ちょっとひとこと2(2003.04.28,30,5.1,9〜)

客観的思考の欠落

 長野県議会チェックフォーラム編「県議ふしぎ発見」(川辺書林)を拾い読みしていたら、次の『』内のようなくだりがあったので、ちょっとひとこと。

 『脱ダム宣言に対し「代替案を示せ」と迫った議員たちはまさにダム有りきで、審議をとおして代替案など考えてこなかった。いわば、いままで何も議論してこなかったことを、「代替案を示せ」という言葉で自白してしまったのである。』(21ページ)
 計画どおりの安全水準を達成するためには、ダムに替わる案がないから、多くの議員たちはダム案に賛成しているのである。ところが田中知事はダムに替わる案があるというから「代替案を示せ」と迫ったのである。代替案を考えてこなかったのではなく、考えてみたがダムに替わる案はなかったのである。勝手に『代替案など考えてこなかった』と決めつけて、『いままで何も議論してこなかったことを、「代替案を示せ」という言葉で自白してしまった』としている。因みに、計画どおりの安全水準での代替案がないから、脱ダム宣言に迎合する委員が多数を占める検討委員会でも、代替案が示せず、合理的な根拠のないまま、安全水準を下げざるを得なかったのである。

 『ダム検討委員会は県議会が設置を決めた委員会であり、県議会議員も委員として参加した委員会なのである。決して、不信任の根拠となる案件ではなかった』(18ページ)
 知事が検討委員会の答申どおりに対応をしていれば、このような批判もあるいは許せるかもしれない(もっとも別拙文で指摘してきたように、検討委員会での議論・手順の出鱈目さ、答申の説得力のなさという問題があるのであるが)。しかし、答申の大前提を否定し、検討委員会でも示せなかった代替案を具体的に示していないのであるから、議員らの自己矛盾だという、こんな言い分は通らない。

 『田中知事はいつも「開かれた包み隠しのない県政を進めたい」と言っている。至極あたりまえのことを言う知事である。ところが、世の中にはあまり常識の通用しない世界があるらしい。』
 田中知事の言っていることと、実際はまったく違うことを、これまで筆者は具体的に指摘してきた。“常識の通用しない世界”にいるのは田中知事なのではないか。

 これらの例に限らないが、田中県政支持者は、客観的思考が欠落し、独り合点が目立ち、普通の思考ができないようである。

片山善博鳥取県知事の発言

 片山善博鳥取県知事が田中長野県知事に関連して、次のような発言をされていたようである。
“『脱ダム宣言』が象徴的だ。ある日突然、政策転換の方向を決めて、結論を最初に出してしまう。そうすると議論の余地が余りない。私は結論を先に決め、それを発表して通すようなことはしない。…世の中を変えようと思ったら、異論反論と真剣に真摯に向き合って議論すべきだ。相手の言うことに理があると思ったら、こちらも考え方を変えなきゃいけないこともある。双方向の中で合意形成していくプロセスが大事だ”
 もっともな意見である。田中長野県知事の場合は、“世の中を変えよう”として、実際に何かしようとするのではなく、他人とは違うことを打ち出すことに主眼があり、しかも違った意見を聞く耳を持たないから、“双方向の中で合意形成していくプロセスが大事だ”という発想はないのである。

無駄な議論をしている委員会の典型的な例

 中信地区・廃棄物処理施設検討委員会は二年近くを掛けて、三十三回の議論を重ねて、三月末に最終報告書を知事に答申したが、肝心の具体的な候補地の選定は盛り込まれなかった。田中知事は、また別の委員会を立ち上げるという。県政の遅滞は止まるところをしらない。

財政構造改革推進プログラム批判補足

 このプログラムが発表された直後に、無茶苦茶な施策だと指摘したが、さらに必要以上に財政再建団体転落の危機を強調し、しかも国との協調を殊更に嫌って、自ら危機到来を加速させている施策であることを改めて指摘しておく。したがって県議会がこんな知事提案を認めたのは大変な誤りである。専門家に分析を依頼した結果を用いてでも、新県議会で徹底した議論を望みたい。

