最近の土石流災害等に関して思う

 この拙文は「土木学会誌」の平成9年10月号に掲載されたものの再録です。

最近の土石流災害に関連して

 昨年12月に発生した長野県小谷村蒲原沢の土石流災害に関する、ある報告会(科研の代表者川上浩信州大学教授講演) の質疑の中で、行政を担当しておられる関係者から次のような質問が出された。
 「実際的な予知方法は?」、「工事再開の判断基準は?」
 この2つの質問に対する回答は、担当者として最も欲しい情報であろう。しかしいずれも的確な答えを示すのは困難である。地震予知の問題を持ち出すまでもなく、学問の予知能力はそんなに高くないし、また実際に可能な範囲で採れる対策にも限度があるからである。
 川上教授は講演の中で、「雲仙では高感度地震計を設置して予知に役立てたが、この教訓が小谷の工事現場では生かされていない」という指摘を受けたと話されている。このような指摘をした人は、雲仙と小谷の状況の決定的な相違に気付いていないと思われる。雲仙ではその特定の場所にかなりはっきりした危険が予測される状況であったが、小谷ではさし迫った危険が殆ど予測されていなくて、この程度の危険が予測される箇所はいわば無数に存在し、その中の1つという状況であった。確かに結果論からすれば、この箇所は極めて危険であったわけであるが、事前にはそのような認識はなかったのである。したがってそのような潜在的危険が少しでもある箇所には全て地震計等の設置をしていないと「雲仙の教訓は生かされない」ことになる。しかし現実問題として、そのような対応をすることは不可能であろう。
 実際には、かなりの確度で危険が予測される所を対象にして地震計等の設置をするだけだということになる。そのためにそうした箇所以外で土石流等が発生するリスクは、残念ながらあり得るのである。今年7月に発生した鹿児島県出水市の土石流災害も、そのような箇所と言って良いであろう。あの箇所では砂防堰堤が建設中であったが、あのような規模の土石流を予測してのものではなかった。このように自然の変動現象を予測することは極めて困難なのである。
 この出水市の土石流災害を教訓として、少しでも土石流災害の可能性があれば、その最大級の土石流による災害を阻止するような設備を造るとしたら、その箇所は相当な数になるだろうし、それぞれの施設の規模も大変なものとなるであろう。したがって現実問題としては、全ての箇所にそのように対応することは不可能である。対応が不可能な箇所(殆どの箇所)では、発生直前の異常を何らかの方法で察知するか、ある判断基準を予め設けるかして、避難するしか方法はない。その場合でも、異常が事前に察知できなかったり、判断基準が結果として不適切であることもあり、万全とは言い難いのである。
 よく「警戒や避難の態勢を整えて人の命だけは犠牲にしないようにする」と言われる。勿論人命の損失を最小限にするような対応は極めて大事で、これまでそれが不充分であった点は改めなければならない。しかいそれでもリスクは残ることを覚悟しなければならない。「人の命だけは犠牲にしないようにする」というような言い方は世間に過大な期待を与え、結果として一層の不信感をもたらすことになるように思う。

あり得るリスク

 世の中には、このような自然の変動現象に基づく「あり得るリスク」による事故・災害があるばかりではなく、交通事故に代表されるような、人の行為に基づく「あり得るリスク」による事故・災害があることを、残念ながら事実として認めなければならない。結果から見れば、潜在的危険があったのに、そのままにされ、特定の人が見殺しにされたという感情がわくかもしれないが、「あり得るリスク」の顕在化による事故・災害が残念ながらあるのである。「あり得るリスク」があるから、工事をしない、外出をしない、自動車に乗らない、住居を構えないというわけにはいかないのが現実である。このような「あり得るリスク」による事故・災害については、「2度とこのようなことは起こしません」と、心構えとして言えたとしても、その心構えだけで根絶できるものではないことを関係者は正直に説明すべきであるし、それを世間も認めなければならない。
 このような認識のもとで、関係当事者と一般市民はそれぞれの立場で、可能な限りの手段(現象の阻止が不可能な場合を想定した避難等も含む)を尽くして、安全性の向上に努めなければならない。誤解を恐れずに敢えて言うと、それぞれの立場で人事を尽くして天命を待つしかないのである。勿論「人事を尽くす」中身は、状況に応じて可能な限り抜かりのないものでなくてはならない。
 「あり得るリスク」があるのは、技術的、経済的、時間的な諸制約の存在のために万全を期すことが実際問題としてできないからである。「あり得るリスク」を完全に排除するのは無理と覚悟した(これまでそのような認識が欠けていたのであるが)ことの結果については、世間全体で責めを負うべきである。ところで「あり得るリスク」による事故・災害に全ての人が遭遇する可能性があるわけであるが、実際にはたまたま一部の人だけが遭遇されることになる。しかし明日は我が身かもしれないのである。したがって不幸にして「あり得るリスク」による事故・災害に遭遇された方々には、せめて金銭的な援助を皆でするというシステム(筆者が以前から提唱している事故・災害強制保険制度のような)を構築すべきである。現在このような配慮が欠けていて、被災者に犠牲を強いる結果となっている。早急に改めなければならない。

