「脳死は人の死」とすることについて(2009.7.10,12,14)
平成9年に施行された臓器移植法で、「臓器を提供する意思がある場合に限って『脳死を人の死』である」と定義された。現在国会で審議されている臓器移植法改正案のA案では、脳死を一般に人の死と位置付けている。だがこのA案の提出者自身が説明しているように、「法的には、脳死が人の死となるのは臓器提供の場合だけ」なのである。
いずれにしても、生物学的に完全な死ではない脳死を人の死だと臓器移植法で定義するのは、合法的に臓器を他人に移植するための方便に過ぎないのである。それ以外の理由はない。つまり生物学的に生きている状態の人の臓器を他人に移植する必要性から、脳死を人の死だと定義しているだけである。A案が表記上、「臓器提供」という表現を伏せたのは、少しでも臓器移植を行えるように、あたかも脳死が完全死に近いものだとしたかったからに他ならない。事の本質を誤魔化している。
さて、脳死とは呼吸、心拍など生きるために必要な働きをする脳幹を含む、脳全体の機能が失われ、元に戻らなくなった状態だとされている。このような状態でも、身長は伸び、体重も増えたり、涙も流し、排泄もし、場合によっては笑ったり、泣いたりするそうである。
もし麻酔もかけずに、臓器移植をしようとすると脳死者が、ベッドで暴れて、大変なことになることもあるという(国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」メールマガジンhttp://www.mag2.com/m/0000154606.html参照)。そうだとすれば、臓器移植法は正に殺人行為そのものを奨励していることになるのではないか。
7年ほど前に 発表した別拙文「『ぜんそく患者に「安楽死」』報道について」の中で、次の《 》内のような指摘をした。
《確かに臓器移植により助かる命があるのは事実だが、その恩恵を得られないのに微かな希望をもたされながら死んでいく、圧倒的に多数の命がある現実を知るべきである。つまり希望すれば誰でも臓器移植を受けられるわけではなく、ごく限られた人がその恩恵を受けられるだけなのである。非人情と言われようが、人の命はやはり自然の摂理に従うべきである。したがって、筆者は臓器を提供する意思も、受ける意志もないないことを明言しておく。》
繰り返すが、「脳死は人の死」だとするのは、生物学的に完全な死ではない状態の人を死だとすることである。これは自然の摂理に反し、人間の尊厳を冒涜するものである。臓器提供を受ければ助かるかもしれない人やその関係者も、自分たちの自然の摂理に基づいた死は素直に受け容れるべきである。非情だと批判されるかもしれないが、他人の死の恩恵に期待するのは、人間として許されないと気付くべきである。人間には天命があり、それを受け容れて諦めるという崇高な美徳がある。
ところで、脳死状態というのは、脳の機能が完全に廃絶していても、したがって自発呼吸が消失していても、医療技術、特に人工呼吸器の発達により呼吸と循環が保たれた状態が出現して発生したものである。このように人為的に無理矢理に脳死状態を作って、無意味な延命をする行為自身が、そもそも自然の摂理に反し、人間の尊厳を冒涜している。このような意味を持つ脳死状態の人の臓器を他人に移植するというのは、二重に同じ罪を犯すことになっている。このような罪深い行為を絶対に許してはならない。なお、脳死が人の死と認められなければ、人工呼吸器をはずす措置を正当なものと解釈することが困難となるという意見があるようだが、蘇生の可能性のない状態での、無意味な人工呼吸器の装着をしなければ、このような懸念は生じないはずである。(この段落は2009.7.12に追加)
結論として、臓器移植法そのものを抜本的に見直すべきである。このようなことを主張すると、外国で臓器移植を受ける日本人が増え、国際的な非難を浴びるという批判を受けるであろう。だが、 毅然として、「脳死は人の死」とした臓器移植は国際的にも止めるべきだという運動の先頭に日本が立ち、日本人が外国でかかる移植を受けることを禁ずるべきである。
