H氏への最後のコメント2007.1.2,7)

 昨年暮れに、あるYahoo掲示板のH氏の書き込みを取上げて、その的外れ振りを指摘してきた。先ずそれに関連する主な部分を幾つか再掲(着色部)する。

  浅川流域住民の意見を聞く会を傍聴して」より

追加 あるYahoo掲示板への書き込みについて(200612.6)
 あるYahoo掲示板でしきりに、「浅川は過去、千曲川合流地点の内水氾濫以外で、洪水被害は起きたことがない」から、内水氾濫を解決できないダムを造るのは意味がなく、無駄で、「浅川だけ甘やかす理由がどこにあるのか」と、書き込まれている。

 先ず、「浅川は過去、千曲川合流地点の内水氾濫以外で、洪水被害は起きたことがない」というのは、明らかに事実に反している。過去の実績記録を無視している。また「浅川だけ甘やかす理由がどこにあるのか」とのことだが、その根拠がこの事実誤認に基づいているのだろうか。他に根拠があるとは何も書かれていない。いずれにしても無責任な言い分である。
 計算上も淺川が特別扱いされているわけではない。国の同一基準で算定されているのである。決して「浅川だけ甘やか」されてはいない。しかも同じ基準で算定された基本高水でも、他で現実にそれを上回ることが起きている。

 この書き込み者が言うように、外水対策は不要という単純なことであるならば、脱ダム派の大先生たちが大勢を占めた検討委員会は、どうして外水対策を不要としないで、それが必要であるという前提で審議し、脱ダムを自ら宣言した田中前知事も外水対策を否定するどころか、非現実的なものとはいえ、その対案を模索したのか。しかも、どうして検討委員会で説得力のない理由でダムなしを答申し、田中前知事がその答申をそのまま採用できなかったのか、そして代替案が示せず混迷を極めたのか。説明できないではないか。
 なお、内水対策も可能な範囲で、その対策が検討されている。内水、外水共に、現実的で、できる範囲内での対策を講ずるしかないのである。

 念のために、この書き込み者の表現の一部をそのまま紹介する。

“治水問題、交通安全問題、介護問題、いじめ問題。みんな、ある程度のリスクを背負って生きているのだよ。浅川だけ甘やかす理由がどこにあるんじゃ? ようするに、公平公正で受容可能なレベルまでリスクを引き下げるのが行政の仕事でしょうが。”

“「この先、すごい大雨が降るかもしれない。すごい洪水が出るかもしれない。その時のために、ダムを含めた万全の対策をしておくべきだ」っていう主張は、もうやめましょう。言い出したらキリがありません。”

 この最初の文の、“浅川だけ甘やかす理由がどこにあるんじゃ?”以外は、筆者が再三指摘していることである。淺川も“公平公正で受容可能なレベルまでリスクを引き下げるのが行政の仕事”だから、そうしようとされているだけの話である。
 二番目の文で、“すごい大雨が降るかもしれない”とあるが、100年に一度の水準の大雨は、人並みの水準で、殊更に“すごい大雨”ではなく、それでも結構リスクは残る水準なのである。
 客観性のない、思い込みによる、一方的な主張に、一般の方々は惑わされないでいただきたい。

大熊孝教授の朝日新聞紙上での発言について」より

追加 28日付けの毎日新聞の記事について(200612.28)
 12月28日付けの毎日新聞の記事『しらかば帳:「淺川にダムができるのはあたりまえ・・・』を次に示す。

◆「浅川にダムができるのはあたりまえじゃないですか」。長野市で11月末に講演した田中康夫前知事の言葉だ。8月まで続いた田中県政では、ダムに変わる代替案が二転三転した。防災管理者の長野市、長野新幹線の用地買収に応じる代わりに、ダム建設を求め県などと確認書を締結した下流域の住民らは、県に対して不信感を増大させた。無駄な公共事業を中止することに焦点を集めた「脱ダム」宣言だが、一種の開き直りとも言える田中前知事の発言に、混乱や不信を招いたことへの責任感が全く感じられなかった。結局、「脱ダム」は絵空事であるという思いを強くした1年だった。(健)

