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砂漠という空間が、この地球にはある。原始の地球とも思えるし、世紀末後の地球の姿とも思えるような不思議な空間である。
この不思議な空間を使ったレースがある。
そのレースはアメリカの国境を飛び出し、サウス・オブ・ザ・ボーダー、国境の南側で行われていた。
南カリフォルニアのさらに南にはメキシコという国があって、そこにメキシコのバハ・カリフォルニア州というところがあった。
そのレース名は、そこで行われているから"バハ1000”と呼ばれていた。
                                                〜内田正洋著 「BAJA1000」より抜粋〜


全長1800Kmに及び無数のサボテンと砂と岩に覆われた原始の半島をモーターサイクルで走ることは、オフロードライダーに
とっての至福の極みであり、自分にとってはバイクに乗り始めた頃からの目標の地であった・・・・・・ハズであった。
おりしもミレニアムである西暦2000年はコース全長を通年の倍である2000マイルに延長し、開催されるという。
1999年もあと残り僅かとなった頃、この情報が飛び込んできた。
「ムムッ!いよいよ出るべき時がやって来た!」と、1年後のバハ2000出場に向け、じわじわと行動を開始していくのであった。


単車仲間内のサイトのチャットでそんな話をハットリさんと話していた。
海外レースに参戦するにはエントリーからマシン手配、更には現地でのサポートのいっさいを専門業者に丸投げする方法と、
そのいっさいを自分達の手で行う方法とがある。ハットリさんはこれまでの海外レース活動はその後者の方法を選択してきた。
なぜならば苦労もひっくるめて、その方が面白いからである。 それに経費という面でもローコストであげることが出来る。
但し、海外である。しかも砂漠のレースである。つきまとうリスクは全て自分達でしょわなければならない。

カリフォルニア半島の付け根の街エンセナダから、突端の街カボ・サン・ルーカスまでの2000マイルをライダー交代をしながら、
夜を徹して走る。要は運動会のリレー競技のようなもので、それがバトンでなく単車に変わるのである。
そしてそのリレーにはサポート隊も参加する。
半島を貫く国道1号線を進路を南に向け、砂漠の中に設定されたレースコースと並走しながら、サポートカーもぶっ飛ばすのである。
サポート隊の役割は、交代ライダーの搬送に、ガソリンサービスに、飯の心配と、仕事量は多い。
ライダーは役目が終われば寝てしまうが、ドライバーは寝る間も惜しんで車を走らせなければならない。
サポート隊無しではバハ2000を走ることは出来ないし、チームワークがものを言うのもこのレースの特色である。

チャットでの2人の作戦会議中、第3の男「たしやん」が入室してきた。
この男もバハ2000参戦を目論んでいた。この男は人気者である。不可能を可能にする知恵とセンスをもっている。
更には華がある。
この男を第3の男としてチームに入れたかったが、既に別のチームを構成しているという噂もあった。

気心を知れた仲間といえども「いっしょのチームでバハに行こう」と誘うにはドキドキするものがあった。
もし振られたらショックがでかい。それは好きな女の子に「僕と付き合って下さい」と告白する気持ちにも似ている。
でも、チャットの中で3人が顔を合わせるのはめったに無いチャンスだ。
チャットに第4者が入室してくると、この話は切り出し難くなる。

で、愛の告白は相思相愛だった。
たしやんはPCの向こうで飛び上がって喜んだらしい。

レースはライダー3人かと思っていたが、4人目の男が入ってきた。
たしやんが紹介してきた。マセである。
某メーカーで2輪の開発エンジニアをしている、若いが世界を股に駆けたアスリートな経歴豊富な男である。
ラテン気質な3人とは対称的なきちっとした性格の持ち主は、最年少の28歳だが、いちばんジジ臭い頑固者であった。

サポート隊はハットリ一座が請け負った。長年に渡り海外でライダーハットリをサポートしてきた仲間である。
そしてまた更にフリーライターのとらちゃんも雑誌取材も兼ねて、チームに加わった。
サポートは全員が手弁当である。
各自が分担された仕事をこなし、そして徹底的に楽しむ。
バハを楽しむことが我々の目的なのだから。


マシンチョイスは、ラテンな3人がHONDA乗りだからHONDAが最有力候補だった。
HONDAのXRというバイクは非常に信頼性が高いことを良く知っている。
それに慣れ親しんでいるバイクは、トラブル時に対処し易い。
けど、今回はYAMAHAの単車を乗ることにした。理由はそーゆう「縁」があったからである。
誰も文句は無かった。

次の仕事はこのYAMAHAのWR400Fという単車をバハでレースするためのチュ―ンだ。
長距離を無給油で走り抜く為にガソリンタンクを大容量にする。
そして漆黒の闇夜を切り裂く巨大なデュアルヘッドライトを装着し、更にそのライトに電力を供給する為にジェネレーターを強化する。
砂地での高速安定性を高める為にステアリングダンパーも装着した。
それらのパーツ類はサンディエゴにあるBaja Designという会社からインターネット通販した。

そしてロングライドにおけるライダーの疲労軽減という目的から、シートを衝撃吸収剤入りの特注物に変更。
もちろんKING OF SEATの野口装美製のスペシャルだ。
この野口装美の代表である野口氏は古くからの単車仲間でもある。彼自身も何度か海外ラリーにチャレンジした経歴を持つ。
遠慮の無い気心知れた仲間として、今回のバハ行きのメンバーとして真っ先に声をかけたものの、先代から引き継いだ会社が
大事な時であり、長期に渡って会社を空けることが出来ず、残念だが、今回は参加を見合わせることになった。


2000年、9月。
水戸のハットリ宅にメンバーが集まり、YAMAHAにこれらのパーツを装着し、夜の海岸線で走行テストを行った。
予想以上のポテンシャルに確かな手ごたえを感じたところで、今度はこのYAMAHAをバラバラに解体する作業が始まった。
エンジン、フレーム、サスペンション、タンク、ホイールと、どんどんバラバラにしていく。
そして、それらのパーツが20Kgオーバーにならないように梱包していく。
その理由は解体したYAMAHAを、メンバー各自の手荷物として分散させ、飛行機に載せる為だ。
20Kg以下であれば、手荷物の追加料金を払わずに済む。
一般的にはレース用のマシンは現地(ロス)のバイクショップで購入するか、レンタルマシンをチョイスする。いずれも安くは無い。
日本からエア便で持ち込みの場合は十数万円の費用がかかる。
恐らく、400ccのモーターサイクルを完全な手荷物扱いとして、日本からロサンゼルスまで空輸する暴挙にチャレンジし、追加料金を取られる
ことなく輸送費ゼロ運び込んだのは俺たちが最初で最後だろう。
(実は、その昔にハットリさんらはKAWASAKIの80ccでバハに出場した際、同じ手荷物作戦をやって成功している)

これもバハを楽しむひとつなのである。


感動とは酷なものだ。経験を重ね、感動を重ねるに従い、それまでの感動では満足できなくなってくる。
ちょっとやそっとじゃ感動することの無くなったハートに、あの若き日の熱い思いをもう一度!
そんな思いを込めて今回のバハ行きのチームは「文化祭リターンズ」と名付けられた。

もっと熱く、より遠くへ・・・。



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