地附山地すべり災害訴訟判決に関連して

 土石流災害ではないが、昭和60年7月に起きた長野市の地附山地すべり災害の訴訟で、今年の6月に、長野地裁は道路管理上に瑕疵があったとして、5億円余りの賠償を長野県に命じる判決を言い渡した。
 判決文によると、バードライン(有料道路)建設時の切土による斜面の不安定化と排水設備の不備という2点の欠陥がバードライン建設後10年を経過した頃から顕在化した。変状が著しくなった段階では、災害は十分予見し得て、しかも地下水排除の措置を講じていれば災害を回避できたと考えられるのに、これを怠り、管理に瑕疵があったとしている。
 このように判決では、学問的には殆ど否定されているバードライン建設時の瑕疵が引き金となったとした上で、地すべり予知の困難な現状を無視して予知できたとしている。このようなことになるのは、現行の法体系の下では、管理に瑕疵がないと、原則として被災者の金銭的な救済ができないからである。そのために敢えて管理の瑕疵を裁判で認め、学問的には否定されるべき要因が引き金と断定され、結果論で予見と対策の可能性が認定されることになってしまうのである。
 今回のような判決で被災者が救済できるとしても、今後とも訴訟を起こさない被災者(訴訟を起こすことに抵抗を感じられる被災者もかなりおられるであろう)には、結果として不公平な仕打ちをすることになり、本当の意味で被災者救済にはなっていないことも敢えて指摘しておきたい。
 このようにこの種の裁判では、物事の本質からずれた、双方の関係者をやりきれない気持ちにさせる議論が延々と続き、しかも判決がどちらの結論になっても、関係者を納得させるものでない上に、本当の意味での被災者救済にもならないというようなことが繰り返されることになる。
 なお今回も責任者の説明が不充分の上、財政上の制約を強調した表現が適切でなく、苦し紛れの言い訳だと誤解を招くようなことがあったことも事実である。往々にしてこのような不適切な発言がなされるのは、災害を起こした過失責任が当事者に当然あるという前提で問い詰められて、それを否定するために強い表現がなされるからであろう。しかし結果として責任者としての自覚がないと受け取られているように思う。
 問い詰めるマスコミも過失責任が当然あるという前提を持たずに責任者に当たるべきだし、責任者の方も冷静で適切な表現で対応すべきである。例えば天災というような言葉は不用意に使うべきではない。そうでないと、普段からやるべきことを全くやっていないという誤解だけが世間に残り、不幸が続くことになる。
 筆者はこれまで繰り返し主張しているが、責任追及優先では、実りのある結果を決してもたらさない。
 いずれにしても、「あり得るリスク」による事故・災害があるという認識を当事者と世間が持つことによって、結果として真の安全性の向上が図られるし、被災者の救済の道が拓かれるのである。

補足

 この拙文を読んで頂いたある友人から、筆者が判決は「地すべり予知の困難な現状を無視して予知できたとしている」としているが、地すべり予知の方法はかなり前から斎藤博士によって確立されている、という指摘を頂いた。
 斎藤博士の予知は、移動量の観測記録を利用して、地すべり発生直前に発生日時を予測するもので、それがこの地すべりで生かされなかったのは誠に遺憾なことであった。
 しかしこの裁判で瑕疵とされたのは、このことではない。「変状が著しくなった段階では、災害は十分予見し得て、しかも地下水排除の措置を講じていれば災害を回避できたと考えられるのに、これを怠り、管理に瑕疵があったとしている。」のは、地すべり発生数年前のことである。この段階では斎藤博士の予知方法は使えないのである。筆者が判決は「地すべり予知の困難な現状を無視して予知できたとしている」というのは、この段階を対象に言っているのである。
 以上補足説明をさせて頂いた。
 説明不足のため、誤解を与えたことをお詫びする。