憲法問題を考える2007.5.1216

はじめに
 先般来載せてきた、国民投票法の成立要件に関する拙文「国民投票法案の成立要件の議論について(改訂版)」、「「国民投票法案の成立要件の議論について」(概要版)」などでは、「成立要件」がテーマであったため、いわゆる「憲法問題」に関しては、必要最小限に触れたに過ぎなかった。本文では、「憲法問題」をメイン・テーマとして、筆者の考えを包括的に述べることにする。なお、「成立要件」に関する拙文で述べたことと重複する部分もあることを断っておく。

1.筆者の基本的認識
 日本の現行憲法は改正すべきである。東京軍事裁判と共に、連合国、特に米国の日本骨抜き占領政策の象徴の一つである、不適切な現行憲法文の設定と、9条の誤魔化し解釈というその後の行為は戦後日本人の魂を喪失させた、大きな原因の一つになっていて、何時までもそのままにしておいてはならない。
 作家井上ひさしさんは、ある新聞で、“環境を破壊し、人命を損なう無駄な戦争をもうやめようと、地球上の人間全員が考え、向き合うことです”、“六十年の間、国の名の下に一人も戦争で死んでいません。平和を守っている間に世界指折りの経済大国になり、それを保証したのが憲法なんです”などと語っている。
 井上さんの“環境を破壊し、人命を損なう無駄な戦争をもうやめようと、地球上の人間全員が考え、向き合うことです”という「理念」は間違ってはいないし、筆者もそう思う。それを実現させるための方法論として、世界に類例を見ない、日本のような平和憲法を堅持し、それを世界に広めようと考える方々の存在も否定はしない。しかし、憲法の前文にあるような、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して」という大前提が、残念ながら成立していないのが、世界の実状なのである。平和憲法で「理念」は実現しないと考える人が沢山いるのも自然である。

 護憲論者のタイプを大きく分けると、自衛隊、日米安保を共に否定する、いわば理想論型護憲論者と、両者を認める軍備容認型護憲論者とになる。後者への批判は後で述べるが、前者の人たちに言いたい。「環境を破壊し、人命を損なう無駄な人殺しをもうやめようと、国民全員が考え、向き合うことです」という「理念」を掲げて、警察をなくせば、犯罪がなくなるかと考えると、その非現実性ははっきりするであろう。九条を改正すると、「理念」まで否定していると決めつける、理想論型護憲論者の独善に、多くの国民は疑問を感じ、納得しないのである。
 井上さんの“六十年の間、国の名の下に一人も戦争で死んでいません。平和を守っている間に世界指折りの経済大国になり、それを保証したのが憲法なんです”も一方的な見方で、これまで、理想論型護憲論者は安保改訂、自衛隊の海外派遣などで、すぐに日本も戦争に巻き込まれる違憲行為だと主張してきたが、“六十年の間、国の名の下に一人も戦争で死んでいません。”日本国民の平和に徹するという国民合意に基づく国是が今日をもたらしていることを虚心に認め、さらに国の防衛を他国に頼んでいることや、憲法を曲げて解釈して自衛隊を設けているという後ろめたくて、無責任な恥ずべき側面もあるということを冷静に見つめなければならない。独善的見方を、恰も疑う余地のない真実のごとく決め付けるのは間違っている。筆者は井上さんと同じ昭和9年の生まれで、日米戦争を小学生時代に経験した者として、独善こそ世の中を惑わすという教訓を敢えて強調したい。

2.軍備容認型護憲論者批判
 理想論型護憲論者は現行憲法を正直に履行すべきだとした、ある意味では、正統派護憲論者であるが、自衛隊、日米安保を共に認める軍備容認型護憲論者は、いわば誤魔化し護憲論者である。
 憲法前文にある、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と、9条、特に2項の「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」を素直に読めば、自衛隊は明らかに違憲である。戦後の日本社会のバックボーン、モラルが損なわれた最大の原因は、この誤魔化し解釈にある。国の基本法である憲法に明記されていることを公然と破って、勝手に何でもやれるとした罪は甚大である。そのことを軍備容認型護憲論者は余りに軽視しているし、日本人としての魂が喪失している。

