記の6つにどれも符合しないのである。ジグゾーパズルやクロスワードパズルで前後左右に調和しなかったら、そのピースはハズレだろう。

 おさらいしてみよう。「ピッグ(3種類のタイプ)」は何がしかの権力による支配層。タイプ1は財力を権力化する「資本家、守銭奴」、タイプ2は権力を振りかざす「警官、ポリ公」、タイプ3は道徳を権力化した「メアリー・ホワイトハウス」である。ホワイトハウスはイギリスでは有名な実在する説教家(ポップス道徳の管理者を自認)の怖いおばさんらしいが、体はやせている。この3種をまとめて「ブタ!」と呼んだのだ。
 3つの動物のキャラクターを学校の生徒に当てはめてみよう。「ドッグ」は素直な感情をモロに出さず計算して自分に不利な発言をしない(巧みに演技もする)が、日和見主義ゆえに反面孤独である。「ピッグ」は道徳や標語を、およそ解決策にもならない教科書のような道徳観をもつ。いわゆる正義を振りかざすタイプ、PTA、良い子ぶりっこ。「シープ」は学級長の言いなりタイプだが、この曲のドッグ学級長はしまいにシープの反抗に遭いリコールされる。そして学級長も尻尾を巻く「翼を持った豚」とはよき道へ導く本来的な教師か。

 では「翼を持った豚/Pigs On The Wing」のブタは何のメタファーか? それを簡単に説明できるほどピンク・フロイドは単純ではないのだ。ブタが空を飛ぶ──それは保育園の子供が描いても園児らにバカにされそうな稚拙な図である。しかし狂人のうわごとと同様に、一見して単純でありながら奇妙なシュール感を伴い、そして反知的で衝動的で見事な光景だと私は思うのである。
 ウォーターズによれば「Pigs On The Wing」は“希望のシンボル”だそうで、これがヒントになるだろうか……それともますます混乱するだろうか。いずれ「ブタ=資本家」という解釈からは、資本+希望=リッチ願望という意味しか発展できないではないか。

*

第1部のラストは,おなじみの「吹けよ風,呼べよ嵐」。この曲ではステージの両脇にある巨大なスピーカー・タワーのてっぺんから,まるでイノシシみたいなでかいブタが登場。(中略)もちろん,このブタが登場する演出には何の意味もない。かつてのロジャー・ウォーターズが資本家をブタに象徴させたようなような深い意味などなく,単なる“見せ物”として巨大なブタが登場する。
(某ロック雑誌1994年9月号より[*])

 なぜ“もちろん”か不明だが、「何の意味もない」ではなく「私には意味がわからない」と書くべきであろう。ビデオを見て“もちろん”私にはすぐに意味がわかったぞ。ギルモアの腹は読めたぞ。
 70年代に私は「翼を持った豚」がシド・バレットを暗示するものだと直感した。だから、1987年のツアーの「吹けよ風、呼べよ嵐」で巨大なブタが登場するものもバレットだと思ったし、1994年のツアーでブタが2匹になったものがバレットとロジャー・ウォーターズであると考えたものである。これについての解釈は著書に書いたから省こう。しかし人は言うだろう、それは私的でクレイジーな解釈にすぎないと。私的でもクレイジーでも構うもんかと思うが、説得力はないかな。ならば……


“One Of These Days”の豚はステージ両サイドの豚小屋から身を乗り出し暴れ回り、最後に揺すっていたスタッフに突き落とされるがその名はSydとRoger…
(Report=小木曽代史子/『Marquee』15号・1995年1月25日発行)

 Wow! 2匹はやはりバレットとウォーターズであったか。そこでこの文章の筆者に直接聞いたのだが、確かにスタッフがそう呼んでいたそうである。この事実が私の解釈の説得性を増すほど世間は甘くない。「何の意味もない」と言い切ってしまうのと、クレイジーな妄想的イメージを抱くのと、どっちが正しいか? そんなこと私の知ったことではない。要はイマジネーションの闘いである。