 上記拙文で、マスコミの報道姿勢に厳しい注文をつけたが、淺川ダムの問題で、これほど正直な“結局、「脱ダム」は絵空事であるという思いを強くした1年だった”という記事に接したのは、筆者の記憶では、初めてのことであった。マスコミの報道姿勢について、決め付け過ぎたかもしれない。こうした真面目な報道姿勢に期待したい。

追加2 29日付けの毎日新聞の記事について(200612.29)
(前半略)
 上記の「追加」で取り上げた記事に関して、あるYahooの掲示板に次にような書き込みがあった。

>◆「浅川にダムができるのはあたりまえじゃないですか」。<
これ、100%、田中康夫は、「(長野市民のみなさんが反対の声を上げないなら)浅川にダムができるのはあたりまえじゃないですか」という意図で言ったわけだね。主張が昂じて、意味がひっくり返った表現、いわゆる倒錯表現になる。田中康夫にはよくある言い回しだけんど。 それを毎日の記者が勘違いして、あるいは恣意的に、前後の文脈を無視して、あたかも田中康夫がダム推進であるように書いた、そういう書き方をした、と。

 この書き込み氏は、これに限らず、独断で他人を決め付ける習癖がある。“毎日の記者が勘違いして、あるいは恣意的に、前後の文脈を無視して、あたかも田中康夫がダム推進であるように書いた、そういう書き方をした”とあるが、毎日新聞の記事について、普通はそんな読み方はできない。
 この書き込み氏に、“田中康夫は、「(長野市民のみなさんが反対の声を上げないなら)浅川にダムができるのはあたりまえじゃないですか」という意図で言ったわけだね”と改めて指摘されるまでもない。そういう意図だったからこそ、記事には、“一種の開き直りとも言える田中前知事の発言”、“混乱や不信を招いたことへの責任感が全く感じられなかった”とあるのである。田中氏は自分で混乱や不信を招いていながら、他人に反対の声を上げろと一種の開き直りを言うのは無責任だとしているのである。
 ここでは紹介しなかったが、自分が間違った読み方をしていながら、田中氏の意図なるものを実証(?)するために、長々と書き込んでいる。呆れた御仁である。
 しかも、この記事の趣旨は、“混乱や不信を招いたことへの責任感が全く感じられなかった。結局、「脱ダム」は絵空事であるという思いを強くした1年だった。”というところにあるのだが、この肝心の点には触れていない。反論になっていないどころか、ただ田中氏を擁護したい(結果としてそうなっていないが)だけだということが露呈している。田中擁護者にはこのような人が多いが、その典型である。

   これらについて、H氏からその掲示板に次の【 】内(着色部)のような書き込みがあった。

【元信大教授の長尚せんせが、浅川治水のもろもろについて書いてて、新潟大教授の大熊孝の朝日インタビュー答弁のほか当掲示板の投稿も引かれてるね。
>恣意性はなく、ほとんどその最大値が技術的判断で採用され、色んな水準が河川管理者によって、恣意的に採用されていたという事実はない。<
これは正直いって、私の勘違いですたね。基本高水の算出は「国の基準が改訂されて、一番大きい数値を取るようになってしまった」という、12/21朝日の浅川対論の大熊の説明を読みおとしていた。全国共通の計算式ででた結果の複数の数値の中から、自動的に最大のものを選ぶよう国が決めたわけね。
でも、長による上記の大熊批判は、てんで的外れだね。大熊は、その、国の基準改訂で一番大きい数値を取るようになった大きな理由の1つが、安易にダムを求める官僚と政治家の思惑にあるとし、そのことを「恣意的」と言ってるわけだでね。そら誰がみたってモロに恣意的でしょ。なんで自分らの安全基準を決める権限が政府にあるだ? 意味ワカラン。
それに、大熊答弁の後段の、大仏ダムが中止された薄川(松本)の基本高水が580tから474tに下がったことについては、長は触れてないね。大熊は「片方(薄川)でダムが止まって片方(浅川)でダムが止まらない。恣意的な判断が入っているからだ」と答弁している。そりゃそうだ。浅川と薄川の差異はいったい何なんだ? って話になるわな。私もまた調べてみるか。