 政治学研究者石田雄さんはある新聞で、次のように語っている。

“人間の尊厳を重んじる社会をめざすか、軍事的価値を重視する社会をつくるか、というせめぎ合いの中で、憲法は大きな転換点に来ています。「北朝鮮のような危険な国もあるのだから、憲法九条二項を守り非武装で通すのは理想論にすぎない」という議論が支配的になっています。だが、現実的に分析すれば、北朝鮮が核ミサイルで日本を狙うことは技術的に困難です。日米の強大な軍事力を見れば、北朝鮮が日本を攻撃する利益はありません。”

 先ず“人間の尊厳を重んじる社会をめざすか、軍事的価値を重視する社会をつくるか”という問題を設定するのは独善に過ぎる。人間の尊厳を重んじるのは当然であるが、軍事的側面も等閑視できないとする、常識的な人びとの存在がまったく眼中にない、不遜な言い分である。
 次に“日米の強大な軍事力を見れば”と、自分でも“軍事的価値を重視”している矛盾に気付いていない。日本が軍事力を放棄しても、世界は軍事力を放棄せず、しかも他国の軍事力で日本の平和が保たれているという、厳然たる現実は無視できない。この石田さんは、ひょっとすると理想的護憲論者かもしれない。だとすれば、“軍事的価値を重視”している矛盾に気付いていないのは、それでも学者なのかと疑いたくなってしまう。正に独善者である。このような人たちばかりを登場させる、マスコミの偏った報道の中で、憲法問題が議論される恐ろしさに慨嘆を禁じえない。

 民族学者の梅棹忠夫氏は、“(核保有論に対し)なにゆうてるか。核競争を始めたら、世界は破滅の道や。今は、もし外敵が来よったら、米国に排除してもらうことになっとる。せっかくそういう恵まれた状況にあるのだから、米国の傘の中に入っとったら、よろしいがな(毎日新聞)”と語っているそうである。核保有論に筆者も安易に与しない(後述する)が、核競争を始めるつもりで核保有論を言っているのではない。それは米国などのほとんどの核保有国とて同じであろう。それはともかくとして、“今は”以下の梅棹氏の言い分には賛成できない。「隣の県の県警が自分の県の治安を守ってくれることになっとる。せっかくそういう恵まれた状況にあるのだから、隣県の傘の中に入っていたら、よろしいがな」と言っているようなものである。いやなことは他人に任せて、自分の責任を果していないことに気付いていない。このようなことだから、日本人は米国から馬鹿にされて、あからさまな米国益のための米国による無理強いがなされて、日本人自身も魂を失い、卑屈になり、必要以上に米国の言いなりになる小泉前首相のような人物が生まれたのである。

 軍備容認型護憲論者の中には違憲を認識している人たちもいる。そのような人たちの言い分は、「前文や憲法第九条を変えなくとも、自衛のための戦力はもてる」し、「欺瞞を欺瞞として自覚・逆用し、それをしたたかに利用」し、「現憲法を武器に、世界へ打って出よう」ということのようである。したがって、梅棹氏は「したたか」で「深謀遠慮」があり、梅棹氏の発言に「含蓄」があるということのようである。また現憲法は国民レベルを超えているから、いじってはならないとまで言う人さえいる。このような議論をこそ詭弁と言うのであろう。何が何でも9条を残すということだけが目的の支離滅裂な言い分である。
 米国の日本駐留や日本への核の傘約束は、米国の利益にきわめて即しているからであって、米国とて自国の利益を優先させるのは火を見るよりも明らかである(注参照)から、いざという時にどうなるか分らない。まして米国が手出ししないほうが得策だという状況を作って、日本への核攻撃に踏み切るような国(北朝鮮のような国)が出ることを想定すると、米国と連携するにしても、原則的には日本の軍備には核保有を含めて当然である。