科学や医療技術の進歩によって、この他にも人間倫理に悖る行為が全世界的に行われている。しかし、進歩は実は退歩、いや人類滅亡への歩みかもしれないのである。どこかでこの傾向に歯止めを掛けなければ、人類の存亡に関わる 、取り返しのつかない間違いを犯すことになるように思う。日本文化の優れた側面に自信を持って、この脳死問題の議論を国際的に展開しなければならないのではなかろうか。
追加 臓器移植法改正案(A案)の成立に当って(2009.7.14)
昨13日の参議院本会議で、臓器移植法改正案(A案)が可決・成立し、1年後に施行されることになった。人の死をめぐる極めて大事な議論であるにも関わらず、衆議院での審議時間は僅か9時間足らず、参議院でも17時間であった。しかも、衆議院本会議での各案が説明される場面では、多くの議員が居眠りをしている状況がテレビで放映された。ことほど左様に、各議員、政党は議案の審議より、採決をすればよいという、政局を優先させた行動をしているのである。こんなことでは、8月30日に投開票が決まった総選挙で、どんな結果が出ても、多くを期待できないであろう。誠に暗澹たる気持ちにならざるをえない。だが、諦めるわけにはいかない。相対的に、よりましな候補者、政党に一票を投ずるしかない。
一昨日の東京都議会議員選挙を含む最近の各地の選挙結果をみれば、今後よほどのことがない限り、自民党は下野し、民主党代表が次期総理になることは間違いないであろう。ここまで自民党が落ちれば、むしろゆれ戻しがあって、ひょっとすると、辛うじて自民党が踏みとどまるかもしれないという見方をする人が一部にいるようである。仮にそうしたゆれ戻しが若干あったにしても、ほとんどが中選挙区制の都議選と違って、総選挙の地方区は小選挙区制なので、都議選よりも更に民主党が有利だという要素の影響のほうが遥かに大きいであろう。つまり総選挙では、都議選におけるよりも自民党は民主党に差をつけられるであろう。このような状況になってしまった原因はすべて自民党にある。犯罪的小泉似非改革の表面化、安部、福田両元首相の無責任辞任、麻生首相の度重なる失点、党内のまとまりのなさ…と、多くの国民が見放す要因を挙げれば切りがない。サッカーで言えば、オウンゴールの連続で、相手に多少のオウンゴールがあっても勝てるわけはない。いわば自業自得である。今後しばらく、政治・経済の混迷が続くであろう。そうした中から、真の保守主義に基づいた新しい政治勢力が力をつけて、経済、福祉、教育、外交などに正しい施策が実施されるようになることを請い願わざるをえない。
追加2 朝日新聞の「声」欄の紹介(2009.7.17)
本17日の朝日新聞の「声」欄に、次の投書が掲載された。その中で、“脳死概念が崩壊していく可能性すら予見されている”という指摘がなされている。その全文を以下に紹介する。やはり無意味な延命と、それに基づく臓器移植そのものが非人道的な行為であるという原点に立って、これらを国際的に禁止すべきである。そうすれば、この投書の後半で述べられている懸念も解消する。
脳死判定を急いではならない 大学教授 澤田愛子(北海道北見市63)
改正臓器移植法(A案)が政局のどさくさに紛れ、あっというまに成立してしまった。
一律に「脳死は人の死」とした改正法は重大である。米国では最近、正確な脳死判定ができないことを理由に、もう脳死概念を放棄しようではないかという意見さえ出ており、将来、脳死概念が崩壊していく可能性すら予見されている。このような時に、わが国では法で死の概念を変えてしまったのである。
懸念されるのは、早すぎる脳死診断による死者を増やさないかという点である。移植に絡まなくても脳死診断で死亡とされる人が出てこないだろうか。そうした場合、当然、医療の質は低くならざるを得ず、高齢者や社会的弱者に犠牲者が出ないとも限らない。
他人の生命を救うために始まった移植医療が、逆に生命軽視の風潮を蔓延させることになりはしないか。施行までの1年で、生命尊重の視点から運用面での細やかな取り決めを作成していただきたい。