浅川の基本高水450/sがなんで過大かの説明は、高水協議会や北山早苗を引用しながら当掲示板#998
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000570&tid=a1 yklbb3aaida1ya1bda1bdbfbfc0ada5a2a5debbtl18a95da4nselp&sid=2000570&mid=9 98
999
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=2000570&tid=a1 yklbb3aaida1ya1bda1bdbfbfc0ada5a2a5debbtl18a95da4nselp&sid=2000570&mid=9 99
にも書いた通りと。

100年に一度の水準が毎秒450dを超えるかもしれないし、それ以上の水準のものもあり得るのである。“国の基準に囚われず、当地が主体的に判断しなければいけない施策”とは言っても、自分だけでできることではないから、もっと安全水準を高めて欲しい(欧米先進国の水準は日本より遥かに高い)が、せめて最低国の基準の水準を望むとしているだけなのである。自主的判断をという、聞こえの良いことで現実問題は進まないのである。このような青二才の議論が結構受け入れられる現実にも、大いに問題がある。<
100年に一度の水準が毎秒450dを下回るかもしれないし、それ以下の水準のものも実際、いくらでもあったのである(ex95年豪雨など)。“国の基準に囚われず、当地が主体的に判断しなければいけない施策”というのは、治水は多大な税金を投入する事業なので、自分たちのエゴイズムでゴリ押ししていい話ではない。
とくに過去の被害実績をよくみて、被害実績のない外水対策など後回しにして、最下流の内水被害へ傾注投資するなど、ポイントを押さえた治水策をおこなうべきである。想定外の事態に備えるなどという、保守的で老害な議論がすこしは受け入れられる現実にも、大いに問題がある。「想定外」など、言い出したらキリがないのである。
1/100の降雨(130mm/d)という線引きを、厳しく自覚すべきである。
行政から充分に満足な施策を受けている人間など存在しないのである。みんな多かれ少なかれ不安を甘受しながら生きているのである。甘ったれるのもいい加減にしてほしいものである。

>あたかも田中康夫がダム推進であるように書いた、そういう書き方をした”とあるが、毎日新聞の記事について、普通はそんな読み方はできない。<
http://www.avis.ne.jp/~cho/asok.html
だよね。でも、いるんだな、「そんな読み方」をした人が。レス元の投稿者さん。まあ、まともに付き合った私があほでしたと。

あと、上記アドレスの長せんせの内水・外水について。
>“内水の問題はダムでは防げない”と今更のように言っているが、これは当初から認識されていたことで、ダムは基本的にはいわゆる外水対策として議論されてきている。<
これはいいね。ダム造っても最下流の内水氾濫には意味ないよ、と。長せんせも認めてはる、と。でも、それを長沼・豊野の人びとが認識していないのが問題なのだよね。県が説明してこなかったから。

>長野県治水・利水ダム等検討委員会浅川部会報告の5の中に、「下流域の深刻な内水災害対策…は、ダム建設の有無にかかわらず、重要な問題として解決が迫られている」とある。このように、長野県治水・利水ダム等検討委員会と浅川部会では、ダム建設の賛否にかかわらず、内水問題は別な重要問題であるという、共通認識で議論されているのである。<
これもいいね。そのとおり。

