『脱ダム』宣言に象徴される長野県知事の手法を問う(2001.2.28)

本文は2001.2.28付けの建設通信新聞に掲載されました。

 田中知事はあるダムの現場集会で、「二項対立ではなく、一緒に考える中で結論を出す。今後自分も考えるし、担当部局でも検討する。今結論を出すのは性急過ぎる」と発言していた。それから一箇月も経たないのに、『脱ダム』宣言を発表し、関係者や担当部局に相談、連絡もなく、そのダムを含む未着工ダムの建設中止を決定した。質問に答えて、「民主主義に逸脱しない範囲でのリーダーの決断で、独断専行ではない」といっている。
 また昨年暮の県議会の代表質問に対して、田中知事は「行政経験が幾分、未熟であったため、対話のあり方に至らぬ点があったことは素直に反省する。一連の事業の見直しは選挙の公約で、選挙の結果を通じて県民に承認されたと考えている。知事の権限としてなし得る範囲内での判断であった」と答弁した。

 「担当部局でも検討する。今結論を出すのは性急過ぎる」、「対話のあり方に至らぬ点があったことは素直に反省する」という自らの言葉を簡単に反故にしている。これだけでもリーダーとして如何なものであろうか。
 自意識的には自分がやろうとしていることの中身は公約通りで、間違っていない、法律的にも許されるという自信があるのであろう。
 選挙で公約してあれば、知事は何でもできる、というわけではない。選挙民は掲げられた公約の全てに賛成して、その候補者に票を入れているわけではない。また公約には個々の施策の具体的な内容を盛り込めるものでもない。公約には必ずしも賛成ではなくても、また個々の具体的な内容が分かっていなくても、総合的に、かつ相対的に判断して一票を行使しているのである。

 また田中知事は現場集会での発言やメール、ファックスで寄せられる意見を、自分だけで判断して個々の施策を決定するのが直接民主主義的なやり方だと思い込んでいるようである。直接民主主義的手法にも意志決定のための客観的なルールが必要であるという認識が欠落している。
 知事個人として自信があり、いくら支持が高そうであっても、リーダーとして個々の施策で公約を実現させるには、何らかのルールを定めて民意を確認したり、それを材料に、関係者や担当部局との意志の疎通を図り、議会に方針の承認を提案して確認・説得するという手順が不可欠である。

 朝日新聞の二月二十二日の社説には、『脱ダム』宣言について、「ボールの投げ方はともかく、その問題の提起は軽んじるべきではない」とある。また二月二十五日の日本テレビの番組「ザ・サンデー」でも、コメンテーターが「問題の提起」であると強調していた。しかし「ボールの投げ方」という、許せる範囲内での単なる流儀の違いの問題ではないし、「問題の提起」だけではなく、知事の権限だとして、具体的に執行停止権を行使しているのである。
 しかも簡単に自らの発言を反故にした上に、水害に怯えたり、飲み水の安心を願う多くの地元住民の切実な願いへの対応策の提示も不十分である。「問題の提起」をするというのであれば、公平に意見を聴いて判断するといっておいて、突如として一方的に権限を行使するようなことをしないで、最初から堂々と自分の理念の是非を問う手順を踏むべきである。

 いずれにしても、田中知事には「民主主義は手順・手続きの遵守にある」という基本理念が欠如している。これを欠いていながら、民主主義を語り、「民主主義の再生」を唱えているが、それでよいものだろうか。「民主主義に逸脱しない範囲」とか「知事の権限としてなし得る範囲」というのは、どうも法律に反していない範囲という意味らしい。法律は万全ではないし、ある意味では最低限の義務しか要求していない。法律を持ち出して正当化するのは権威主義である。法よりも民主主義の理念の実践を優先させなければならない。手順・手続きの無視は民主主義の自殺行為である。 

 誤解を招くかもしれないので断っておくが、これまで民主主義が十分機能してきたといっているわけではない。形だけの手順・手続きと化そうとしている現状を如何に改めていくかは重要な課題である。田中知事がそれに挑もうとしている意図そのものは間違っていない。しかしそのために自らが不可欠の手順・手続きを無視するという、別の重大な過ちを犯してはならないと指摘しているのである。
 筆者のいうような手順を踏んでいては、元の木阿弥になってしまうと思われるかもしれないが、決してそうではない。知事が予め定めたルールに基づいて、直接民主主義的手法を併用し、それを材料にして県議会に臨めば、議員は世論を気にして、知事に対峙できなくなると思う。それでも知事の意図のようにならないとすれば、知事が誤っているか、議会側が世論に反しているかのいずれかということになる。後者の場合には、次の議員選挙で世論を反映させることができるはずであり、これが間接民主主義のルールである。

 2月21日に、信濃毎日新聞の投書欄「建設標」に下記の拙文を投稿しました。多分掲載されないと思います。

タイトル:許せない独断専行
 田中知事は下諏訪ダムの現場集会で、「二項対立ではなく、一緒に考える中で結論を出す。今後自分も考えるし、担当部局でも検討する。今結論を出すのは性急過ぎる」と発言している。それから一箇月も経たないのに、『脱ダム』宣言を発表し、担当部局に相談もなく、下諏訪ダムを含むダムの建設中止を決定した。質問に答えて、「民主主義に逸脱しない範囲でのリーダーの決断で、独断専行ではない」といっている。
 自分の言葉を簡単に反故にしている。これだけでもリーダー失格である。自意識的には自分がやろうとしていることの中身は公約通りで、間違っていないという自信があるのであろう。
 選挙で公約してあれば、知事は何でもできる、というわけではない。選挙民は掲げられた公約の全てに賛成して、その候補者に票を入れているわけではない。また公約には個々の施策の具体的な内容を盛り込めるものでもない。
 個人として自信があっても、リーダーとして個々の施策で公約を実現させるには、何らかのルールを定めて民意を確認したり、それを材料に、関係部局との意志疎通を図り、議会などを説得するというような手順が不可欠である。これを欠かせたら、民主主義を語る資格はない。

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