 ただし筆者自身も、当面日本は核保有をしないほうがよいと思っている。急いで日本が核保有すると、同盟国、非同盟国の双方を含む、各国との軍事、外交、経済などあらゆる分野の、現在でも危うい力のバランスが更に悪化する。その結果日本の国益が著しく損なわれることになり、好ましくないと思っている。またなるべく早く世界から核兵器廃絶を図らなければならない。そのためにも、日本のような経済・技術大国が核を持たないのは説得力がある。しかし自身の核による抑止力、反撃力の無さのために、可能性は低いとしても、日本が核攻撃され、犠牲を被るリスクがある。したがってそのことは「覚悟」の上という、国民的合意が是非必要である。決して、米国を信用したり、「米国の傘の中に入っとったら、よろしいがな」という、無責任な姿勢からではない。「覚悟」ができないのであれば、また客観状況によっては、日本が核保有するのもやむを得ないと思っている。
 いずれにしても、「したたか」で「深謀遠慮」だとするのは、米国の核の傘を単純に信じているからである。この前提が「浅慮」に基づいているのである。本5月「したたか」、「含蓄」どころか「あさはか」な独り善がりに過ぎない。結果として、国家の矜持観念に欠けた、卑怯で無責任な詭弁である。これでは、「現憲法を武器に、世界へ打って出よう」にも出られないし、「前文や憲法第九条を変えなくとも、自衛のための戦力はもてる」という意見を正当化できない。

 日本の軍備に関して、「米国の軍備は世界一だから、これを抜くだけの核装備をしなければ、結局のところは意味がない」という意見がある。これも一見なるほどと頷く方もおられるかもしれないが、極めて幼稚な誤魔化しの議論である。これが真理ならば、米国以外の世界の国々はすべてか、少なくとも同盟国は軍備、核装備を止めるはずである。なにしろ軍備、核装備は意味がないのだから。そうなれば話は簡単である。だがそうはならないのである。各国の軍備、核装備は、それぞれの国の日頃の外交(経済問題を含む)展開上の支えや、他国の力の行使への抑止力と阻止のために、残念ながら欠かせないのである。
 なお、誤解を恐れずに言うと、場合によっては日本が核保有を言い出してもよいのに、米国の逆鱗を恐れて言い出せないという、卑屈で、だらしない有様を、日本の保守論陣は呈している。米国に無原則に追従する保守論者の多くは、結果として日本が卑屈になって、米国の言いなりになってしまっている間違いを誘発させている。すなわち「グローバル・スタンダード」という、実は「アメリカン・スタンダード」や、米国からの「年次改革要望書」などを唯々諾々と受け入れ、米国益のために日本を売り渡したし、また渡そうとしているのである。


 12日の報道によると、4月末にワシントン近郊・キャンプデービッドで行われた日米首脳会談で、安倍首相が「拉致問題の解決をテロ支援国家指定解除の前提条件にして欲しい」と要請したのに対し、同席したライス国務長官が、指定や解除の根拠となる国内法に照らして判断すると説明したうえで「米国民が直接(拉致の)被害にあったわけではない。前提条件にはならない」と述べたという。米国の国益の前には日本との約束など一溜まりもないのである。

3.憲法の永久平和規定は改憲の対象にならないか?
 井上ひさしさんは、“そもそも、国民主権、永久平和、基本的人権の尊重という、三つの柱を崩すことは改憲の対象になりません。前文にこの原理に反する憲法、詔勅、法律は排除すると書いてあります。三つの原理は変えちゃいけないと、前文できちっと、うたっているのです。国民投票は成立しないのです。”と語っている。
 憲法前文の@は次の【 】内のようになっている。

【日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。】

 “これは人類普遍の原理”の“これは”とは、“そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する”を受けていることは明かである。仮に“排除する”をそのままにしても、九条改正を対象にして、“永久平和”という、一つの“柱(九条の規程を指すらしい)を崩すこと”は改憲の対象になり得る。したがって“国民投票は成立しないのです”というのは、とても成立しない無理な論理である。改憲問題になると、作家なのに言葉の文脈さえも分らなくなるのであろうか。