>つまり、外水対策もまた重要であるという認識も共通で、ダム建設の可否の議論を、大熊教授自身もしてきたのであり、内水を抜本的には解決できないから、外水対策が不要ということにはならない。<
んで、仮に、「ダム造っても内水氾濫は治まりませんよ」という、偉大なる長尚・元信大教授先生もおっしゃることを、長沼・豊野の人びとが全員、虚心坦懐に納得するなら、「ダムを造れ」という人は、流域には1人もいなくなるわけだね。県土木部と、鷲沢正一と、建設業の票がほしい県議たちだけになる。あるいは、確認書どおりに履行してもらって、さっさと土地を売りたい地権者。
外水対策狙いなら、ダムを造れという声は、こんなに出てこない。過去に被害実績がないんだし、天井川の部分の改修もとっくの昔に終わってんだから。もちろん外水対策は考えるよ。でも、これまでのように、異常なまでにダムに固執する声はなくなるね。

こう見てくれば分かるじゃん。いったい誰がそんな必死こいてダムを造りたいのか? コンクリートを売りたいのか? が。
反対派のことを「異常なまでにダムに反対する」と思うのは、それは、「異常なまでにダムに固執する」推進派が先に存在するからなわけじゃん。表裏一体なのでして。
学者さんの議論を聞いてていつも消化不良なのは、こういうとこだね。人間の心理、欲の強さ、客観性なき思いこみの激しさ、そういうものに対する想像力がないからだよね。まさに現実から遊離した机上の空論。文学がないんだよ文学ぐぁ。
 あほらしい書き込みだが、これを最後にコメントしておくか。
(この行ミスコピーにつき削除する。下記「追加」参照)

 以上のH氏の書き込みをお読みいただくと、既に筆者が指摘していることを素直に読んでいないと、ほとんどの読者は気付かれるであろうが、念のために、以下簡単にコメントする。

@基本高水の恣意性について
 “正直いって、私の勘違いです”といとも簡単に言うような無責任さを反省しないで、“長による上記の大熊批判は、てんで的外れだね。大熊は、その、国の基準改訂で一番大きい数値を取るようになった大きな理由の1つが、安易にダムを求める官僚と政治家の思惑にあるとし、そのことを「恣意的」と言ってるわけだでね。そら誰がみたってモロに恣意的でしょ。なんで自分らの安全基準を決める権限が政府にあるだ? 意味ワカラン。”と、開き直っている。
 技術的、確率論的な必然的判断であって、恣意的ではないと筆者は指摘しているのに、勝手に、“誰がみたってモロに恣意的でしょ”と感情的に決め付けている。しかも、自身は基準が恣意が入るようになっていると勘違いして難癖をつけていたことをけろっと忘れて、今度は“なんで自分らの安全基準を決める権限が政府にあるだ?”と、噛み付いている。
 なお、“大仏ダムが中止された薄川(松本)の基本高水が580tから474tに下がったことについては、長は触れてないね。大熊は「片方(薄川)でダムが止まって片方(浅川)でダムが止まらない。恣意的な判断が入っているからだ」と答弁している。そりゃそうだ。浅川と薄川の差異はいったい何なんだ? って話になるわな。”とある。これは事実関係を無視した、というより知らない無責任な言い分である。2000年の夏に、当時の与党三党が県営大仏ダム計画の中止を勧告していて、その後の例の「検討委員会」の基本高水を580tから474tに下げるという議論に無関係に、既に“ダムが止まって”いたのである。大熊教授の“片方(薄川)でダムが止まって片方(浅川)でダムが止まらない。恣意的な判断(基本高水についての:筆者注)が入っているからだ”と、基本高水を下げてダムを中止したとするウソ発言を鵜呑みにした、H氏の筆者への言い掛りも問題であるが、大学教授が意図的に事実に反することを言って、世間を惑わす罪は大きいと、厳しく指摘しておく。

