検証:
武士の藩主からの待遇には、家格と家督( 報酬 )の二つがあり、家格はその家臣の格付であり、
奉行格であればその家は、代々奉行格の家格が与えれました。いわゆる世襲方式でした。
又、藩に対して、家臣の功労により格が上位に役付けが上がりました。
家督( 報酬 )とは、いわゆる給料の事で、石数(米の)と人扶持で支給されました。
この他に金給と称し、金○○両などと示されました。
一石(米)=2.857俵=8万円(現在の円に換算)
一人扶持 = 1.75石
一両 (現在の約15万円)
江戸時代の武士の各階級による生き様を検証すると、江戸の火付盗賊改役
長谷川平蔵
の一生において、彼の若い時代の放蕩ぶりも、地方の藩の同職の武士の放蕩ぶりも、何の因果があるのかわからないが、
あまりに似たとこがあるので実に不思議なものであります。人間その職業により、生き様の共通点そして
職業から洗脳される特性というものが存在するのは、否めないものだと、つくづく感じる次第です。
江戸時代から今日に至るまでの、信州上田の遊興界について検証してみると、
現在の上田市のいわゆる「 飲みや街 」は袋町という町名で
町のほぼ中心にあります。明治から昭和の終戦後までは、遊郭の町でした。
江戸の吉原に匹敵します。
江戸時代は、上田のその一帯(袋町)は足軽長屋であり、その隣道は医者町( 仙石氏時代は馬場町といい馬舎の町 )でありました。
いわゆる「 士農工商 」身分制度により、職種(商、工)・家格(武士)により、住宅配置が区分されていたわけです。
鷹匠町( 鷹匠がいたのは、松平氏の前の仙石氏時代でした )は御奉行クラスの武士の町でした。化石館宅地( 藩からの拝領地 役宅 )
は1706年から約300年間代代世襲で維持し、今日に至っております。
家老・側用心クラスは、大手町に住宅がありました。
花町の話になりますが、江戸時代の上田の今流にいう「 飲みや街 」は、今の別所温泉エリアが、遊興の場所でありました。
武士は馬で遊びにいき、町方町民は歩きで上田中心部から歩いて行ったものです。
遊興となると、ニ、三里の道のりはなんのそのの時代でした(^o^)。
又、街道筋の大きな宿場町には、遊女(飯盛り女)がいる宿と本陣宿がありました。本陣宿は大名が宿泊しました。
そして宿場町の入り口、出口には関所が設けられていました。
上田近辺では、海野宿(鎌倉時代源義仲(木曾義仲)が陣を構えた所です)、
和田宿
が有名です。余談ですが、海野氏は、真田幸隆( 昌幸の父 )の母方の祖であり、武田信玄正室の次男(盲目)龍宝が婿養子入り
しています。
武田信玄がでましたので、余談をもう一つ。川中島の上杉、武田の合戦以後武田氏により、信州全域を支配されましたが、
その時、信玄は長野市の善光寺の本尊を甲斐(甲府市)に移動し、甲斐に長野と同じ造りの、甲斐善光寺を造り安置しました。
その後織田信長が、元の善光寺に本尊を返したのは、あまりに有名な話です。
善光寺へ参拝すると、大勧進と大本願がありますが、大勧進の寺紋は武田菱(武士系)で、大本願の寺紋は24菊花紋(天皇系)
です。寺、城 を訪れる時は、寺紋と城の鬼瓦の家紋を見ると、その寺、城の歴史を紐解いてくれます。
寺の場合は、開基( 武士 )と開祖( その寺の初代住職 )があり、寺紋は開基の家紋をつけます。
ちなみに、上田の芳泉寺は、葵紋(徳川)・六文銭紋(真田)・永楽通宝紋(仙石)の3紋を使っています。
これは徳川家康の養女小松姫が真田信之正室であり、又仙石氏の墓所でもある由縁です。
基本的に江戸時代の寺は、藩の寺社奉行が取りしきっていました。
上田城の鬼瓦の家紋は、松平家の「 五三の桐 」です。
三河国大樹寺(愛知県岡崎市)にある松平家初代親氏より8代広忠および家康の墓所。
松平宗家は9代家康になって徳川と改姓しました。
その後、日光東照宮に徳川家康の墓を造り奉りました。
徳川家菩提寺:東叡山寛永寺
徳川家菩提寺:浄土宗大本山増上寺
|