■■放射能症■■ 爆心地における放射線量は、 103シーベルト(ガンマ線)、141シーベルト(中性子線)、 また爆心地500メートル地点では、28シーベルト(ガンマ線)、 31.5シーベルト(中性子線)と推定されている。 すなわち、この圏内の被爆者は致死量の放射線を浴びており、 即死(即日死)ないしは1ヶ月以内に大半が死亡した。 また爆心地5キロメートル以内で放射線を浴びた被爆者は急性放射線症を発症した。 急性放射線症では、細胞分裂の周期が短い細胞よりなる造血組織・生殖組織 ・腸管組織が傷害を受けやすい。 症状は、悪心・嘔吐・食思不振・下痢・発熱から始まる。 さらに被爆から2週間後ごろに放射能症に特徴的な脱毛が始まる。 20日過ぎごろより皮下出血斑(点状出血)、口腔喉頭病巣を生じる。 大量の放射線により骨髄・リンパ腺が破壊され、白血球・血小板の減少など血液障害を起こす。 6シーベルト以上の放射線を浴びた被爆者は、腸管障害 (消化管組織の破壊により消化吸収不能となる)により、 1ヶ月以内に大半が死亡した。 ■■人体への長期的影響■■ ■肉体的影響 ★熱傷・ケロイド 爆心地から2キロメートル以内で被爆した者は 高度から中度の熱傷が生じたが、2キロメートル以遠で被爆した者は 軽度の熱傷にとどまり、治癒に要した期間も短かった。 しかし、3 - 4ヶ月経過後、熱傷を受けて一旦平癒した部分に異変が生じ始めた。 熱傷部の組織の自己修復が過剰に起こり、不規則に皮膚面が隆起し、いわゆるケロイドを生じた。 ケロイドは外科手術により切除を試みても、しばしば再発した。 ★放射線症 大量の放射線を浴びた被爆者は、高確率で白血病を発症した。 なお被爆者の発症のピークは1951年、1952年であり、その後は徐々に下がっている。 広島の被爆者では慢性骨髄性白血病が多く、白血病発症率は被曝線量にほぼ比例している。 また若年被爆者ほど発症時期が早かった。発症すると、白血球が異常に増加し、 逆に赤血球等の他の血液細胞が減少して障害をまねく。さらに白血球の機能も失っていく。 1950年代、白血病は治療法のない代表的な不治の病の一つであり、発症者の多くが命を落とした。 原爆の子の像のモデルとなった佐々木禎子は、12歳で白血病のために亡くなっている。 以降は癌の発症が増加した。転移ではなく、繰り返して多臓器に癌を発症する例がしばしば見られる。 これら被爆者の遺伝子には異常が見られることが多く、 放射線による遺伝子破壊が癌を招いている可能性も指摘されている[注 19]。 ★胎内被爆 母親の胎内で被爆することを胎内被爆という。胎内被爆により、 小頭症を発症する者がいた。小頭症とは同年齢者の標準より頭囲が2倍以上小さい場合を言う。 脳の発育遅延を伴う。諸説あるが、被爆時に胎齢3週 - 17週の胎内被爆者に多く発症した。 脳のみならず、身体にも発育遅延が認められ、これらが致命的であるものは、成人前に死亡した[14]。 ■精神的影響 原爆の手記を分析した結果によると、被爆者の3人に1人が罪の意識(自分だけが助かった、 他者を助けられなかった、水を求めている人に応えてあげられなかった等々) を持っていることが判明している(一橋大石田による調査)。 (参照:サバイバーズ・ギルト、心的外傷後ストレス障害) 精神的影響は、原爆によって直接もたらされた、サバイバーズ・ギルト、 心的外傷後ストレス障害だけではない。 戦後のGHQによる原爆報道統制が日本国民の間に「被爆者差別」を生み、 被爆者はこれにも長く苦しむことになった。 すなわち原爆、放射能、放射線に関する情報不足より、 日本国民の間に「被爆者差別」が生まれた。 戦後しばらくの間、新聞・雑誌などにおいても被爆者は「放射能をうつす存在」 あるいは重い火傷の跡から「奇異の対象」などとして扱われることがあり、 被爆者に対する偏見・差別は多くあった。これらは被爆者の生活に深刻な影響を与えた。 昭和30年代、例えば他の都道府県で就職の際、「広島出身」と申告すると 「ピカ(原爆)を受けたのか?」と訊かれるのは常であり、 被爆の事実を申告したら、仕事に就けないことが多くあった。 このため少なからず被爆者は自身が被爆した事実を隠して暮らさざるを得なくなり、 精神的に永く苦しめられることになった。原爆のことを「ピカドン」とも言うが、 転じて「ピカ」は被爆者を示す差別語ともなっていた。 被爆者差別の存在やその実態については、従来、一部で問題とされていたのみで、 広く公にされることはなかったが、ついに2010年、日本放送協会は、その原因を、 戦後のGHQによる言論統制を受けた報道機関が、正しく原爆に関する報道を行わなかったため、 当時、日本国民の間で放射能・放射線の知識が一般的でなかったことと相まり、 国民の間に誤った認識が広く蔓延したためであると分析、 過去に存在した被爆者差別とその実態について発表した。 なおその1年前、中国放送の記者であった秋信利彦 (秋信は1975年10月31日、昭和天皇に原爆について質問した記者である。)は、 当時の被爆者差別や被爆者の報道機関に対する強い反感と反発の実態について証言している。 多くの被爆者個人が公に自身の被爆体験を語り始めたのは、概ね、被爆者差別の消滅以降である。 2008年〜2009年の広島市の大規模調査の結果、2008年現在でもなお、 被爆者の1〜3%に被爆によるPTSDの症状があることが判明、部分的な症状があるケースも含めると、 4〜8%にもなることがわかった。 その主要因は、放射線による病気の不安と、差別・偏見体験である。