A100年に一度の水準の流量について
 “自分たちのエゴイズムでゴリ押ししていい話ではない”とか、“「想定外」など、言い出したらキリがないのである”とあるが、これまでの筆者の指摘を読んでいれば、もっと説得力のある反論をしてもらいたいものである。浅川だけが人並み以上の安全水準を“ゴリ押しして”いるのではない。人並みの水準を望んでいるだけである。“「想定外」”の水準に対応すべきだと誰も言っていない。“「想定外」”の水準も結構あるが、その場合にも被害の軽減が期待できるから、軽々に基本高水を下げてはならないと言っているのである。相手の意見を理解できなくて、勝手に決め付けないでもらいたい。簡単に“正直いって、私の勘違いです”とされては、議論するだけ無駄である。“被害実績のない外水対策など後回しにして”とあるが、“被害実績のない”という認識は間違っている上に、“外水対策など後回しにして”いるのではなく、内水対策は長野県だけでできない、非常に難しい問題なので、取敢えずできることをやろうとしているだけである。現実的にできないことをやれと言って、できることをやるなという主張こそ、為にする議論だと言わざるを得ない。
 “行政から充分に満足な施策を受けている人間など存在しないのである。みんな多かれ少なかれ不安を甘受しながら生きているのである。甘ったれるのもいい加減にしてほしいものである。”とあるが、前半はその通りで、だからこそ、人並みの安全水準を望んでいるだけである。決して“甘ったれ”てはいない。
 なお、“100年に一度の水準が毎秒450dを下回るかもしれないし、それ以下の水準のものも実際、いくらでもあったのである(ex95年豪雨など)。”とある。“100年に一度の水準”がこれまであって、“毎秒450d…以下の水準のものも実際、いくらでもあった”という事実はないが、“100年に一度の水準”やそれに近い水準の降雨でも、毎秒450dをかなり下回ることがあり得ることは、既に筆者は指摘している。しかし、毎秒450dはあり得るから、基本高水として採用されているのである。

B毎日新聞の記事について
 筆者の指摘に対して、“いるんだな、「そんな読み方」をした人が。レス元の投稿者さん。まあ、まともに付き合った私があほでしたと。”と簡単に逃げているが、“「そんな読み方」をした人”を批判するならまだしも、毎日新聞の記者を厳しく批判していて、何の謝りもないのは、非常識である。尤も、“「そんな読み方」をした人”がいるとしているが、この程度のレトリックを理解できない人は、視野の狭い決め付け人間としか言いようはないが。

C外水・内水対策について
 “仮に、「ダム造っても内水氾濫は治まりませんよ」という、偉大なる長尚・元信大教授先生もおっしゃることを、長沼・豊野の人びとが全員、虚心坦懐に納得するなら、「ダムを造れ」という人は、流域には1人もいなくなるわけだね。”とあるが、既に何回も指摘しているように、筆者が言っているのではなく、以前から長野県の責任者・土木部長が言っているのである。それでも地元の人は外水対策を望んでいるし、技術的にも必要性が認められているのである。
 外水による“過去に被害実績がないんだ”とあるが、既に指摘したように、事実認識が間違っている。ともあれ、筆者の「この書き込み者が言うように、外水対策は不要という単純なことであるならば、脱ダム派の大先生たちが大勢を占めた検討委員会は、どうして外水対策を不要としないで、それが必要であるという前提で審議し、脱ダムを自ら宣言した田中前知事も外水対策を否定するどころか、非現実的なものとはいえ、その対案を模索したのか。しかも、どうして検討委員会で説得力のない理由でダムなしを答申し、田中前知事がその答申をそのまま採用できなかったのか、そして代替案が示せず混迷を極めたのか。説明できないではないか。」について、何も応えていない。それでは、相手を批判する資格はない。
 “学者さんの議論を聞いてていつも消化不良なのは、こういうとこだね。人間の心理、欲の強さ、客観性なき思いこみの激しさ、そういうものに対する想像力がないからだよね。まさに現実から遊離した机上の空論。文学がないんだよ文学ぐぁ。”ということは、上記したことから明らかなように、そっくりH氏に当て嵌まると申し上げておく。

 元々筆者はH氏の一方的な思い込みと詭弁について、まともな議論をしてもナンセンスなので、H氏を真面目に相手にすべきではないと思っている。ただ一般の方々にH氏の議論の間違いを認識してもらい、かつまともな考えを理解してもらうために、H氏の書き込みを取上げているだけである。その意図もほぼ成し遂げられたと思うので、今回のこの拙文で終りにすることにする。