 「翼を持った豚」のメタファーについては以下に展開する。



Note:英和辞典から】 *pig=食いしんぼう/警官・ポリ公。警官は、暴動を鎮圧する催涙弾を使用する際の防毒マスクがブタそっくりだったことに由来するらしい。食いしんぼうは、「ピッグ」の守銭奴がお金の“食いしんぼう”となろうか。*pigs on the wing は「Pigs might/could fly (if they had wings).=まさか/そんなことあるものか/不思議なことが起りかねない」という戯言からか。「on the wing=飛んでいる/飛行中」であって「翼を持った」は誤訳。フロイドはブタに翼を付けなかった。


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[フロイト的『アニマルズ』考]
アンチ・アカデミズム作品にあえてアカデミック考察

 「豚=資本家」「犬=インテリ」「羊=小市民」という戯画化はあまりに直接的過ぎて、フロイドにしては陳腐な現代社会批判が本作のコンセプト。(某ロック本より[*])

 賢明なR社にしてはあまりに粗雑で短絡的な批評であるが、実際この解釈はマスメディアの主流といってもいいだろう。まず第一に、「ピッグ」に描かれた豚は3種類であり、1種は太った金持ちとしても、他2種はそうではない。豚3種の共通点としては成功・正義・モラルといった社会の美徳に支えられた支配層。「ドッグ」は本能的衝動が強く非社会的・利己的であるからインテリとは一致しないだろう。「シープ」は従順、社会的であるから小市民という定義だけは的外れでないようだ。

*

 メーリングリストでの Rachel Funari さんの解釈は明確である──豚は犬を規制し、犬は豚をひどく嫌う。豚が犬を抑制しようとするが、犬は羊を得て管理しようとする。フロイトの超自我はイドを規制するが、イドは超自我をひどく嫌う。超自我がイドを抑えようとするが、イドは自我を管理しようとする。つまり豚=超自我、犬=イド、羊=自我と仮定できよう──と。
 これは「個人の性格はイド・自我・超自我の配分差」と解釈したフロイト心理学が元になっている。『アニマルズ』を一人の人間の意識の光景と解釈したとき、「個人の性格は、棲んでいる犬・羊・豚の配分差」というヒントが与えられる。また、動物戯画3部作というよりむしろ3匹“三つ巴”の抗争に注目したとき、これがいち人間の内なる葛藤とみることができる。そして衝動的・非社会的・利己的な犬(快楽原理に基づくイド)を倫理的拘束する豚(超自我)という関係に符合する。
 だがこの解釈は、3匹三つ巴の抗争の中で符合しないシーンもある。フロイトによれば、超自我は指導者を想定し同一化しようとし、指導者に規範規準を求め、集団化したものは宗教となるのだが、これはあたかも「シープ」である。『アニマルズ』の「シープ」で犬によって管理抑制されるのは羊であるから、フロイト説は羊がイド、犬が自我のように逆転してしまう。また、3匹の動物のキャラクター定義は一貫せず、曲の展開の中で変化するのは重要である。「ドッグ」は(間奏を経て)その欲動エネルギーを混乱させて苦悩の叫びを投げかけ、「ピッグ」はしまいには3種とも憐れまれ、そして犬の死が羊を解放させるという局面に至っては、三つ巴は混乱を極めるのである。
 ウォーターズ自身は自らを犬、フロイドのファンを羊としての傾向が濃厚と見ているようだ。Rachel さんは興味ある解釈を持つ──「シープ」でウォーターズ自身の羊は他の羊(ファン)に加わり、彼自身の犬(イド)を殺すために革命を起こす。そして豚(超自我)が群れからの超越性を持った存在として変質した“Pigs on the Wing”を仰視した先に見る──と。
 「翼を持った豚/Pigs on the Wing」はフロイトの超自我と符合するかも知れない。超自我は道徳的禁止令を発するが、内在化された理想と喜びの源であって、遠くから(浮かんで?)見張っている内なる自己の救い手であるのだから。だが、「犬/豚/羊」の中にあっては、倫理的拘束する豚にこそ進化を託した、それがピンク・フロイドであろうか。「Pigs on the Wing」は最も把握しにくいものであり、友人の足利茂さんは「全てに超越した存在」と表現した。宗教における神的存在、畏れる対象でありさまざまに適合させることもできる。私自身は、犬が恐れおののき尻尾を丸めて退散する相手、すなわち「狂ったダイアモンド」と解釈する。
 シド・バレットはどこにいるのだろう。未分化な、衝動的・非社会的・利己的な「ドッグ」そのものといったところだったが、いまの彼は犬も豚も羊も心に棲ませていない。そして『アニマルズ』いやピンク・フロイドの音楽は──“夢”に匹敵するというのが私の持論なのだが──フロイトの「夢の仕事」としての充足機能を我々にもたらす。