4.自虐史観について
 憲法問題を議論する際に、日本の過去の過ちへの反省に基づいて新憲法は制定されたのに、そのことを忘れて改憲を軽々しく論じられているという、いわゆる自虐史観に基づく批判が必ず出される。日本の過去の過ちへの反省の必要性は否定しないし、新憲法がそのような背景がないとは言わない。しかし、日本の過去の過ちへの反省だけに基づいて新憲法は制定されたわけではなく、現行憲法の前文と9条を貫く、いわゆる「永久平和主義」は、基本的には連合国、冒頭で触れたように、特に米国の日本骨抜き占領政策に基づいている。
 日本の過去の過ちへの反省が適切であったかどうかは別にして、場合によっては不必要な反省を行っているのは遺憾の極みである。以下筆者の知人のQ氏と自虐史観について遣り取りした一部を紹介する。

Q氏
 戦後の日本の退廃の原点を、私は憲法にではなく、あの太平洋戦争を自身でいまだ総括できない国民性に見ています。根因はその点以外にないと考えています。世界的に見ても珍しい国と思います。
筆者
 戦争を自身で総括するとは、どういうことでしょうか。米国は太平洋戦争における無差別空爆や、原爆投下を自身で総括しているとお考えでしょうか。相手が悪いのだから、無差別空爆や、原爆投下でも許されるというのであれば、自身で総括するということはあり得ないのではないでしょうか。“世界的に見ても珍しい国と思います”と言われますと、自虐史観の持主なのかと、慨嘆を禁じえません。
Q氏
 無謀な戦争を起こし、敗戦に導き、多くの犠牲者を日本とアジアにもたらし、それを自身で総括できない国のことを言っています。すべてを「空気」のせいにする、それが戦後社会にまん延したのです。では、戦前のあの政権は、どのように国家の経営責任をとったのでしょうか。また、国民はとらせたのでしょうか。その上で、米国の原爆投下を徹底的に突くべきなのです。…自分もきっちりとし、相手にもきっちりとさせる。それだけのことです。
筆者
 米国は太平洋戦争における無差別空爆や、原爆投下について、その誤りを認めていませんし、指摘しても反省しないでしょう。それぞれの国には、他国から、あるいは客観的に見れば許せないことがあっても、何時までも尾を引かせず、未来志向でお互いに触れないという暗黙の了解があるのであります。そういう意味では、賛同をしていただく必要はありませんが、日本は必要以上に謝り、却って付け入れられているように思います。国として謝るということは、言葉だけでは済まないということを認識しなければなりません。個人の道徳問題とはまったく違います。
 あるいは、太平洋戦争を始めたのは日本だから、総括するのは先ず日本で、そいう意味で“世界的に見ても珍しい国”と言っているのだと仰るかもしれません。しかし日本が戦争を始めるように追い込んだり、日本の真珠湾攻撃を知りながら、それを利用して、自国の世論を動かしたのも米国であることは、歴史的事実であります。日本だけが先ず総括すべきだというのは、やはり自虐史観であります。
Q氏
 日本の国・日本の国民対して日本の国と国民が、自身で総括できていないと言っているのです。そりゃ、戦争に勝っても、自身への総括は必要です。だが、それは自身を相当に律しないかぎり、なかなかに難しい。
筆者
 当初“太平洋戦争を自身でいまだ総括できない国民性”とされたのが、今回は“日本の国・日本の国民に対して日本の国と国民が、自身で総括できていない”国民性ということになっていまして、かなり内容に違いがあります。自身で総括するのは自国民に対してはもちろんのこと、他国民を意識した総括も含まれると、私は解釈していますし、当初の表現からは、そのように解釈するのがごく自然であります。この常識的な観点から、日本以外は自身で総括できていて、日本だけが自身で総括できていないと言われていることを問題にし、そこが自虐史観だとしているのであります。ただし、自身で行う総括が仮に自国民に対して、自国民自身で行う総括(例えば太平洋戦争の開始で自国民を騙して外国に参戦させて犠牲者を沢山出したという米国の総括)に限定される(その必要性は感じませんが)としましても、同様に自虐史観であることに違いはありません。