田中支持者の中には

 あるインタ―ネットの書き込みに、“田中知事は知事としてふさわしくない?言ってる事に一貫性がないから?でも、よーく考えてみたら、古いパターンで駆けめぐってるオジサンよりまだ良いと思うね。”とあった。
 田中支持者の大半がこのような田中知事の「問題点の一端」に気付いているとは思えないが、インタ―ネットに書き込むような田中支持者には、このような人がかなりいるように思える。しかし、精々この程度にしか田中知事の問題点を捉えようとはせず、極めて感覚的に判断している。田中パフォーマンス政治の犠牲になるのは長野県民なのに。

代替案?(2003.4.30)

 本日浅川の代替案が長野県から示されるということだったが、例の基本高水流量の80%を河川改修で、20%を流域対策でという枠組みの、河川改修についてだけを長野市長に説明し、了解を求めたようである。これに対して、流域対策を含めた全体像が示されなくては、判断のしようがないと、鷲澤市長は答えたという。当然だろう。ダムに替わる代替案があると、“枠組み”を表明したのであるから、その全貌を示してこそ、代替案であるはずである。何のための説明なのか。本来先ず説得力のある、具体的な代替案を示して、ダム建設中止を決めるべきであったのに、逆にダム建設中止を決定してしまった。それからかなり時間が経過しても、こんな状態なのである。ともかく時間稼ぎをして、河川改修だけで済まそうとしている意図はみえみえである。ならばことの善し悪しは別として、基本高水流量を50年確率(基本高水流量の80%に相当)に変更するとしてこそ、正直な県政運営というものであろう。誤魔化してでも、自分の意図を進めたり、それを許すようでは、過去の遣り方を批判する資格など、田中知事とその支持者にはない。

補足(2003.5.1)
 本日の信濃毎日新聞の記事には、“この日県は「七月をめどに、取り組むべき流域対策のメニュ―を示す」と説明したものの、会談後の取材には「数値は同時には示せない」と述べるにとどまった”とある。
 いつまで経っても数値が示せないのに、どうして基本高水流量の20%という数値目標を流域対策で補うという結論が出てきたのだろうか。つまりこれは根拠のない幻の目標であることを物語っている。例の匿名テープで本音を述べているように、河川改修だけですまそうとしているのである。
 田中知事は批判されても仕方がないことを、自分がやる時には、誠に都合のよい枕言葉を用いる。例えば“自分はソフトなマキァベリストだ”、“良い意味での「御用学者」を育てたい”など。この実体のない代替案という遣り方においては、さしづめ“良い意味での誤魔化し、嘘は許せる”と思っているのであろう。自分が良いと思ったことは、どんなことをしても許せるとは、自称マキァベリストの面目躍如といったところである。ここに田中県政の本質がある。このような県政を許す人がある程度いるとすれば、それは極めて恐ろしいことである。

参考までに(2003.5.9)
 5月2日に、掲載されないことを承知で、信濃毎日新聞に投稿した拙文を、添付したメールの写しと共に下記に示す。
                      記
信濃毎日新聞「建設標」係 殿
 下記の「田中県政を批判する」を投稿します。
 厳し過ぎるとお感じかと思いますが、これが常識的な見方ではないでしょうか。もし別な見方があるならば、そちらの意見の投書も載せて、議論になれば、この「建設標」欄が盛り上がるのではないかと、愚考しています。宜しくご検討くださいますよう、お願い申し上げます。
タイトル:田中県政を批判する
 田中知事が浅川と砥川の整備を河川改修と流域対策で行うとする枠組み案を示して、ダム建設の中止を表明してから、十箇月以上が経過している。それでも河川改修案しか示せず、流域対策は七月をめどにメニュ―を示すが、数値は示せないとしている。
 ということは数値的な根拠がないまま、基本高水流量の二十%という数値目標を流域対策で補うとしたことになっている。これを常識的に判断すれば、実体のない枠組み案だったということになる。
 ことの善し悪しは別として、基本高水流量を五十年確率(基本高水流量の八十%に相当)に変更するとしてこそ、自ら掲げている隠し事のない、正直な県政運営というものであろう。
 田中知事は批判されても仕方がないことを、自分がやる時には、誠に都合のよい枕言葉を用いる。例えば『自分は“ソフトな”マキァベリストだ』、『“良い意味での”「御用学者」を育てたい』など。この実体のない枠組み案提示という遣り方においては、さしづめ“良い意味での”誤魔化し、嘘は許せると思っているのであろう。ここに田中県政の本質がある。このような県政を許す人がある程度いるとすれば、それは極めて恐ろしいことである。

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