*

 『アニマルズ』は一人の人間の多面性から生じる3匹の動物というキャラクターだが、同時にそれは社会全体の集合意識とリンクしていると考えた場合、はじめて“社会批判”とみなされる。『ザ・ウォール』も一人の人間の意識の光景であった。フロイトの文脈では超自我は“良心”に近く、社会全体では両親・教師あるいは裁判官がその役割をするというから、『ザ・ウォール』のラストで両親・教師・裁判官がオンパレードでピンクの露出されたイドを罰しようとするのであろう。
 もし超自我が一人の指導者に渡ると戦争になる。世界史における残虐行為が“道徳的”を装うことで正義の名の下で行われるのは、超自我の検閲を経て“良心的に”行われる原理が集合意識の中で作用するからだ。殺人への罪悪感を超自我が管理しているためである。
 戦争は多くの者に“苦痛”を強いるが、好戦家も反戦家も実は“平和”がお好き。しかし平和/快楽を求めそこで満足するよりも、戦い/苦痛を避ける工夫・努力を惜しまない(優先する)のが人間だという。戦争はもう過去の話? ならば場面を未来に置き換えよう。ヒトは十分便利で事足りているのにより“more”裕福・文明化を求める──快楽を求める上の苦痛をあえて選ぶのだ。ヒトはそんな運命に束縛されている。岸田秀は、文明は伝染性精神病だと言った。
 こうした原理の果てに、ヒトはより裕福/快楽のため今の苦痛を耐えることを辞さない──平和のために戦う──永遠の天国を夢見て地獄に落ちる──究極的に、ヒトは楽しんで滅亡する── Amused to Death/『死滅遊戯』へと向かうのである。

*

 『アニマルズ』はピンク・フロイドの一般評価の一つの終焉だった。箱根のコンサート以来のファンは多くが『アニマルズ』でフロイドへの拒否反応を示し、自称ファンさえ放棄する現象があった。喧々囂々と非難し拒否反応を示したのは、まさにインテリ層だった。「従来の学術的アプローチでは『アニマルズ』は否定されることになる。なぜならば、フロイドは芸術性の排除、伝説の排除を意図したからだ」と足利茂さんは語る。私には「『エコーズ』を子守歌にしているお前、さっさと起きろ! びしっびしっ、この“Dogs”のムチの音を聞くがいい!!」と聞こえ、「シープ」は戦場の中で「友よ、お前を守るから掩護射撃せよ!」と聞こえたのだった。
 こうしてピンク・フロイドはファンを失ったか? 否、結果的にフロイドは世界の音楽界の頂点に座したのだ。
 そこで、ここに『アニマルズ』をあえて学術的にアプローチしてみた。パンク・フロイドと見るか、ピンク・フロイトと見るか、望みの色を……。

(この稿、Rachel Funari さん、足利茂さんの協力による)


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[ぼくのあたまのなかのもうひとりのぼく]
もしくは『ザ・ウォール』の“ピンク”

 ……気が遠くなるような心地よさを感じながら、ここにいて欲しいのは、〈あなた〉ではなく〈私〉ではないだろうか、と思ったのだった。
 何故そう感じたのか、私にはうまく説明できないのが非常にもどかしいのだけれど、〈あなた〉も〈私〉も、失うのは容易のことのように思う。だが、失ってより痛みを感じるのは〈私〉のほうなのではないだろうか。
(清水薫『ニュー・ルーディーズ・クラブ』Vol.6/1995/(株)シンコー・ミュージック)

 こうしたシチュエーションにおけるもう一人の自分。または学校や級友の中で“いいこ”を演じる自分とそうでない“もう一人”の自分。それを“本当”の自分とみなすか認めたくない自分とみなすか、全ての子供は岐路に立つ。そこでその両者の境界に仕切を立てて“もう一人”の自分を監獄に追いやる。逆に“いいこ”の自分を監獄に追いやった“ドッグ”中学生は殺人者にもなる。
 この境界に立てられた仕切をピンク・フロイドは「ウォール:壁」と言ったのか。