 このような遣り取りで明らかなように、勝てば官軍という、勝者の論理を認めることの自虐性に気づかない人たちに、自虐史観の間違いを説いても無駄で、このような人たちの護憲論には日本人としての矜持が欠落している。

5.理想論型護憲論も軍備容認型護憲論も感情論
 ごく一部の軍需産業関係者と、場合によっては国の指導的立場の人たちに、戦争を好む人がいないわけではないが、世界の大半の人びとは戦争が嫌であるに決まっている。だから、軍備を持たず、戦争をしない国が出現することを望むのは当り前である。だからそれを目指したと思う憲法を、できるだけ護りたいという気持ちが湧くのは、ごく自然である。問題は軍備を持たず、戦争をしない国が、一国だけでその国の平和が本当に確保できるかということである。残念ながら、実際には、軍備を持たず、戦争をしない国と日本は憲法で規定しながら、実際には自衛隊と日米安保体制という核の傘を含む軍備に依存して、日本の安全は保たれているのである。このギャップに目を瞑って理想論に靡く人たちは、実は感情論によっていることに気付かなければならない。
 各種の世論調査によれば、新憲法のお蔭で戦後日本の平和が維持されてきたという意見がかなり多い。しかし設問の仕方にも問題がある。例えば、自衛隊と日米安保体制という核の傘を含む軍備に依存していることと、日本の平和が維持されてきたこととは関係していると思うかと訊けば、結果はかなり違うであろう。また日頃の報道でも、そのような観点のものが少な過ぎて、国民も総合的に考える癖がついていないということも関係している。したがって、多くのマスコミが行う世論調査を基に、国民は「戦後新憲法のお蔭で日本の平和が維持されてきた」と考えているとするのは適切ではない。
 理想論に徹するのであれば、自衛隊と日米安保体制を否定し、更に一旦日本が攻撃されても敢えて抵抗しないと覚悟し、かつその覚悟について国民的合意を得る努力をし、そうなるという見通しがなければならない。そうでなければ、無責任な感情論に過ぎない。ネール元首相の無抵抗平和主義をインドが捨てたのは、もう随分前のことである。感覚的には素晴らしいが、無抵抗平和主義でインド国民の安全は護れないない現実に気付いたのである。
 また護憲論ながら、自衛隊と日米安保体制という核の傘を含む軍備を容認する軍備容認型護憲論も、「あさはか」な独り善がりの空論という、無責任な感情論に過ぎないと言える。

おわりに
 今発売中の週刊誌「週刊現代」の5/15号に、ノンフィクション作家の保坂正康氏と文芸評論家の福田和也氏の対談「安倍晋三に憲法改正を任せてはいけない」が載っている。
 福田氏は、“私は基本的には改憲論者ですが、それは「9条を何とかしろ」ということじゃなく、とりあえず憲法をいじれる体制にしてほしいということです。9条については、正直言うと解釈改憲をここまでやっていますから、改憲する意味はあまりないですね”と語っている。“とりあえず憲法をいじれる体制にしてほしい”とする意見には大賛成である。憲法を不磨の大典にしてはならないからである。しかし、この後半の発言には、氏の軽薄な精神構造を見てしまう。本文で指摘した解釈改憲という誤魔化しの罪の重さにまったく気付いていない。
 次に、“一部の論者が言うように、「憲法全体をフルセットで一気に変えます」というのはナンセンスです。憲法をいじるのであれば改憲手続きを整えた上で、条文ひとつひとつ丁寧に吟味して変えていくべきです。”とも指摘している。これには、まったく賛成である。そうでなければ、改めるべきことも改められないということになってしまうし、逆に改めてはならないことも改められてしまうことも起こってしまう。法案では発議は「関連する事項ごとに」行うとされているが、関連する範囲がぼけると、拙いので、きっちりとした定義付けが必要であろう。
 保坂氏の“憲法に触るときには「命を懸けろ」とまでは言わないけれど、人生や政治を懸けるくらいの真剣さはほしい。護憲派にせよ改憲派にせよ、いまはそういう迫力がないですよ。”という意見には、まったく同感である。