追加 訂正と若干のコメント2006.1.7
 もう何もコメントするつもりはなかったが、H氏の昨6日の
Yahoo掲示板の書き込みで、筆者のミスを指摘されたこともあり、以下若干のコメントをしておく。なお、この書き込みからの引用部分は、“ ”付きで示す。

“このせんせ、田中康夫が大ッ嫌いなだけで、ダムは造ろうが造るまいが、あんまし興味ないみたいだけどね。そこに、議論のポイントのズレが生じているだね。”とある。“田中康夫が大ッ嫌いなだけ”とあるが、好きではないにしても、それだけではない。むしろ哀れんでいる。“ダムは造ろうが造るまいが、あんまし興味ないみたいだけどね。そこに、議論のポイントのズレが生じているだね。”と、ご本人がダム反対だけが目的なので、筆者はダムが目的ではなく手段だとしていることの真意が分からないことを自ら白状している。“議論のポイントのズレ”は、この自身の問題の捉え方に起因している。

“私の「誤認」を言いたてる割には、浅川に過去、どんな外水被害があったのか、何ひとつ書いてないのだよね。…できれば2001年の天井川改修後の被害実績を知りたいもんだね。”とあるが、過去の実績記録を無視していると、拙文「浅川流域住民の意見を聞く会を傍聴して」で指摘している。“2001年の天井川改修後の被害実績”には、致命的なものはないかもしれないが、数年のことで、議論すべきではない。

“>あほらしい書き込みだが、これを最後にコメントしておくか。< この部分、私の投稿じゃないでね。ヘンな引用しないでね。”とあるように、これは筆者のコピーミスであった。不注意を深く陳謝する。

 基本高水について、“度量衡の統一、公平な教育・福祉を求める権利とかなら国の基準統一も理解できるが”とあるが、個々に水準を決めれば、際限がなく、収拾がつかないから、先ず確率年を設定し、その中で、可能性のある高い水準にするしかないから、国で統一水準を決めていると、筆者は何回も説明していることを理解しようとしない言い分である。

“きちんと、「ダム中止→基本高水下げ」という順序になっている。「基本高水を下げてダムを中止したとする(大熊の)ウソ発言」って、長尚せんせは、何のことを言ってるだ?? これぞ、まさしく「恣意的」な解釈。老人にはありがちですが。ここでの大熊の発言のポイントは、「特異な数値を計算から除くなどして」という部分でしょう。薄川のその例は、浅川にも適用できる(できた)のか? できないのか? できないとしたら、なんでだ? そこを見なくちゃいかんでしょ。「政治人」ならまだしも「学者」なら、その程度の相対的視点は持ってほしいもんだがね。”とある。
 前回自分で引用している、大熊教授の“片方でダムが止まって、片方で止まらない。
恣意的な判断が入っているからだ”という発言には触れないで、“大熊の発言のポイントは…”などと詭弁を弄している。大熊発言のこの点に関する文脈は、ダムが止まるかどうかは基本高水の判断次第ということであり、誰が読んでも、基本高水の判断は恣意的で、基本高水を下げたから大仏ダムは止まったが、下げない浅川ダムは止まらないとなる。“大熊の発言のポイントは…”とはならない。ご自分がそう思いたいのであろうが、客観的にはまったく通らない話である。強弁はお止めになった方がよい。

“その内水問題の国の責任を「現実的にできないこと」と放置して”とあるが、内水問題の抜本的解決は、千曲川の狭窄部の解消(下流の整備も含む)にあり、これはそう簡単にできない現実を踏まえて言っているのである。放置してよいと言っているのではない。可能な限りの対策に取り組まなければならないし、その努力は県、市共にしている。他人の言うことに聞く耳を持たない言い分である。