 ロジャー・ウォーターズはこうした内包するもう一人の自分を確実に自覚している。それを「エコーズ」の作業のなかで発見したようなことも語っている。捉えにくいからこそ、ウォーターズはそれを音楽の中に映し出すことを決意する。そしてロックスターという表側のウォーターズNo.1ではなく、心に抱える影のウォーターズNo.をフィーチャーさせることになる。自分のシーンに起こったことを自伝的に表現しつつ、匿名性を貫く──そんな矛盾は、ウォーターズ No.2が前面に出されることで矛盾とならないのだ。
 『炎(あなたがここにいてほしい)』でウォーターズ No.1が語りかける“you”は紛れもなくウォーターズ No.2であり、『アニマルズ』で語りかける“you”はそんなNo.2からの No.1への反駁的な返答ではないのか。“ふん、私腹太らせて道徳家ぶって理想をかざす豚野郎、ロジャーのNo.1さんよ!”と。次にNo.1は『ザ・ウォール』にてNo.2の醜態を大衆にさらしものにし、それを裁く。
 そんな彼のNo.2=影の側からウォーターズ No.1に語りかける構図をはっきりと持った歌が「パラノイド・アイズ」である。そのパラノイドの眼を持つ“you”は、酔っては「Fuck Fuck!」と絡む、我らが愛しいロジャー・ウォーターズである。

*

 ところで「吹けよ風、呼べよ嵐」はフロイド自身によってすっかりコミックソング化してしまったが、本来の発想は別としても、やむを得ない気がする。ここではあえてシリアスな衝動が何であったか、想定してみたい。


〔影、あるいは No.2の自分〕

 ユングは幼いころから自宅に瞑想の場を持っていた。それは庭にある大きな石の上だったが、石の上に座ると石と自分とが不思議な心の交感ができるからだった。彼はその石を「私の石」と呼び、“もう1人の自分”の存在に気づいていた。それは現実に活動するNo.1の自分と、星や死者や無生物や「神」にまでつながっている“極私”的な自分、換言すれば No.2の自分とである。彼が石と自分との類似に見つけたものは、このNo.2にほかならなかった。そしてユングはこの不思議な感覚に解明をもたらす次のような夢を、医学生時代にみる。
 ──ある夜のことだ、私はどこか見知らぬ場所で、強風の中をゆっくりと苦しい前進を続けていた。私は手で今にも消えそうな小さな明かりの回りを囲んでいた。すべては私がこの小さな明かりを保てるか否かにかかっていた。不意に私は、何かが背後からやってくるのを感じた。振り返ってみると、とてつもなく大きい黒い人影が私を追っかけてきていた。しかし同時に私は怖いにもかかわらず、あらゆる危険を冒してもこの光だけは夜じゅう、風の中で守らなければならぬことを知っていた。
 目が覚めたとき、私は直ちにあの人影は、「影」つまり私の持って歩いていたあの明かりで生じた私自身の影だとわかった。私はまた、この小さな明かりが私の意識であり、私の持っているただ一つの明かりであることもわかった──。
 この夢は重大な啓示だった。光の運搬人が No.1の自分であり、No.2は No.1に<影>のように常に従っているもう1人の自分である。また嵐は、現在に生きる人間を過去の闇へ押し戻そうとする No.2の力を示している。かくてユングは、現在の自分を意識の別世界──過去も未来も順序どおりに並んでいない世界──へと誘い込むもう1人の自分を No.2あるいは<影>と呼ぶのである。1人の人間の中には複数の自分が存在しているのだ!
『世界神秘学事典』荒俣宏編/平河出版社)

 この体験と「吹けよ風、呼べよ嵐」で巨大なブタが登場するシーンをリンクしてみよう。要はイマジネーションなのである。
 ……ある夜のこと風の中をゆっくり歩いていると、何かが背後からやってくるのを聞いた。振り返ってみると、とてつもなく大きい豚のような黒い怪物が私を追っかけてきていた。ドアを叩くような音とがなり声が轟いた。私は恐怖に引きつりながら嵐の中を逃げ回った。そして斧が振り落とされた瞬間、私は目覚めた。私の耳には悪夢での風の音がまだ続いているが、それはいつしかやさしくそよぐ風だった。がなり声だけが耳に残って離れない…… "One of these days..." と。

