読売新聞に掲載された大熊孝教授の発言について(2004.11.9)

 読売新聞長野版の平成16年11月9日付けの「検証田中県政の4年間 識者に聞く」で、次の【 】内のような、大熊孝・新潟大教授(河川工学)との一問一答記事「治水策 地域と対話もっと」が掲載された。

【 ――県は、浅川のダム代替案として、えん堤の高さが三十六―五十メートルの「河道内遊水地」を示したが
 この案では、ダムと変わらない。これを造ったら、「脱ダム」のため、時間をかけて検討してきたことが、無になってしまう。
 ――基本高水(洪水時の予想最大流量)を毎秒四百五十トンとすれば、ダム建設は避けられないのでは
 ダムができたら安全というのは間違いだ。建設計画を中止した浅川ダムの場合、川の流量のうちダムで調節する割合は13%と非常に小さい。治水上の役割は補助的なものに過ぎない。
 七月の新潟豪雨では、百年に一度の大雨を想定したダムがあった川で堤防が破れて大洪水になった。ダム自体の能力は発揮したが、水害を防ぐまでの機能はなかった。むしろ、ダムに頼らなくても破堤さえしなければ、被害は少ないことが実証されたと、考える。
 基本高水を超える大洪水が起きても、そこそこに安全な治水を考えるべきだ。私は床下浸水で収まるのなら、十分だと思う。
 ――ダム中止後の治水策について、県と地域住民の話し合いはこう着状態だ
 (合意形成に)大学の先生が一役買う方法もある。例えば、私は新潟で河川のあり方を考えるNPO法人を設立し、この中で「住民は、床下浸水程度は我慢すべき」として、独自に治水計画を立てた。
 ――二〇〇二年六月、県の治水・利水ダム等検討委員会の一員として、「ダムなし」答申をした
 検討委は、治水の安全はどうあるべきかという議論がないまま、ダムをやめる場合の方法を考えた結果、基本高水を下げるしかなく、そう答申した。しかし、今の河川行政では、基本高水を下げることは認めない、という考え方だ。
 知事は、森林の治水効果に期待していたのではないか。だが、検討委は、森林の効果を数値で表せなかったことがネックとなった。そもそも、浅川の流域には森林が少ない。どこまで効果が期待できるか、言うのはなかなか難しい。
 ――河川整備計画の認可を巡る国土交通省との交渉も難航している
 地域住民の考えがバックになければ、国と議論できない。県の技術者はもっと住民の意見を聞き、ダムなどのハードの技術だけに頼らず、各戸の雨水タンクによる貯留や洪水時の避難のあり方などのソフト面も含めて治水を考えるべきだ。
 ――今後の展望は
 脱ダムは道半ばだ。こういう問題は一年や二年では解決できない。十年、二十年という時間をかけて取り組む覚悟が必要だ。】  

 えん堤の高さが三十六―五十メートルの「河道内遊水地」案では、“ダムと変わらない。”という指摘は正しい。ただし月刊誌「世界」の掲載文に対する批判文中の「大熊発言について」で指摘したように、この発言には深い意味がある。
 続いて、“これを造ったら、「脱ダム」のため、時間をかけて検討してきたことが、無になってしまう。”と言っている。批判文でも指摘したように、“「脱ダム」のため”に委員会で検討したのであって、流域住民の安全はどうあるべきかを議論して、結果としてダムによらないとしたのではないことを白状している。本末転倒の議論であることに、今でも気付いていない。

 “建設計画を中止した浅川ダムの場合、川の流量のうちダムで調節する割合は13%と非常に小さい。”と言っているが、13%の根拠がはっきりしない。通常は毎秒四百五十トンのうち、毎秒百トンの流量をダムでカットするのであるから、22%に相当するはずである。何か勘違いしているのではなかろうか。あるいは殊更に低い比率を強調するために、恣意的に別な数値を用いているのかもしれない。

 “ダムができたら安全というのは間違いだ。”と言っている。新潟では整備水準を超えた降雨があって、“ダム自体の能力は発揮し”ながらも水害が発生したのである。もし整備水準以下の降雨であったら、水害はまず発生しなかったはずである。
 また、今回のように整備水準を越えても、“ダムができたら安全”とは誰も言っていない。
 いずれにしても、新潟水害を例に挙げて、“ダムができたら安全というのは間違いだ。”と言うのは、学者の発言としては極めて不適切である。橋に不具合が見付かって補強し、制限重量を設けて車両通行を認めたが、それを越える重量の車両が通行して橋が破壊したのを見て、補強ができたら安全というのは間違いだと、非常識なことを言っているようなものである。

 “七月の新潟豪雨では、…ダムに頼らなくても破堤さえしなければ、被害は少ないことが実証された…”と言っている。しかし、長大な延長に連なる堤防を破堤しないように補強するには、費用は甚大で、また例えば薬液注入などをすれば、環境への影響も看過できない。“ダムに頼らなくても”済む、現実的な具体案を示す義務があるが、無理であろう。

 “基本高水を超える大洪水が起きても、そこそこに安全な治水を考えるべきだ。私は床下浸水で収まるのなら、十分だと思う。”と言っている。基本高水を下げることを主張しながら、批判文で触れたように、“床下浸水で収まるのなら、十分だ”と、どうして言えるのであろうか。そもそも“床下浸水で収まる”という認識が非常識過ぎる。

 “検討委は、治水の安全はどうあるべきかという議論がないまま、ダムをやめる場合の方法を考えた結果、基本高水を下げるしかなく、そう答申した。”と言っている。最初に指摘したように、本末転倒の議論であることに未だに気付いていないが、“治水の安全はどうあるべきかという議論”がなかったことは、今になって気付いたようである。しかし、“議論がないまま”と他人事のように言っていて、委員として参加した自分たちの責任を自覚していない。

 “知事は、森林の治水効果に期待していたのではないか。”と言っているが、筆者はこれまでそのことを指摘している(別拙文参照)。森林の治水効果に期待できないことは、初めから分かっていたことで、専門家であるならば、最初に知事に言うべきであったのである。

 “脱ダムは道半ばだ。こういう問題は一年や二年では解決できない。十年、二十年という時間をかけて取り組む覚悟が必要だ。”ということだが、検討委の議論がずさんで、それを受けての長野県の遣り方が拙劣な上に、現実的な代替案が示せず、方針変更の繰り返しでは、時間を掛けるだけ無駄で、しかも出費は嵩み、流域住民の安全・安心は遠のくばかりである。“(合意形成に)大学の先生が一役買う方法もある。”とのことだが、事実経過を無視し、切実感を欠いた無責任な発言をする大学の先生に、その資格があるとは思えない。

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