 ジャーナリストの立花隆氏は、“いま大切なのは、誰が9条を発案したかを解明することではなく(究極の解明は不可能だし、ほとんど無意味)、9条が日本という国家の存在に対して持ってきたリアルな価値を冷静に評価することである。そして、9条をもちつづけたほうが日本という国家の未来にとって有利なのか、それともそれをいま捨ててしまうほうが有利なのかを冷静に判断することである。私は9条あったればこそ、日本というひ弱な国がこのような苛酷な国際環境の中で、かくも繁栄しつつ生き延びることができた根本条件だったと思っている。9条がなければ、日本はとっくにアメリカの属国になっていたろう。あるいは、かつてのソ連ないし、かつての中国ないし、北朝鮮といった日本を敵視してきた国家の侵略を受けていただろう。9条を捨てることは、国家の繁栄を捨てることである。国家の誇りを捨てることである。9条を堅持するかぎり、日本は国際社会の中で、独自のリスペクトを集め、独自の歩みをつづけることができる。9条を捨てて「普通の国」になろうなどという主張をする人は、ただのオロカモノである”と述べている。(http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070414_kaiken/index6.html

 “究極の解明は不可能だし、ほとんど無意味”としているが、マッカーサーがそうさせたのは歴然とした事実である。立花隆氏はそう思いたいだけなのであろう。それはともかく、“9条が日本という国家の存在に対して持ってきたリアルな価値を冷静に評価すること”というのが、例えば“日本はとっくにアメリカの属国になっていた”のが避けられたという、頓珍漢な指摘には呆れる他はない。また、何の後ろめたさもなく、“日本というひ弱な国がこのような苛酷な国際環境の中で、かくも繁栄しつつ生き延びることができた根本条件だった”と手放しで評価し、国家の繁栄至上主義を臆面もなく主張している。魂の喪失した人だと、哀れみさえ覚える。

 今回本文をまとめる前に、これまで様々な問題で的確な意見を開陳され、人並み以上に知性・理性・教養が備わり、尊敬していて、何度か意見交換していたQ氏と憲法問題に関連して、メールで遣り取りを行った。この方は軍備容認型護憲論者で、筆者の考えに賛同が得られなかった。そのこと自体は、ある意味で当然であるので別に気にはならなかったが、筆者の指摘を感情的に受け止めて、独断と思い込みで、頓珍漢な内容のメールを頂戴し、あげくに筆者を誹謗する人物評価までされてしまったのには、正直驚いた。
 日頃冷静に物事を分析し、的確な意見を述べておられるのに、こと憲法問題では、先ず改憲絶対反対があり、筆者の意見を賛否は別にして、客観的に捉えられないのである。話が通じなくなった切っ掛けは、次のような筆者からの指摘であった。
「本来最初に決めておくべきであった、憲法の改正手続き法である「国民投票法」を何時までも放ったらかしにしてあったのが間違っていたのであります。改憲、護憲の立場に関係なく、「国民投票法」について議論をして、決めるべきであります。そうしないと、改正の議論だけでも現実感を持って真面目にできません。改正手続き法の作成に反対するのは、この本質論を排除し、目的には手段を選ばずという、戦術的な邪道な手法を感じます。」
 これに対してQ氏から、“改憲に反対だから戦術として、「国民投票法」にあくまで反対します”という返事であった。議論にならないのである。もう少し説明すると、例えばこんな調子である。

“9条改正の必要性の議論は、自然科学のような明確な妥当性はあり得ません。この点だけは人間各個人の思想であり、イデオロギーです。「市場原理主義」の賛否に、明確な妥当性はありません。藤原正彦といえども、反市場原理主義が絶対に正しい、市場原理主義は絶対に間違っているとは、数学のようには証明できないと思われます。”