*

 1980年の『ザ・ウォール』のライブでフロイドは、ステージ上に自分らを模したダミーを配してその横でプレイした。“ピンク”は人前に出たくないので、替え玉を送ったというナレーションも流すという田舎芝居。ウォーターズのダミーは「1」という大きな文字の書かれたTシャツを着ていたが、これがロックスターという表側の「ウォーターズ No.1」であり、人前に出たがらない“ピンク”は No.2であろう。
 こうした No.2=サブパーソナルをさらに他の分野ではどう表現しているのだろうか。格好の説明を見つけた。


 そのような体験は、宗教そして心理学の双方のなかに広く認められるが、やっかいであるか、有益であるかのどちらかである。宗教的な文脈においては、やっかいな例として、幽霊や悪霊といった敵意ある霊に苦しめられる、あるいはとりつかれるといった体験がある。やっかいな霊を扱うのは、シャーマンがもっともよく請け負う仕事のひとつである。心理学文脈においては、同じこれらの「霊」は、幻覚として解釈されるかもしれない。
 (中略)トランスパーソナル心理学者にとっては、(中略)こうした智恵の霊的源泉は、「自我を超えたその上位にある」心の超越的側面を表しているということになるだろう。このような心の超越的側面のいくつかは、東洋と西洋の心理学両方のなかでずっと説明されてきた。西洋の例としては、高次の自己(higher Self)、トランスパーソナル的目撃者(transpersonal witness)、(心の中心を意味する)ユング的セルフ(Jungian Self)、(多重人格において出てくる、助けになる、超越的とおぼしき人格である)内なる自己の救い手(the inner self helper)といったものを挙げることができる。
(ロジャー・ウォルシュ『シャーマニズムの精神人類学』春秋社)

 ここにロジャー・ウォーターズの文脈例を並列してみれば、2枚組レコードと映画と30万人の前で演じたライブの『ザ・ウォール』は、上記の「やっかいな敵意ある霊に苦しめられとりつかれる」シャーマンに近いということになろうか。宗教・心理学の文脈では聖霊とか超個とかチャネリングとして崇高なものに持ち上げられものが、根っから偏屈なウォーターズ流の文脈においては「多重人格において出てくる、助けになる、超越的とおぼしき人格」──すなわち空に漂う豚“Pigs on the Wing”となろう!

*

 『ピンク・フロイド 幻燈の中の迷宮』が表現したものは、そんな彼の影にほかならない。それは、硬く閉ざした彼の狂気のダイアモンドの輝きが聞き手の内なるスクリーンに反射され、あたかも幻燈から映し出された迷宮みたいな遠近感をともなう。
 この章のより詳細は本書の高橋伸一著「シャーマン」242〜244頁と今井壮之助著「自我の二元論『ザ・ウォール』」152〜163頁のそれぞれに譲る。



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[『アニマルズ』考 おわりに]

 なお、「豚」「犬」「羊」のそれぞれの比喩については別の解釈がいま浮かびつつあるので、また新たに提示したいと思う。『アニマルズ』は不明瞭な要素が強く、それは多義の解釈を可能とするはずである。もっとも日本の場合、"何も考えずに聴きたい”というファンが主流なので、「ブタだブタだ!」と楽しく聴くのも自由だが。

 私は、こうした分析がベストだと思っていない。様々な素材を収集しなければ結論を得ない聞き方はどう考えてもマトモ(正統)ではない。これはあくまでも私の確立したスタイルであり、そして世間の粗雑な感覚でピンク・フロイドを評価するマスメディアに対抗したところから出ている。ここまで深く考えられ、意味を込められ、精巧に作られている──ということを根拠を挙げて示そうとする。
 真のリスナーは分析も必要としないし、社会批判だなどと他人事にしないし、技術的・芸術的観点から眺めたりしない。『アニマルズ』の持つ響は、弱者へのシンパシーと励ましである。か弱い負け犬の叫びである。ペシミズムの怒号とオプティミズムのため息である。救済の音である。

 このコラムは「鳥獣戯画のステレオタイプ的文明批評──堕落したピンク・フロイド」という世間の評価に対抗して書いてみた。鳥獣戯画はずばり変装である。



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