“ちなみに私は、外水対策が不要とはひとことも言ってませんので。幻でも見たんかな?”とあるが、H氏はこれまでの河川改修で外水対策は済んでいるという認識をお持ちのようであるから、外水対策が不要という表現をしているのである。言葉尻を捉えた難癖である。

“「説得力のない理由で答申」じゃなくて、委員だった鷲沢正一はじめ、検討委の議論の中でダム必要論も根強くあって、その人らに配慮するってことで、両論併記になったわけだ。”とある。両論併記ではあったが、主文ではダムなし案を答申している。筆者が「説得力のない理由で答申」としたのは、そのダムなし案とする、基本高水を下げる理由に説得力がなかったからである。これも事実や筆者の指摘の生半可な理解に、いや誤読に基づいている。

 次に、筆者の掲示板http://6714.teacup.com/chohp/bbsに、「チョーさん主義」という投稿者から、『長さんしっかりして』というタイトルの、次の〈 〉内のような投稿が1月5日にあった。

>そういう意図だったからこそ、記事には、“一種の開き直りとも言える田中前知事の発言”、“混乱や不信を招いたことへの責任感が全く感じられなかった”とあるのである。田中氏は自分で混乱や不信を招いていながら、他人に反対の声を上げろと一種の開き直りを言うのは無責任だとしているのである。

長さんともあろう方がチョー初歩的な勘違いのようですね。良くありますよね、「私には何ら恥ずべきことはないが、世間様をお騒がせした事の責任を取って辞任します」とか。田中のおじさんは「俺は間違ってない。よって謝罪だの責任を取ることなどこれっぽちも頭にナ〜イ」ということです。まー本当”ハナッパシラノツオ〜イ””ヒジョーシキ”で”ナマイキ”なお方です。正直と言えば”チョーショージキ”ですがネ。
もう一点、どのような抵抗があろうと、たとえ出来レースであろうと、「出来うる限り浅川にダムを造らない」と明言した首長に辞めろと言ったのはほかならぬ長野県民であり長野市民です。だからこそ、あんた等が選んだんだ、「ダムは出来るにきまってる」なわけです。田中のおじさんは今やただの人、責任なんて取りようがありません。長さんもあまり決め付けないようにお願いします。
末筆になりましたが、明けましておめでとうございます。

 非常識な書き込みなので、議論するつもりはないが、2点だけ指摘しておく。

  @この投稿者は『田中のおじさんは「俺は間違ってない。よって謝罪だの責任を取ることなどこれっぽちも頭にナ〜イ」ということです。まー本当”ハナッパシラノツオ〜イ””ヒジョーシキ”で”ナマイキ”なお方です。』と思っているから、『長さんともあろう方がチョー初歩的な勘違いのようですね。』ということのようである。しかし、筆者がどう思っているかには関係なく、毎日新聞の記者の意図を筆者は指摘しているのであり、頓珍漢な指摘である。客観的な見方として毎日新聞の記者が述べていることを、指摘したまでで、『勘違い』しないでいただきたい。

  A『田中のおじさんは今やただの人、責任なんて取りようがありません。』とあるが、「田中氏は自分で混乱や不信を招いていながら、他人に反対の声を上げろと一種の開き直りを言うのは無責任だとしているのである」を読んで、今田中氏に責任を取って川ダム問題を何とかしろと言っていると解釈する方がどうかしている。「田中氏は自分で混乱や不信を招いていながら」というのは、知事在任中のことを言っているのである。その責任に触れず、つまり責任を感じないで、「他人に反対の声を上げろと一種の開き直りを言うのは無責任だとしているのである。」

 いずれにしても、この投稿者は『チョー』自分中心で、客観的な思考ができない人のようである。『長さんもあまり決め付けないようにお願いします』とあるが、自分こそ、頓珍漢な自分本位の解釈をして決め付けているのに、それに気付いていない。

 訂正を必要とする箇所はもうないと思うので、これで本当にH氏の書き込みへのコメントは最後とする。

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