 自然科学であろうが、人文科学であろうが、ある問題を議論する“明確な妥当性はあり得ません”ということこそあり得ない。“人間各個人の思想であり、イデオロギー”でも、議論の対象になり得て、お互いに意見を開陳し合って、主張や批判を交すのは、相手に押し付けない限り有用なことである。藤原正彦氏は、すべての論理は仮定から出発するが、その仮定の正しさは証明不可能だと言っているが、反市場原理主義と市場原理主義の何れが適切なのかの判断はされていて、市場原理主義は間違っているとされている。そもそもこの種の問題で、絶対に正しいとか、絶対に間違っていると、証明できるはずはない。
 ともかく、Q氏は改憲問題は議論無用なのである。保坂氏の言われる“人生や政治を懸けるくらいの真剣さ”と、議論無用という頑なな姿勢とは違う。Q氏との遣り取りを打ち切った後も、自身のブログで時事問題について冷静かつ的確に論じておられる。どうして改憲問題では、かくもインテリ人間を変えさせてしまうのであろうか。インテリだからであろうか。いずれにしても改憲問題を議論しようとすると、視野狭窄症に多くの人が罹るのは間違いがなく、それだけに忍耐強く当らなければならない。憲法問題の議論をする難しさを痛感する。

追加 弁護士堀田力氏の寄稿文について2007.5.16
 昨5月15日付けの信濃毎日新聞に、弁護士堀田力氏の次の【 】内のような寄稿文が載った。

【一緒に論じられぬ「九条」 国民投票法 正すべきは正さねば
 多くの疑問が解明されないまま、国民投票法が成立した。われわれは、どうずればよいか。凍結期間の三年間、国民の間で冷静に議論をして、正すべきは正さなければならない。
 一つは、最低投票率である。憲法九条を改めたい安倍政権は、改正のハードルを下げるため、最低投票率を設けなかった。しかし、九条の改正は、現在及び未来の日本国民の生命そのものにかかわる重大事である。少なくとも投票権者の半数以上とすべきではなかろうか。老若男女、多数の国民の議論参加を得て、付帯決議どおり、しっかり詰めてほしい。
 それより大きな問題は、公務員や教育者の地位利用による運動の規制である。これは労働組合による反対運動を嫌ったもののようであるが、あまりに政治的な発想である。
 ことは、どの候補者を当選させるかというレベルの投票ではなく、現在及び未来の国民の生き方の形を決める投票である。あらゆる場で、少しでも多く情報が提供され、意見の陳述や交換が行われることが望まれる。ところが、本法の規制はその内容があいまいなため、憲法についての授業や議論を委縮させるおそれがきわめて強い。早急に見直すべきである。
 さて、本法の規定のうち憲法審査会の部分は次の国会から施行され、さっそく憲法改正論議が始まる。注意が必要なのは、九条問題と、それ以外の改正問題とを混同しないことである。
 施行六十年、憲法は人類普遍の原理に基づき国の形を定め、国民の権利と生活を守ってきた。しかし、社会の進歩に応じ、いくつか補正した方が望ましい事項が出てきている。たとえば環境権やプライバシーの保護などを追加し、共助の仕組みを取り入れ、地方自治体の権限を独立のものとするなどである。そういう改正を望む人たちを含めると、改憲派は国民の多数を占める。
 しがしながら、安倍総理が問う改憲の争点は、九条問題である。この問題になると、国民の多くは、現状維持に傾く。
 九条問題は、他の問題と異なり、憲法の基本原則にかかわるものであり、また国民の生命にかかわるきわめて深刻な問題であって、国民の意見も激しく分裂している。これを他の問題と同じプロセスで扱うことは、議論を誤導する。憲法審査会は、議題を完全に分別して審議すべきである。
 そこで、その九条問題の議論であるが、危険なのは、国会議員が国民の意向を正しく反映していない現状にあることである。各種の世論調査を見ても、九条改正反対が国民の多数派であるのに、自民党議員は改正でまとめられており、民主党にも改正派が少なくない。そういう状況の中で、「自衛隊を実態に沿って軍と認めるか」「固有の権利である集団的自衛権を認めるか」という問題提起をすると、答えは形式論でイエスに引きずられやすい。しかし、問題の本質は形式論にあるのではなく、「現在の世界情勢の下、いかに平和を確保するか。そのために日本はどうすべきか」という実質論にある。選択肢は@アメリカと軍事的にも協調するかA国連軍に参加するかB現行の武力不保持・不行使路線を貫くか、であろう。真正面から国民の熟慮と判断を求めるべきである。】

 “少なくとも投票権者の半数以上とすべきではなかろうか。老若男女、多数の国民の議論参加を得て、付帯決議どおり、しっかり詰めてほしい”として、最低投票率制度を導入すべしとのことであるが、この堀田氏も、別拙文「国民投票法案の成立要件の議論について(改訂版)」、「「国民投票法案の成立要件の議論について」(概要版)」などで指摘した成立要件に関する本質的な視点に欠け、安易に感覚的な観点から言っている。“付帯決議どおり、しっかり詰め”ると、最低投票率制度導入の不合理性がはっきりするので、徹底的に議論してもらいたい。尤も、最低投票率制度の導入で、改憲が阻止できることがはっきりすると、尚更拘るかもしれないが。そうであれば、目的のためには手段を選ばずという、ずるい姿勢を国民に訴えることで、こうした思惑を不成功に追い込まなければならない。

 “九条問題の議論であるが、危険なのは、国会議員が国民の意向を正しく反映していない現状にあることである。各種の世論調査を見ても、九条改正反対が国民の多数派であるのに、自民党議員は改正でまとめられており、民主党にも改正派が少なくない。”とあるが、どうしてそうなるのかについて、一切考察していない。
 このようになるのには二つ原因がある。一つは既に指摘したように、調査や設問の仕方にある。もう一つは、マスコミ報道で感覚的に判断し易い一般国民と違って、国会議員はある程度現実を冷静に見て考える人が多いということである。しかも、このような国民が国会議員を選んでいるのである。“国会議員が国民の意向を正しく反映していない”と言い切ってしまっては、民主主義を否定することになる。このようなことを一切無視した、勝手な決め付けをしている不遜さに、堀田氏はまったく気付いていない。

 “「自衛隊を実態に沿って軍と認めるか」「固有の権利である集団的自衛権を認めるか」という問題提起をすると、答えは形式論でイエスに引きずられやすい。しかし、問題の本質は形式論にあるのではなく、「現在の世界情勢の下、いかに平和を確保するか。そのために日本はどうすべきか」という実質論にある。”とあるが、形式論と実質論と区分けること自体間違っている。堀田氏の言う実質論、実はこれは立場の相違には無関係な議論の出発点である。ここにも九条変更論者の出発点は違うという不遜な思い込みが堀田氏にはある。この共通の出発点から、堀田氏の言う形式論である自衛隊や日米安保の位置付けなどの具体論について議論すべきである。“形式論でイエスに引きずられやすい”として、具体論を封じたら、議論そのものが成立たない。
 それなのに、“選択肢は@アメリカと軍事的にも協調するかA国連軍に参加するかB現行の武力不保持・不行使路線を貫くか、であろう。真正面から国民の熟慮と判断を求めるべきである”と、具体論の議論を促している。支離滅裂である。しかも選択肢がこの三つに限られるか疑問だし、堀田氏自身はどう考えているのかもはっきりしない。論調からすると、少なくとも九条絡みでは護憲論者なので、@はあり得ないから、AないしBであろう。それにしても“現行の武力不保持・不行使路線”なるものが、理想論型護憲論によっているのか、軍備容認型護憲論によっているのかがはっきりしない。

 いずれにしても、“真正面から国民の熟慮と判断を求めるべきである”とされるならば、指摘した様々な疑問点や、筆者の護憲論者批判に、“真正面から”応えてもらいたいものである。

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